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 つき纏う蝿を払う、優美な乙女の白い手のごとく。樹の言葉は空恐ろしいほどの優雅さで喧騒を払い、涼にはならぬ静寂を場に呼びこんだ。男児の母親である女性と、女を擁護する分家の者たちが言葉を発し始め、幾許もしない刻のことである。五月蠅い、とは言わなかった。騒々しく、矢継ぎ早に主張される物事に対し、樹は、高坂の現当主はほんのりと眉をゆがめ、一言、こう告げたのみである。
「黙れ」
 なにもかもが、その一言で色を失い、音という音を手放した。りん、りぃん、と風に揺られる風鈴の音だけが彼方から聞こえる静寂の中、樹は殊更ゆっくりと息を吐き、その視界から余計なものを排除してしまった。数人に向けられていた視線が、苦笑いを浮かべながらも息を殺す、聡にだけ向けられる。
「……お前たちに、俺が、いつ発言を許したと言うのだ」
 お前がさっさと話し出さないから騒がれただろう、と暗にお怒りの高坂当主に、聡は慣れた仕草でうんと頷き、ぎこちなく、その喉に息を通した。背筋を正し、居住まいを正す。膝の前に手をつき、ゆぅるりと、深く、頭を下げた。
「このたびは、申し開きのお時間を頂戴しましたこと、深く感謝申し上げます」
「礼はいい。さあ言え、聡」
 それとお前、俺が言ったことをもう忘れたのではないだろうな、と睦言を囁くような甘さで脅されて、聡はしぶしぶ、伏していた体を持ち上げた。声を交わすに苦はなく、それでいて距離のある空間を結ぶようしっかりと視線を重ねると、樹が満足げに笑むのが見える。そうだ、それでいい、と囁くのに似た笑みに、聡は胸の奥まで息を吸い込んだ。
「本家を継ぐは、本家の血。我ら分家は、その血が絶えた時にのみ、薄く血を残す代用として機能するもの。……我らが当主、高坂樹様に、申し上げます」
「聞こう」
「本家の跡取りは御当主様の、あるいは繭様の血を継ぐ者のみ。戯言にてお耳汚し致しましたこと、心よりお詫び申し上げます。……どうぞ今後一切、そのような雑音に惑わされませぬよう」
 分かった、と樹が言った。ありがとうございます、と聡が返す。半年もの間、高坂を不穏に揺らし続けた問題の、それが終結の言葉だった。顔色を無くした女が立ち上がり、金切り声で喚き立てはじめる。そんなことを言って、跡継ぎも生まれていないのにどうするおつもりなのか。私の息子でいいではないか。いや、私の息子こそ、この高坂を継ぐに相応しく、御当主様はその才に嫉妬しておられるのだ。その証拠に私の息子はこの場に立ち入ることを許されなかった。そのことがなによりの証拠だ。御当主様は真の跡継ぎを恐れておられるのだ。私の息子こそ、あの子こそ、この高坂の。この家の、正統なる跡継ぎ。本家を継いで行く者。
 男たちに宥められ、腕を押さえられながらも叫ぶ女に、樹は余裕ある笑みを浮かべたままで一言も発さなかった。それを真正面から見つめ、聡は深く息を吐きだしたい気持ちになって、目を眇める。樹はまだなにかを考えていた。企み、その時を待っているようだった。なにを図っているのかは、聡には分からない。ただ。
「樹兄様」
 音を立て、部屋のふすまが開かれた瞬間、理解した。誰もが振り返る、その視線の先に、立っていたのは女だった。優美な佇まいの、結いあげもしない艶やかな髪を、そのままに背に流すうつくしい女。女が足を踏み出すと、ほんの僅か、畳が鳴った。そこに体重がある、それでいて、水のようにするすると流れて行く所作で、女はゆっくりと歩いてくる。騒ぎ立てていた分家のものに、視線も向けず。ぽかんとして声を無くした男児の母親に、声もかけず。その前を通り過ぎ、一人、振り返らなかった聡の傍らで足を止めた。畳が鳴る。
 ふ、と。赤い唇が微笑んだ。
「終わったのでしょう? なにを騒がしくしてらして?」
「繭。ここへ立ち入るな、と言っておいた筈だが?」
「私の名前が聞こえたものですから、気になってしまって」
 そこで初めて、繭は分家の者たちに目を向けた。一人一人の顔を確かめるようにして眺め、女を注視してから、ふいと視線を外してしまう。ひとつ、息を吸い込んで。再び、ひたと女に対して向けられた視線は、刺し貫く刃の強さを持っていた。
「わたしが、なにか?」
 無言を許さず、それでいて、求める答え以外を許すつもりもない、やんわりとした殺意だった。絞り出すような声で、女が先程と同じ主張を、頭から繰り返す。聞くに堪えない表情で言葉を流していた繭は、女が主張を終えたのを沈黙の後に確認してから、分かりました、と言った。
「が、その前に、樹兄様? 雑談をひとつしても?」
「許す」
「ありがとうございます。樹兄様が当主になられた夜のことです。お祝いを申し上げた私に、樹兄様はこう仰いました。気分がいい、なにか欲しいものはあるか、ひとつだけ、なんでもくれてやろう、と。私はその時に思い浮かびませんでしたので、こう返した筈です。では、また今度おねだり致しますと。覚えておいでですか?」
 ああ、と樹は頷いた。ようございました、と頷き、繭はてのひらを持ち上げ、ひらりと、泳がすように空で返した。
「それでは」
 その手で、ひとりを指し示す。
「この男を。高坂聡を、私にくださいませ」
「……ふぅん? 聡でいいのか。俺はまた、その女の身柄を引き渡せ、とでも言うのかと思ったが」
「あら樹兄様。私がそんな馬鹿な申し出をすると御思いで?」
 それくらいのことならばおねだりせずとも成し遂げてみせます、とやわらかく咲く花のような殺意を隠そうともせず歌いあげ、繭は唖然とする聡に手を差し伸べた形のまま、堂々とした態度で言い切った。
「私が望むのはこの男。この方の、これからの未来、その全てに御座います。樹兄様。……もう二度と、分家になど帰さない。帰すものですか。誰の手にも、触れさせてなるものですか……っ!」
 くる、と体の位置を樹から聡に向きなおし、繭は怒りに揺らめく瞳で息を吸い込んだ。
「……私がこどもだから、幼いから、あなたは離れて行ってしまったのだと、そう、思っておりました」
 それなのに吐き出された言葉は震え、今にも泣きそうにかすれていた。日々育って行く体を恨んだこともありました。そう告げ、成長した女は、聡に差し出す指先を震わせた。
「でも、違うのなら。そうでないのなら……聡兄さん」
「……繭ちゃん」
「見て。繭、は……私は、おとなに、なりました」
 あなたを離してしまった日の。同じ歳に、なりました。囁く女のとうめいな爪は、口付けたあの日と同じ形をしていた。
「あなたが触れる、最後の……女にしてください、聡兄さん」
「……たくさんの、君ではない女に触れたけど。それでもいいの?」
 汚らわしいとは、思わないの、と。苦笑しながら問う聡に、ですから、と繭は眦をつり上げ、語気を鋭くして言った。
「私が、最後です。もう二度と、誰も、聡兄さんに触れさせるものですか……! もちろん、樹兄様とて!」
「おい、そこで俺を巻き込むのはやめてもらおうか」
「早く御許可くださいませ、樹兄様。この男を、頭のてっぺんから爪の先まで、髪一筋すら、私のものにする許可を」
 さっさと分家からむしり取ってくださりませんこと、と急かされて、樹はややうんざりとした顔つきで頷いた。
「いいだろう。……聡」
「なに、かな……」
「疲れ切った返事をするな。……喜べ、お前は今日この時より、本家扱いだ。ただし、お前の身柄のみ。手をつけた女どもと、産ませた子らは分家のままだから、そのつもりでいるように」
 なにごとか訴えようとする者たちに視線を流し、当たり前だろう、と樹は艶やかに唇を和ませ、微笑んだ。
「聡は本家の、婿に貰うのだからな」
「間違えないでくださいまし、樹兄様。私の、婿です」
「お前の婿なら、本家のものだろう」
 ただし、本家のものは俺のもの。相違ないな、と確認してくる樹に、繭は心底不本意そうに、ふるふると震えながら頷いた。



 一刻で戻って来ねば迎えに行くからな、俺が、と当主直々に申し渡された上で、聡は分家へ荷を取りに行くことを許された。これが最後で、もう二度と分家の敷居を跨げるとは思わないでくださいね、と繭が微笑んで見送ってくれたので、事実上、今生最後の実家である。さてなにを持って行くべきだろうかと考えても、特別に必要なものがあるとも思えなかった。元々、聡が本当に大切にしているもの、手放したくないものは、全て本家にあるのだ。それを二人も知っている筈だから、一刻は別れを告げる為のものだろう。聡は両親と女中たちに別れを告げ、玄関の扉を開き、外に出た。夏の盛りの、目に痛い日差しが飛びこんでくる。眩暈がした、時だった。
「聡」
 病んだ薬の香りが漂う。声をかけられたのは背からではなく、聡が歩んでいく道の先からだった。ゆったりとした白い着流しを風に靡かせながら、聡の兄が家に向かって歩いてくる。外に出て、歩くことが出来るひとなのだ、ということを、聡はその時はじめて知った。家の中でしか顔を合わせたことのない兄だった。けれども一時、聡がそれを身代わるまで、道具のように呼び出され、子を成す所業を強要されていたのはこの兄であったのだ。言葉を無くす聡の前、そっくりな顔をした兄は、いつかのように立ち止まる。顔立ちも、背格好も、鏡を合わせたようによく似ていた。違うのは着ている服の色くらいだろうか。吹く風にばたりと、白い着流しが揺れた。
 息を飲んだまま、声のない聡を見つめ、ごくひっそりと男は喉を震わせて笑った。分家の喧噪のただ中には姿がなかった筈だが、聡がもう二度と、この家に戻って来ないことを知っているようだった。男の手が伸びる。そしてぽん、と優しく、聡の頭に触れて、離れた。
「……いきなさい」
「にいさん」
 言葉を、と思うのに。告げなければ、呼ばなければいけないと、どうしてか強く、そう思うのに。聡は終ぞ、兄の名を、呼びかけることができなかった。苦しげに迷う聡の肩を叩き、その横をすり抜けて行きながら男は囁く。
「ああ……今日は良い日だ」
 お前が行くのなら、もう、いいね。安堵しきった声の囁きが、真実、空気を震わせたのか確かめる術を失ったまま。振り返ることもできず、聡は兄の来た道へ、足を一歩、踏み出した。病んだ薬の匂いは、強い日差しと、風に紛れて消えて行き。その二日後、聡の兄は息を引き取った。



 膨らんだ腹を撫でる繭の手を見つめ、聡は名前はどうしようか、と問いかけた。分家どもが面倒くさくてややこしいから男を産め、と言い放った樹に、繭は分かりましたお任せ下さいと言い放ち、そろそろ十ヶ月が過ぎている。腹の子の性別など生まれるまで分からないものなのだが、樹は男だと確信しているようであったし、繭もそのつもりで産着などを用意しているので、聡が考えているのも当然、男の名だった。いざ産まれて女であれば騒ぎになりそうなことだが、すっかり母の顔をするようになった繭が、でも男でしょう、としきりに呟くので聡の中でもそういうことになっている。名前ですか、と首を傾げながら、繭はそっと腹を撫で、囁く。
「いくつか考えはしたのですが……」
 中々これ、というものがなくて、と息を吐く繭に、聡は柔らかな苦笑で同意した。だいたいからして、高坂の名付けは漢字一文字でなければならないのだ。男児に似合う名とすると限られてくるし、本家の跡取りを意識するともっと難しい気がしてしまう。悩みながら、聡はふと、その響きを口にのせた。いつか、呼んだ覚えのある、誰かの名だった。聞きとめ、繭は口元に指先をあてて微笑む。
「では、その名にしましょうか」
「……いま、なんと呼んだかな」
「みのる、と。……実、でしょうか。文字は」
 繭の指先が、空にその文字を書き出す。なぜか泣きたいような気持ちで息を吸い込み、聡はちいさく、頷いた。何処か遠くで、風鈴の鳴る音がした。夏の、盛りのことだった。

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