一幕:絹の繭玉 / INDEX / NEXT

 二幕 楽園の雫

 じき、夏が訪れる。樹がそれを目にしたのは、そんな折、静かな夜のことであった。虫の声ひとつせず、何処か鈴の音に似た静寂のまぼろしが、夜の間をどこまでも揺らしていた。屋敷は眠りに沈んでいる。生温かく揺れる夜渡りの風が、頬に触れて過ぎ去って行く。艶めかしく色を濃くした緑の木の葉が、漆黒に紛れ微笑むように揺れた。樹は、書斎から寝室へ向かう道行きの中ほどで足を止め、視線を庭へと投げかける。盛夏に最もうつくしく在るよう整えられたその庭は、今はまだすこしばかり寂しい風情を漂わせていた。その寂しさの中に、一人の少女が立っていた。まっすぐに背を伸ばし、視線は、薄雲に隠された月を捕らえている。
 夜風にりん、と鈴が鳴った。風鈴の音だった。振り返った少女は樹を見て、未だ幼い印象の瞳を大きく見開いた。確か、先日十五になった筈だ、と樹は思う。それなのに、少女の印象はどこか幼いままだった。脆く、柔らかく、やわやわとしていて、強く引き寄せれば傷つき、崩れてしまいそうな。弱々しさがそこにあった。それでいて凛とした雰囲気すら纏うのは、少女の立ち姿があまりに美しい為だった。背をまっすぐに伸ばし、指先、足の先にまで意識を行き渡らせ、まろやかな線を描く頬にはかすかな緊張の名残がある。とうめいな声が響くより早く、樹は少女に手を差し出した。
「雫しずく
 こちらへ。そう命じているのが分からないでもあるまいに、少女は立つ場所から動こうとしなかった。冷えた玉砂利を踏むのは、よく見れば素足である。なにをしているのだ、と心底呆れ果て、樹は手を差し出したまま、眉を寄せて息を吐きだした。そもそも、こんな時間に起き出すことを許した覚えなど樹には無い。書斎で目にした時計の針は、午前の二時を示していた筈だった。一度眠りについて、ふらりと起き出してしまった風にも見えなかった。少女が身に纏っているのはこの時期、寝衣に使っている襦袢ではない。ごく普通の白い和服であるから、足袋は何処かへ置いてきてしまったのだろう。
 少女の服装に乱された後はなく、見える範囲に傷がついた様子もない。本家の少女に狼藉を働く者があるとも思えないが、確認をしたことで安心し、樹は眦を険しくした。高坂の娘である限り、雫の身は守られる。意志が無視されることは決してない。されどもこう無防備であっては、邪な思いで手を伸ばす者もないとは限らなかった。雫、と樹はやや怒りの滲んだ声で姪を呼ぶ。はじめて意識というものを身に持った精巧な人形のように、少女は大きく身を震わせ、くちびるを開いて息を吸い込んだ。瞳はまっすぐ、樹を見ていた。
「樹さん……」
 とうめいな声が、情を宿して樹を呼ぶ。
「樹さん、わたし……」
 震えが溢れだし、頬を涙が伝ってしまう寸前。りん、と風鈴を鳴らす風が薄雲をはらい、まろい月明かりを一筋、少女の手元まで降り降ろした。ほっそりとした白い指先が、光を折り畳むように手の中に閉じ込める。弱くゆるく手を握って、少女はそっと目を伏せた。熱のない切ない光に、目を閉じる面差しはけれど、あまりに和らぎからかけ離れたものであった。嵐のように、内心が荒れているのだろう。涙を零すことでしか感情を処理できないでいるのに、泣くことすら、忘れてしまったように。できない、苦しい、と震える睫毛が告げていた。息を吐き、もう一度だけ、樹は呼ぶ。
「雫」
 ふわり、月明かりに開く花弁のように、瑞々しく少女は瞼を持ち上げた。眼差しが樹を見る。くちびるが動いた。樹さん。声なく呼ばれ、瞬きに、零れぬ涙が瞳を覆って行く。何度も、何度も、声なく名を綴って、呼びかけて。やがて両手で顔を覆い、少女はその場にしゃがみこんでしまった。
「いか、ないで……」
 響く、その懇願に樹は深く息を吐き、腕を組んで廊下に背を預けた。風が吹く。静寂ばかりのなまぬるい空気に、風鈴だけが歌声を落としている。嗚咽の響きは樹まで届かなかった。声を殺しているのか、泣けないままであるのか、樹には分からない。それ以上は声はかからず、声をかけることもなく、手を、差し出すことはせずに。樹はただ求められるまま、その場から動かず、静かに目を閉じた。光。一筋のとうめいな月明かりだけが、少女の手元を選んで落ちて来ていた。
 少女を選んだ縁談が届いた日の、夜のことだった。



 先日、見合い写真に火をつけて全て燃やしてしまったらしい、と聞いて樹は目を細めて沈黙した。らしい、とするのは樹に話を持って来た当人がその現場を見ていないからだ。黒ずんだ灰となり、しおしおと風に吹かれる紙だったものが庭の隅に放置されていたのだという。思わず後片付けはきちんとしなさい、と叱った、と額に手を押し当てて呻く聡を、樹は白んだ目で睨みつけた。
「お前、怒るのが本当にそこでよかったと思っているのか……?」
「……いくら嫌だからと言って無断で燃やすものではない、とも言い聞かせておいたよ、樹」
 そこでもないだろうがこの阿呆が、と言いたくなる気持ちをぐっと我慢して、樹は立ち上がり、なんのためらいもなく聡の肩を蹴って床に転がした。たいした抵抗らしい抵抗もせず倒れ伏す聡は、さすがに樹の扱いをよく分かっている。抵抗されればひどくしたくなるだけだ。無抵抗だからと言って、加減をしてやる筈もないのだが。樹は溜息をつきながら聡を床の上に転がしてうつぶせにさせると、立ち上がって来ないように肩に爪先を置いた。細く長く息を吐きながら、ゆぅっくりと足先に体重をかけて行く。
「聡」
「……なに、かな」
「俺の姪の躾は、高坂の娘にふさわしく行えよ、と。俺は雫が生まれた時にそう言った筈だが?」
 母親に告げなかったのは、繭が正しく高坂の女だからである。直系の女。そう生まれ育った樹の妹は、わざわざ口に出さずとも、成すべきことを知っている。樹の脚と聡の肩に圧迫され、畳がミシリと嫌な音を立てた。意に介さず体重をかけ続けてくる聡に、樹は息を吸い込んだ。
「……すまない」
 樹兄様聞いてくださいませんこと。聡兄さんったらよほど娘が可愛いらしくて、甘やかしてばかりで困っておりますの、と十数年前にちっとも困ってなどいない顔をして溜息混じりに相談してきた繭の言葉を、もうすこし真面目に受け止めておくべきだった、と樹は真剣に後悔した。雫は先日十五になったばかり。淑女たる躾を行うには遅いかも知れないが、手遅れという程でもないだろう。己の妹が幼少期から、高坂の唯一の跡継ぎにして兄である存在に針がぶすぶすと刺さったままの針刺しを顔面狙いでためらいなく投げつけてきたことは棚上げして考える樹に、聡はようやく控えめに、肩を踏みにじる当主の足に手で触れた。
「樹……」
「なんだ。俺は今、雫にどの教師をあてがうか考えるので忙しい。手短に言え」
「いや……樹、雫はね。とても繭ちゃんに……母親に似て育っただけなのだと思うよ」
 あの子はたった一人をとうに心に定めている。それだけのことで、実に高坂の娘らしいと思うだろう、と。苦笑い交じりに告げた聡の背に、樹は溜息をつきながら足を踏み下ろした。誰がそういう風に育てろと言った。
「というと、お前はなにか……? 雫には想う相手がいると?」
「……樹、その、よし庭に埋めるか、という顔はやめた方が」
「庭になど埋めるものか。椿が腐る。分家の玄関の前を貸せ」
 訪れる者と去る者に必ず踏みにじられろ、という地味で陰湿で冷やかな怒りに、聡は諦めきった想いで視線を彷徨わせた。残念ながら、高坂の当主がやると言って口に出したことで、実現されなかったことの数は数えられる程すくない。不幸なことに、樹には彼の名であればどんなことであれ、喜んで実行するお庭番が付いている。このままでは、分家の前庭が掘り起こされる日も遠くない。かつて出て行った限り戻っていないその風景を脳裏に描きながら、聡はぐったりと畳に身を投げ出した。
「私のことは埋めようなど思わなかったろう……? 妹は良くて、姪は駄目というのはどういう訳なんだ」
「勘違いをするな、樹。繭だから放置していた訳ではない。相手がお前だからある程度までは見逃してやっていただけだ。ある、程度、までは」
 それを証拠に程度を超えたらお前であっても俺は遠ざけてみせたろう、とうっすら微笑む樹の足下からようやく解放され、聡は畳の上に座り直しながら、力なく頷いた。遠ざけたとするより、あれは事実上の追放、あるいは謹慎処分に近かったが、確かに樹はある程度までを許容していた幼馴染ですら、容赦なく打ち払った。思えば、十五になるまで雫に色めいた話のひとつも運ばれなかったというのは、そういうことなのだろう。十五でようやく、雫は樹に幼子ではなく、高坂の娘として認められたのだ。それ故の縁談。それ故の、見合い写真の数々である。
 無論、樹の預かり知らぬ所で勝手にされている訳などない。樹は全て知った上で、雫の好きにしても良い、と口出しをしないでいるのだ。ただ、そこまで嫌がっていることや、想う相手がいること、なにより見合い写真を焼き払うのは予想の範囲外であったらしいが。そもそも、聡が踏まれることの発端になったこのたびの呼び出しは、樹が雫に来ている縁談の進み具合をその父親に尋ねる為のものである。ひとつも進んでいないよ、と聡は正直に告げたのだった。なぜなら雫は先日、見合い写真に火をつけて全て燃やしてしまったらしい、と。樹は改めて頭痛を覚えたかのように頭を振り、深々と溜息をついた。
「雫を呼べ。直に聞く」
 不意に。一瞬だけ視線の重なった夜のことを思い出す。濡れ羽根のように黒く、艶めく瞳が。伏せられ、逸らされたのは、はじめてのことに違いなかった。



 一瞬、なにもかもを忘れて目を奪われるほど、立つ姿のうつくしい娘であった。樹さん、と不安げな声で囁かれてはじめて、呼び寄せた用事を思い出すほど、雫はまっすぐに立つ、その姿ひとつで人目を惹く少女であった。『外』から帰宅したばかりだったのだろう。樹には見慣れない、かつて海軍の軍服であったという学校の制服に身を包んだまま、雫は部屋のふすまを開き、中を覗き込む形で目を瞬かせている。中へ立ち入って良いものか、迷っているのだろう。樹の座す場所はそこが何処であれ、当主の為の部屋となる。無許可で足を踏み入れることは、許される行いではない。樹は苦笑して、入れ、と言った。緊張した面差しでこくりと頷いたきり、まだためらう様子で、雫はそこから動こうとしない。気を落ち着かせようと薄く開かれ、息を吸い込む唇は、風に散り落ちる桜の色をしていた。
 線の細い、猫の毛のような黒髪は背の半ばでまっすぐに断ち切られ、どこかふわふわと空気になびいている。夜の中、黒曜石の艶で樹を見返した瞳は、今は真昼の淡い光を抱いていた。あまり活発に外に出ない性質であるからか、日焼けのない肌は、健康的な白さでほんのりと色付き、透き通っている。ほっそりとした手足は幼く、頼りない印象だが、うつくしく整えられた印象にいささかなりとも影を落とすことはなかった。成長途中の未熟な、瑞々しい印象が彩を添えるばかりの少女だった。『外』で、それがいかなる評価を下されるものなのか、樹は知ることがない。知るのは当人と、同じく『外』に出ることを許された少女の兄ばかりだろう。
「樹さん……。お邪魔、します」
 二度、呼ばれるのを待つことなく。手指を揃えて一度お辞儀したのち、そろそろと足を踏み出し、雫は畳を軋ませた。部屋の奥で座る樹の前までまっすぐに歩み寄り、その前に音もなく正座する。そうしてから、はじめて、己が常の和装ではないことを思い出したのだろう。露出する足を恥ずかしげにてのひらで隠しながら、雫はもう一度、丁寧に樹に向かって頭を下げた。
「こんにちは、樹さん。お見合い写真を燃やしてしまってごめんなさい」
「……雫」
「ご用事はそれでしょう? そのうち、怒られるとは、思っていました……」
 ごめんなさい、ともう一度力なく呟き、それでも一礼から顔をあげた後の雫は、樹の目をまっすぐに覗き込んでいた。開き直ったり、挑みかかる様子は僅かもない。叱られることをやや怯えるような色が、少女の瞳には宿っている。それでも、視線は逸らされなかった。あるがまま、樹の成すことであるならばそれを全て受け入れるとするような、あまりに無防備で、無垢な無警戒だった。小刀を持つ手を首元まで引き寄せられ、目を閉じられれば恐らく、樹の感覚とよく似た風になるだろう。それは、苛立ちに一番よく似ている。雫、と硬い声で名を呼びやう当主に、少女はゆっくりゆっくりと目を閉じ、息をするように瞼を持ち上げた。
「はい」
 つめたく響く、風鈴のような声だった。
「はい、樹さん。……なんなりと」
「怒られると分かっていて、なぜ燃やした」
「腹立たしかったものですから」
 言葉の選び方が、呆れるほど母親に似ているな、と樹は思う。母娘の決定的に違う点は、表情だろう。繭は、それを悪い所などひとつもありはしません、という風にしれっと言い放つだろうが、雫は拗ねたように、罪悪感の滲む表情で呟き零した。それでもためらいなく、即答した点で、やはりつくづくこれは繭の娘である、と思い知る。つまりは妹の娘であるのだが、そう思うのではなく。樹は、ただ、繭の娘だと雫を想った。呆れた吐息で続きを促してやれば、雫は困ったそぶりできゅぅと眉を寄せ、ためらいがちにだって、と言った。
「兄さんには、そんなもの、来てはいないのに……どうして、私ばかり」
「雫。実みのる は、男だ。高坂直系の男に見合い写真を送りつけてくる馬鹿は存在しない。分家であればともかく」
「それって、兄さんは好きな相手と結婚をして良い、ということでしょう?」
 そういうことでは、決してないのだが。ずるい、と言わんばかり、少女の頬がふくれていた。瞳はひとときも、樹から逸らされはしなかった。
「樹さん」
 とうめいな声が樹を呼んだ。目を閉じてそれを聞く。屋根から窓を伝い落ちる雨粒のようだ。樹は、まっすぐに雫を見つめ返し、促してやった。
「なんだ」
「好きです」
 少女は、ただ、その視線を受け止めていた。
「樹さんが好きです。……お見合い、したく、ありません」
 膝の上に置かれ、握られた手が震えている。
「……あなたが好きです」
「雫」
「分かっています。私が樹さんの姪だなんてこと、そんなことは、私が、一番よく……知っています」
 でも、と震えながら開いたくちびるが、力を込めて結ばれる。泣きたくない、とばかり頭をふり、少女の瞼に力が込められた。樹さん、と雫が呼ぶ。何度も、何度も。絶えることのない雨音のように。いつからか特別な感情を宿していた声で、とうめいに、囁く。
「樹さんが好きです……だから、私を、どこへも、やらないで……」
 なにも望まない。触れる手も優しい声も、想われる気持ちさえ。なにも欲しいとは思わない。だから、せめて。遠ざけないで、誰かに差し出さないで、傍にいさせて。これ以上は遠くへやらないで。お願い、と怯えながら求めてくる瞳から、視線を反らすことなく。ただ、瞼を閉じて、樹は深く息を吐きだした。少女は恋をしていた。絶望的な恋を。はじめから、なにもかも諦め、成就させることなく花開かせた恋を。

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