BACK / INDEX / NEXT

 障子に貼られた和紙を透かし、室内に光が満ちあふれている。木枠が畳に映っている角度を見る分に、随分と寝過してしまったらしい。起こしもしてくれなかった樹に溜息をつきながら上半身を起こすと、当たり前のように室内に置き去りにされていた。隣に敷かれていた樹の布団はとうに消えていて、その物音でも起きなかったことに、やや落ち込んだ息を吐く。繭がそうであるように、樹の所作は麗しい。物音を立てずに動くなどと言うことを、繭は意図して行うが、樹はすでに芯まで染み込んでいるのだろう。呼吸と同じ程度で苦もなく行うのを知っていたので、葉が風に揺れるのに似た音くらいしかしなかったのだろうが、それにしても普段なら起こすくらいはしてくれる相手なのだが。まだ怒っているのだろうか、と思って、聡は無言で頷いた。
 あれで案外、こどもっぽい感情の動かし方もする相手である。一晩寝たくらいでは怒りが解消されなかったので、腹いせに聡を放置したのだと考えれば、今の状態にしっくりと納得が行った。昨晩、繭を送り届けた聡は、出迎えた樹とそのまま話し合いの場を持った。話題は主に『君は妹になにを言っているんだ』と『人の思慕を勝手に話すとはどういう了見だ』の二つだったが、樹から反省と謝罪の言葉はついぞ向けられることはなかった。それどころか、飼い犬がきゃんきゃん吠えているのを物珍しく喜んでいるような視線を向けられたので、聡はつい、言い過ぎてしまったのだ。堪忍袋の緒が切れて、吐きだした言葉を正確には記憶していない。
 けれども、言ってはいけないことを言った、とするより、樹の逆鱗に思い切り触れてしまったのだと、気がついたのは表情を見てからだ。黒とするにはすこしだけ淡い墨色の瞳に、すでに楽しむ色はなく。仕方がない、とでも言うように吐き出された息は怒りではなく、諦めにも似た風だったからこそ、怖かった。すまない言い過ぎた私はもう帰る、と告げて玄関から外へ走り出ようとした聡の腕を無造作に掴み、樹はなにを言っているのだお前は、と告げたのだ。躾について話をするからちょっと来い、と腕を引かれた樹に、その躾はなにに対するもので、どうして私に話す必要があるのだしかも今、と告げたのは、その日、聡に対して許された発言の最後であったように思う。
 反抗心のことごとくを一つ一つ丹念に叩き折られ終わった頃には、空はやや白んでいた。今から帰れという程には鬼ではない、泊まって行け、と言った樹がてきぱきとした仕草で布団をひき、ぐったりとして動けなくなった聡を突き飛ばすようにして転がし、枕を顔に叩きつけてきた所で記憶が途切れていた。樹は、鬼の意味をなにかと取り違えているとしか思えない。起こさずに眠らせておいたことが、半徹夜させたことに対する慈悲かも知れない、という可能性を首を振って否定して、聡は布団から立ち上がった。大方、後で起こすつもりでいて、そのまま忘れたのだろう。樹の私室には用事がなければ人が来ないようになっているので、通る者の足音も遠く、目覚めを促すものはなにもなかった。
 用意されていた着替えを、拒否する方が怖いので従順に腕を遠し、布団を定位置にしまった後、聡は部屋を出て行った。樹の部屋に泊まったことがない訳ではないし、馴染みのある本家である。やや考えながらも廊下を辿って行けば、見知った廊下に出たので、ほっと肩の力を抜いた。右へと曲がって道なりに進んで行けば玄関、左へ曲がると家の奥へ進んで行くこととなる。数秒だけ考え、聡は左へ曲がって歩きだした。樹になにも言わずに帰ったら、今日の午後にでも呼び出しがかかるに違いない。さてどこに居るものかと考えながら、聡は自然に食事をとる為の一室へ向かっていた。
 すでに陽は高く、朝というよりは昼に近い時間であるから、樹がそこに居ると思った訳ではない。すこしばかり腹が減っていたので、誰かがいれば呼びとめ、なにか作ってもらおうと思った為である。探すのはそれからでもいいだろう。今更一時間遅くなった程度で、樹の機嫌は良くもならないし、悪くもならない。なにか口にしたら茶室から探そう、と思いながら部屋のふすまを開き、聡はそのまま動きを止めた。考え込むように首を傾げ、何度か見直して、恐る恐る口を開く。
「……樹?」
「なんだ」
 とうに食事など済ませているのだろう。広い部屋の隅に正座をして湯のみを手にしながら、樹が不機嫌そうな面持ちで眉を寄せていた。特に、聡に対して怒っている訳でもなさそうだった。ちらりと向けられた視線は鋭いものではなく、かけられた声も柔らかな響きで落ち着いていた。
「ここで、なにを?」
 だからこそ、驚きから脱した聡は、ごく自然な態度でふすまを閉め、樹の隣に座りこむことができた。例え相手が逆らえない相手であろうと、高坂の正当なる跡継ぎであろうと、一応は聡と同い年の幼馴染なのである。己が怒らせた以外の理由で不機嫌であれば心配にもなるし、どうにかしてやりたい、とも思う。傍らに坐した聡に、樹は微笑ましそうな視線を向けた。
「待ち人だ。……いいから、お前は食事を終えてしまえ。起きたばかりなのだろう?」
「誰を待っているんだ?」
「聡。俺は今お前に、食事をしろ、と言った気がするのだが?」
 つまり、食べ終わるまでは教えるつもりがないし、他のことをさせるつもりもないのだろう。どうして一々お前は俺に逆らおうとするのだか、と微笑んで軽く叱った樹は、手を叩いて女中を呼ぶと、聡の分の朝食を持ってくるようにと命じた。ほどなく、温かな湯気の立つ膳が、聡の前へ運ばれてくる。白米に味噌汁、卵焼き、焼き魚、煮豆、根野菜の煮物、おひたしの朝食は、分家のそれとそう変わりない。いただきますと手を合わせて箸をとり、聡はもくもくと朝食を口に運び始めた。食事の最中に、会話を交わすことは少ない。それが分家であっても、この家であっても同じことだった。それでも、樹の気配がすぐ近くにあるから、不思議と孤独は感じなかった。
 茶碗一杯分のちいさなおひつからありがたくお代わりをよそって平らげてから、聡は箸を置いて両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「茶は?」
「飲む」
 返事を、だいたい予想していたのだろう。ほら、と差し出された湯のみにはすでに緑茶が注がれていて、聡はなんとも言えない気持ちで、女中によってさげられていく膳を見送った。樹は、これで他人の世話を細々と焼くのが好きである。聡のことも同い年であるのに、時折、こうして年下の弟のように世話をしてくるので、妙に気恥ずかしい。無言で湯のみに口をつけて飲みながら、聡はちらりと樹に視線を流した。どこぞに視線を投げかけながら、樹はまだ微妙に機嫌が悪そうな面持ちで目を細めている。その理由を、聡が問う前だった。ふ、と息を吐いて、樹が言う。
「繭が、起きて来ない」
「繭ちゃんが?」
「声をかけると返事はあると聞くから、目が覚めてはいるようなのだが……部屋から出ようとしないし、誰も入るなと厳命したらしい。様子も見に来ないで欲しいと。特に俺は絶対に来るなと。……腹が減れば出てくるかもと知れぬと、朝から待っているのだが」
 この通り、昼の近くになっても起きてこない。不愉快だと言わんばかりに告げた樹の言葉に、聡はなるほど、と頷いた。朝食がすぐに出てきた理由は、繭がいつ起きても良いように厨房には人が立ったままでいるからなのだ。また、樹の不機嫌も、相手が繭というだけで説明がつく。可愛がっている妹なのだ、多少愛で方が歪んでいようとも。普段なら口では文句を言おうとも、繭もそれをちゃんと分かっている。言葉でも拒絶しきることは滅多にないのだが、今回は例外らしい。ようするに、樹は分かりにくく落ち込んでいるのだ。言葉から察するに人伝に聞いただけであるから、わざわざ出向いて言葉は交わしていないらしい。直に言われたくないのだろう。
 来ないな、とやや不思議そうに、不機嫌そうに呟く樹に思わず聡は笑ってしまう。ぎろりと睨みを向けられたので即座に視線を反らして口元に手をあて、深呼吸をしてから、微笑みを浮かべた。
「……なんでもないよ」
「聡」
「なんだい? 樹」
 躾が足りなかったか、とばかり駄犬を眺める目つきで嫌そうに名前を呼ばれ、聡は努めてなにも感じていないように、笑みを崩さず問いかけた。ただし、視線は向けなかった。数秒間の沈黙が、満たされたばかりの胃を痛めて行く。聡、と不本意そうに名が呼ばれた。反射的に視線を向けると、処罰を考えている顔つきで、樹がやや首を傾げている。
「様子を見て来い」
 けれども告げられたのは、予想していた方向性の言葉では、なく。話の流れから繭のことだろうとは思いつつも、聡はあえて確認した。
「繭ちゃんの様子、を? ……私が?」
 半分立ち上がりかけながらの問いであるので、樹はおかしそうに鼻を鳴らし、他に誰を見てくるのだ、と言う。
「お前なら、色好い返事も帰ってくるだろうよ。屋敷の誰より、お前はあれの気に入りだからな」
「……樹。だから、そういうことは言ってやるなと、昨夜も」
「追い返されたら戻って来い」
 どちらかと言えば、兄を拒絶されたように嫌がられればいいのだ、と思っているような口ぶりで、樹は機嫌良く微笑んでいる。早く行け、とばかりひらりと手をふる樹は、ひとを動かしておいて、己はその場に留まる心づもりであるようだった。聡のように立ち上がる素振りも見せず、のんびりとした仕草で外を眺めている。聡が戻ってくるか、繭が来るまで、今日はきっとこのままだろう。次期当主として、樹がしなければいいことは多いというのに。それを面と向かって叱責できる者はすでに存在しない為、このままでは聡が方々からどうにかしてくれ、と泣きすがられる未来が確定してしまう。そんなことを言われても、聡だって、相応の覚悟をしなければ樹に物申すことなど心理的にできないのだが。
 繭ちゃんが素直に部屋から出て来てくれるのが一番なのだけれど、と部屋を出て向かおうとした聡の背に、そういえば、と言いたげな樹の声が投げられた。
「確認し忘れていたが、聡?」
「……ん?」
「夜這いなどしておらぬだろうな」
 もしそれで繭が起きてこないのであれば叩き切るぞ、と吐き捨てられて、聡は青ざめた顔をして、即座に室内を振り返った。いつの間に用意したのか、樹の傍らには太刀が置かれている。その鞘に見覚えがあるのは、樹が好んで傍に置いているものだからだろう。用を足すには短い刀身であるが、切れ味と樹の腕を持ってすれば宣言は十分に可能だと、聡は知っていた。反射的に後退しそうになるが、その動きは聡に許されていない。ひきつる喉をなんとか動かし、聡は息を吸い込んだ。落ち着け、という戯言は吐かない。樹の目はあくまで冷静に落ち着きはらっていて、十分に正気だと知れるからだ。だからこそ、たちが悪い。
 己の意識こそを落ち着かせて、聡はゆるく息を吐きだした。
「昨夜、は」
「ああ」
「……一緒に、居ただろう? 私が眠るところも見ていただろうし、今しがた起きたのだから……私には不可能だよ、樹」
 言い聞かせるように、告げる。樹はそういえばそうだった、と言わんばかりの顔つきで舌打ちをしたのち、太刀から手を離して脱力した。聡は真剣な生命の危機だったというのに、なぜ樹は拗ねているように見えるのだろう。おかしい、と真剣に思う聡に、再度ひらひらと手が振られた。ややめんどうくさそうな仕草だった。
「はやく行って来い」
「……樹。もしかして君、眠いんだろう」
「昨夜寝なかっただけだ。今日は寝る」
 誰のせいだと思っているのだ、と睨みつけられ、聡は微笑んだまま静かにふすまを閉めてしまった。寝ないことを選択したのは樹自身とはいえ、そうする気になれないような時間まで起きていたのは聡のせいだからである。これ以上はなにを言っても、判断力が下がり切っている樹を逆なでするだけだろう。道理で普段にもまして樹の傍にひとが寄らない訳だと思いながら、聡は足早に繭の部屋を目指して歩いて行く。古い板に体重が乗せられ、きしむ音が足音と共に響いた。本家の兄妹はそうした歩き方をしないから、仕える者たちはすぐに聞き分けたのだろう。繭の部屋の方から、女中が足早に駆け寄ってきた。
「聡様……!」
「おはよう。樹から、繭ちゃんが出てこないと聞いたのだけれど?」
「はい。先程も声をおかけしたのですが、いいから下がって欲しいと、それだけで……他にはなにを聞いても、答えてくださらない状態なのです。ただ、落ち着いたら出ていく、その時は呼ぶと仰ってくださったので……今は、私一人が控えている状態です。樹様は、なんと?」
 本当は、落ち着くまではこれ以上刺激して欲しくないのだろう。案にこれ以上は進まないで欲しいとの意思が感じられたが、女中も、聡が樹に逆らえないことは分かっている。この家にはすでに、樹の意思を拒める者など存在しない。兄妹の情で、繭がそれを許されているだけなのだ。樹の言葉を問う女中に、聡は苦笑いをして告げた。
「私なら、良い返事が返ってくるんじゃないか、と。駄目なら、すぐ戻って来いとは言われているよ」
「……確かに、樹様の仰る通りですが」
「そっと声をかけるだけだよ。問いつめも怒りもしない。……繭ちゃんの様子を伺って、樹に報告したら、私も一度、家に帰ろうと思っているし。辞す前の挨拶だと思ってくれればいい」
 なにも言わずに帰るのも失礼に当たるからね、と言う聡に、女中は一瞬だけ樹がしたような勘違いをした表情を浮かべたが、声に出して問いはしなかった。そういうことでしたら、と場に立ち止まって聡を先に通す女中に、苦笑いをしながら足を進める。
「言っておくけれど、私は昨夜、樹と一緒だったからね?」
「そうですか」
「それと……私は、こどもになにかする程、相手に困っている訳ではないよ」
 樹もそうだろうけれど。知っているだろう、と振り返りざまに告げれば、聡とそう年齢の変わらないであろう女中は、慎ましやかな笑みを浮かべて頭を下げるのみだった。肯定も否定もしない所は、すこしだけ樹に似ている。まったく、と苦笑しながら、聡はひとりで廊下を歩んで行く。もう視線の先に、繭の部屋が見えていた。刺激しないように、なるべく足音を立てぬように歩きながら、聡はふと瞬きをした。花の香りがした、気がする。それはまるで、聡をそっと呼びとめるように。それでいて、先へと促して行くように。一瞬だけ立ち上った甘やかな花の香りは、幻のよう、すぐ消え去った。
 気が付けば、そこはすでに繭の部屋の前だった。ふすまはぴたりと閉ざされている。そこにぎこちなく手を触れさせて、聡は息を吸い込んだ。
「繭、ちゃん……?」
「さっ……聡兄さん?」
 確かに、起きてはいるのだろう。返事はすぐ、動揺しきった響きで返された。うん、と苦笑しながら、聡は繭を落ち着かせてあげたくて言葉を紡ぐ。
「おはよう」
「……おはようございます。あの、聡兄さん。繭、いま、誰とも」
「会いたくない? 樹が心配していたよ。君の女中も。……どうかしたの? 気分でも悪い?」
 かたく強張った声を引き継いで問うも、しんと静まり返る沈黙が返されるばかりだ。返事は中々響いて来ない。無視されたとは思いたくない聡は、顔が見えないのは不便だな、と溜息をついた。おかげで、繭がなにを考えているのかちっとも分からない。いいから放っておいてください、と言われないだけ、まだましなのだろうか。言葉を待っていると、ふすまの向こうで、繭が息を飲む音がした。驚いたような、なにかを堪えるような、意図せず、はっと息を飲む音。
「……繭ちゃん?」
 応えは、ない。
「繭ちゃん、どうし……」
 続く言葉が、それに気がついた時、途絶える。ふすまの向こうからは、血の匂いがした。迷わず、聡はふすまに手をかけた。そのまま開いてしまおうとしたが、最低限の礼儀として、声をかける。
「開くよ」
「や……嫌、いやです! 駄目です!」
「怪我をしたのだろう? 放ってはおけない」
 聡に治療の知識と技術はないが、医師を呼ぶことはできる。その為にもここを開けて、状態だけでも確認したい。ぐ、と手に力を込めるのが見えているような声で、悲鳴染みた叫びで、繭はお願いしますから、と言った。怪我ではない。それは約束できることで、誓えることです。だからどうぞ、ふすまをお開けにならないで。お願いします、と繰り返す声はだんだんと火の熱を失い、最後には泣いているように弱々しく掠れて行った。怪我ではないのです、と繰り返される言葉を受け止めることにして、聡はふすまか嫌々手を離した。そのままでは、繭が泣いてしまう気がしたからだ。決して、泣かせたい訳ではない。
 繭ちゃん、と聡は少女の名を呼んだ。それでは、ここに居てもいいかと、尋ねる。一人にしたくなかった。樹は戻りが遅いことを訝しむだろうが、様子を知りたければひとをやるか、自分で見にくるだろう。その時に話せばいい。返事は、またしばらく、響かなかった。迷っているようでもあり、なんとなく、声を出せない様子でもあった。一分も、二分も沈黙が続いた頃、細い声で聡の名が呼ばれる。まだそこに居るのかを問う声だった。うん、と返事を返した聡に、繭は開けないでくださいね、と言った。お願いします、と求められ、聡はもう一度、うん、と言う。それが、許可の言葉だった。ふすまを背に座りこむ聡に、繭の気配がすこしだけ和んだ。そんな気がした。

BACK / INDEX / NEXT