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 大丈夫ですよ、と掠れた声がアイルの耳に触れて行った。大丈夫ですよ、泣かないで、と。囁かれて、アイルはどうしてシュオがそんな風に、急いで来てくれたかを理解した。どうしたんですか、とシュオは言わなかった。泣いているアイルを見ても、驚かなかった。怖々と見守ることもせず、なんのためらいもなく腕を伸ばして抱きしめてくれた。シュオはきっと、そうしようと思って来てくれたのだ。抱きしめて、慰める為に。
「なんで……」
「シュオのアイル様に対する愛。そして愛です」
 理由を尋ねた言葉に帰って来たのは、きっぱりとした宣言だった。えーと、と言葉に迷うアイルの涙にぬれた頬をハンカチで拭き、目を閉じさせてこぼれ落ちる雫もぬぐってやりながら、シュオはやけに自信にあふれた表情で言う。
「なんで泣いてるのが分かったかなんて、そんなこと私にも分かりません。ただ着替えてたら、あ、と思いました。ただそれだけです。……きっと私はアイル様の教育官にはなれませんけれど、それでも、同じくらいあなたを守って差し上げたい。ずっと、そう思っていました。ずっと、そう思っています。だから……始祖様がお力添えをしてくださったのかも知れませんね」
「……教育官」
 波が引くように涙を消し、落ち着きを取り戻したアイルは、その言葉を聞いてものすごく嫌そうに復唱した。その表情に安心したように笑って、シュオは反抗期なのだとお聞きしましたけれど、と堪え切れない笑いに肩を震わせる。どうやら国王に反発したアイルの言葉は、一夜で城中を駆け巡ったらしい。しぶい顔を隠そうともせずに室内を見回せば、安堵したような侍女も落ち着き払った侍女長も、同じように頷きを返す。
 つまり、全員知っているということだ。いやいや私教育官とか本当に要らないから反抗期じゃないから、とふるふるふるふる、首がもげそうな勢いで否定して、アイルは勢いよく立ちあがった。シュオはまだ両膝をついて座り込んだまま、元気よくなったアイルを微笑ましく眺めている。
「いらないって言ったのに……! それにシュオが居ればだいじょぶくない?」
「そうは申しましても。シュオは確かによくできた娘ですが、護衛官のように戦えはしないでしょう?」
 そっと進み出た侍女長は、シュオを立ち上がらせ、そっと背を押して部屋の隅を指差した。とりあえず服装を整えなさい、と囁かれたシュオの顔が、みるみるうちに羞恥で赤くなる。勢いよく部屋の角にぶつかるように走って行って、シュオはしゃがみ込みながら落ち込んだ。一応、こんな恰好で城内を走り回って恥ずかしい、という認識はあるらしい。大変良いことだ、と落ち着き払って頷き、侍女長は不満げなアイルを見る。
 ぷっくー、と頬を膨らませたアイルはじゃあシェザが居るから大丈夫だもん、と言ったのだが。普段は護衛長官と同じく国王の傍付きとして勤務している侍女長の女性は、そんなことで意見を引いたりはしなかった。確かにシェザも有能ではあると聞きますけれども、とさらりと告げる。
「護衛官と教育官では、守る役目が違うと聞いております。護衛官は、主君を外敵から守る者。降り注ぐ火の粉を払い落す者、です。教育官は……こればかりは、私も教育官ではありませんので、本当は同職の方にお聞きして説明して頂くのが一番なのですけれど。教育官は、物理的な危機に加え、貴方様の心もお守りする存在です。文武両道、というとすこし違うのですけれど、侍女官と護衛官を兼ねる感じでしょうか」
「……うー!」
 年上の女性から淡々と言い聞かせられて、アイルは上手く反論もできなかった。大体、いらない、というのがワガママであると自分で自覚してしまっているので、主張することが難しいのである。それでもヤだ、いらない、と頑なに言い張っていると、服をきちんと着直し、髪を整えながらシュオが戻ってくる。ご迷惑とご心配をおかけしてお騒がせしました、と主君と上司に頭を下げるシュオは、落ち込んでいて元気がない。
 元気だしてー、とアイルが言う。気をつけるように、と侍女長が苦笑するとようやく微笑むものの、それでもシュオの口からは溜息が洩れた。さわりと廊下の空気が揺れ、三人の視線が派手に開け放たれたままの扉を向く。ちょっとごめんな、と言いながら人をかきわけて歩いて来たのは、二人組の護衛官だった。アイルには見覚えのある相手であり、シュオは当たり前のように、そのどちらの顔も名前も知っていた。
 片方が実の兄であり、もう片方は兄の幼馴染であったからである。うわぁ、と顔を覆ってしゃがみこんでしまったシュオを、主君の部屋には居ることなく扉の前から眺めやり、シェザは深々と溜息をついた。
「……すみません。なんか俺の妹がわりと騒ぎを起こしたって聞いて来たんですけど」
「あら、そんなことないわよ。国王陛下に比べれば些細なことだわ。ねえ、アイル様」
「ダメだよ! 父上と比べないでっ! シュオが可哀想だよ……!」
 申し訳なさそうなシェザの言葉を穏やかに否定する侍女長の言葉に、アイルは必至の顔つきで言い放った。一年間で起こるセルキスト城内の珍事件、大事件、器物破損や人的災害の、実に四割程度は国王のやらかしたあれやこれによるものだ。それを十分に知っている娘による必死の否定に、シェザはますます呆れに目を細め、落ち込んで座り込んだ妹に目をやった。なにしたのお前、と言わんばかりの視線である。
 シュオはなんだか死にそうな顔つきで顔をあげ、兄の質問に答えた。
「ちょっと……廊下を、全力で走っただけよ?」
「どこからどこまで、どういう格好で?」
 くすくす口元に手を当てながら笑う兄の幼馴染を、シュオは強い視線で睨みつけた。口調と表情が、明らかに知っていて聞いているものだったからである。シェザも気が付いたのだろう。お前なんで知ってんの、と問いかけられて、優男風の青年はにこりと笑った。
「見てました」
「……ああうん、そっか。俺を呼びに来たのお前だもんな、ルクセラ。シュオが面白いことしてましたよって言った時点で気が付くべきだったよな。お前マジ性格悪い。そういうトコ嫌いじゃないけど」
「ありがとうございます、シェザ。私も、自分の性格は大変気に入っています」
 護衛官組はにこにこと笑い合い、そして友好的に頷き合った。そこに、どんな意思の疎通があったかを知りたくもない顔つきで沈黙するシュオに、騒がせたな、と言い残してシェザは身をひるがえす。ちょっと待ってー、と呼びとめたのはアイルだった。不思議そうな顔で振り返る護衛官たちを見つめて、アイルはあのね、と問いかけた。
「シェザとかルクセラが頑張ってくれて、私もいーっぱい頑張るから、教育官いらないよね?」
「なんでそんなに要らながるんです? くれるんだから貰っておけばいいじゃないですか」
 ねえシェザ、と微笑むルクセラに、将来の専属護衛官候補はしぶい顔つきで沈黙した。あんまり同意したくないらしい。あれ、と首を傾げる幼馴染を言い方あるだろ、と呆れて眺め、シェザは姿勢を正して主君を見つめた。俺は、とよく通る声が告げる。
「居た方が……というか、居て欲しいと思います」
「……なんで?」
「どういう性格かにもよりますが、教育官は護衛官とは違いますから。俺たちが貴方をお守りするのは、ある意味仕事前提というか……俺個人も、貴方を守りたいと思うから専属の道を志している訳ですが、そうじゃなくて、教育官っていうのは……職業名ではありますけれど、それは貴方の傍にあるからこそ必要なものであって、そうじゃないんです。教育官は、見返りなく主君を守る。その理由は、見て知っているでしょう?」
 どんなに性格が破綻しているのが多かろうと、貴方様が王族である以上、教育官は身近なものであり続けるのだから。言葉が重ねられる説得の口調に、アイルはこくん、と一度だけ頷いた。知っている。見ても、聞いても、知っているのだ。国王の教育官は、トリアーセは、かつてアイルの言葉にこう言った。『死んで欲しくなかったから』と。好きだから、よりもほんのすこし強く響く願いの言葉を思い出して、アイルは息を吸う。
「だから……いらないって、言ってるのに」
「まあ、探索初日からそんな言葉ばっかり重ねてもどうしようもありません。行きますよ、シェザ。早くしないと授業始まります」
「え、いま何時」
 ごく素直なシェザの問いかけに、ルクセラは笑顔で時計を指差した。昼、と呼ぶにはまだ早い午前十時ちょうど。ざーっとシェザの顔から血の気が引き、ルクセラはのんびりと笑う。
「というか、始まってましたね。どう頑張っても遅刻でした。だって十時から授業開始ですし」
「うっわああああっ! なんでお前そんな落ち着いてるんだよっ!」
「一回してみたかったんですよね。女の子の為に遅刻するっていうの」
 ささやかな夢が叶いました、というルクセラに、シェザは涙目で滅べ、と絶叫する。そのまま仲良く走り去って行った将来の専属護衛官を見つめ、アイルは深々と溜息をつく。悲しい気持ちは、もうどこかに消えてしまっていた。護衛官たちが去ると同時に、廊下の人ごみもだんだんと散って行く。ばいばいねー、と手を振ってそれらを見送ってから、アイルはしゃがみこんだまま立ち上がる気配のないシュオをじーっと見つめた。
 そして目の前にしゃがみこみ、アイルはシュオの頭をよしよし、と撫でる。
「元気だしてねー、シュオ。……来てくれてありがとね。本当に本当に嬉しかったよ?」
「アイル様にそう言って頂けるならシュオは頑張ります……。ところで、あの、アイル様」
「なーに?」
 アイル様への愛で心の傷が回復しました、と言いながら立ち上がり、シュオはわずかに期待した目で主君を見つめた。
「私を見てそわそわしたりは、しませんか……?」
「……うぅ」
 明らかに知っていてそれを聞かれる場合、否定するのはアイルに取って難しいことだった。ガッカリされるのが目に見えているからである。しかし、これだけはどうしても、言っておかなければならない。なぜか深くそう思って、アイルは息を吸い込んだ。ごめんね、と告げる。
「シュオは、私の教育官じゃないみたい」
「ですよね。はい、ありがとうございます。ほっとしました」
「え……いいの?」
 胸をなで下ろす仕草をしながら笑うシュオは、傷ついた様子を押し隠しているようでもなかった。すこしばかり残念がっているが、それだけである。不思議そうに尋ねるアイルに、シュオはいいんですよ、と微笑んだ。
「教育官にならなくても、アイル様の傍に居ることはできます。私は、あなたの傍に居られればそれでいいんです」
 大好きですよ、と笑うシュオにこくりと頷いて、アイルは精一杯背伸びをした。気が付いてしゃがんでくれたシュオの耳元に唇を寄せ、手で筒を作ってこっそりと囁く。あのね。
「シュオは、シュオのままでいいよ。私ね、シュオの全部が大好きだよ」
 あんまり覚えてないけど、あの日からずーっと大好きだよ、と笑うアイルに、シュオはにっこりと笑って頷いた。あの日、というのは恐らく初めて出会った時のことだろう。三年前。二歳になった王女の傍付き侍女官を育成するにあたって、国中に知らせが飛んでいた。資格は女性であることと、王族に対する害意の無い者。そして十歳以上であること。それだけ。身分については不問とする知らせが、二人を引きあわせた。
 なぜ応募してきたかをシュオもシェザも詳しく語らないが、アイルはただ、あまり家が好きでなかったことだけを知っている。家に居たくなくて、だからこそ住み込みでも働ける城勤めを決めたのだ、と。家族のことを好きではない、という状況をアイルは上手く想像できないのだが、分からないままでもいいんですよ、とシュオは言う。ただそのおかげでアイル様に会えたので、そのことだけは感謝しています、と。笑って言うのだ。
 もしシュオが教育官だったら嬉しかったかなぁ、と思いながらアイルは専属侍女官見習いの少女をじーっと見つめて、ちいさく首を傾げた。
「……あれ?」
 嬉しかったかな、という気持ち。それはいったい、どういうことなのだろう。あれ、あれ、と首を傾げて考えて、アイルは頭を抱えてしゃがみ込んだ。誰がなったら嬉しいとかそういうことではなく、アイルは教育官が欲しくない筈なのに。欲しくない欲しくないあっち行ってぽいぽいぽいっ、と腕をじたばたさせながら呻いていると、所用を済ませに部屋を出て行くシュオと視線があった。シュオはくすくす、と楽しそうに笑っていて。
「はやく、見つかるといいですね。教育官」
 主君の無駄な抵抗を本当に可愛らしい、と思っている表情で肩を震わせ、アイルの言葉を待たずに出て行ってしまった。アイルはしばらく凍りつき、やがて床にべしゃりと倒れ込んでしまう。溜息をついた侍女官が、王女様お願いですから床でごろごろしないでください、と言ってくるが聞こえないふりだ。掃除の邪魔だとか服が汚れるだとか行儀が悪いだとか、踏まれるかも知れないだとか、駄目な理由は分かっている。
 分かっているがそれでも、アイルは床で手足をばたばた動かした。ばたばた、ばたばたしばらくもがいた後、拳を打ちつけてそんなことはない、と呟く。ふかふかの絨毯に音も衝撃も吸い込まれて、アイルの手は痛みさえ感じなかった。侍女長の女性が、はぁ、と溜息をつく。
「諦めなさいな、アイル様。ちょっと欲しくなったんでしょう? 教育官」
「そんなことないんだから……ないんだから! ないんだから、ないんだからねっ! ねっ!」
「じたばたしないでください」
 埃がたちます、とぴしゃりと怒られて、アイルはしょんぼり手足を下ろした。仕方ないのでもぞもぞしていると、立ちあがってくださいませ、とまた溜息をつかれてしまう。なんだか泣きそうな気持ちになりながら体を起こすと、侍女長は王族というよりごく幼いこどもに向かってそうするように、アイルの頭をぽんぽん、と撫でてくれた。アイルはえへへ、と笑って撫でられた頭に手をやってはにかむ。撫でられるのは好きだった。
 もし、もしも。教育官に撫でてもらったら、もっと嬉しいのだろうか、と。思いかけた自分の思考が信じられなくて、アイルはふたたび、絨毯に顔から突っ伏した。侍女長は今度はなにも言わず、視線を反らして窓の外、広がっている青空を見上げる。のどかな天気だった。

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