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 高坂実みのるは平凡な性質である。平凡、という言葉を高坂の跡取りに対して当てはめることに眉を寄せる者なら、少年のことをこう評す。平均的。あるいは、非常に安定した、高坂本家の者らしい少年であると。『外』の、学び舎を同じくする級友たちに問うたとしても、だいたい似たような評価が返ってくるだろう。柔らかく整った風貌や、良くも悪くもやや浮世離れした雰囲気を持つ少年ではあるが、こと性格において、実は特筆すべき異質さを持たず、それであるが故に『普通』としか告げられないのが常であった。ただし、同い年の級友らは、それを知る者であるなら必ずこう付け加える。ただし。ものすごく妹を大事にしてそれはもう大切にしてる所を除けば、普通。
 けれどもそれを踏まえた上で、高坂家で実は『平均的』だとされていた。兄がすこしばかり妹に過保護にしたり、蝶よ花よと愛でるのは、高坂本家では極めて普通のことなのである。各世代、各々、その表現の仕方に性格的な差はあれど。それは特別問題視されることではなく、取り立て、特徴として口にのぼることもない。その筈であるので。仲がいい、と指先を紙で切ってしまった痛みを堪えるかのような、かすかな不愉快の混じる声で告げられて。実は思わず、口に手をあてて吹き出した。
「失礼、しました……御当主さま」
 ですが険悪なよりはずぅっと良いでしょう、と笑む実に、樹はそうだな、と告げたきり視線を向けてくることがない。開け放たれた窓からは秋の気配が忍びこんでいた。なにも乗せられていない小卓の上に、一枚、二枚、鮮やかに色づいた紅葉が、風に運ばれ届けられている。樹はそれにも目をくれない。実は紅の枯れ葉をじっと見つめながら、笑いを潜めて問いかけた。
「雫の状態は落ち着きました、御当主さま。そのことに、なにか思うことでもおありでしょうか」
 ない、ということは、無い筈だ。分かっていながらの問いに、実は意地が悪くなったな、と己の評価を下す。ある程度は仕方がないことだ、とも。樹は実の伯父でありながら、逆らうということすら思い至れない、高坂の絶対者である。権力者、と感じるよりそれは、遠い暗闇の向こうに置かれた灯篭へ、手を伸ばすような心地に似ている。失えば暗闇に惑うだろう。永遠の夜に閉ざされるだろう。彼は高坂に落とされた夜の陽であり、灯篭に封じられた揺らめく火であり。いずれ実がそうあらねばならぬ、生き見本で、そのものだ。
 樹は視線を窓の外に投げたまま、確かにそのようだな、と言った。
「それで?」
 微笑んで。実は主命をくだされた者のように、樹に向かって跪き、頭を下げた。
「どうか、雫をこのまま高坂に留め置きくださいますよう……お願い申しあげます」
「紅葉」
「ここに」
 部屋の外。開け放たれた窓の近くに影を落とすように、樹の懐刀は現れた。それでいて、最初から近くにいたことを実も知っている。高坂紅葉。当主の懐刀であり、二文字の名を持つ『禍まが』であり、一筋の呪いを肩代わりすることを運命付けられた者であり。そして、樹の身を守る『お庭番』である。当主は番のように定められた、『守人もりびと』と『お庭番』によって守られる。女はつがい、その片割れだった。実はこの女性のことを苦手にこそしていないものの、好きだと感じたことが一度もなかった。好意や、悪意というものを抱くには、その存在はあまりに親しみがなく。女はなにかかけ離れた印象を持って、樹の傍に佇んでいた。
 今も、室内に実がいるのを知っているであろうに、女の視線が向けられることはない。一瞥すら投げかけることはなく。僅かばかり見える紅葉は樹にすら背を向けて、女の主が視線を投げかける何処へ、共に意識を流していた。同じところを見ているのだ、と実は思う。この二人は恐らく、他の何者とも共有することのできない、おなじものをその瞳に映しているのだ。
「そういうことだそうだが。なにかあるか、紅葉」
「……我が君がもう決められていることに関して、私の意見が必要とも思えませんわ」
「紅葉」
 からかうように、喉の奥で低く笑って。樹の手が小卓に落ちた紅の葉を摘みあげ、口元へ引き寄せた。
「怒るな。あれはお前の気に入りだろう」
「だからこそ、ですわ。樹さま。いついつまでも、兄君の傍に置く訳にも行きますまい。なにより」
 言葉を切って。女が鋭利な切り口のような印象をふりまき、くるり、室内を振り返った。一瞬、注視されたような気がして実は身を強張らせる。朱を刷いたような黒檀の瞳。女の意識はひとつのところ、樹にだけ向けられていた。
「一度は樹さまとて、それで良いと仰られたではありませんか。お珍しいこと! 意思が覆るなど」
「本人が納得したら、お前の好きにしろ、と言ったのだ。良いとは言っていないな」
「樹さま。今更そのようなことを仰るのであれば、雫様のお見合いに許可を出した理由をお聞きしても……」
 言いながら。途中で分かってしまったのだろう。ふ、と世を小馬鹿にするような笑みを浮かべ、女性は樹さま、としみじみとした声で言った。いけないと思いますわ我が君。樹は紅葉の方を見るともなく眺めたまま、実の存在を忘れているかのような声で囁く。
「あれの見かけで御しやすいと思うような愚か者であろうとも、改めて会えばさすがに気がつきはするだろう。薄くとも高坂の血を持つ者ならば。己にかなう女ではないと」
「樹さま。では素直にそう言って差し上げれば良かったのです……」
 そうすれば雫さまがあれほどに乱れてしまうことも、拒否し続けることもなかったでしょう、と紅葉は溜息をついて。ふ、と憐れむような気配を一筋、実へと投げつけた。
「勝利の約束された道場破りのようなものであるから、行って薙ぎ倒してらっしゃいと……」
「繭ならなにも言わずとも、出向いて平伏させて帰ってきただろうに。まあ……そうだな。雫に求めるには酷だったか」
 樹が手に持っていた枯れ葉を小卓へ投げ落とす。音もなく舞い降りた葉であるのに、実はりん、と澄んだ音を聞いた気がした。もう秋口であるのに。どこか軒下に吊るされたままの風鈴が、揺らいで鳴った。そういう音だった。
「望むとおりに」
 それが。誰の望みであるのか、告げず。樹は実に微笑みかけた。
「雫は高坂に留めよう。久野木にはやらず、見合いも……今日を限りに終わらせろ」
「樹さまの仰る通りに。……私なりの厳選はした相手でしたのに」
「だから、許可は出してやったろう? 見えた結果をどう思っていようとも」
 雫に本家の娘として責任を果たせとも。言ったことも知っているだろう、と呟く樹に、女が罵倒めいたものを飲み込む顔つきで天を仰ぐのが、実からも見えた。見えたのはそこまでだった。実、と名を呼ばれ、当主と向き合い直すその瞬きほどの間に、女は窓辺から姿を消していた。ざらつく内心を宥めながら、実は樹に頭を下げる。では、そのように雫にも伝えさせて頂きます。このまま、どこへ行くことも、ないと。樹はお前のしたいようにしろ、と言った。突き放すのではなく。告げる役目を任せきりにしてしまうでもないような、曖昧に紡がれた、言葉だった。



 冷えた風が頬を撫でる。乾いた空気に目をやられて、実は何度も瞬きをした。凪いだ、やや落ち込んだ気持ちで瞼を持ち上げる。吐息して一度だけ、実は出てきた部屋を振り返った。眼差しがきつくなってしまうのは仕方がないことだ、と思う。その思惑がどうあれ、彼の妹は見合いの話にも、それを受けた周囲の反応にも、大変に傷ついたのだ。その痛みを樹が知らぬ筈がない。痛みの現れを向けられたのが、他ならぬ樹であり。それによりさらに留めておけぬと、話を進めたのは樹だからだ。正確にはその『お庭番』の行いかも知れないが。実には同じことだった。は、と苦笑して視線を外し、歩き出す。足元で軋む木の音が、苛立ちをひっかいた。
 とと、と、と、と慌てた足音がその背を追う。
「兄さん……!」
「え……え、とっ、わ……!」
 振り向くのが精一杯だった。中途半端に広げた腕の中へ飛び込んでくる妹の柔らかな体を、実は胸へ引き寄せるように強く抱きしめる。足元を滑らせて場に崩れるよう座りこめば、ぬくもりと重みも全てそれに従った。どこも怪我をさせなかったことに安堵しながら、実は驚いて硬直する雫の背を、手でそっと撫で下ろしてやる。
「驚いた……。怪我はないね? どうしたの……」
 というよりも、どこへ隠れていたというのか。実が出てきたのは当主の使う書斎である。時期が来て実が当主を継いだとしても使わせてもらえるかはさておいて、その周辺は高坂本家の者でも呼ばれない限りは立ち入ってはならぬ、とされている一角だ。実の両親、繭と聡もよほどのことがない限りは自主的に訪れないし、そうしようとも思わない筈なのだが。雫はその罪悪感のない様子で、腕の中でしょんぼりとしている。ぽん、ぽん、と背を撫でながら、実は苦笑して言葉を落とした。
「いけないよ、雫。御当主さまの機嫌を損ねるような真似を、簡単にするものじゃない」
「……はい、兄さん」
「うん。さ、立てる? ……まったく、本当に、どこに隠れていたの」
 唇をやわく尖らせて振り返り、雫はあのあたり、と閉められた扉の前を指差した。それは隠れていた、というより。扉にくっついて聞き耳を立てていた、というのではないだろうか。実は微笑んで、雫の額をぺちん、とてのひらで叩いてやった。例え実と樹が気がつかないままであろうとも、『お庭番』たる女が知らぬ筈がない。かわいいものと見逃してくれたのだろう。紅葉は殊のほか、雫を甘やかす。
「いけないよ、雫。どうしてそんな真似をしたの」
「だって……だって、いつも兄さまばかり……樹さんと話をして。ずるい……」
 幼く拗ねてみせるくちびるの花色に、実は天を仰いで溜息をつきたくなった。
「ずるい、ずるくない、ではないだろう? 今日だって俺が『次』だから呼ばれたんであって、特別に可愛がられているとか……たとえば、樹さんが俺と話をしたくなって手元に置いたとか、そういうのではないんだよ。分かってるだろう?」
 言っていて。樹に特別に可愛がられる己、というものがあまりに想像できなかったが故に言葉を途切れかけさせた実に、雫はそれでも不服そうな目を向けてこく、と頷いてみせる。
「それで、今日はなんの話をされたの?」
 くい、と指先で袖をひっかけて引く仕草に、実は分かっていないんだろうな、と思う。兄が告げた言葉の意味や、こうまで雫を乱す樹の意思や。ようやく落ち着くことのできた、雫の存在、というものに対して。高坂本家の娘であろうとも、排斥すべきだ、という意思が出かけていたことなど。雫はなにも。知らないし分からないでいる。これからもそうだろう。これからも樹はそう雫を育てたがるし、実もそれを助けて行く。たとえ当主が交代した後でも。雫には丁寧な目隠しがされる。微笑んで、実は妹の頬を手で撫でてやった。なに、とはにかんで笑う実のいもうと。たったひとりの。かけがえなく愛おしい存在を。
 誰にも見せないで。どこへも行かせないで。このまま閉じ込めてしまいたい。
「にいさま?」
 頬を、顎の先を、ゆるりゆるりと指先で何度も撫ぜられて。甘く解けるいとけない響きで、少女がくすくすと肩を震わせる。足元を過ぎていく風が吹いた。夏の終わり。秋の訪れを知らせるような、しっとりと咲く花の香りを遠くに滲ませる。きよらかな、それは、秋の風だった。冷たさに空気が閉ざされれば、なお雫の状態は落ち着いて行くだろう。実の手助けなくとも。夏の夜に。その『歪』は溶けやすい。あまりに歪み過ぎれば季節も関係なくなるというが、実の妹はそうはならなかった。それには間に合ったのだ。
「……もう大丈夫だから。どこにもいかないで、ここへおいでよ、雫」
「でも」
 つん、とくちびるが、手の中で潰された花のようにゆがむ。
「樹さんは私をとかく、おそとへ出そうとなさるの」
 本心で遠ざけようとしているのなら、樹はそもそも相手の意見を聞く暇などなくやってのける、という純粋な事実に、雫は思い至っていないらしい。実も薄々しか察しがついていなかったことだが、先程の紅葉との会話を思うに、樹は絶対積極的に雫を何処へやろうとしていた訳ではなかったのだ。望まれれば後押しはしない程度、許可は出していたようだが。目の前で己の存在を無視しながら交わされた言葉を、ひとつひとつ思い返し、実はふと笑みを深めて大丈夫だよ、と妹に囁く。樹はそもそも、ひとを怒らせてそれを見て愛でる、という若干の悪癖を持っている。紅葉しかり、繭しかり、雫しかり。
 樹に誤算があったとするなら、前者二人に対して雫の性格が大人しいものであり。その性質は夏の夜、悪夢のように歪んで現れるものであったことだろう。
「もう大丈夫だよ、雫」
「……ほんとう?」
「本当。不安なら、そうだな。今日の夜にでも、樹さんに聞きにお行き、雫」
 もう大丈夫だよ。繰り返し囁いても、雫の表情はいまひとつ晴れぬまま。実の服を摘んだ指先は、離れることを知らないままだった。突き放されて迷子になった幼子が、ようやっと見知った相手に巡り会えたかのように。それでも絶対的な庇護者の元に戻れぬ怖さをこびりつかせたままの。盲目めいた幼子の瞳。そっと雫と額を重ねて、それでも実はやわやわとした声で繰り返した。大丈夫だよ、雫。大丈夫、だいじょうぶ。なにがあっても、絶対。今度こそ。
「俺が」
「兄さん……?」
「守ってあげる。今度こそ……今度こそ、俺が」
 けれども雫が望み、手を伸ばすのは樹だと分かっているので。昔からずっとそうなので。実は困惑する雫の額に口唇を押し当て、それで己の荒れる心と意思へ手打ちにしてやった。



 鈴の音が響いている。夜の静寂に忍びこむように。月明かりのさす灯りの中へ染み込むように。りん、りん、りん、ちりん。澄んだとうめいな水のような音が響いている。りん、りん、ちりん。夏の残り香のような強い風が吹いて。りりん、と音がひときわ大きくなった。まぼろしの音を振り払うように、樹は耳元で手を振り、誰もいない筈の中庭へ視線を向ける。乾いた玉砂利の敷きつめられた庭に、風が吹き落として行った枯れ葉がいくつか落ちていた。木から零れた血のようだった。かがんでそれを拾い上げようとすると、声がかかった。立ち込める夜の向こうからではなく。廊下の端。すぐ傍から。
「樹さん……?」
「……夜にそう遅くまで起きているものではない、と言わなかったか」
「樹さん、どうしたの……? ねむれないの……?」
 とと、と、と軽い足音を響かせて近寄ってきた雫は、樹の目の前で立ち止まると早口でごめんなさい、と囁いた。樹の声が聞こえていなかった訳ではないらしい。どことなく居心地が悪そうに身じろぐ雫からは、あたたかな湯の匂いが漂った。濡れ髪を指先で摘むと、雫はうるんだ瞳でまっすぐに樹を見上げる。
「ちゃんと眠っていました……。起きてしまって、そうしたら兄さんが、お湯がまだ温かいだろうから使うと良いと仰るから」
「実が?」
「勉強を教えて頂いてたの。ね、眠くなってしまって……」
 いつの間にか伏せて眠ってしまっていたのだと言う。そうかと息を吐き、樹は廊下の先へ視線をやった。
「部屋まで送ろう。もう眠ってしまえ。勤勉なのは良いことだが、また明日でもいいだろう」
「はい。……あ、あの、樹さん」
「ん?」
 くっ、と服の端を引っ張られる。
「なんだ」
「……おはなし、したいです」
 兄さんばかりずるい、と言わんばかり拗ねた瞳が、一心に樹を見つめていた。駄目だとばかり眉を寄せても、雫は引き下がろうとしない。唇にきゅぅと力をこめて、その場から動こうとしなかった。樹が息を吸い込む。その時だった。り、と鈴の音が鳴る。り、りん、と鈴の音。風鈴の音。歪に軋む。夜の音。
「……分かった」
 ゆがみは、いつも澄んだ音を伴って現れる。眠れぬ夜に降りる静寂のように。
「では……おいで、雫」
 片手を差し出すと、雫はおずおずと、てのひらに指先を乗せた。触れるひとの熱に。ふぅ、と吐く息が穏やかな安堵に満ちている。蜜のような眠気が、少女の中に満ちているのを感じた。ふ、と笑って樹は歩き出す。と、とん。軽い足音が。ふわふわ後をついてきた。

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