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 今年で六歳になる男児の母親が、本家に跡取りがいないことを理由に、我が子を跡取りとして本家に迎え入れるように要求している。その話を聞いた聡はあまりの本末転倒ぶりに乾いた笑いを浮かべた後、心の底から死にたくなった。顔を思い出せず、名前もなんとなくしか分からないその男児の父親こそ、聡だったからである。聡は高坂の分家だ。分家であるからこそ、聡の子はあくまで高坂本家の保険なのである。有事の代えであり、単なる備えであって、それ以上でもそれ以下でもない。けれども樹が当主を継いで五年。未だ女性の影はなく、二十になった繭の方にも求婚者を頑なに断り続けている、という噂しか流れてこない状況である。本家の血を繋ぐ跡取りが産まれるあてはなく、だからこそ発されてしまった愚かな、あまりに愚か過ぎる要求である、と聡は思っていた。
 同じ高坂の姓を名乗っているだけで、本家と分家は根本が違う。血こそ同じ所から枝分かれして今日に至っているだけで、育つ環境もさることながら、その魂の質が生まれついて全く異なっているのだ。本家に産まれる者は、その血を繋いで生きる彼らは、あまりに異質で相容れない。それは崇高な憧れを抱かせながら、畏敬の念をも喉に詰まらせる。一目見れば、本家の樹と分家の聡を並び立たせれば、恐らく誰もが理解するだろう。樹こそ、唯一無二。代えの利く聡とは違い、樹だけは欠いては成らない。彼こそ、高坂を継ぐ為に産まれてきた存在であり、彼こそが、正当なる本家の現当主。そこへ、女は我が子可愛さに、その存在を連ねろ、と言うのだ。聡は心底なにを主張しているのか意味すら理解できない状態であるのだが、女はどうも本気であるらしい。
 女自身は高坂の末席に名を連ねる存在ながらも、男児は分家の血を継いでいる。本家に跡取りが望める気配がない以上、養子に出す準備は出来ている、とのことだった。だから迎え入れろ、と言うのである。当然、大騒動となった。聡の予想では一笑に付されて終わりになる筈であったので、騒動となってしまったことこそが驚きであるのだが、どうも本家に近しい者たちは、跡取りが未だ出来る気配のないことを、この上もない重大事だとしていたらしい。以来、一応は分家の血を継いでいるのだから本家に入れても良いのではないかとする一派と、あくまで本家のみ、樹か繭の赤子の誕生を待つべきだとする一派に分かれ、高坂は荒れに荒れている。新年早々に言いだされ、かれこれ半年が過ぎていた。季節は初夏の頃。聡はとうとう、直に本家に呼び出しを受けていた。
 七年ぶりの本家である。件のことを樹が許したからこその立ち入り許可ではなく、当主が男児の父親としての聡の意見を求めてきたからだ。なんでもそれぞれの派閥の代表と女を呼び集め、当主立ち会いの元、聡の意見を述べる場が開かれるらしい。公開処刑、の四文字を脳裏に閃かせた聡の意識は、あながち間違ったものではあるまい。半年もの間騒ぎが続いているのは、当主が沈黙を続けているからに他ならない。樹は昔から、どうでもいいことには極力介入してこない性格である。めんどうくさがりとも、いう。つまり、樹にとっては女の主張など、心底興味がないのである。興味がないということは、感心もないということだ。当たり前だろう、と聡は思う。
 本家の跡取りは、本家のみ。樹は誰より、それを知っている。だからこそ延々と無視をしていたのだろうが、あまりに騒ぐのを止めないので、恐らく心底うんざりしたに違いないのだ。聡の呼び出しはつまり、終止符を打て、という遠回しな樹からの要求だ。樹は聡が、骨の髄から分家の者であることを知っている。分家と、本家の、なにが違うのか。それを肌で理解しきっていることを、知っているのだ。聡ならばなにを間違っても、女のようなくだらない主張はすまい。その、言葉にならない信頼を七年ぶりに受け取って、聡はただ苦笑した。周囲の雑音を散らす為に呼ばれたのだと分かっていても、未だ樹からの正当な許可を受けていないと理解しながらも。
 本家に足を踏み入れることができる。そのことが、嬉しかった。樹は当然のことながら、七年の間、聡がなにをしていたか知っている。それがいかなる理由、事情があってのことであるのか。なぜ聡に強要されたのかを、知っている。それでも頑なに恋人の一人も作ろうとしない潔癖なまでの態度に、聡は苦笑を浮かべるくらいしかしなかったのだが、繭はどう思っていたのだろうか。七年間、遠目に見ることすら叶わなかった、かつての少女。今は女性になっているであろう、その存在は。穢れたと、聡が己をそう思ったのと同じように。聡をそう、みなしただろうか。分からずとも苦く、笑って。聡は息を吸い込み、本家へ足を踏み入れた。
「聡」
 その、矢先のことだった。射るような声で名を呼ばれ、聡は思わず息を止め、背を正して声の方向を見る。果たしてそこには、樹が立っていた。高坂の現当主は玄関に背を預け、不機嫌に腕を組みながら、聡を待っていたようだった。人払いをしたのか、不機嫌な樹に近づきたくないだけなのか、周囲にひとの気配はない。それは半ば予想し、想像の中で否定していた出迎えだった。聡の存在は今や、高坂の火種そのものに近い。病巣のような扱いでそっと遠巻きにされるのが常であるからこそ、高坂の当主が直に待っているとは考えにくかった為だ。けれども、樹なら、聡を待つだろう。漠然とした信頼に似た気持ちが、確かにそう思わせていた。
「聡」
 きよく透き通り、指先を浸せばじんと痛みに似たしびれを残す、雪解けの水のような声で。樹はただ、聡を呼んだ。その強さが何度も聡を打ちのめし、それでいて強く、背を押していく。何度でも、何度でも。昔も。今も、変わらずに。息を吸い、聡は脚を踏み出し、歩く。そして樹の目の前で立ち止まり、微笑みながら頭を垂れた。
「頭は冷えたか? 聡」
 言葉を告げるより早く、からかいに満ちた声音が聡の耳へ届けられる。表情の不機嫌さとは裏腹な言葉に顔をあげると、そこにあったのは淡く笑む口元と、真剣なまなざしだった。その視線をどうにか反らさず見返すと、樹は意外そうに、それでいて幸せそうに笑みを深めた。麗しい色香の漂うその笑みこそを直視できず、聡はゆるく息を吐きだしながら視線を地へ漂わせる。
「……冷えたように、見えるか?」
「すくなくとも」
 目を見ていないことを許さず、伸びてきた樹の手が聡の顎を掴み、顔を上げさせた。
「すこしばかりは成長したようだ。だが……会話の途中で視線を反らすな、と教えておいた筈だが?」
「……いや、樹に恋人が出来ない理由が……分かった気がして」
 微笑むだけで意識を根本から奪い去って行くような魅惑的な男に恋をするというのは、存外難しいことだ。幼い頃から慣れている聡でも、抗いがたいものを感じるくらいである。好くことは出来るだろう。恋に落ちることは出来るかもしれない。そこから立ち上がれず、身動きも取れないような絶望的な恋に。落ちて、そして動かないものに、樹は興味を動かさない。溜息をつきながらしみじみと囁く聡の額を、ごく軽くてのひらで押しやりながら、樹はからかい混じりの声で言う。
「本気で籠絡したい女がいないのが悪い」
「今も?」
「ああ、今も、まだ。残念ながら、な」
 まあ、そのせいでお前に大変な想いをさせたのは悪いとは思っている、と珍しく歯切れの悪い声で告げて。樹の手が、聡の肩にとん、と置かれた。慰めるように、いたわるように。僅かばかり冷えた指先を触れさせ、そっと引きながら、囁く。
「お前の本意ではないな?」
 その確認が女の主張に対することであれ、男児をはじめとした数人の子の父親になっていることであれ、聡の返事は同じものだった。離れて行く指先を、その白さを見つめながら、呟く。
「ああ。……本家は樹と、繭ちゃんのものだ。私たちが並んで良いものでは、ないよ」
 一度、柔らかく握りしめられたてのひらが、ほっと緩んで開かれるのを、見てから。聡は穏やかな気持ちで視線を持ち上げ、樹の目を覗きこんで告げる。
「不安にさせて悪かった」
「全くだ。お前の一子が産まれたと聞いた時の繭の様子など、見せてやりたかった。……さあ、行くか」
 ついてこい、とも言わず。それが当たり前の様子で身を翻し、玄関の戸を開いて樹は中へと戻って行く。告げられた言葉を茫然としながら噛み砕き理解して、聡は眩暈を感じて額に指を押し当てる。言葉にならなかった。知られていない、などという馬鹿な想像は一度たりとてしたことがない。この騒ぎの元凶こそが聡であるから、繭も十分に分かっているに違いないのだが。今も昔も恋しいただひとりの相手が、そのことをどう受け止めていたのかなどという悪夢を、知りたくもないし聞きたくもなかった。呻くことすら出来ずに目を閉じる聡を、玄関からひょいと顔だけ覗かせ、意地の悪い呆れ顔で樹が呼びやう。
「聡。なにをしている。はやく来い」
「……樹」
 ふらりふらりと歩み寄り、聡は生気の無い顔で問いかけた。
「繭ちゃんは……その時、どういう……?」
「あれは」
 心底楽しくてならないように聡を見つめ、また思い返しながら樹は言う。
「怒っていたな。……そして、今でも怒っている。覚悟しておくんだな、聡」
 なにを、と問う気力もない聡に、樹は見惚れるような麗しい笑みでもって、告げた。
「繭は、お前に会いたがっていた」
 死刑宣告に近い気持ちで、聡はその言葉を受け止めた。



 蝉の鳴き声が途絶えた。庭に敷き詰められた白い玉砂利を焼いていく強い日差しの揺らめきも、眩しさも、暑さも緊張もなにもかも感じなくなる。息を吸うことすら忘れ、見つめる先で、女はゆるゆると瞼を下ろし、睫毛を震わせて唇を噛んだ。やがて、長い夢から醒めたばかりの愚鈍な仕草で瞼が持ちあがり、射抜く視線が再び現れる。それはまっすぐに聡を見つめていて、男に、なにもかも、一切を許していなかった。目を逸らすことも、意識を他の所へ持って行こうとすることも。立ち去ることも、歩むことも、思考することも呼吸することも。なにもかも、許さず。女は、すい、と足を動かして歩み出し、音もなくその兄の側へ立った。女は優美さを感じさせる仕草で兄のことを見上げ、忌々しそうな、それでいて苦く笑む樹へ、たった一言、告げる為に息を吸い込む。
「お借りします」
「すぐに返せ。間もなくだ」
「待たせておけば良いのです。あのような者たち」
 廊下が続いて行く先の間で待つ者たちに、なんの価値も見出していない冷たい声で言い放ち、女の視線が兄から離れる。まるで所有物の受け渡しをする気安さで求めに対する許可を求め、それを得た女は、動かぬ聡に向かって一歩を踏み出した。音のない仕草。洗練されきったが故にうつくしい刃すら思わせるそれに、樹は女を見もせず、後ろに腕を伸ばし艶やかな黒髪に触れる。弄ぶように一筋、散らして愛で、樹はくつりと喉の奥で笑み零した。
「いじめてやるなよ?」
「誰にものを仰っているのです? 樹兄様」
 女もまた、振り向かずに笑んだ。
「そのようなことを、聡兄さんにすると御思いで?」
 女が口にした聡の名は、蜜のように甘く響き。どこか幼く空気を震わせ、散って行った。樹は振り返らず廊下の先で歩んでいきながら、お前は俺の妹だからな、とからかうでもなく口にする。女がそれを半ば無視している間に、樹は辿りついた部屋のふすまを開き、一瞬たちのぼった喧騒と共に中へ姿を消してしまった。ほんのわずか、幻聴のようにふすまが閉まる音を聡が耳にした時、また一歩、女が足を踏み出した。女は白い浴衣を身に纏っていた。色とりどりの朝顔が描かれたその浴衣は、こども染みているようで、大人びてもいる。どちらでもあり、どちらでもない境界線を危うく漂わせる。そんな印象をただ振りまきながら、女が赤い唇で、すぅと息を吸い込んだ。
「お久しぶりです、聡兄さん」
 その名を、なんと呼び返せばいいのか。分からないまま、ぎこちなく、聡は息を吸い込んだ。
「……綺麗に、なったね」
「お戯れを仰らないで」
 ちいさな足音をはじめて奏でて、女が聡のすぐ目の前で立ち止まった。
「女など見飽きている筈でしょう」
「そうだね。でも、それは君ではないだろう? ……繭ちゃん」
 名を呼ぶことを。七年越し、その名を唇に乗せて相手に告げることを。苦しくためらいながらも行った聡に、女の目がつめたく細まった。持ち上げられた腕が、聡の頬を手で打とうとする。けれども無抵抗でそれを受けようとする聡に、直前で女の手は止まった。肌には触れず、手が強く握られる。震える程、爪が食い込む程に握られる手を見つめ、聡は眉を寄せて首を振った。やめなさい、と口にするより早く、押し殺した少女の声が聡へと落ちた。
「って……いて、くださると」
「……繭ちゃん?」
「待っていて、くださると……あなたはそう」
 浅く息を吸い込んで、震える呼吸を繰り返す。
「繭が、大人になるまで、待っていてくださると……!」
 かすれた声に、血の匂いが立ち上る。眩暈がした。手を伸ばして頬に触れる。噛み切った唇が赤く、少女は息を吸い込んだ。
「他の女に触れさせるくらいなら」
 滲む涙に、唇を寄せる。
「あの時、あなたを行かせるのではなかった……っ!」
 目尻に口付け、体を離す。震える指が聡の胸元を掴み、布を握って乱してしまう。その手の甲に指先を伝わせて、聡はそっと繭の目を覗きこんだ。視線を重ねて、微笑む。
「きみの」
 その瞳の奥に、激情が見えた。
「君のせいだよ。……君の為、だよ、繭ちゃん」
「なにを」
「綺麗になったね、繭ちゃん。本当に、綺麗になった。……けれど、まだ、幼い」
 視線を重ねたまま、肩を手で押しやる。突き飛ばされたように離れた繭を微笑みながら見つめて、聡は脚を踏み出した。樹が消えた間を目指しながら、追いかけてこない繭を振り返って、告げる。
「君の幼さがある限り、君は次代を強要されることはないだろう。その幼さが君を守る。本家であるからこそ、無理強いをされることはない。……七年、幼くあった君の」
 せいで。ために。言葉はどちらも正しく、また間違っていて、聡は口にすることができなかった。少女の、自身に対する呼称が、七年前で時が止まっていることを物語る。十二の。初潮が来たばかりの、幼い。はやく、と囁き、聡は笑う。
「はやく、はやく……大人に、おなり。繭ちゃん」
 もう待つことなど、できないのだけれど。言葉を告げると同時にふすまを開き、部屋の中へ、聡は体を滑り込ませた。すぐに何対も突き刺さってくる視線にうんざりしていると、上座で待ちかまえていた樹が面倒くさそうに手を振り、前まで歩いてくることを求める。特に拒否もせず従順に歩み寄り、当主の前にある程度距離を持って聡が座り込めば、空気が張り詰めた。さて、と樹は呟く。
「申し開きを聞こうか」
 いじめてやるなよ、と言ったろう。そう声に出さず唇を動かされたのを見て、聡は苦く、笑みを落とした。

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