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 今も、真正面から視線を合わせている状態であるというのに、アイルが再度呼びかけた『伯父さん』という言葉にはなんら反応を見せなかった。唇だけ動かして声出さないなんて新しい遊びかなにかかな、と言わんばかりの微笑ましさを瞳に宿したままで、一向に脳が受け付けてくれていない。溜息を二回吐き出すことで諦めてやり、アイルはしぶしぶ言い直す。あのね、お城に帰る途中に顔見に来ただけだよ、と。
 別にわざわざ会いに来た、というのとはすこし違うのである。あくまで通り道にお店があったから寄っただけであって。ちゃんと分かってる、と首を傾げて唇を尖らすアイルに、デューグはにこ、と優しげな笑みを浮かべた。指先を伸ばし、デューグはアイルの頬をふにふにとつついた。
「照れちゃって。そうなのデューグお兄さんに会いに来たの! すごく会いたかったんだよ! って素直に言えばいいのに」
 女の子は素直で可愛いのが好きだな、と言ってくるデューグを、アイルはとてつもなく嫌そうに見つめた。身をよじって頬をつっつく指先から逃れようとするも、その程度で手を離してくれる相手ではない。いやーっ、とじたばた椅子の上でもがきながら手を押しやって、アイルは会いに来たんじゃなくて見に来たんだってばっ、と主張する。
「ちーがーうーのー! しばらく顔見てなかったから、忘れないように見に来たのー! だって三ヶ月くらい会ってなかったんだよ? 次に会った時私がだぁれ? って言ったらどうするつもりなの?」
「そっかそっか。誕生日ぶりだもんなー……特に城行く用事が無くて」
 ほら俺引退した身の上だし、そう城に顔出すのもどうかと思って、と。ようやく引いた手を重ね合わせて胸に押し当て、にっこり笑うデューグを、アイルはどういえば言葉が通じるのか理解できない顔つきで眺めやった。引退、というのは王族を、ということなのだろうが、それは未だ持ってデューグの主張以外に認められていないことだからだ。男はあくまで王族の一員であり、城下に住み、店を経営しているのは特例措置だ。
 そもそも職業でもなんでもないのだから、王族を引退すること自体が不可能なのである。他国に嫁いだ、あるいは貴族の元へ降下したならばともかくとして、デューグはあくまで国内の、しかも城下に留まる王族の一人なのだった。自営業なだけである。大体、アイルと三ヶ月前に会った時のデューグはきちんと王族の正装を着込んだ姿だったのだ。王女の誕生祝いなので、それなりの格好を周囲が求めた結果なのだが。
 それでも王家の衣装を纏うというのは、現在もその人が王族であることに他ならない。なんでそういう悪あがきばっかりするの、と呆れかえったアイルの視線にも、デューグはにこにこと笑うばかりで悪びれなかった。バーカウンターに肘をつき、手を組んであごを乗せて身を乗り出した姿で、男は複雑そうな顔になっているアイルに笑いかける。
「いいじゃん、復帰制にすればそれで。有事になったら王族扱い、それ以外は一般市民。それだけだって」
「なんでそんなに王族ヤなの?」
「飽きた」
 ごく麗しい、王子時代は城中の人気と諸国の関心を一身に集めていた、という事実を裏付けるような笑顔で、デューグはろくでもない理由を言い放った。何度か聞いて分かりきっていた事実であるので驚かず、アイルはげっそりとした表情で首を横に振る。
「父上もこないだ、国王飽きたもうやめる引退するって騒いでたよ」
「国王なんてそんな簡単に引退できるわけないじゃん。馬鹿だなぁ、アイツ」
 アイルちゃんはそんな大人になるんじゃないぞー、と笑顔で頭を撫でてくるデューグをしっかりと見つめ、王女はうん、と頷いた。間違ってもこんな大人になってはいけない生き見本が目の前におり、もう一人はこのセルキストの国王で、しかも父親であるという事実に心が折れそうになるが、それでもアイルは諦めなかった。私、しっかりした大人になってセルキストを良い国にするんだ、と呟くアイルに、デューグは首を傾げる。
 なんだか、ものすごく不思議そうな仕草だった。
「そんな小さい頃から国政に興味持たなくても良いと思うんだけどなぁ……もっと遊べよー。俺たちがアイルちゃんくらいの年の頃なんて、褒められたことをした記憶の方が薄いけどな。なんでそんな風に育っちゃったんだ?」
「清く正しく育ってるからだよ、この馬鹿っ!」
 ダメな大人のダメな言葉に涙ぐむアイルを庇うように、現れた青年がデューグの頭を銀のトレンチではたき倒す。首が曲がってぐきっ、と嫌な音が立つが青年には気にした風もなく、バーカウンターにトレンチを置くと深々と息を吐き出した。後悔を詰め込んだような、どんよりとした溜息。ええと、とかける言葉に迷うアイルに、青年は申し訳なさそうな視線を向けてくる。セルキストでは珍しい蜜色の肌に、青い瞳の青年だった。
 短く切られた薄茶の髪は、どこか乾いた砂漠の印象だ。南の土地に住む者の特徴を身に宿した青年のことを、アイルはよく知っていた。この馬鹿がごめんな、と言わんばかりにしょんぼりとする青年の名を、アイルはそーっと呼びかける。
「ラッセル……あの、私は気にしてないから。そんないっぱい叩かないであげてね?」
「……なあデイ。お前、五歳の女の子に庇われて悲しくなったりしないの?」
 デューグのことを『デイ』と呼ぶのは、アイルが知る限りラッセルだけだった。そして、それを許されているのもラッセルのみだった。蜜色をした肌の青年はデューグの特別な存在であり、唯一無二のかけがえのない者であるという。たった一人、王族に存在する対の者を呼ぶ名称を、殴られた個所を両手で押さえながら顔をあげたデューグが、迷いのない声で呼ぶ。
「ラッセル! 『教育官』が、王族をそうぽんぽん殴るんじゃありませんっ!」
「本当にデイは、都合の良い時だけ王族主張してこの……!」
 イラ、としたのだろう。引きつった表情でデューグに両手を伸ばしたラッセルは、殴らなきゃいいんだよな、と瞳を細めて囁きかけ、頬をつねって全力で引っ張った。痛いいたいっ、ごめんなさいっ、と抵抗されるのを完全に無視して頬をつねりながら、ラッセルはアイルに目を向けた。
「ごめんな、王女サマ。これは俺がオシオキしとくから……なにか用事があって来てたなら、俺が代わりに聞くけど」
「んー。お泊りからお城に帰るのに、顔見に来ただけだから大丈夫ー」
「え、お泊りしてたの?」
 どこで、と問いかけてきたラッセルに、アイルは素直にヴァン・カルニエの名を出した。一週間程度泊まりに行っておいで、と言ったのは他ならぬ国王であり、そして相手は国内最高位貴族の一つである。最高臣下五家、とも呼ばれる一つであり、首都のある中央の守護者とも称されるのがヴァン・カルニエ家だ。名前を出して不都合なことはなにもなかったし、ラッセルも当然知る名である。ああ、と簡単に頷いて納得した。
「そっか。お泊り、楽しかったか?」
「うん!」
「そっか。……で、王女サマ。護衛官は?」
 にっこり、やけに威圧感のある笑顔で問いかけてくるラッセルに、アイルはしゅぴっと音がしそうな勢いで手をあげて言い放つ。撒いて来た、と。そっかそっかぁ、と脱力しながら頷いて、ラッセルはデューグをつねる指先に力を込めた。痛いんだけどあざ出来ちゃいそうなんだけどっ、と涙目で抗議するのを再度聞き流し、ラッセルは困りすぎて悲しく響く声で呟く。
「なあアイルちゃん。良いコだから、自分に護衛がつく意味とかそういうのを、もう一回考えてみようか」
「父上ったら過保護だよね。私もう、一人でお家まで帰れるもん」
「俺超泣きそうなんだけど……! 道に迷う以外の選択肢が存在してないこのコの教育は誰がしたんだよホントにさー!」
 違うよなもっと誘拐とか身辺警護とか、そういう選択肢が第一に来るべきであって『道に迷う』はかなり後ろの方に行く心配である筈だよなっ、とデューグの頬を引っ張りながら嘆くラッセルに、その主君は重々しく告げた。
「諦めろ、ラッセル。親の背を見て育つとこうなるんだって」
「国王陛下の馬鹿! ……あのな、王女サマ。分かってると思うけど、お父さんのマネしちゃダメなんだぞ?」
 しってるよー、と歌うように告げたアイルの頭を撫でてやりながら、主張は甚だ疑わしいとラッセルは溜息をつく。護衛官をまいて逃げる辺りが、どうあがいても親子だったからだ。国王専属護衛官の胃薬、もしくは頭痛薬の保有率は異常だ。このコの護衛官も将来そうなるのかなぁ、と考えながら、ラッセルはごく基本的なことを問いかけた。いかに幼いとはいえ、王女が一週間も人に預けられる、ということは珍しい。
 なんでお泊りしてたの、と尋ねたラッセルに、アイルはきゅぅ、と眉を寄せて口を開く。
「……よく分かんないんだけど」
「けど?」
「好きな女の人の傾向を聞かれたの、なんでだったのかな」
 どんなことでもいいから、って言われたんだけどね、と。父親に対する不安な気持ちを余すところなく顔つきで表現して沈黙するアイルに、デューグとラッセルは顔を見合わせて頷いた。視線をすこし交わすだけで、二人にはその理由まで理解できる。そっか五歳になったんだっけ、とデューグが呟き、ラッセルはやや遠い目をしてそういう時期かぁ、とため息交じりに囁いた。頭の上を通って行く会話に、アイルが唇を尖らす。
「なーに? 理由、分かるの?」
「うん、まあ。分からない教育官は存在しないっていうか……ちなみに王女サマ、それになんて言ったの?」
 教えて欲しいな、と答えを告げることをせず問いかけてくるラッセルを軽く睨んで、アイルは頑張って考えたんだからね、と前置きをした。うんうん、と微笑ましく待つ大人二人に、アイルはなにも気負うことなく言葉を告げる。
「トリアーセみたいなの、って」
 人名だった。優しい感じの人、とかそういう言葉ではなく、アイルが告げたのは二人もよく知るある存在の人名だった。告げられた国王は、この世界に存在する誰よりもその存在を知っていたことだろう。あまりの衝撃に停止しかかる頭を動かし、ラッセルはなんとか口を開く。
「……男じゃん」
「知ってるけど。でもトリアーセ、お母さんみたいだし……」
「王女サマ! それ、絶対本人の前で言うんじゃないよ? 死ぬからね? 誰が死ぬって陛下が死ぬからねっ?」
 よし分かったお前を殺して俺は逃げる、と爽やかに笑って言い放つであろう男の姿を想像するのは、デューグにもラッセルにもあまりにたやすいことだった。必死に言い聞かせる二人に、アイルはきょとん、とそんなこと言われても、と首を傾げる。
「トリアーセも、聞かれた時一緒に居たよ」
 でも別に、あとで城裏に来いって父上呼び出してたくらいだよ、と素直に言うアイルに、ラッセルは青ざめた顔で絶叫する。城裏に呼び出した国王がなにをされたかなど、考えたくもなかった。
「だよなっ! 俺分かってた! 国王の教育官だもんなアイツ! 居ない訳ないよなっ」
「落ち着けラッセル、怖いのは俺も一緒だから……!」
「二人とも、なに騒いでるの?」
 これだから落ち着きのない大人ってやーねー、とばかりおしゃまな顔で不思議がるアイルに、ラッセルは恐怖を湛えた瞳で告げる。知らないって恐ろしいけどでも教えたくない、と混乱した呟きを発したラッセルは、胸に手を押し当てて深呼吸をした。デューグが手を組みあわせて弟の魂の安息を祈るのを止めもせず、ラッセルはようやく落ち着いて来た気持ちでアイルに向き直る。そして、震える手をそっと肩に置いた。
「ど……どんな相手になっても、気をしっかり持てば大丈夫だからな」
「え、なんの話? ねえねえ、なんの話?」
「トリアーセとか、うん! そういうのはかなり特殊系であって、大体は俺みたいな……いや俺もデイのことかなり殴ったりするけどでもそれは本人の性格と言動が問題なんであって、だから、つまり、その……お城に帰って国王陛下に聞いてください。あと、怪我してても理由聞いたらいけないからな。あんまり陛下いじめるのやめような」
 分かったら返事、と言ってくるラッセルに、アイルははーい、と信頼性の低い返事をした。アイルとしては父親をいじめているつもりもないので、そんなことを言われても困ってしまうのである。本当になー、とため息交じりに言い聞かせながら、ラッセルは額に手を押し当てて沈黙するデューグを見やった。
「じゃあ、俺、王女サマのことお城まで送ってくるから」
「うん。行っといで。アイルちゃん、そんな嫌そうな顔しないの。俺のラッセルが一緒に行くんだから、もっとにこにこしてなさい。じゃないとラッセル貸してあげないよ?」
「一人で帰れたのに……」
 溜息をつくも、不意をつけた護衛官と違って、デューグとラッセルを突破して逃げることは出来そうになかった。ただでさえ、ここは二人が普段から居る店の中なのである。アイルは差し出されたラッセルの手にてのひらを重ね、むー、と唇を尖らせながら握りしめた。すこし荒れ気味の大きな青年の手のひらは、アイルのささやかな抵抗にびくともしない。ラッセルはくすくすと笑い、アイルの手をゆっくり引いて歩き出した。
 足元見て歩くんだよ、と言われて頷きはするものの、アイルの目はきょろきょろと動き回っている。ウエイトレスやウエイターと視線が会うと、アイルはまた来るねー、と可愛らしい笑顔で手を振った。

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