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 陽はとうに暮れていたのに、うすぼんやりと明るい気がしたのは光の名残がどこかに残っていたからかも知れない。『外』へ続く門をくぐって家の中へ戻れば、そこには鋭い切っ先のような静寂と塗りつぶされた闇があるばかりで、一寸先すら見えない有様だった。門番は目的を果たしたにしては早すぎる機関を訝しみ、言葉短く忘れ物ですか、と問うたが繭はそれに微笑だけを返し、聡は告げる言葉を見つけられなかった。忘れ物。本当に、そうなのかも知れなかった。外界と隔絶されたこの家の中に、大切なものを置き忘れて、だから遠くへはいけないのかも知れなかった。離れれば失ってしまうと、本能的な恐怖、それに似た感情が無意識へ告げたようだった。
 言葉のない二人に門番の男はあいまいな微苦笑で頭を下げ、良い夜をお過ごしください、と言い残して立ち去って行く。南京錠がかけられ、かんぬきの下ろされた門は不気味に鎮座していて、明日の朝も開かれず、『外』へ行く用と許可を持つ者が求めた時にだけ決まりだった。繭と聡に許された一年に一度の開門はすでに終わり、来年の希望日まで『外』に触れることがない。今日という日を、聡は楽しみにしていた筈だった。その楽しみが年下の愛らしい少女の供をすることなのか、『外』の空気に触れることなのか、どちらであったのかは、もう分からない。心弾ませていたのは本当のことであるのに、終わりはあっけなく、それでいて空虚感もない。
 望むほど、出たい訳ではないのだ。ふとそれを思い知り、聡はふっと息を吐く。青年が生きるのはあくまでこの閉ざされた家の中であり、『外』ではない。未知の場所に対する好奇心はあれど、見知らぬ本を手にした時の方がよほど高揚感を味わえるだろう。産まれた時から箱庭の中で育てられたが故に、聡はそれ以外の世界を強くは求めない。けれども聡に比べて繭は、まだ幼いのだ。言葉では良いと告げて聡を引きもどしたが、未練がない訳ではないだろう。申し訳なく思って視線をやった先、繭は閉ざされた門を見つめていた。
 その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。己の手もよく見えないような闇の中であるのに、その表情はよくよく鮮やかに目に映り込んだ。ごく控えめな笑みだった。それでいて、滲む喜びに溢れていた。空気を震わせるようにそっと瞬きをした少女の瞳が、穏やかに空を泳いで聡に向けられる。聡兄さん、と不思議そうに名前を呼ばれて、なぜか言葉に詰まった。楽しみにしていなかった訳ではないのだろう。振り返るということこそ、繭のごく控えめな未練の表し方に他ならない。それなのに、それだけではなく。ぞっとするほどの、喜びを感じた。嬉しさが蜜のように、ひとしずくだけ、ぽたりと落ちてひろがるかのような。匂い立つ、歓喜。
 軽く眉を寄せ、息を吸い込んでは迷う聡をしばし愛でるように眺め、少女はどこか幼い仕草で、そっと年上の青年の手を引いた。
「聡兄さん」
「……繭ちゃん」
「繭と、もうすこしだけ一緒に居てくれますか?」
 白く、あざやかに浮かび上がる。張り詰めた音の無い静寂と、星の明かりさえ届いていないような暗闇の中で、繭の姿だけが白く、淡く、光を孕むようにして見えた。浴衣の生地の色が、そう思わせたのかも知れない。うん、と聡はようやっと楽な気持ちで言葉を発し、微笑みながら頷いた。
「いいよ。……すこし、歩こうか」
 夏祭りに行って帰ってきたくらいの時間に、送って行けばいいだろう。すでに樹は二人の戻りを知らされているだろうが、敷地の中である。広大な箱庭の中だ。危険もないので、そう心配もしないだろう。高坂の家は広い。一族の殆どが住居を構え、高坂の守役となる霧里きりさと 一族も同じく住まい、さらには高坂当主に使えるお庭番の一族を有しているというのに、なお使われない土地が多く残っている。その中で生まれ育った聡でさえ、使う範囲以外の道筋は正確に把握しきれていないありさまだ。ただ、幼子が迷えば戻れなくなるくらい、広い、ということだけ知っている。
 外から続く門は、まっすぐに歩けば高坂当主の家に辿りつく作りになっている為、遠くの石行燈に火が揺れているのが見えた。二人の外出日ということもあり絶やされぬ明かりは、一晩は確実に消えることがないだろう。その他にも出歩く者の為、主な通りには普段から火が置かれている。その明かりを見失うような道を選ばなければ、そう危険なこともないだろう。塗りつぶされたような闇は門の近くに広がるばかりで、家の奥へ進んで行くにつれ、ほのかな明かりは増して行く。幾重にも、幾重にも、『外』は拒み、遠ざけられる。明かりを辿るように歩きだせば、繭は無言で聡の横に続いた。
 踏まれた玉砂利が心地良い音を立てる。焼け焦げるような昼の日差しを受け流した末の白い石は、今は冷気を発する程に冷えていた。転ばないように繋いでいる手を、いつから離していないのかを考える。門をくぐれば手を繋ぐ必要はなかったのに、そのままにされていた。
「聡兄さんは……」
 まっすぐな道を行く、少女は確かに歩んでいる筈なのに、驚くほど足音は響かない。『外』ではそれなりに響いていたものであるのに、家に戻ってきた途端にそれは絶えてしまった。ふわり、ふわりと舞いながら、繭の視線が聡を見上げる。そうして、悪戯っぽく笑った。
「おなかが、すきませんか?」
「……繭ちゃん、おなか、すいたの?」
「はい。繭は、おなかがすきました」
 でも鳴ったら末代まで樹兄様にからかわれそうなので我慢しています、と告げる繭に、聡はそんなことないよ、と言ってやれなかった。その場に居なかったにも関わらず、なぜか立ち会い、見聞きしたかのように様々な事情を把握しているのが、高坂次期当主、樹という青年である。延々と妹をからかい遊ぶ材料がそこにあれば、見逃してくれる筈がないのだった。ざくり、玉砂利を鳴らして聡は立ち止まる。振り返った視線は塗りつぶされた闇の奥、もう見えぬ門の向こうへ投げられていた。
「……思えば、夕食もまだだったね」
 戻るか、とは問えなかった。その気配を察した少女の指先が、一度だけ聡の手の中で震えたからである。かすかな仕草だった。声にもならなかった。それで、十分だった。ゆるゆると細く、息が吐きだされる。
「なにか食べたいものはある?」
「に……」
 言おうとして、繭は慌てて口を閉ざした。しまった、と言わんばかりの表情は慌てていて、聡は穏やかに微笑しながらしゃがみこむ。視線の高さを同じにして、聡は繭ちゃん、と少女の名を呼んだ。
「なに? 教えてくれると嬉しいな」
「……あの」
「うん」
 じわじわ、繭の顔が赤くなって行く。誤魔化すか、言ってしまうかを悩む表情で、視線があちらこちらへ向けられた。手を繋いだままでいてよかったな、と聡は思う。逃げられない、と思うと安心感があった。繋ぐ存在を示すように手にそっと力を込めれば、繭はびくり、と肩を震わせた。ちいさな悲鳴のように、息が吸われる。向けられる瞳の色は、夏の夕暮れ、忍び寄る夜の、影の色をしていた。
「繭ちゃん?」
「お怒りに……なりませんか? 馬鹿にしたり、は」
「しないよ。しない。絶対にしない。……樹に言って、怒られたり、からかわれたりしたことがあるの?」
 問いかけておいて、聡は断定的にされたことがあるのだろうな、と思っていた。とにかく、あの麗しい暴君は妹をつっつきからかい愛でるのが大好きなのだ。うぅ、とひどく恥ずかしそうに呻いて、繭はこくりと頷いた。顔をあげて、息を吸い込む少女の、ほんのかすかに動く喉。透明な肌は石行燈の火に照らされ、赤みを帯びていた。
「繭は」
「うん」
「……人形焼きを、買って、食べようと、思っていました」
 きゅぅ、と聡の手の中で、少女の指に力が込められる。皮膚を爪が擦って行くこそばゆさに耐えながら、聡は少女をまじまじと見た。
「……ごはんに、するのに?」
 間近から向けられる視線から逃げたがるよう、繭は身をよじって俯いてしまう。ふるふると震える唇は、泣くのを耐えるように結ばれていた。苛めたつもりは全くないのだが、まるでそうされているように、黒塗りの瞳が揺れている。だって、とか細い声が、喉にひっかかりながらも空気を震わせた。
「好きなんです……。そ、それだけは本当に、楽しみに、していて」
 夏祭りでは焼きたてを売っていると聞いたから、それで、と恥ずかしくて堪らないように言って行く姿を眺め、ようやく聡は、繭がまだ十二歳であることを実感した。十二にしても幼いことだとも思うが、年に一度の楽しみである。それを心待ちにしていたのであれば、しのびなかった。しみじみとした雰囲気で、今から行ってもいいよ、と尋ねる聡に、繭はぶんぶんと勢いよく首をふる。
「もう、遅くなってしまいます。それに、来年も『外』に出ることはできますし……買ってきて頂くことだって、できますから」
「でも」
「いいのです。それに……樹兄様に、またなにか言われると思うと」
 戻る気にはなれません、と見えている罠を回避するような目つきでうっそりと息を吐きだした繭に、聡は苦笑しながら頷いた。仲の悪い兄妹ではないのだが、どうも樹の苛め癖が、いらぬ苦労を繭に負わせているのだった。
「それに、『外』にはたくさん、人がいますから……繭はそれより、こうして、聡兄さんと二人でいることが嬉しいのです」
「……そう?」
「はい。家にいらしても、聡兄さんは樹兄様のお傍にばかり。お話だって満足にできないではありませんか。……樹兄様が邪魔ばかりするから」
 もう、と頬を膨らませ、繭は心の底から溜息をつく。
「樹兄様ったら、すぐ聡兄さんを独占したがって。聡兄さんは、確かに分家の方で、樹兄様に所有の権利があると言えばあるのですけれど。でも、聡兄さんには兄君がいらっしゃるのだから、そちらに興味を持てばいいものを、昔から聡兄さんばかりお傍において!」
「同い年だからね」
「でも、樹兄様ばかり、ずるい。繭だって、聡兄さんにお傍に居て頂きたいです……!」
 年齢順にあてがうのであれば樹兄様は聡兄さんの兄君に無理難題を押し付けて遊んだりすればよろしい、と憤慨しながら言い放つ繭に、青年はそっと複雑な笑みを浮かべた。妹の目から見ても、樹は聡に無理難題を押し付けて遊んでいるように見えていたらしい。間違ってはいないのだが、なにやら悲しい気持ちになってくる。苦笑しつつ立ち上がると、少女の瞳が聡の動きを追いかけた。
「聡兄さんは」
「うん?」
「……私と、樹兄様の、どちらが好きですか?」
 全身の関節が嫌な音を立てて軋んだような気が、した。数秒の、なにも言えない沈黙。
「……え?」
「ですから」
 伸ばされた少女の指先が、ぎゅぅ、と聡の胸元の布を握り締める。
「繭は、聡兄さんが……好きなんです」
 まっすぐな告白だった。言い逃れのできないくらい、真剣で、真摯な言葉だった。ひたと重ねられた視線は聡の心の奥底までを暴きたがるようで、それでいて、瞳の表面に浮かぶ感情を注意深く拾い上げようとしていた。
「気がついて……おられた、でしょう? 繭が……聡兄さんを、好きでいることに」
「繭ちゃん。でも、それは」
「幼いからとは、仰らないで」
 息苦しいほど真剣に、言葉と視線が向けられている。
「確かに、繭はまだこどもです。けれどもそれが、想いが本物でないことの理由に、どうして、なるでしょうか」
「……繭ちゃん」
「繭の気持ちを、にせものだと、決めていいのは繭だけです」
 だってそれは繭の心なのですから、と言い切って、繭は聡の服を握っていた手を離した。
「聡兄さんが、もし……繭を、ほんのすこしでも、好ましく思って下さっているのなら。どうか、繭の……聡兄さんを好きだと思う気持ちを、本物だと思っていてください。それが、もし、難しいのであれば……こどもの戯言だと思って、いいから、お傍にいさせてください」
「……どちらがいいの?」
 その問いがひどいとは、分かっていた。けれども繭は、迷わずに言う。
「遠ざけられるくらいなら、幼い迷いだと、思って……」
 かすれた語尾が、告げた言葉を裏切っていた。ふるりと身を震わせて息を吸い、繭は静かな声で言った。
「……それで、いいですから」
「うん」
「繭が大人になるまで、どこへも行かないで……。誰のものにも、ならないでいて、ください」
 あなたを誰にも渡したくない、と。涙を乗せて囁かれた声は幼くも、女の熱に満ちていた。
「繭はこれから大人になります。背も伸びます。体も、もっと女らしくなります。歳の差は埋められません。けれど、繭がもう、こどもでなくなったら……その時、好きだと、言えば、その時は……」
「信じるよ。今も、信じていない訳ではないけれど……」
 身近な異性に対する幼い憧れではないと、否定しきれる訳でもない。言葉にはしなかったそれを、繭は分かっているのだろう。複雑そうにすこし笑って、分かっています、と頷いた。
「樹兄様も、肯定も否定もされませんでした」
「そう」
「あと、はつ恋が兄ではなく、聡なのはどういう了見なのだ、と怒られました」
 そこを怒られるとは思いませんでした、と頬に手を押し当てて残念がる風に息を吐く繭に、聡は返す言葉もなく額に手を押し当てた。高坂の分家までは、血族での結婚が許可されている。それでも兄妹のようなあまりに近い間柄では、眉を寄せられることが多い。樹は本家の直系の次期当主なのだから、妹にそんな思慕を向けられても困るだけだろうに。樹が繭を彼なりに大事にしていることは知っていたのだが、見解をすこし改めるべきかと悩んでいると、繭は仕方がないのだから、と言葉を続けた。
「はつ恋が叶わぬのだから、兄で済ませておけばいいだのと仰るのです。樹兄様のお考えは、繭には理解できません」
「……私も、深く理解できてはいないよ」
「聡も、どうして繭なんぞに思慕を向けているのだと、なにやら不満そうに仰っていましたが」
 やや期待の籠った視線を向けられて、聡は自然な気持ちで笑みを浮かべた。これから繭を送って行って、それからすこし、樹とは話し合う必要がありそうだ。もちろん、とても頑張って反抗する気持ちにならなければいけないのだけれど。
「繭ちゃん」
「はい」
「……大人になったら教えてあげようね」
 こどもには早い、と微笑みのままで言った聡に、繭の瞳に不満の火が燃えた。言葉を出そうと息を吸い込んだ少女の唇は、しかし息を吸い込んだ形で止まり、震える。青年の人差し指がそっと、柔らかな皮膚に触れていた。歯を立てれば破れてしまうであろう薄い場所を、口付けるようにゆったりと、撫でて行く。胸いっぱいの息を吐き出すことすらできない繭に、聡はくすり、と笑みを零した。
「だから……はやく、大人におなり」
「それ、は……どういう」
「まだ教えられない。……さ、帰ろうか。樹が待ってるだろうから」
 私もすこし、樹と話さなければいけない用事ができたことだし、と言いながら、唇から指先を離す。少女の視線が指を追いかけているのを知りながら、聡は目を伏せ、そのまま己の口唇に押し当てた。声にならない悲鳴が上がるのを、繋ぎっぱなしの手に力を込めることで、笑いを堪える。歩きだした足音に、玉砂利が鳴った。
「繭ちゃんは、こどもだね」
「ど……どういう、意味ですか……!」
「そのままの」
 踏み出した少女の足音が、聡の耳に届けられる。足取りはたどたどしく、不安定で、ややふらついているようだった。

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