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 一幕 絹の繭玉

 花、だろうか。意識を掠めて消えて行ったほのかに甘い香りに、聡さとる は思わず足を止め、視線を中庭へ投げかけた。夏の盛りを迎えた中庭は庭師の手によって丁寧に整えられ、玉砂利が波のような模様を描きながら目を楽しませてくれる。尖った強い日差しを凛として跳ね返す緑樹は鮮やかに、深い色の影を地に落としていた。水面のようなきらめきで、影は踊る。すでに眠りについた朝顔も軒下に見つけることが出来たが、香りは恐らく、それではない。庭園の隅を流れる清水の音を聞きながら、それらしい花がないことに、聡は訝しく眉を寄せて沈黙した。それは、確かに甘い花の香であったのだ。すくなくともそういう風に、聡には感じられた。
 さて、庭でないなら廊下に生けられた花だろうか。家主が嫌うので香りの立つ花を廊下に生けることはまずないのだが、ここは来客を通し、当主が行き来する大廊下からは離れた、庭に面した渡り廊下だ。そういうこともたまにはあるのかも知れぬ、と視線を動かしひっそりと置かれていた花瓶を見るも、飾られていたのは慎ましやかな、野に咲く草花の類であった。赤いちいさな花が愛らしいが、香りをふりまくには頼りない。傍に寄って確かめてみるも、ふっと掠めた香りとは違うもののように思えた。そもそも、傍に寄らなければ分からない香りが、歩んでいた途中の意識まで届く筈がないのだ。
「……なにをしているのだ、お前は」
 ほとほと呆れた様子で声をかけてきた青年は、聡に向かって大股で歩んでくる所だった。同じ方向に進んでいた筈なのに、なぜ戻ってきているのだろう。瞬きばかりの思考はすぐに答えまで辿りつき、聡はさてこの不機嫌が極まった顔でむっつりと腕を組んでいる従兄を、どうすればこれ以上怒らせないよう言い訳ができるだろうか、と柔らかな微笑みを浮かべてみせた。なにをしている、という問いには花の香を確かめていたと告げるのが正しいだろうが、それは青年の目から見ても明らかであった筈だ。
 とするとこれは、後をついて歩いていた筈の聡が立ち止まるに至った、そもそもの原因を聞いているのだろう。聞いてやるから言え、と言わんばかりの態度で目を細める青年の名を、樹いつき という。樹は聡と同い年でまだ十九歳である筈なのだが、本家の跡取りと分家の次男という立場の違い故だろうか。時々聡は、樹がずっと年上のように感じるのだ。そして樹にしてみれば、聡はまるで年下のように感じて、手と目のかかる従兄弟という位置付けなのだろう。苛立たしげな表情であるが、その実、ほんの僅かな心配が透けてみえていた。
 転びでもしたか、足を痛めたのかと着物の汚れと足元を確認する視線にくすぐったく笑いそうになりながら、聡はまた中庭を見る。目に痛いような、夏の日差しがそこにある。石の焦げる音さえ聞こえて来そうな。不思議に、蝉の鳴き声は聞こえない。
「花の香りが……した、ような気がして」
「……花?」
 香りがするような花でもあるのかと、嫌そうに眉を寄せながら樹が庭で視線をさまよわせる。次期当主も父親に似たのか、香りの立つものをさほど好まない性格をしているから、見つければ植え替えくらいは命じることだろう。しかし聡に見つけられぬそれを、樹が見つけ出すようなこともなく、眩しく細められていた目がそのまま睨むように向けられる。不意に、日差しが遮られた。ぶあつい、大きな雲が濃い影を落として中庭と、二人の姿を包みこむ。蝉の鳴き声が響き始める。いっせいに。鳴き声で空気を塗りつぶしてしまいたがるように。蝉の鳴き声が、響く。
「……甘いね、香りがしたんだよ。樹」
 花のようだと、聡は思った。白い花を思わせる、甘やかな香りだった。一瞬の、ほんの僅かな間で消えてしまったそれは、どこにも見つけることができず、夢であったのかとすら思うものだ。雲が切れ、日差しの強さが戻ってくる。蝉の声が遠のき、しかし消えずに残っていた。別に頭を悩ませるほど気にすることでもないと、聡が樹に声をかけようとする。しかし、名を呼ぶよりはやく、響いたのは感心したような、納得したような声だった。ああ、と呟き、伏せられていた視線がゆうるりと上向いて聡を眺める。
「よくぞ気が付くものだな、お前は」
「樹?」
 心当たりがあるのか。正体を知っているのかと意味を含ませた問いに、樹は口元に微笑を浮かべるだけで答えようとしなかった。機嫌良く意地悪な表情できびすを返し、床板を軋ませながら家の奥へと再び歩んで行く。数歩、進んで肩越しに聡へ向けられた視線はついて来ないのかと問うもので、己の動きに従わぬ者をそっと咎めるものだった。そうした仕草が嫌味なく、当たり前に似合う風格の青年である。また樹は、意識してそうしたふるまいをしている訳ではない。その仕草も、咎めも、全く無意識のものだった。樹はこの高坂の次期当主であり、聡は同じ高坂の名を持ちながらも分家である。同い年の親しい友であるが、そこには明確な、家の持つ格の差が存在していた。その上で、樹は生まれついての当主であった。気質が、そもそも上に立つ者なのだ。
 聡はそうではない。聡は樹のようになりたいと思いつつも、どうしてもそうなれないのが常だった。立ち居振る舞い、物事の考え方、ちょっとした仕草ひとつ。真似することはできても、そのものではあれない。分家であり、次男であっても高坂の男なのだから、次期当主と同い年の親しい友なのだから、彼のようであれとする周囲の期待に、どうしても応えてやることができない。聡が樹に感じるのは、憧れとわずかな劣等感である。樹が、聡が従って当然だというように振る舞うことに、嫌な気持ちは覚えない。彼はあくまで本家の跡取りであり、聡は分家の者なのだ。沈む気持ちは、周囲の期待に応えられないことにのみ理由があるのだと、分かったのはいつのことだったか。やや気落ちした様子で後をついてくる聡に、樹は前を向いたままで言う。
「お前は」
 ふ、と息を吐き出す一拍の間。
「いつもそうだな」
 低く囁かれる、響かない声だった。ひとりごとのような、それでいて聞かせるつもりのない言葉のような。やがて目的とする部屋のふすまが見えてきた所で、立ち止まった樹が振り返る。数歩の距離をあけて、聡は立ち止まった。
「落ち込むのはよせ、と言っているだろう」
「……分かっているよ。すまない」
「分家も早々に諦めればいいものを。俺は俺で、お前はお前だ。本家と分家というだけでもすでに差があるのだ。育ちが違う。……大体、いつも思うが、なぜ聡なんだ? お前、兄がいるだろうに」
 分家の長男と本家の跡取りを比べて同等たれ、と求めるのならば樹にも理解できないことはないが、聡は次男である。分家の思考回路がさっぱり理解できない様子で機嫌を悪くする樹に苦笑しながら、聡は兄の顔を思い浮かべた。そう仲がいい相手でもなければ、顔を合わすことも稀な相手だ。薄ぼんやりとした印象が広がり、ただ、悪意を感じる相手ではないことを思い出す。高坂の家は広く古い。様々な習慣と掟に縛られた家だった。本家であるのならともかく、分家であるから、血を継いだ者が男であればそれでいいのだろう。樹と同い年であるからという理由だけで聡はすこし優遇されているし、年の離れた兄は、樹と親しい訳ではないという理由だけで、うとまれてはいないが放置状態にあるとみて間違いはないのだった。
「私は樹と歳が同じで……親しいからね」
「馬鹿馬鹿しい。……困ったものだな。そんなくだらない理由が、一々、お前を落ち込ませる」
「気をつけるよ。ありがとう、樹」
 心配してくれなくてもちゃんと立ち直るから大丈夫だよ、と告げるよう笑えば、樹の気配がようやくほっと緩んだものになる。聡が思うよりずっと、不安にさせていたらしい。珍しいこともあるものだ。普段は感情を揺らすことさえ珍しい、落ち着いた相手であるのに。思わず不思議がった聡に、樹は肩越し、視線で目的地のふすまを示す。
「お前が落ち込むと、繭まで引きずられるからな。今日を楽しみにしていたのだ、悲しませるな」
 繭、というのは樹の妹の名である。十二歳になったばかりの少女。七つ離れた妹を、樹はとても可愛がっている。可愛がり方が、相手の神経を逆撫でて怒った所を宥めて遊ぶ、という少々問題のある方法であっても。大切にしているというのは、本当のことなのだった。くすりと笑って頷き、聡は改めて、本家に行くと言ったら着せられた、真新しい訪問着を見下ろした。着せられたといっても、一応は聡の好みを考慮して用意しておいたのだろう。華美ではなく、落ち着きすぎた風でもなく、藍染の穏やかな色合いが目を涼ませた。しかし、今日という日に相応しい服装であるかと問われれば、聡は上手く言葉を繋げず黙りこんだだろう。訪問着ではなく、もっと涼しげで動きやすい浴衣が適した格好であることは、聡も十分に承知していた。出かけるのは、『外』である。
 高坂の敷地の中ではなく、今日、聡は繭を連れて『外』に出かける。一年に一度きり。高坂の血を持つものに一日だけ許された外出の日を今日と定めたのは、夏祭りの夜であるからだった。この広大な閉ざされた家から出て、二十分も歩いた所にちいさな神社がある。その祭りの日を今年の外出日と定めて、半年も前から繭は楽しみにしていたのだ。聡の外出日が同日になったのは偶然ではなく、本人の希望も含め、本家の少女のお目付け役であり、護衛として選ばれたからに他ならない。本来なら、可愛がっている妹の守護である。樹が自ら行いたかっただろうが、青年には決して許されないことだった。繭に許される外出日を、樹は持たない。樹は、高坂本家の跡取りである。古くからの決まりごとに従い、生涯、『外』に出ることは許されない。
 指折り数えて『外』に出られる一日を楽しみにしていた妹を、たとえ僅かでも悲しませまいとする気持ちが、どんなものなのか。聡はこぼれそうになる溜息をこらえ、頷いて、問いかけた。
「樹」
「なんだ」
「……出かける前に、一度分家に戻っても?」
 やっぱり着替えてくる、と苦笑する聡に呆れかえった表情で息を吐き、樹はずいと距離を縮めた。馬鹿、と一言で怒られる。
「『外』に出る理由を知っていて、それを着せたに決まっているだろう。着替えられる訳がない。……浴衣くらい貸してやる。身長も同じくらいだから、着られるだろう。なに、心配するな。どうせこうなるだろうと思って、新調しておいた。……なにか言うことは?」
「ありがとう、樹」
 ふん、と満足げに鼻を鳴らして笑い、もっと頼れよ、と言って樹はくるりと身を反転させた。繭の部屋までは、残り数歩である。見る間にふすまの前まで辿りつき、樹はそれを、声もかけずに開け放った。十二歳とはいえ、少女である。妹の部屋であるにしても、さすがに失礼だった。樹、と慌てて声をかけて咎めようとすれば、聡が青年にかけよるより早く、内側から飛び出してくるものがあった。樹の立つすぐ傍の壁にそれは叩きつけられ、にぶい音を立てて廊下に転がり落ちたそれは、聡の目には針さしに見えた。色とりどりのまち針と、白い糸を通した針がいくつも刺された、針さし。なんの気ない仕草で樹が避けていなければ、恐らく、顔に当たっていたであろうそれ。絶句する聡をよそに、のんびりとした呆れを顔に張り付けた樹が、わざとらしく溜息をついた。
「繭。針さしは投げるものではない、と俺に何回言わせるつもりだ」
「伺いもせず、勝手にふすまをあける樹兄様がいけないのですっ! 一声かけてくださいと、いつも申し上げておりますのに!」
 全くの正論であるので、反論の余地はなかった。さすがに謝るだろう、と思いながら聡が身を屈めて針さしを拾い上げていると、反省しているとは思えない態度で悪かった、と言った樹が、面白そうに視線を流しながら囁く。
「ああ、だが……よかったな? ふすまを開けたのが聡ではなくて」
 怪我をする所だったろうに、と告げた樹の言葉から数秒後、声にならない悲鳴が空気を震わせた。軽やかな足音が大急ぎで駆けてくるのに、楽しげに笑った樹が、ふすまの前からすこし体をずらす。その狭い隙間に飛び込むようにして、白い印象の少女が現れた。長く艶やかな黒髪を背に流し、朱色の着物をまとった姿に『白』の要素は含まれない。それなのに不思議に、鮮明に白い印象を持つ少女だった。あどけない顔立ちは愛らしく、一心に聡のことを心配して駆けてくる。僅かな距離の途中で、聡の手に投げた針さしがあることを確認したのだろう。赤らんだ顔つきで立ち止まり、もじもじと戸惑い、恥じらいながら繭は聡をそっと見上げた。
「聡兄さん、あの……お怪我は?」
「ないよ。大丈夫」
「ああ、よかった……!」
 ほっと強張った体から力を抜き、それから改めて、繭はきゅっと唇をとじて聡のことを見つめてくる。力を込められた唇は、淡く色づいて震えていた。その様に、強く惹かれた。繭は愛らしく、そして美しい少女だった。未分化の、かたく閉じたつぼみのようでありながらも、艶めかしさの予兆を淡く漂わせている。静かに、こころが震えた。
「……お会いできて、嬉しいです。聡兄さん」
「うん。私も……嬉しい。今日はよろしくね、繭ちゃん」
「はい……!」
 全身を喜びでいっぱいにして、好意を言葉ではなく伝えてくれる相手を、憎らしく思える訳もない。思わず片手を伸ばして髪に触れれば、甘やかな緊張と喜びに身を強張らせながらも、少女の瞳がゆるゆると滲んで行く。指先を髪に遊ばせてから手を離し、聡はどうぞ、と言って持っていた針さしを差し出してやった。おずおずと受け取る指先が、怪我をしないように注意しながらも、大切そうに針さしをぎゅうと抱く。
「ありがとうございます……あの、あのね、聡兄さん」
「うん?」
「……いつも、投げている訳では、ないのです」
 勘違いされないでくださいね、と控えめに、それでいて必死に告げてくる繭に思わず笑いながら、聡は分かっているよと頷いてやった。深く安堵の息を吐きだした繭は、はっとしたように振り返って兄の姿を探そうとした。聡も視線を持ち上げるが、廊下に立っていた筈の樹の姿が、忽然と消えていた。どこかへ立ち去る筈もないので、行く場所などひとつだけだ。ふるふると怒りに身を震わせ、繭が部屋へ飛び込むように戻って行く。
「樹兄様っ! 繭のお部屋に、勝手に入らないでくださいっ!」
 先程と同じ、反省しているとはとても思えない声の響きで、悪かった悪かった、と言う樹の声が響いてくる。まったく、と苦笑しながら部屋を覗き込むと、ちょうど繭が針さしを思い切り振りかぶるところだった。樹兄様のばかーっ、と叫びながら、正確に兄の顔を狙って針さしが投げつけられる。慣れた仕草でひょいと避け、樹はふふ、と楽しげに微笑して聡のことを指差した。
「見られてるぞ」
「……ち、違うんです、違うんですっ! あの、これは、ちがっ……違うんですっ!」
 真っ赤になって震える繭は、もうそろそろ泣きだしそうな様子だった。分かっているよと苦笑して、聡は足元に転がって来た針さしを拾い上げ、汚れを払ってから繭の手に渡してやった。聡の顔が見られない様子で受け取った繭は、なんとか、ありがとうございます、と言葉を絞り出すと身をひるがえし、小走りに部屋の隅へ向かってしまう。手の届かないところへ、針さしを置きに行ったようだった。

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