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 その姿をなにをするでもなく眺めながら、聡はゆるく脱力した。そこは、ひどく落ち着いた空気がしかれた部屋だった。十五畳もの広々とした作りや、調度品のせいもあるだろうが、住まう者の気配がそうさせているのだと聡は思う。清掃の行き届いた畳には糸くず一つ落ちておらず、窓の脇には小さな花瓶が置かれている。まだ緑の夏もみじがそこには刺してあって、暑さを視覚的に和らげているようだった。りん、と何処か遠くで風鈴の音が響いた。清涼な風はさっと部屋に吹きこみ、差し込む木の影を淡く揺らして過ぎて行く。それに見向きもせず、少女の手が奥へ続くふすまを開いた。
 奥の部屋は、裁縫の為に与えられているのだろう。少女の白い手が針さしをころりと畳みの上に置き、それから散らばっていた糸を引き寄せてはぱらぱらと小箱に投げ入れて行く。専門的な和裁の知識がない聡にはなにに使うものかも分からないが、様々な道具はやや雑然と置かれていて、整理整頓されているとは言い難かった。そのことを、少女も分かっているのだろう。とりあえず糸をしまい終わってよしとしたのか、恥じらいにうっすらと頬を染めた繭は、音の無い仕草で立ち上がると部屋を覗きこむ兄を忌々しそうに睨み、聡に視線を滑らせた。一度、きゅぅと結ばれた唇が、こわごわと開いて息を吸い込む。
「すみません。今日はまだ、散らかっていて……」
「今日も、また、ではないのか? 繭」
「樹兄様は黙っていてください! ……ほ、本当に、本当にいつもは、私、きちんと」
 片付けをして、と呟かれた言葉がしおれた花のように力を失って行ったのは、眼前の光景がある為に説得力に欠けると思ったからだろう。恥じらい、しょんぼりとしながらもふすまを閉めた繭の手が、部屋の隅に置いてあった座布団に伸ばされた。どうぞお座りください、と告げられたのは聡のみで、見れば樹は勝手に座布団を引き寄せ、すでに座ろうとしている。樹兄様は勝手に動かないでくださいませ、と拗ねた声で求められるのに、言われた本人は素知らぬ顔で常に部屋を片付けておけと言っているだろう、と小言を口にした。
 怒りに引きつった顔をする繭に、聡はそっと手を伸ばした。ぽん、と頭をなでると、驚いた少女の瞳が聡を振り返る。夕闇のような、しっとりとした黒色の瞳だった。映し出される者が己だけであるなら、それはなんと心地良いことなのだろう。聡兄さん、と不思議がる声から、すでに怒りは消えている。つまらなさそうな顔をする樹に苦笑して、聡は繭から手を引いた。まっすぐな黒髪を、一筋、指で撫でてから離れる。
「樹は、繭ちゃんに意地悪ばかりするね?」
 乾いたかすかな音を立て、離された黒髪が肩のあたりで揺れる。恥ずかしげに、少女の指先が己の髪を握り締めた。はい、とちいさな声が同意を示す。
「樹兄様は……いじわるばかり、するのです。聡兄さんとは、大違い」
「……お前、俺がこれと同じ態度を取ろうものなら、尻尾を踏んだ猫のように怒るだろうが」
「気持ちが悪いのです」
 冷淡に言い放った繭は、さも心外だと言わんばかり首をひねる樹に淡々と問うた。
「それとも、なんの企みも内には持ちあわせておらぬと? 純粋に、優しい気持ちで、妹に接してくださると、そう仰るの? いつき、おにい、さま?」
「ごく稀に、そういうこともある。ごく稀に」
「その、ごく稀以外の優しさが気持ちが悪いと言っているのです! いつも、いつもいつもっ……私を騙したり、からかったりしたくて、誘導する時くらいしか優しくなどしないではありませんか!」
 冷静な気持ちで兄と対峙しようとした妹心は、樹の受け答えで瞬時に火がついてしまったらしい。悔しそうに叫ばれるのをうるさいとばかり眉を寄せて受け流しながら、けれども樹はたいそう面白そうに、目を笑みにゆがめて囁いた。
「繭。いいのか? ……聡が見ているぞ」
「ひっ」
 びっくんっ、とばかり身を跳ねさせて悲鳴をあげ、繭はみるみるうちに真っ赤になった。その場にしゃがみ込んでしまったのは、もうどんな顔をすればいいのか、分からなくなったのだろう。頬を両手で押さえながら、もう嫌です樹兄様なんてだいきらいです、と呟く声は呪詛にまみれていたが、幼く泣きそうな響きも帯びていた。とにかく、樹という『兄』は、繭という『妹』をからかって弄んで混乱させるのを、心の底から楽しむような存在だった。趣味のひとつ、としてもいいくらいだろう。今も、慰めるでもなく、樹はにこやかに笑って繭を見ていた。その笑みは艶やかで、うっとりとしていて、ひたすらに麗しい。機嫌の良い、支配者のそれだった。
 聡は樹から視線を外し、そっと溜息をつく。繭がすこしばかりお転婆な性格をしていることも、その上で、聡の前ではしとやかにふるまおうとしていることも、ちゃんと知っているのだが。知った上でわざわざ暴れさせて可愛がるその愛で方は、本当に歪み切っているとしか言いようがない。大丈夫だから、気にしていないよ、と告げる代わりにまるまった繭の背をとんとんと叩き、聡は主のない座布団の表面に手を触れさせた。
「……お座り?」
 犬か、と呟く樹に冷たい笑みを向ければ、さすがに本気の怒りを感じたのだろう。さっと視線を反らして素知らぬ顔をするのに苦笑して、聡はもぞもぞと座布団に腰を落ち着ける繭に身を屈め、その顔を下から覗き込むようにした。
「気にしなくていいんだよ。樹は、後で……その、頑張って、叱っておくからね」
「聡兄さん、無理はされずとも良いのです」
 樹はそれなりに聡の怒りを恐れるが、それは恐怖などという可愛らしい理由ではなく、飼い犬に手を噛まれるのを恥とする主人の矜持故である。本家に生まれた次期当主である樹と、分家の次男である聡にはそれくらいの精神的な位置関係があり、それは繭も十分に承知する所だった。だからこそ、なにを告げるでも早く聡を止めた繭の気遣いに、樹はやや面白そうに呟きを落とす。
「たまには、頑張られ、怒られてやってもいい」
「一応申し上げておきますと、その後の倍返しは幼子のやることですわよ。樹兄様」
「聡。妙な努力は時間の無駄だ」
 怒られてくれる気を無くしたらしい。樹兄様はどうしてそうなのですか、と気持ちの持って行き所を失った様子で繭が呻くのに、聡は溜息ひとつで同意した。けれども、慣れて受け入れるしかないのだ。樹はそういう風に育てられたし、これからもそう、あるばかりだろう。もういいです、私が大人になることにします、と齢十二の繭はそう気を取り直して呟き、落ち着きの戻った様子で聡を見た。
「改めて、本日はありがとうございます。どうぞよろしくお願い致します」
 楚々と頭を下げる仕草に、聡はこちらこそ、と柔らかく笑んだ。



 薄闇の中を歩んで行く姿は、白い蝶のようだとも思う。ひらりと空を舞う蝶のよう、足取りは軽やかで、すこしばかり不安定だ。繋いだ手は汗ばんでいて、力は込められていないが、決して離されないままだった。人気のない道を、誰も通らない、ひたすらに直線でどこまでも続いて行くような道を、二人はただ歩いていた。気まずい雰囲気ではないが、もう随分と会話はなかった。最後に言葉を交わしたのは、敷地から『外』へと続く門を抜けた時のことで、手を繋ごうと申し出た聡に、繭はお願いしますとだけ告げた。義務的な申し出に、頷くばかりの声は喜んでいただろうか。それとも、悲しく諦めていたのだろうか。思い出せず、足音だけが前へ進んで行く。
 少女は、白地に朝顔の花が描かれた浴衣を着ていた。真新しいそれについて尋ねれば、繭は自分で仕立てたのだ、と告げる。樹と聡が来る直前まで仕上げていたものだから、ああも散らかった部屋を見せてしまうことになってしまい、本当にお恥ずかしい限りです、と反省した声で繭は告げた。計画性なく仕立てようとするから直前まで慌てることになるのだ、と樹は窘めたが、同時に、良い出来だとも褒めていた。聡もそう思う。元より、洋服など数えるくらいしか見たことがなく、和服を着て過ごす生活だ。見慣れ、肥えた視線であっても、とても十二の少女が作りあげたものとは思えなかった。褒められてしかるべき腕前である。
 けれども繭は兄のごくごく珍しい素直な賛辞にも、聡の褒め言葉にも、努力が報われた以上の喜びと安堵を出すことはなかった。高坂の、それも本家の女としては当たり前に出来ていなければならぬことであるから、というのが理由らしい。お前はとんと可愛げというものがない、と嘆かわしげに溜息をついた樹の足をさりげなく踏もうとして避けられ、悔しがる様子が、かろうじて年相応の幼さだった。年齢と振る舞い、言動が釣り合っていないという点では、樹も決して妹のことが言えないのだが、歳の差があるからこそ、繭には分からないのだろう。聡はその中で、かろうじて普通に近い、と言われている。けれども比べる対象が、聡にはよく分からない。
 樹と繭は本家の人間として『外』に行くことを厳しく制限されているが、分家の聡も、別に自由に出入りできる訳ではないのだ。血統の保険として産み落とされ、たまたま次期当主と同い年であるから待遇が改善されただけで、聡は放っておかれるこどもだった。聡の兄も、弟がいる、という認識が正確に出来ていたかは疑わしい。それくらい希薄な兄弟だった。今も別段、改善されてはいない。家の中で兄と親しく会話をすることはないし、放置されていた関係で、両親ともどこかよそよそしいままだ。口うるさい、多少親しみのある他人、くらいの認識が一番近いだろうか。
 家に出入りする女中は聡のことを可愛がってくれているが、あくまで世話人であり、家族ではない。聡の家族として一番近いのは、その認識を向けるのに値するのは樹であり、繭だったが、それでもやはり、距離がある。そもそも他人との距離の取り方など、誰も聡には教えてくれなかった。いつの間にか樹が聡を発見して可愛がり、連れまわし、あれよあれよといううちに今の関係になっていただけなのだ。産まれた時は別々だった。そのことを、時々ひどく残念に思う。同じ腹から生まれていれば、もうすこし、違う繋がりを得られただろうに。血が同じであれば。本家と分家という、繋がりではなく。けれどもそれは、叶わない、ただの夢想だった。
 ふと、足音がひとつ消える。繋いでいた手が弱い力で後ろに引っ張られるのを感じて、聡は立ち止まる。あんまりにも考えにふけっていたせいで、傍らの少女を意識していなかったことを反省しながら、振り返った。
「繭ちゃん……?」
 どうしたの、と心から問う。年に一度の外出を本当に楽しみにしていた筈の少女から、笑顔というものが抜け落ちていた。表情を失った面差しは、精巧に作られた人形のように整っている。うつくしい少女だった。あたりにまどろむ闇のような、しっとりとした色の瞳が、まっすぐに聡を見ていた。うすく開いた唇が息を吸い込み、視線が迷い、道端に落とされる。やがて、ふわりと風に翅を遊ばせるように持ちあがった視線は、聡だけに向けられていた。
「歩きましょうか、聡兄さん」
 ね、と一言囁いて、繭はゆったりとした足取りで、来た道を戻ろうとした。遠く、遠くに、風に運ばれた祭囃子が聞こえる。それに背を向けて、すこしだけ残念そうに、すこしだけ安堵もした様子で、繭は戸惑う聡の手を引いた。いいの、と問う聡に、繭はいいんです、と囁く。聡はあくまで繭のお付きで、護衛役だから、その意思に意を唱えることはできない。強引に手を引いて連れて行くことができるのは繭で、聡はそれをしてはいけないのだった。年に一度の外出であるという事情は、二人とも同じではあるのだが。ついて歩く聡に、繭は少女の兄を連想させる、戸惑いを面白がる種の笑みを浮かべた。
「……聡兄さんが、どこかへ行きたかったのであれば、申し訳なく思います」
 行く先が夏祭りであるから、目的とするものは出店くらいだ。夜空に打ち上げられる花火に未練がないとは言わなかったが、それは別に、諦められる。大丈夫、と呟く聡に、繭は視線を向け、やんわりと笑った。
「本当は、繭は、どこでもよかったのです。……聡兄さんを、連れだせるのなら、どこでも。……ただ、今日というこの日であれば、周りにも分かりやすい理由で、聡兄さんを連れだしやすかった。それだけで、そこまで夏祭りが楽しみだったという訳ではありません。……帰るのには早い時間です。だから、お散歩、してくださいな」
「……それで、いいの?」
「できれば、たくさん、お話して頂きたいのですが……考えたいことがあるのであれば、お邪魔は致しません。お傍に置いてください」
 きゅ、と繋いだ手に、はじめて力が込められる。それだけが、本当の意思のようだった。

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