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 誰かに、全力で己の存在を否定されたような気分だった。悲しく思いながらぼんやり目を開き、少女はゆっくりと唇を開いて息をする。よく、眠っていたようだった。覚えてはいないが、夢でも見たのだろう。目元を擦っても涙の気配はなく、そのことに安堵しながら、横たわっていた体を起こす。手をついたベットはふかふかで、妙に落ち着かなかった。安い宿しか泊まれなかったので、硬い寝台に体が慣れてしまったのだろう。
 これに慣れたら他の国に行った時困りそうだ、と思いながら少女はベットから抜け出し、床の上に足をついた。薄着に裸足の足では、木材がことさらひんやりと感じる。すぐに外套を羽織ってスリッパをはけば、寒さはすこし遠ざかったようだ。季節は絢爛の春と言えど、冬からまだ目覚めきっていないこの国は、まだ冷たい雪の気配を空気に残していた。カーテンを開けて外を覗けば、予想以上の朝日が眩く室内に差し込む。
 眩しさに細められた瞳は、新緑のような翠色をしていた。適当に切られた琥珀色の髪は不揃いで、長くもなく短くもなく、肩を超えた辺りで結ばれもせず伸ばされていた。長い前髪を指でつまんで後ろにやりながら、そろそろまた切るか、と少女は考えた。もっとも散髪に行くお金などないので、鋏を借りたり、めんどうくさかったら剣で削ぎ切りにしているだけなのだが。よく眠った、と大きく伸ばされる腕はしなやかで、細い。
 成長中の少女の体だった。薄く筋肉の付いた手足は、それでもどこかまろやかな線を描き出している。豊かとは言い難い体の線だが、しっかり鍛え上げられたしなやかさを持っていた。年の頃は十二か、十三くらいだろう。浮かぶ感情の薄い顔つきは、他者との積極的な関わりを拒絶していたが、どこか放っておけない危うさも感じさせた。セルキストでは、市井の者の成人は十五歳と決められているから、なおのこと。
 まだ守られるべき年齢の少女は、しかし旅する連れもなく、昨夜セルキストの首都に到着したばかりだった。当てのない旅の途中。なるべく安くて、できれば治安が良い場所の宿に泊まりたい、と観光局で申し出た少女に紹介されたのが、この部屋だった。値段は普通の半分程度で食事つき、ということで全く期待して居なかったのだが、部屋は狭いものの清潔で調度品もしっかりしており、なによりベットが柔らかい。
 まぐれか、さもなくば奇跡のような巡り合わせだった。あとで観光局に行ってお礼を言おう、と思いながら少女は脱ぎ捨てた服を拾い上げて袖を通し、髪を簡単に手で撫でつけて部屋を出た。鏡の前で服装や髪形を確認する、という洒落っ気の持ち合わせはない。階下に下りる前に洗面所に立ち寄り、顔だけを洗って行く。さっぱりした、と思いながら人気もまだまばらな店内に下りて行くと、陽気な声が少女を呼びとめる。
「おはよー、女の子! さあお兄さんの目の前においでー!」
 店中の視線が集まりさえしなければ、少女は無視して速やかに店を出て行ったことだろう。しかし客からは同情したような顔つきで見られ、店員からはごめんね、と諦め交じりの苦笑を向けられてしまっては、完全に聞こえなかったふりをすることもできない。諦めの溜息をひとつついて、少女は店の奥、バーカウンターから身を乗り出して手を振っている男性の元へ、急ぎ足で向かった。にこ、とされるのが気に入らない。
 おはよーおはよー若い女の子久しぶりで嬉しいー、とにっこにこ笑いかけられるのに舌打ちを一つして、少女はバーカウンターの下を足で蹴飛ばした。がつ、と音が響く。丈夫な木材には傷一つ付けられなかったようで気に食わなかったが、店主の顔色を変えるには十分な行いだった。なんで蹴るのーっ、と騒がしく悲鳴をあげられるのに、少女はゆったりと腕を組んで男を睨みつけた。すでに、店内の注目は引いている。
「誰が『女の子』だ、誰がお兄さんだ……! 朝からわめくな、やかましい」
「えー、お兄さんが嫌だったら『デューグ』でもいいよ? グラスト・リアスちゃん」
「……なんで、私の名前を知っている」
 少女に、名乗った覚えはなかった。すくなくとも、面と向かって名前を告げた覚えは絶対にない。宿についたのも夜が更けてからのことだったし、部屋まで案内してくれたのは従業員の女性だった。この『信用第一デューグのお店』という、なにかの冗談としか思えない食事処、兼宿泊施設の主とは、視線を交わして軽く挨拶をしたくらいの間柄であった筈だ。睨みつけられるのにも楽しげに笑い、デューグは椅子を指して言う。
「まあ、座りなよ。俺が名前知ってるのは、宿帳見たから。しばらく泊まりの客なんて受け入れてなかったからさー、今日もリアスちゃんだけだし、二階から下りてくる見覚えの薄い女の子なんて一人だけだからすく分かったよ。部屋、どうだった?」
「……良い部屋だと、思う」
 よっぽどの繁盛期じゃなければ宿泊施設があっても人に貸さないから開いてると思う、と観光局の案内は正しかったようだ。デューグの口にした通り泊まり客は少女しかおらず、後は全員がこの店の従業員であるらしかった。仮眠の部屋もあり、泊まりの部屋もあるという。一部は店に住み着いているので、開いている部屋を宿泊施設として貸し出しているだけのようだった。少女の言葉に、デューグは嬉しそうに笑う。
「それならよかった。朝ごはん食べるだろ? それとも、どっか散歩行くトコだった?」
 どうして、それを話さなければいけないのか。不愉快そうにデューグを睨みつける少女の口はかたく閉ざされていて、問いに告げる言葉など無いようだった。慣れない猫のような少女に、デューグは気を悪くした風もなくにこにこと笑う。少女の旅装はくたびれていて、ボロボロで、お金をたくさん持っている風にも見えなかった。流浪の民には見えないが、保護者もなく、ただあてもなく国を移動して生きて来たのだろう。
 瞳に荒んだ色こそないものの、顔つきは険しく、一時も警戒を緩めていない。口数が多くないのも、己の心を晒したくないからだ。苦労したんだろうな、とデューグは思う。大変だったんだろうな、とも。けれどデューグがそれを口に出して慰めたとて、気位の高そうな少女を怒らせてしまうだけだろう。代わりにそっと手を伸ばして頭を撫でてやれば、思ったよりも柔らかい髪が指先に触れた。少女の眉が、思い切り寄せられる。
「……なんだ」
 振り払われないことが嬉しくて、デューグは口元を緩めたままなんでもないよ、と言ってやる。よしよし、と簡単に撫でて手を離せば、少女はバーカウンターから一歩足を引いていた。視線が素早く、一番近い扉に定められる。ああ逃げられるな、と思いながら引きとめもせず見ていれば、少女はぱっと身をひるがえして駆けて行き、振り返りもせず出て行ってしまう。そのまま居なくなることはしないだろう、とデューグは思う。
 すくない荷物は部屋に置いてあるままのようで、少女はなにも持っていなかったからだ。その身一つで生きて行くには、少女はまだ幼かった。十三くらいかな、と年齢を推測して、デューグはカウンターに突っ伏して溜息をつく。セルキストは豊かな国だった。親が無くとも、十五までは国が生活を保障しているので、不自由なく生きることができる。それからは三年の軍属が義務付けられるものの、家も食事もある生活だ。
 あんな風に国を渡り歩いて生きるしかないみなしごを、デューグは久しぶりに見たのだった。憐れむ訳ではない。胸が寂しかった。立ち直れないまま溜息をついてると、ぺし、と痛くもない力で頭が叩かれる。顔をあげると立っていたのは予想通りの人物で、デューグは弱々しく名前を呼んだ。出会ってからずっと、デューグ弱っている時に傍に居てくれないなんて、考えたこともない相手だった。ずっと、誰かと一緒だった。
「ラッセル……」
 手を伸ばせば、すぐに強めの力で握りしめられた。ずっと見てた、とだけラッセルは言った。うん、と頷いてデューグはもう一度カウンターに顔を伏せる。目をつぶってしまえば耳は店内のざわめきと、薄く開かれた窓から聞こえてくる鳥の鳴き声、風の音までを拾い上げる。今日も空は晴れているのだろう。日ごとに温かくなっていく世界は、いま、確かに春を迎えていた。冷えた指先も、手のひらに包まれてじんわり温かい。
 どんな気持ちだった、とデューグは呟く。ハッキリと問いかけるには弱い言葉は、それでもラッセルに向けたものだった。かつてのラッセルは、少女と同じように国から国を渡り歩いて生きていた。違うのはみなしごであった訳ではなく、雑技団の一員として育てられていたことだ。血のつながりがあったかどうかは、思い出せない。拾われて育てられたのかも知れないが、それでもそこに居たのはラッセルの家族だった。
 もう会うことはないだろう。セルキストに教育官として残るということは、この地に定住するということ。眠る土地を持たずに移動し続ける雑技団が、今どこに居るかさえラッセルは知らなかった。溜息をついて、ラッセルは口を開く。どんな気分でもなかった、とそっと言葉を落とした。
「別に、毎日生きてくのに必死だった、俺は。……家族も居たし、お金無かったけど、最低限の食べ物も寝るトコも服も、あったから、困ることなんてなかった。まあ……言葉が、違うのは、苦労したけど」
 大陸で共通言語、共通貨幣制度は始まってから、すでに四百年が経過していた。貨幣の流通はあまねく広がっていたが、ごく一部の血縁だけで構成された移動民族などに共通言語は浸透せず、未だにそれを読めも話せもしない者が居る。その中で暮らす分には問題はなく、けれどラッセルのようにその場所を離れた者にはひどく苦労を強いるのだ。うん、とデューグは頷いて、ラッセルの手のひらを強く強く握り締めた。
 ラッセルを一族から引き離したのも、言葉も常識も通じない世界に連れ去ったのも、全部デューグだった。デューグがラッセルを見つけ出し、そして教育官にと望んだからだ。どうしようもなく、一目で惹かれて。一目で、分かって。理解して、渇望したからだ。彼こそ、生きて行く為に必要なもう一人である、と。セルキストの王族は、一人では生きていけない。教育官がいなければ、生きていけないのだ。死んでしまうのだった。
 一人きりで生まれて、育って。やがて、一人きりであることに耐えきれなくなって、死んでしまう魂。それを救ってくれるのが、教育官。一緒に生きていく、もう一つ、己の命を持ってくれている者。ラッセル、とデューグは教育官の名を呼ぶ。青年は穏やかな声で、それに応えた。大丈夫。辛いこともたくさんあったけど、今は幸せで、なにも後悔することなんか無くて。傍に居られて本当によかったと思っているから、だから。
「泣くなよ? 泣くな。……女の子にちょっと冷たくされたくらいで、そんなに落ち込むなよ」
「……お兄さんは、女の子皆に優しいんだからな。あのコじゃなくても優しいんだからな!」
「はいはい。知ってる知ってる。知ってるよ、女の子限定博愛主義者。お前が優しいのは、俺が一番よく知ってる」
 同情とか、憐れみとか、そういうのではなくて。そういう気持ちがあったことは否定しないけれど、でも、そうではなくて。ただ性別だけで優しくしてやりたかっただけなんだからな、と落ち込んだ声でぶつぶつ文句を言うデューグに、ラッセルは苦笑しながら頷いた。だからそんな風にいつまでも落ち込むな、と。かけられた言葉にのそのそと顔をあげて、デューグはこくりと頷いた。そして視線を、少女が出て行った扉へ向ける。
 わずかに開かれた扉は、風に押されてゆっくりと閉まる所だった。



 誰かが今、悲しい気持ちでいる気がする。不意にそう思ったアイルは、胸を両手で押さえて首を傾げ、沈黙した。室内で各々の仕事をしていた侍女たちは、動きの止まった主君に不思議そうな視線を向けてくる。どうかしたのかしら、と不安も見え隠れする顔つきを視界の端に留めていても、アイルは動き出すことが出来ない。とても、とても悲しい。悔しくて、寂しくて、そう思ってしまうことが、感じてしまうことが嫌で、嫌で。
 とても、悲しい。空気を吸い込む為にわずかに反らされた喉が、ひぅ、と引きつった音をたてた。そしてアイル自身も驚くくらい唐突に、瞬きと一緒に涙がこぼれ落ちて行く。ひくっ、と酒に酔った者のようにしゃくりあげながら、アイルの頬を涙が転がり落ちて行った。悲しい。悲しい。自分ではどうすることも出来ない悲しさが胸いっぱいに広がって、アイルは立っていることも叶わず、その場にしゃがみ込み、顔を伏せてしまう。
 急に泣きだしてしまったアイルに、侍女たちは驚いて仕事の手を休め、侍女長に問いかけの視線を向けた。慰めても良いのだろうか。それとも、放っておいた方がいいのだろうか。まだ十代も前半の年若い少女たちだからこそ、幼い王族にどう接していいのか戸惑いもあるのだろう。分かっていながらも多少の呆れを交え、少女たちの教育に国王から遣わされている侍女長は、良いから慰めてあげなさい、と言いかけて。
 廊下をかけてくる軽やかな足音に、あら、と目を和ませた。足音は廊下の端から一気にやって来て、だんっと拳を叩きつけた乱暴のノックのあと、伺いもせずに開かれた。場所は、王女の私室である。同じ王族であっても眉を寄せられる無作法、不敬を咎めることなく、侍女長は微笑んでアイルへの道を開いてやった。ぜいぜいと肩で息をしながら走って来たシュオは、すみません、と咳き込み混じりに言ってアイルを見た。
 当然、音が聞こえていたアイルは、現れたシュオの姿に驚きが隠せない。ころころ、頬を転がって行く涙をそのままにして、座り込んだままで不思議そうに首を傾げる。どうしてそんな所に、そんな格好でいるの、という仕草だった。シュオは恐らく、昼からの勤務に備えて早めの着替え中だったに違いない。いつもきちんと纏められ、幅広のリボンによって結ばれている髪は、全力で走って来た乱れでぐしゃぐしゃになっていた。
 服もよく見ればボタンがかけ違えられていたり、外れていたり、酷い状態だ。靴だけはしっかりと履いていたが、薄い靴下一枚で走ると足元が危険なので、ただ単に足を入れて来たのだろう。支給されている繊細なレース網の靴下は、恐らくもう使い物にならない。侍女見習いの中でも将来有望の『優等生』の姿とは、とても思えなかった。室内に居る少女たちはぎょっとした目を向けて、現れたシュオを見つめている。
 走って行く姿に好奇心が刺激されたのだろう。廊下にはやや人だかりが出来ていて、シュオの姿を見つめていた。指を指して笑う者もある。しかし同僚たちの呆れの視線も、好奇も、笑い声も、シュオは一切気にしなかった。ようやく息を整えたシュオは、涙を流すアイルを見て顔をくしゃくしゃに歪める。え、とアイルが思った次の瞬間だった。扉から一息にかけて来たシュオは、両膝をついてアイルを強く抱きしめる。

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