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 序 はじまり

 短い夏が過ぎ、本格的な冬に突入する前の秋。この国では瞬く間に過ぎてしまう心地よい季節を堪能すべく、一人の少女が王宮の中庭に寝転んでいた。乾いた土の上に生える短い草の上だからか、体の下に布はひかれていない。服が汚れてしまうだろうに、少女に気にして横になった様子は見られなかった。すぅ、と安らかな寝息に合わせて穏やかに胸が上下し、すこし冷たくなった風が吹き抜けていく。
 梢が揺れる音にも、風に乗って聞こえてくる人の笑い声にも少女のまぶたは持ち上がらない。午後のなめらかな陽光に包まれて、秋の心地よい眠りに意識を沈ませている。目を見張るほど美しい空の青も、高くを流れていく白のまばゆさも、少女の眠りを穏やかに見守るだけだった。ゆるやかに風が吹く。そのたびに中庭に咲き乱れる花は揺れ、その色とりどりの美しさだけが、来るべき冬の厳しさなど知らぬ顔だ。
 飴を煮溶かしたような甘い陽光に包まれて、少女の髪がゆるりと煌めく。それは太陽の下にあるのが不思議なくらいに、月の色をしていた。降り積もった新雪の上に、満月が視線を投げかければ少女の髪の色になるだろう。静謐さえ感じさせる青銀だった。ゆるく吹く風にさえ散るさまは、極細の絹糸のなめらかさを思わせる。少女の肌は荒れを知らぬような白さで日に焼けたあとも、傷一つさえ見える場所には存在しない。
 その左手にある、なにかに貫かれたような痕を除いて。投げ出された手足はほっそりとしていてすこし頼りないが、痩せすぎという程ではなかった。無駄な脂肪のない、しなやかな筋肉の細さだ。そのせいか年頃の少女にしてはすこし胸が寂しいが、少女の外見の美を損なうものではない。十代も後半に見える少女の腰には、それだけで財産になるような剣が下げられていた。白い鞘に入った、細身の剣だ。
 飾りではなく実用として作られたその剣の柄には、持つのに邪魔にならないよう計算された風に琥珀色の飾り紐が結ばれていた。少女には青か白が似合いそうだから、その紐だけがやけに目立って存在している。けれど少女にとって、それは大切なものなのだろう。ころ、と寝転んだ折に手に当たった飾り紐を、夢の中でもすっかり正体が分かっている嬉しげな表情で、少女は軽く握りこむ。くす、と笑みがもれた。
 少女の口からではなく、中庭を横切って近づいてくる女性の口から。飾り紐と同じ琥珀色の髪をした女性は、健やかに眠る少女に目を留め、新緑そのもののような翠の目を愛しげに細める。そのまなざし一つだけでも、どれ程に少女を慈しんでいるのか、誰でも分かることだろう。目は口ほどに物を語るのだから。女性はくすくすと笑いに肩を揺らしながら、まだ目覚めない少女の傍まで歩み寄り、しゃがみこんだ。
 そこでようやく少女が直に寝転んでいることに気がつき、女性は思わず空を仰ぐ。
「これは……まず、着替えだ、な」
 見れば髪も頬も土ですこし汚れてしまっているので、着替えというよりお風呂に入れなければならないだろう。ああもうこの方は本当に、と甘く苦笑して、女性は少女の頬に指先を伸ばした。触れられても、少女はうっとりと笑みを深くするだけでまぶたを持ち上げない。己に触れる者の正体が、恐らくは分かっているのだろう。頬の汚れを拭った指が額に散った髪を整え、そっと頭をなでても、少女は目覚めなかった。
 起さなければ、と思いつつ、女性も声をかけたりはしない。しかし風に乗って聞こえてきた重たい鐘の音が、優しい時間の終わりを告げた。短い昼休みは終わりだ。本当は起したくないのだが、起さない方が後で怒られるのを熟知している女性は、永遠に昼休みでいればよかったものを、とどう考えても無理な要求を怨嗟のごとく呟き、改めて少女に手を伸ばした。ぽん、ぽん、とごく穏やかに、少女の肩が叩かれる。
「アイル様、アイルさまー。お昼寝は終わりですよ、アーイールーさーまー」
 お前には本当に起す気があるのか、と誰かに絶叫されそうな起し方だった。かけられる声は優しく甘く、叩く振動も絶対に痛みを与えない風だから、衝撃もほとんどないだろう。案の定、アイルと呼ばれた月の少女に起きる気配は見られない。すこしだけ眉が寄った程度で、寝息に変化は見られなかった。もうアイルさまったらー、と甘やかしたくて仕方がない、という風な女性の声が緩く、緩く空気を揺らす。
「起きないとキスしちゃいますよー? いいんですかー?」
 少女の手が、ぴく、と動いた。そのささいな変化を目に留めながらも、女性はにこにこ笑ったまま主君の寝顔を見つめている。アイルの眉がますます寄り、しかし頑なに寝息だけが変わらない。女性は思い切り笑いをこらえながら、アイルの頬に唇をそっと押し当てた。直後、少女のまぶたがぱちりと開く。現れたのは、深く静かにきらめく宝玉の紫。その瞳をまっすぐ見ながら、女性はにっこりと微笑んだ。
「おはようございます、私の姫君。……起きてましたね?」
「お、起きてないもん。起きてない起きてない起きてなかったヨ! と、とと、トリスはなんでそんなこと言うの?」
「……嘘つくの、もうすこし上手になりましょうね。可愛くて良いですけどね」
 外交の時は見事に相手を騙すのに、それ以外だとどうしてこう、とため息をつきながら、トリスと呼ばれた女性はいかにも嬉しそうに笑っていた。眠ったふりをされていた理由など、すぐに分かってしまったからだ。起きないとキスしちゃいますよ、というのは眠るアイルに対する常套句なのである。それを知っていたからこそ、トリスが近づいてきた時点で起きていたに関わらず、まぶたを下ろしていたのだろう。
 軽く赤く染まった頬に手を置いて、えへへ、と満足そうに笑っている姿からもそれが分かる。変なトコだけ素直じゃないんだから、と笑いながら、トリスはアイルに手を差し出した。アイルはごく慣れた仕草でトリスの手を取り、ゆっくりと立ち上がって服の汚れを払う。その後で髪の毛に手をやって嫌そうな顔つきになったので、地肌まで砂まみれになってしまっているらしい。トリスは、思わずため息をついていまった。
 いくら土が乾いていようと草の上だろうと、直に寝転べばどうなるかなど分かるだろうに。ぷぅ、と拗ねた仕草で頬を膨らませるアイルに苦笑を向けて、お風呂はいりましょうね、とトリスは言う。アイルはこくりと頷いて、中庭から建物の方へ足を踏み出した。しかし軽やかな足取りは、三歩を刻んだ所で止まってしまう。アイルは手を腰の後ろで組みながら、踊るような仕草でくるりと振り返り、笑いながらトリスを見た。
「ねえ。迎えに来てくれたの?」
「そうですよ。目を離すとすーぐどっか行っちゃうんですから、私のアイル様は。行く先を告げてください、と何度言えば分かるのやら……まあ、この時期のアイル様は中庭でお眠りになることが多いですから、探しはしませんでしたけれどね。それでも、すこし心配しましたよ」
「えへへ。ごめんね?」
 笑いながら、はい、と差し出された手を繋いで、トリスは笑いながら口元に引き寄せた。忠誠を誓いなおすように甲に唇を落とせば、アイルの顔は恥ずかしさにだろう、赤く染まって目が泳いでいる。もう片方の手を頬に伸ばして視線を合わさせて、トリスは反省していますね、と問いかけるように極上の微笑みを浮かべた。アイルは微妙にひきつった顔でもちろんです、とばかりにこくこく、こくこくと必死に頷いた。
 ここで反省していないことがバレようものなら、反省を促す為にさらに恥ずかしいことをされたり言われたりするのは必須だったからだ。トリスは数秒間アイルの目を見つめた後、ため息と共にごまかされてあげましょう、と告げる。反省していないことを理解していても、これ以上は主君に強く出られないのだった。愛ゆえに。全く、と苦笑しながら、トリスはアイルと繋いだ手に力を込める。離しはしない、と言うように。
 アイルはそれに、暗い森に差し込む月明かりのような笑みを浮かべた。息を飲んで見とれるほど、優しくて美しい表情だった。なぜだか胸が詰まって言葉が出なくなるトリスに、アイルはその微笑を浮かべたままで視線を送り、ちいさく首を傾げてみせる。
「ね、トリス」
「はい」
「……あの」
 続いた声は、その瞬間に強く強く吹いた風によってかき消されてしまったけれど。唇の動きや、不安と期待に満ちた表情で、アイルの尋ねたかったことなど分かりきっていたから。トリスは笑いながらアイルに腕を伸ばし、その体を優しく抱きしめた。
「たとえ、この世界全てを敵に回そうとも、なにもかも捨て去るような決断を迫られたとしても」
 それでも、と吐息に乗せるように、トリスはゆっくり言葉を告げた。
「あなたに変わらぬ忠誠と親愛を。グラスト・リアスの名にかけて……大好きですよ、アイルさま」
「……うん」
 答える声がすこしだけ震え、涙に濡れていたことに気がついていても、深く追求はせずに。トリスは愛おしく、アイルの体を抱きしめた。もうこの世のなにものにも、この存在を傷つかせなどしないと。出会ってすこしして誓った時の想いそのままに、言葉に出さず、決意を重ねた。



 セルキスト王国歴、五百二十六年。秋。これより数ヵ月後、グラスト・リアスの名は歴史から完全に抹消される。



 『紫弦鏡森』
 刻まれていく歴史と、消されてしまった真実の物語。

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