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 聡はともかくとしてお前は知っていた筈だな、と向けられた言葉を、繭は丁寧に打ち払うかのごとき微笑みで肯定してみせた。そのまま視線が外され、伏せられる。畳を無感動に見つめる眼差しのまま、繭は吐息に乗せて言葉を落とした。
「知っていました、が……雫は、なんと?」
「だいたいお前が思う通りだ」
「分からないから聞いたのですわ、樹兄様。……いえ……ああ、けれど……そうですか」
 深く吐き出した吐息は懺悔めいていた。訝しむ表情で言葉を促す樹に、繭の視線があおられた火の粉のように持ちあがる。再び重ねられた視線は強かった。言葉だけが引きつり、迷うよう告げられる。
「雫が、樹兄様を慕っていることは、知っていました。けれど……まさか、告げる程、とは」
「お前の目から見て……」
 もういい、座れ、と座椅子を示しながら、樹は障子紙が濾してなお鋭い、初夏のひかりに瞼を閉じた。ふ、と力の抜けた息を吐き出して、呼びだされたきり立たされたままだった繭が、示された場所に座る気配がする。かすかな衣擦れの音。他にはどんな音も響かなかった。人の気配は遠くにあり、話し声も、廊下を踏む音も、部屋にはひとつも届かないままだ。樹兄様、と絶えた言葉の続きを求め、繭が凛とした響きの声を響かせる。傷ついても折れない女だった。母親となってなお、その性質は変わることのないままであり。繭はあくまで、高坂直系の女だった。当主の妹として育まれた気高さに、曇りを寄せつけることすら、ない。
「……告げるまではしないだろう、と。そう思っていたということか?」
「ええ」
 その気高さは生来のものだ。樹がよく知る、妹としての繭は、もうずっとそういう性質の持ち主だった。幼くも、長じてなお。だからこそ、樹は母親たる女よりも冷静にその判断を下すことができる。その気高さは雫にはない。雫もまた高坂直系の娘として生まれながら、繭のような強さを持ち得ることはなかった。繭を研ぎ澄まされた鋼のうつくしさとするなら、雫のそれはもっとしなやかだ。儚く、弱く、穢れのない。月光があまやかな形を成せば、雫の持つ性質の印象と重なるだろう。繭はなにものをも拒絶しながら、たったひとり、聡にだけは穢されることを許し、受け入れた。けれども、雫は。そういう相手が出来たとして。
 穢れすら、それに、触れられない。
「……樹兄様?」
「いや。……どうしたものか、と思っただけだ」
 震えながら。いっときも視線を反らさず、告げられた言葉を思い出す。とうめいな声。ひえて透き通る水のような。くもりなく一筋、差し出した手の上へ降りる月明かりのような。なにものにも穢されぬ、そのうつくしさを思う。十五になったばかりの。知らず、樹は口唇に笑みを浮かべていた。雫に見合いを打診して写真を送る、そのものに許可を下したのは樹であるが、話を持ちかけてきたのは分家筋の者である。眩んだのだろう。そのとうめいなばかりの、うつくしく、弱く儚く、たよりのない穢れなさに。こればらば御せるとでも踏んだのであれば、それはまったくの思い違いだった。
「そのうちに、諦めるでしょう……。雫も、もう、ものの分からないこどもではありません」
「……お前、もの分かりよく、聡を諦めようとしたことが一度でもあったか?」
「樹兄様。不穏なことを仰らないでください」
 己の過去を振り返ってよくよく考えてから言えと告げんばかりの呆れ顔に、繭は口元を引きつらせて首を振った。
「あの時とは……立場も状況も、違うではありませんか。聡さんは分家で、それに……ええ、それに! こじれたのも、遠ざけられたのも、お会いできなかったのも! 聡さんが女どもに触られたのも、なにもかも、すべて! 思えば全て、原因は樹兄様ではありませんか……! 樹兄様が本家の立ち入りを禁じたのがいけないのです。それさえなければ、あんな女どもに聡さんを奪われることなどなかったものを……腹立たしい……!」
「……奪われてたのか、お前」
「いいえ一度として! 一度として奪われたことなどありませんでしたわ聡兄さんの本意でなかったことなど、繭はちゃんと、ちゃんと分かっておりますものですから奪われてなど……! それに、それに最終的には繭のですもの。大事なのは結果です。結果ですから……嫌なことを思い出させないでくださいまし、樹兄様。もう、なんだというのです……!」
 憤る繭に、樹は微笑むばかりで言葉を返さなかった。部屋には眩いばかりのひかりが差し込んでいた。



 薄暗い。月明かりだけがようやっと、ひとすじ、地に触れるばかりの夜の静寂の中。少女はそこに立っていた。いつぞやの夜のように。そぅっと持ちあがった少女のてのひら、薄い貝殻めいた爪のひかる指先を選んで、月明かりが落ちている。ひかりがあるのはそこだけだった。あとは全て漆黒に塗りつぶされ、少女の足元も、その佇まいも闇に紛れてぼんやりとしている。表情が見えない。息を吐き、樹は柱に背を預けたままで呼びかけた。
「雫」
 ふつり、糸を切られたように。視線が暗闇の天から、樹へ揺らぎ落ちたのを感じる。閉ざされた闇の向こうで、少女の唇が掠れた声で囁く。樹さん。とうめいな。ひたひたと涙の滲む、とうめいなとうめいな無垢な声。指先だけに。ひかりが射している。
「眠れないのか」
「……そういう、わけでは」
 なまぬるい夏の風が彼方へ渡る。木の葉が揺れる音が響く。
「雫」
 夢の。
「……なにをしているのか、話せるか」
 それは夢のようだった。なまぬるい夏の夢。白昼夢。あるいは悪夢のようだった。現実感がひどく乏しい。雫はそこから動かない。玉砂利が擦れる、かすかな音すら響かない。
「……どこへも」
 涙、そのもののような。とうめいなしずくような、声が、ふるえながら囁く。
「どこへも、行きたく、ないの……。ここにいたい。ここに、いたいの……」
 暗闇の向こうで。表情は隠され、泣いているのかすら分からない。
「樹さんのお傍にいたいの……!」
 どこにも行かないで。とうめいな声が懇願する。樹は己の手を見下ろし、指先を握り込んだ。どちらも。歩み寄ることは、なかった。



 雫。呼びとめれば靴をはいていた背が、勢いよく振り返って樹を見上げた。朝の清涼な明るさの中であるから、その姿も表情もよく見ることが出来た。そのことに安堵とも、苛立ちとも取れぬ感情を覚えながら、樹は無言で少女に歩み寄る。雫は皮靴に足先をしのばせかけた中途半端な姿のまま、息をつめて樹を見上げていた。その腕を掴んで立ち上がらせる。落ちた皮靴が音を立てて転がった。
「な……」
 に、と。震えながら動く唇の赤さを見つめながら、樹は少女のほっそりとした腕から指先を離す。『外』の学校へ行く為に制服を着た姿は、そうするようになって毎朝目にするものであるのに、違和感ばかりがこびりついて慣れないものだった。と、と、と軽い音を響かせて、雫が怯えたように後ずさる。しなやかな細い背を壁に押しつけながら、雫はそれでもまっすぐ、樹のことを見上げた。
「樹さん……? あの、私、学校に……」
 行かないといけなくて、それで。ですから、あの。たどたどしく紡がれるとうめいな声に、暗闇の向こうから響く涙の色はない。それにふ、と笑みを浮かべて、樹は雫に手を伸ばした。まっすぐに重なった視線を逸らさないままで、指先を頬に触れさせる。悲鳴を殺すように。きゅ、と力のこめられた唇から、ちいさく、吐息が零れ落ちた。
「樹さん。樹さん……? どうか……? 私、なにか……」
「……見合いするのはそんなに嫌か?」
 指先で肌をなぞりあげる。目元に触れさせ、やや腫れぼったい瞼を撫でれば、唇にひときわ力が込められた。こくん。幼い仕草で頷かれる。いや、です。返す声はひび割れていた。
「樹さんが好きなの。……好きなの。好きです。あなた以外に……出会いたくない」
「俺が、本家の娘としての責任を果たせ、と命じても?」
 突き飛ばすように。前に出た手が震えながら、樹の着物を握り締める。眼差しがはじめて伏せられた。
「……私に高坂の跡継ぎを産めと、そう仰っているのですか」
「分家筋の者は、そうして欲しいらしいな。実みのるではなく」
「本来なら。……本当なら、私ではなく、実兄さんでも、なくて……ほんとなら、ほんと、は」
 あなたでしょう。囁き。視線を反らしたままで、雫は告げる。
「あなたさまの、御子が、次の高坂の……そうではないのですか、御当主さま」
「俺に直にそれを言う勇気があるのはお前くらいだな」
 いつからかそれは諦められるように。あるいは、恐れられるように。問われず、言われなくなっていたことだった。苦笑する樹に、雫はぱっと顔をあげて尋ねかける。
「……樹さんは、おんなのこに……興味が、ないの?」
「いいや?」
「もう、面白がらないでください。私は真剣なんだから」
 握りこぶしでやわく、肩のあたりを叩く雫の手を、からめ捕るように触れる。え、あ、と顔を赤くしてうろたえながら、雫がじゃあ、と不安げに声を揺らめかせた。
「もしかして……ずっと、好きなひとが、いるの……?」
「いいや」
「……ですよね」
 好きなひと、いないっていうことですよね、と落ち込む雫に、樹は喉を震わせて笑った。もう、と手を捕らえられたまま、雫が身をよじって憤る。
「樹さん、いじわるしないで……! 私、学校に……遅刻してしまいます」
「そうだな」
 なんの未練なく離れて行く手を、雫の眼差しが辛そうに追う。言葉はなく。雫は樹から体を離し、冷たい壁に背を預けた。
「樹さんは……私が嫌だと言ったら、とめてくれるんですか」
「なにをだ」
「お見合い。私の。……今度の写真もお手紙も全部燃やしたので、そもそも話が進んでいないとは思いますが。許可を……したのは、樹さんでしょう? 私に、そういうことをしても、いいって。そうしたのは、樹さんでしょう? じゃなかったら……」
 その言葉を。お見合い、というものがそこにある事実を、口にするのさえ嫌そうにしながら雫は言った。そうでなければ写真なんて、手紙なんて、受け取りもしなかったのだと。あなたがそうせよと暗に命じたから、触れただけ。そうでなければ。私は、決して。きゅ、とくちびるに力をこめ、雫は震える瞼をつよく閉ざした。
「……学校に行ってきます。もし、この件でまだお話があるようでしたら、そのあとに。今日は、夜は……書斎にいらっしゃいますか?」
「恐らくは。……お前が話をしたいというのなら、時間をあけておこう」
「わたしが……?」
 瞼が開く。ふ、と浮かべられていたのは、きよらかな笑みだった。自嘲するような、責め立てるような、愚かさに怒るような声の震えとはまるで違う。とうめいで、きよらかで、瑞々しい。凍りついた花の雫ような、うつくしく、きよらかな、笑みだった。
「私は、話なんか……このことで、樹さんに、したいはなしなんて、ありません。言いたいことは、言いました。嫌だって。樹さんが好きだって。お傍にいたいって、どこへもやらないでって! 言いました! 私はっ……私に、樹さんが、話があるんでしょうっ? 私に! 樹さんが! はなし、したい、だけ……やだ、聞きたくない。……聞かない!」
「雫」
「樹さんのばか! 私は学校へ行きます。……ついてこないで!」
 ぱっと壁から背を離して樹の傍をすり抜け、雫は玄関の外へ駆けだして行った。一度だけ悔しげに振りむき、行ってきます、と樹に対して頭を下げた仕草だけがうつくしかった。



 逢瀬めいて訪れる夜は、悪夢のようだ。その姿をぼんやりとであっても見ることが叶ったのは、最初の一度だけ。一度きり。あとは冷たい一条のひかりが訪れる指先だけが、暗闇の中にくっきりと表れている。つめたい水に晒しすぎたような、青白く強張った指先。なにかを求めるように、諦めたように、中途半端に空に投げ出され力を失っている。視線は交わらない。名を呼びかけた時だけふつりと戻ってくる視線は、やがてそれを忘れてしまったかのように天へと投げ出された。繰り返し、繰り返し。短く受け渡される言葉だけが、暗闇を縫い合わせ、存在をか細く繋いでいた。
 真夏のなまぬるい静寂が漂っている。りん、り、り、と風鈴がどこかで鳴っていた。
「眠らないの……?」
「お前こそ。……夜中に抜けだすな、と何度言わせるつもりだ」
「ごめんなさい」
 反省だけはしている声が、夜の先から響いてくる。そこに立っていることだけがかろうじて分かる、夜に包まれ、守られて。少女の顔は樹には見えない。そこに立っているのが本当に。雫なのかすら、分からなくなる。
「樹さん」
 とうめいな声が。微笑んでいる。
「……樹さんは眠らないの?」
「雫」
「それとも」
 身動きひとつしないまま。衣擦れの音も。玉砂利を踏む音もしない。耳の痛くなるような静寂が降りる中を。風鈴の響きが撫でて行く。り、り。りん、りん。ちりん。ふわり、声音が微笑んで囁く。
「ねむれないの……?」
 ざ、と梢を揺らす強い風。溜息のような笑い声。一瞬の眩暈。ふ、と世界がほの灯りを取り戻す。樹が視線を向けた中庭に、もう誰の姿もなく。なにもかもを切り離すような暗闇も、なく。雫の姿は、どこにも見つけることができなかった。りり、り、と風鈴が鳴っている。樹が雫の見合いを打診するのをやめるように、と高坂の家に命令を下すまで。それは毎夜、ただ、繰り返された。

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