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 一、世界の色彩変えるひと

  長い冬が終わろうとしていた。冬の間は雪に閉ざされるこの国に、春は遅めに訪れる。四月も半ばを過ぎ去って、ようやく雪解けの光が天から下りてくるのだ。柔らかくも温かく、そして強い日差しに目を細め、男はゆっくりと息を吐き出した。窓の外に目が行く、ということは集中力が切れた事実に他ならない。このまま続けてもどうせ今日中に仕事が消えるわけではないのだから、一度休むのが効率の為にも良いだろう。
 手に持っていたペンを書類の上に転がして、男は凝り固まった体をほぐすべく、ぐぅっと腕を上に持ち上げて伸びをした。大きく息を吸い込み、吐き出す。それだけで随分疲れが取れた気がして微笑めば、それまで聞こえなかった室内の、のどかな寝息が耳に届いた。ぴすー、ぷすー、と聞く者に脱力と微笑ましさを等分して与える寝息に、男はなんとも言えない顔で視線を向ける。室内の、日当たりの良いソファの上だ。
 抱きしめるのにちょうどいい、白いクッションを腕の中に閉じ込めながら、五歳くらいの幼い少女が子猫のように丸くなって眠っている。ぷすー、と安堵しきった寝息に合わせて、青銀の髪が胸の上でゆらゆらと上下していた。遠目にもよく手入れされているのが分かる、滑らかな光沢を持つ髪だった。少女が身動きをすると、その髪がちょうど顔にかかってしまう。なんとなく見つめていると、少女はとても嫌そうな顔になった。
 顔に髪の毛がかかっているので、くすぐったいのだろう。払ってやろうか、と男が椅子から立ち上がる。けれど歩み寄り、手を差し伸べるより早く、眠る少女の手が動いた。ただし、己の顔にではなく、いずことも知れぬ空へ向かって。『なんだかくすぐったいもの』を退かそうとしているのか、そのまま手がばたばたと動き、男は少女の顔がはっきり見える所で立ち止まった。いっそ起こした方が良いのではないか、と考える。
 しかし、迎えが来るまでは起こさない方が良いのだ。男はあと一時間もすれば来る少女の迎えの者たちに、なるべくお昼寝させるか本を与えるか武器を与えるかして、その場から動かないようにしておいてください、と頼まれていた。数ヶ月前に五歳になった幼子に、武器を与えるのが良いことだとは男も思っていない。あくまで、一般的に考えるなら常識外の行いだ。けれど少女の血筋は、そもそも常識の外にある。
 今も少女が枕代わりにしている大きめのクッションの下からは、剣の鞘がはみ出していた。男が与えたものではない。少女個人の所有物だった。安心しきって眠っているとはいえ、不穏な物音や侵入者があれば、少女は即座に覚醒してこの剣を引き抜くだろう。起こしたくらいで即臨戦態勢にはならないだろうが、寝ぼけられれば男の身が危ない。さてどうしたものか、と視線を向けていると、やがて少女はうなされ出した。
 じたばたじたばた、手足が動きだす。まるで水の中でおぼれているような動きだった。顔つきが嫌そうであっても苦しそうではないので、おぼれている夢を見ている訳ではなさそうなのだが。どうしようかな、とのんきな気分でさらに見ていると、少女の唇がすぅ、と息を吸い込む。
「き……きりんさんよりぞうさんが好きだけど、くまさんも大好きです……!」
 うっとりするような可愛らしい声で、呟かれたのは男に取って理解不能の言葉だった。言っていることは分かる。あまりに態度と合っていないだけだ。思わず脱力してその場にしゃがみこんでしまうと、男の目線の高さに少女の顔が来る。形容しがたいほど嫌そうな顔をしていなければ、にっこり笑うだけで誰もが頬を染めるであろう可愛らしさだった。もったいない、としみじみ思う男の心など知らず、少女はうなされ続ける。
「そ、そんな……! じゃあ、仲間はずれにされたうさぎさんはどうしたらいいの……?」
「……どんな夢です?」
「だ、だめっ! えら呼吸はできない……!」
 無意識にもれていった問いかけに応えることなく、少女は自由な悪夢を見続けているようだった。ぶんぶん嫌そうに首を振り、クッションがぎゅうぅ、と抱きしめられる。やがて打ちひしがれたように細かく震えだすのを見て、男は溜息をついて少女に手を伸ばした。寝かせておいてくれ、と頼んで来た者たちには可哀想だが、これはもう起こすしかないだろう。ぽんぽん、と肩を軽く叩いて揺すり、男は少女の名を呼んだ。
「起きてください、アイル様。……はやく起きないと、国王陛下が爆破しますよ」
「いやー! 父上が死んじゃうっ! ……え、なにが?」
 悪夢を見ていたとはいえ、少女が飛び起きるのは早かった。青ざめて引きつった顔で勢いよく体を起こし、あたりを忙しなく見回してから首を傾げる。父上爆破するっていうよりされるんじゃないかなぁ、と半分寝ぼけた声が呟き、少女はごしごしと目をこすってあくびをした。それを微笑ましく見つめ、男は恭しい仕草でソファの前に片膝をつくと、頭を深く下げて礼を取る。ごく当たり前の仕草なのは、そうするべき相手だからだ。
 国王を父と呼ぶ少女は、まぎれもなくこの国の王女である。眠たい、とやや目が覚めて来た声で呟いた少女の視線が、跪いて動かない男の頭に向けられた。しばらく見つめても、男は少女と視線を合わせてくれない。ぷぅ、と頬を膨らませて、アイルは男に向かって声をかけた。
「ねえ、ライア。なんか今、すごいこと言って私のこと起こさなかった? 父上爆発するの?」
「おはようございます、アイル様」
 ようやく男が顔をあげ、膝をついたままでアイルと視線を合わせてくる。にこ、と親しげに笑われて、アイルは頬を膨らませたまま腕を組み、不満そうに首を傾げた。
「おはよう。……それで、ライア。なんか嘘ついて私のこと起こさなかった?」
「アイル様、そんな些細なことを気にしていると、大きくなれませんよ?」
 よしよし、と頭を撫でてくるライアの大きなてのひらを、アイルはむーっとした顔のままで受け入れた。どう考えても誤魔化されているのだが、頭を撫でられていると、だんだんどうでもよくなってくる。やがて、頭撫でてもらって嬉しいなぁ、とばかり綻んだ笑顔でうきうきしだしたアイルからそっと手を引き、ライアは胸の中で溜息をついた。アイルはすっかり機嫌が良いようで、笑いながらクッションの下に手を突っ込んでいる。
 よいしょ、と言いながらアイルが取りだしたのは剣だった。本来は短剣でしかないそれが、アイルの腰にくくりつけられると長く見えるから不思議だ。ソファから飛び降りて両手を広げ、アイルはくるくる回って武器が外れないことを確かめ、うんうん、と頷いてからライアの元に駆け寄ってくる。その姿に、ライアはとても嫌な予感がした。聞きませんよ、と男が言い放つより早く、アイルは満面の笑みで告げる。
「それじゃあ、お世話になりました! 帰るねっ!」
「その台詞を私に告げるのは、どうか迎えが来てからにしてくださいませんでしょうか」
 分かっていた。十分分かっていたことだった。だから迎えの者たちはライアに寝かせておいてくれと頼んだのだし、男は温かい光に誘われて寝入ってしまったアイルを起こさなかったのだ。きりきりと痛みだす胃を持て余しながら苦しげな声で頼み込むライアに、アイルは純粋に不思議がる表情で首を傾げる。
「心配しなくても、ちゃんと一人でお家まで帰れるよ?」
 もし道に迷っても、首都のどこからでもわりと城が見えるから大丈夫だし、というアイルは根本的な問題が分かっていなかった。普通の五歳児が預け先から一人で家に帰れるというのならば、それはそれで褒められることなのかも知れない。しかし、アイルは王女なのである。王族なのだった。一人で出歩いて良い身分ではなく、そうすることのできる年齢にも達していない。帰れるのは知ってます、とライアは説得する。
「ですが私は、お願いですから一人で出歩かせないでくださいと、あなたの護衛官に頼まれているのです」
「忘れちゃったフリすればよくない?」
「どうしてそこで素直に受け入れてくださらないのですか……ああ、ほら、諦めてください。来たようです」
 部屋の扉の向こうから、数人の足音と話し声が聞こえて来た。ほっとしたライアが立ちあがり、アイルを迎えに来た護衛官の為、扉を開こうと歩み寄る。自然に、視線と注意がアイルから外れた。それが間違いだったとライアが気が付いたのは、扉を開けようとする背を、そっと風が押したからだ。風は外に咲く花の香りを含んでいた。窓など、開けていなかったのに。はっとしたライアが振り向くのと、ほぼ同時に扉が開く。
 目を見開くライアと、その背に居並ぶ己の護衛官たちに楽しげに笑いかけるアイルは、窓を開け放ち、木枠に足を乗せて立っていた。じゃあまたね、と言わんばかりにちいさな手がひらひらと振られる。茫然とするライアを押しのけて、護衛官の一人が室内に走り出た。
「ちょっとアイル様っ! なに考えてるんですかダメですっ!」
「や、やー! 一人で帰るもんっ! じゃあねシェザまたお城でねっ! お土産買ってあげるから許してねっ!」
 シェザ、と呼ばれる年若い護衛官が窓に到達する寸前、なんのためらいもない仕草でアイルは窓枠から外へと飛び降りた。ぴょい、と音が聞こえてきそうな可愛らしい仕草だった。あーっ、と絶叫するシェザの伸ばした手のひらをすり抜けて、アイルはまんまと逃げてしまう。窓から見下ろす邸宅の中庭までは、かなりの高さがあった。この部屋が、三階にあるからだ。大怪我ではすまない高さに、シェザの背筋が凍りつく。
 恐怖で声も出せなくなる護衛官の視線の先、飛び降りたアイルは、くるくる、と回って足から大地に着地した。足元の柔らかな草が、くしゃりと音を立てるだけの仕草だった。それからアイルは、室内でそうしたようにその場でくるくると回って身の安全を主張し、窓を仰ぎ見てにこにこと手を振った。ばいばいねー、と言い残して、ちいさな体が駆けていく。脱力を通り越して怒りさえ覚えて崩れ落ちるシェザの肩を、誰かが叩く。
 死んだ目で振り返ると、立っていたのは護衛官たちの長である男だった。シェザはなにごとかを言おうと息を吸い込み、口を何度か動かしてから、ようやく声を絞り出した。
「……逃げられました」
 お前の気持ちはよく分かる、とばかり頷かれ、シェザの落ち込みが激しくなる。あともう少し早く走れれば捕まえられたかも知れないのに、とどんより落ち込んだシェザの肩を慰めるように叩きながら、男は申し訳なさそうに苦笑するライアに目を向ける。
「数日、アリスレシェクト様をお預かり頂きまして、どうもありがとうございました。感謝している、と国王陛下からの伝言でございます。ヴァン・カルニエの当主、ライア様」
「……いいのか?」
 すぐに追わなくても、とも。この状況で礼など言って、とも意味する言葉だった。ゆるく腕組みをしながら苦笑するライアに、男は薄々予想はしていましたから、と溜息をつく。男の胸元にくくりつけられた、ちいさなぶさいくな犬の人形が揺れる。それが『国王直属護衛官』を意味する証だと知ったら、他国に正気を疑われるに違いない。なんとなく人形を見つめてしまいながら沈黙するライアに、男は指先で子犬を突きながら言う。
「いえでも仕事嫌さのあまり執務室のある三階の窓から中庭に飛び降りて、そのまま走って逃げた国王陛下の娘ですし、これくらいの事態は十分想定の範囲内です。だから落ち込むんじゃないぞ、シェザ」
「人類の持つ常識に則って、俺は落ち込みたいです……」
 セルキストの王家はもうすこし常識を持つべきだと思うんですよねっ、と叫ぶ若い護衛官の瞳には、じんわりと涙が滲んでいた。泣くんじゃないですよこれくらいで、と溜息をつきながら進み出た一人が、ハンカチを取り出してシェザの目のあたりを拭ってやっている。仲睦まじい部下たちの様子を眺め、護衛官をまとめる男は溜息をついた。
「常識は持ってらっしゃると思うぞ。ただ、自分たちに対して使えないだけで」
 王族の護衛に必要なのは、常識を捨て去る勇気と決意、そして愛だ、とさらりと言い放つ男に、護衛官の中でも年上の者たちばかりが頷いた。彼らはそれぞれ胸に子犬のぬいぐるみだったり、あるいは特徴的な宝飾品をつけていたりするが、これは『専属護衛官』の証である。それぞれの主をかたどった物を胸に付けるそれは、制服の一部なのだった。シェザの胸には、未だそれがない。主君が決めていないからだ。
 王族が己の専属護衛官を正式に持つのは、大体十歳になってからである。それまではその『候補』たちが、各王族の専属護衛官から選ばれて出向して来た上司たちの元で鍛えられるのが通例なのだ。シェザは五年後に正式なものになる『王女アリスレシェクト専属護衛官候補』であり、現在、長としてまとめている男は本来『国王専属護衛官』なのである。年かさの者たちは国王世代のそれらから派遣された者なのだ。
 当然、シェザよりずっと、セルキストの王族と付き合いが長い。だからこその言葉に、シェザはがくりとうなだれた。
「あと五年以内に、アイル様がまっとうな道に戻りますように……!」
「いやそれむ……あー、シェザ。そういえばお前、どうして愛称で呼んでるんだ?」
 王女の正式な名を、アリスレシェクト・セイレンティア・セルキストという。アリスレシェクト、と呼ぶ者が多い中で、シェザはわざわざ愛称の『アイル』を選んで口にしていた。不敬と咎めるでもなく純粋に不思議そうな上司に対し、シェザはごく軽く眉を寄せて言う。どうしてそんな簡単なことを問われるのか、よく分からない、という表情だった。だって、とシェザは言う。
「『シェザは私の護衛官になるんだから、アイルって呼ばなきゃお返事してあげないんだからっ!』って仰るもので。長官は、なんで返事して頂けるんですか? 俺なんて、折れて愛称でお呼びするまで五時間くらい無視されてましたよ?」
 男は、五時間頑なに呼びかけたシェザに呆れたら良いものか、五時間むくれて無視し続けたアイルに呆れたら良いものかを悩み、やがて大きく溜息をついた。平和だ。なんとなく心底そう思い、男は決まってるだろうが、と胸にくくりつけられたぶさいくな子犬の人形を、それでも誇るように胸を張ってみせた。
「そんなの、俺が『国王陛下の』護衛官で、お前が『アリスレシェクト様の』護衛官になるから、だろう」
 主君本人には認められているようでなによりだ、とにやにや笑いながら言ってくる男に、シェザはかぁ、と頬を赤くした。それを隠すように俯き、シェザはああもう、と叫ぶ。
「ちくしょう! 俺の主君可愛い! 逃げるトコとか可愛くないけど可愛い……すみません俺先に城帰っていいですか」
「いいけど。理由」
「俺の主君が、じゃあまたお城でね、って言ったからです」
 お土産とか言ってたからどうせ寄り道するでしょうけど、俺が先に帰って待っててあげたいじゃないですか、と真顔で言い放つシェザに、男は苦笑して手を振った。行ってよし、ということだ。ありがとうございます、と頭を下げて走り出すシェザを追って、涙をぬぐっていた同僚も何食わぬ顔で出て行ってしまう。一緒に城まで戻るのだろう。若者二人を見送り、男はのんびり呟いた。
「ぼちぼち、俺らも帰るか……。ライア様、本当にどうもありがとうございました」
「どういたしまして。またなにかあればお預かりいたします、と国王陛下にお伝えしてくれ」
「かしこまりました」
 そうあることでもないんですけどね、と苦笑した男は、先程ライアがアイルに対してそうしたように片膝をつき、恭しく頭を下げて一礼した。なんのことでもないようにライアは頷き、護衛官の一礼を受け入れる。護衛官は笑顔で立ちあがり、そしてセルキストの貴族の中でも最高位に属するヴァン・カルニエの、その当主の前を辞して行った。

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