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 どれくらいの時が経っただろう。ふと意識を取り戻して、聡は口の前に手をやってあくびをした。いつの間にか、眠っていたらしい。手元にも見える範囲にも時計がないので定かではないが、なんとなく、そう長い時間ではないような気がする。五分か、十分くらいだと感じた。晴れ晴れとした気持ちで腕を伸ばしながら、聡は背を預けているふすまの向こうへ、なんの気ない声で問いかける。
「繭ちゃん。起きている?」
「……聡兄さん、寝ていたでしょう」
 白んだ声は断定だった。眠っている間にそっとふすまを開けて、見でもしたのだろうか。どう誤魔化そうかと聡が首を傾げていると、ぐったりと疲れた少女の声が、途切れながら告げる。
「お疲れなら、そんなところではなく、分家に戻ってお休みに、なられてくださいませ。繭のことは、放っておいてください……昨夜は、よく、お眠りになられなかったのですか?」
 ひと呼吸ごと、ひと区切りごと、ようよう力を込めて言葉が押し出されている。声を出すこと自体が大変なのだとするような雰囲気に、あえて会話をさせたい訳ではないのだが。返事をしなくていいよ、とも言えず、聡はそっと囁いていく。
「空が白む頃まで、樹がずっと怒っていてね」
「今頃、樹兄様も寝ているのでは? ……聡兄さんも、体調を崩してしまう前に、お休みに」
「そんなに追い払いたい?」
 思ったより、冷たい声が出た。ああ、しまったと溜息をつく気配も感じ取ってしまったのだろう。怯えたように声を出さなくなってしまった少女の、こちらを伺うひたむきな気配だけが、ふすまの向こう側にある。姿が見えないのは、本当に不便だ。聡にとっても、繭にしてみても。なにを言ってやればいいものかをしばらく迷って、聡は結局、凡庸な言葉を吐きだした。
「怒った訳では、ないよ」
 樹がこの場に居たならば、お前は本当に面白見に欠けると言わんばかりの視線が投げつけられたことだろう。言っておいて、聡もやや反省したように首を振り、言葉を探しながら息を吸い込む。
「本当に、私は、怒っていないから……だから、聞かせてくれないかな。繭ちゃんは、どうしたの? なにか、嫌なことでもあったかい? ……普段の繭ちゃんは、こんな風にかたくなに閉じこもることはないだろう? 心配で、仕方がない。樹は……心から、君のことを案じていたよ」
 案じるあまり、寝不足が原因の判断力迷走状態で聡に疑惑をかけ、叩き切ろうとしたくらいである。聡は樹の幼馴染として、確信を持って言うことができる。言葉をひとつ間違えていたら、あるいは、足を僅かでも後ろに引いていたのなら、その時点で樹は鞘から太刀を引きぬいていた。医者は呼んでくれるのだろうか。切られた後、樹の手によって雑に縫い合わされるまでが罰であるような気がして、幼馴染の性格上、それが限りなく正解に近い予想であると分かるから、聡は無言で息を詰めた。あとから勘違いだったと判明しても、樹はしれっとした顔で悪いな、としか言わない気がする。けれども、謝るだけ奇跡のようなものだ。
 君子危うきに近寄らずである。繭が部屋から出てこないままであればそっと声をかけて、聡は速やかに分家に帰ることを決意した。生命の危険はなくとも、あの状態の樹であれば、八つ当たりで聡をちくちくと苛めてくるに違いない。もっとも、何日分家に帰らなかったとて、本家に身を寄せているのであれば、聡は誰からもなにも言われはしないのだが。ていの良い緩衝材と思われているに違いない己に息を吐いていると、困惑したように繭が問うてくる。
「樹兄様は……怒っていたのでは、なく?」
「心配していたように見えたけど。心配のあまり不機嫌になっているだけで、繭ちゃんに対しては、特に怒っていなかったように思うよ」
「そうですか……」
 ほっと胸を撫で下ろしたようだった。安堵に緩む声で呟いたきり、また言葉が返って来なくなる。これくらいが、潮時だろうか。会話をするだけでも億劫そうなことは感じられるので、聡はそろそろ場を辞そうと、ふすまから背を離して立ち上がった。床板の軋む音で気がついたのだろう。聡兄さん、と不安げに呼ばれるのにゆるく笑った。
「なに?」
「……いか、ない、で」
 泣き濡れたような、怯えているような、それでいてそっと、頬を撫であげる吐息のような。震えて掠れた、ちいさな懇願だった。思わず動きを凍りつかせた聡に、ひく、としゃくりあげながら息を吸い込む音が届く。
「ご、めんな、さい……もうすこし、もうしこしだけで、いいの。あとすこしだけで、構いませんから……いかないで。いかないでください、聡兄さん」
「……泣いてるの?」
「……あ」
 問いかけに応えたのは、ひどく恥じたような引きつった声で。肯定でもなく、否定はされなかった。全身をかたく緊張させて、震えながら、なにかを告げようとしているのが分かる。喉を通る息の音。あどけない声が、やわやわと響いて行く。
「ちがうの……違います、私……困らせる、つもりでは。ああ……やだ、いや……はずかしい」
 落ち着いて、と言ってあげられればいいのだが、その言葉を効果的に届けられるのは、恐らく少女の兄だけだろう。人に言うことを聞かせる為に生れて来たかのように、樹の声はどんな時でもまっすぐに響き、聞き逃すことすら困難な風に耳に届けられていく。迷っているうちに、繭は自ら落ち着きを取り戻したらしい。肩を大きく上下させている荒い呼吸音に、聡はなぜか、まっすぐにこちらを見つめてくる瞳を連想した。しっとりとした、夜のような。暗い、艶めいた、繭の瞳。
「聡兄さん」
「なに?」
「……もう、御帰り、ですか?」
 まっすぐに、ふすま越し、視線が聡を捕らえているのが分かった。いかないで、と先程のように言ってくれればいいものを。くすり、と笑みを零して、聡はふすまにそっと指先を這わせた。
「うん。そのつもりだけれど……もうすこし、いようかな」
「そう、ですか……」
 安心しきったように、それでいて申し訳なさそうに、おおきく息が吐き出されるのを感じた。少女の体から、強張っていた力が抜けたからなのだろうか。ごそりと身を起こしたような音がした瞬間、赤錆びた血の匂いが鼻先を掠めて行く。思わず眉を寄せ、聡は無意識にふすまの引き手に指先を引っ掛けていた。
「……繭ちゃん?」
「はい」
「どこか、怪我を?」
 そのままで、問う。え、とびくりと怯えた風に繭が声をあげるのが分かるが、聡は優しい気持ちになれなかった。落ち着いてあげることができない。恐らくは無意識に零れたであろう先程の声が、聡を引き留めるものであったのだから、なおのこと。ふすまが邪魔だった。こんなものがあるから、聡は繭の顔を見られないし、そのせいで普段よりずっと気をつけていても、正確に少女の感情の機微を感じてやることができない。この一枚の戸が、繭のたどたどしい遠慮を助けてしまっている。眩暈にも似た意識の明滅は、凶暴な怒りに似ている。それは繭に向けるべきものではないのだけれど。噛みついてしまうのが正しいような気も、した。
 息を吸い込む。返答がどうあれ、もう開けてしまうことにして、聡は言葉短く問うた。
「痛い?」
「……えっと。あの……あの」
「繭ちゃん。……痛いの?」
 答えなさい、と意味を込めたやんわりとした響きに、繭は一言、声を落とした。はい、と。そう、と特別な感情を交えず返事をしてから、聡は一息に、ふすまを開け放った。むせかえるような血の匂いと、眩暈が聡を襲う。眼前に広がった光景は聡が思い描いていたなにとも一致していなかったが、青年はごく冷静に一歩を踏み出し、畳を重みで軋ませた。それで、凍りついていたのが解けたのだろう。
「……きゃあああぁっ!」
「風呂の用意を! それと、私が呼ぶまで誰も開かないように」
 走り寄ってくる者に聞こえるように言い放ち、聡はトン、と軽い音を立ててふすまを後ろ手に閉めてしまった。鍵もなければ、つかえにするものも見当たらないので、開こうと思えば聡がしたように簡単なことだろう。しかし、駆けつけてきた物は高坂の女中であり、聡は分家の人間で、さらに樹のお気に入りだ。その立場を今程感謝したこともないと思いながら、無体をしたら樹様に切腹させられます、と止めているのか脅しているのかいま一つはきとしない声を背後に、聡は溜息混じりに繭に近づいて行く。
 少女は部屋の隅にしいた、布団の上で可哀想なくらい体をかたくしていた。手足を折り曲げ、顔を伏せ、恐れと羞恥に声もなく震えている。聡がすぐ傍に膝をついてしゃがみ込み、汗ばんだ髪を指で梳いてやっても、体から力が抜ける様子は見られなかった。痙攣のように吸い込まれる息のたび、血の匂いが濃くなっていく。少女の寝巻は見るも無残な血の染みで汚れていた。敷き布団も同じ状態で、畳みまでは到達していないだろうが、流れ落ちた血にじっとりと濡れている。
 正確には、血ではない。初潮の経血だった。
「……繭ちゃん」
 いや、とかすかな声で繭がむずがった。視線は持ちあがらず、泣いているような声だった。かわいそうに。溜息をつきたい気持ちになりながらも堪え、聡は意味もなくうん、と頷いて、撫でる手を止めないまま問いかける。
「なにが起きたのかは、分かる?」
 知識のないままで迎えてしまったのなら、怖くて仕方がないだろうし、さすがに聡の手に負えない。誰か女性を呼ぶ他ないのだが、幸いなことに、繭はぎこちなくも頷いた。
「初花です……分かっています。大丈夫です、ただ……」
「うん」
「考えていたより、痛くて……気持ち悪くて、血が、こんなに……」
 力の入れ過ぎて白く震える腕を撫で、手を握って温めてやりながら、聡はうん、と頷いた。それ以外にできることもなく、それでも、この役を誰かに譲るなど考えもしなかった。
「朝、起きたら……もう、布団も、汚してしまっていて……痛くて、気持ちが悪くて、どうすればいいのか、分からなくなってしまって……そうしているうちに、痛くて、疲れて、動けなくなってしまって。……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんてかかってないよ。……動ける? 立てるかな」
「……すこし、待って頂けますか」
 立てない、動けない、ならそれで構わないのだが。ようやく顔をあげた繭はきゅぅと唇に力を込め、そろそろとした動きで立ち上がろうとする。しかし、うまく体を支えることができないのだろう。予想していた動きで危なげなく繭を抱きとめ、聡は苦笑しながら少女の背をぽんぽん、と撫でてやった。
「風呂の用意をしてもらっているから、移動しようか。……抱き上げて行くけど、異論はないね?」
「服が……聡兄さんの服が、汚れてしまいます」
 だから、どうにか自分で、と言おうとする繭の目を覗きこみ、聡はごく静かに微笑んだ。
「汚していい」
 おいで、と囁いて繭の体を抱き寄せた聡は、身軽い動作で立ち上がった。そのまま、混乱した繭の軽い抵抗をものともせずにふすまへと近寄れば、心得た動きで開かれる。両腕が塞がっているので、足で開けるしかないか、と思っていたのでありがたい。控えていた女中が苦言を呈するより早く笑みを深め、聡は仕草だけで室内を示した。見なさい、と告げられるのに逆らわず、室内を確認した女中の目が、まあ、とばかり驚いた。その反応で、さらに居たたまれなくなったのだろう。もぞもぞと動いた繭は聡の胸に顔を伏せ、しなやかな手が服を握り締めた。はやく、はやく、ここではないどこかへ連れて行って。声もなく、指先のとうめいな爪が物語っている。
 そっと身を屈めて唇を触れさせ、はっと向けられた少女の視線に、聡はゆるりと微笑んだ。そのまま、なにも言わずに風呂がある方向へ歩き出す。
「片付けて……もらってもいいね?」
「……お願いします」
「うん。……部屋を頼みます。あと、彼女の着替えと必要なものを一式、脱衣所に用意しておいてください」
 布団の片付けを一応確認しながら指示し、その後のことも頼んで、聡はゆったりとした足取りで進んで行く。運ぶくらいは聡にも出来るが、さすがにその後は女性の手が必要だろう。疲れ切った様子で聡の腕の中でくたりとする繭は、どことなく眠そうで、風呂上がりまで体力がもつか心配になるくらいだった。湯船で眠らなければいいのだが。それとも、こういう時は体を洗うくらいに留めておくのがいいのだろうか、と考えつつ、聡は脱衣所に辿りつき、身を屈めて繭の体を床に下ろした。
 急なことなので、湯も抜いてあったのだろう。厨房のある方角から慌ただしい気配がいくつも往復しているから、まだ状態は整いきっていないらしい。浅い呼吸を繰り返して青ざめる繭に、聡はそっと手を伸ばした。
「……私は行くけれど、樹には伝えておくから。今日は安静に過ごしているんだよ」
「樹兄様には、なんと……?」
「ん? うーん……まあ、私が言わずとも、樹の所にはもう伝わっていそうだけれど。こういう状態だったから、怒らないでやれよ、くらいは。分家にも、言わずとも知らせとしては来るだろうから……昼過ぎにはお赤飯が届くと思うよ」
 本家でも炊くだろうが、分家からもほぼ確実に届けられるだろう。帰って、着替えたくらいで呼ばれ、聡がその運搬役に使われそうな気がした。もちろん、高坂だけではなく、この家の守護役である他家からも祝いは届くだろう。初花は、女性の祝いだ。子を成すことができるようになったという証は、高坂本家の娘である繭の身から考えれば、この上ない祝いとして知らせが巡ることだろう。繭も、分かってはいる。高坂の娘として、それを祝われることも役割のひとつだと、分かってはいるのだが。
 恥ずかしさのあまり声にもならず、また、痛みと気持ちの悪さにも耐えかねて床に座りこんだまま、体を丸めて呻くさまは、あまり納得しているようには見えなかった。男子にしてみれば、精通を親戚縁者関係者ことごとくに知れ渡られるのと同じことである。消えてなくなりたい気持ちは十分理解できた。幸いなことに、高坂の男に対してはそういう風習がなく、それとなく周囲が察し、それとなく、ある日、見合いの写真が差し出されたり、場が整えられたりするだけなのだが。聡も、それを迎えた翌日の昼に、父から見合いを仄めかされて死にたくなったが、樹も同じことをされた筈だ、と思って精神的に耐え抜いたのである。
 それなのに、繭はひとりだ。その羞恥とやるせなさを共有できる者もなく、怒りを押しつけられる者もなく、ひたすらに耐えることだけを求められる。これまで、そうだったように。これからも、ありとあらゆることで、そうあり続けなければ許されないように。それを知っているからこそ、床に倒れこむようにして動けない繭をおいて脱衣所を出て行くことは、あまりにしのびないような気がした。風呂の用意も、まだしばらく整わないようであるし、聡がここに居ることは知られているだろうに、追い出しに来る者もいない。その事実を免罪符のように心に持ち、聡は息をひとつ吐き出すと、動かない繭の隣に腰を下ろした。
 そうすると、今更のように経血に濡れた布が肌に張り付いて気持ちが悪いが、それは繭も同じである筈だった。はやく、洗い流してやれれば良いのだが。そう思いながら手を伸ばし、聡は繭の前髪を耳にかけてやり、あどけない丸みを残した頬を何度も指先で辿った。何度か触れた覚えのある肌は、いつになく汗でベタついている。ふ、と張り詰めた息が聡の指先をくすぐって、視線が重ねられた。
「聡兄さん……」
「うん?」
 あどけない、たどたどしい、甘い響きが、聡を呼ぶ。
「……繭は」
 疲れ切った顔をして、どこか眠たげに、夢うつつを彷徨うような瞳をして。息を吸い込む唇の、色が赤い。花のようだ、と思った。
「大人に、なるのでしょうか……?」
 伏せられた目は、瞬きを二度、行った。ころりと零れた涙は頬を伝わずに床に落ちて、繭はまた、身を襲う痛みにちいさく呻く。浅く早く繰り返される息は、混乱していて、悲しげで、苦しく怒っているようでもあった。渦を巻くように、繭の中で感情が動いている。ゆるりと持ち上げられた少女の手は、己の下腹部へ押し当てられた。泣くような息が、繰り返される。蝶のはばたきのように、ふわりと、持ち上げられた視線が聡に向けられる。それとも、と繭の唇が声もなく動く。まだ、こどものままなのですか。分からない、私は。今、どんな風、ですか。血の匂いがした。眩暈がするような、赤い、匂いだった。

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