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 二、王家の理

 なんの目的もなく城内を散歩しながら、アイルは思わず溜息をついた。お腹がいっぱいになって気持ちが良く、日差しも温かで心地良いのに。いまいち素敵な気分になりきれないのは、胸がざわりと騒ぐからだった。気持ちを宥めるように息を吸い込んでも、心臓が忙しなく鼓動を打っている。落ち着くことができなくて、アイルは眉を寄せて胸の前で服を握りしめた。立ち止まって、廊下の端の邪魔にならない所で座り込む。
 忙しく目の前を過ぎていく城勤めの者たちは一名の例外もなく王女に心配げな視線を向けて来たが、なにか声をかけられるより早く、アイルは笑顔を浮かべてちいさく手を振った。大丈夫だよ、と言うより、そうした方が声をかけられないで済むともう知っていたからだ。誰も彼もがすこしだけもの言いたげな柔らかな苦笑を浮かべ、アイルに軽く頭を下げては過ぎ去って行く。足音と、言葉にならないざわめきと、誰かの話し声。
 気持ちいいさわり心地の絨毯の上に浮かんでいるのはそうしたもので、アイルは穏やかな気持ちでしゃがんだ膝の上に頭を乗せた。誰にでも見える状態で、かくれんぼをしているような、妙な気分だった。それでいて静かで、心地良い。とくとく、と鼓動を刻む音を聞きながら、アイルは何度目かもう分からない息を吐いてそっと目を閉じた。自分の意思とはまったく関係ない所で、気持ちが嵐の予感にざわめいている。
 来るよ。なにかが、やって来るよ。それはもう、そこまで来ているよ。口唇が、指先がかすかに震える程の予感に耐えきれず、アイルは肺の深くにまで息を吸い込んだ。落ち着かない。落ち着けない。自分の気持ちが手の届かない場所にあることほど、気持ち悪いこともないのである。よく分からない悲しさが胸に下りてきて、アイルは嫌々と首を振った。こんな気持ちは知らない。こんな風な想いは、もっていたくない。
 さび、しい。唇が音もなく言葉に動いたのが見えたかのように、アイルの頭にぽん、と手が乗せられた。ハッとして顔をあげたアイルが見たのは、にこにこと笑っている兄たちの姿で。二人はそれぞれ左右から、アイルの顔を覗き込むようにして立っている。いつの間に、こんなに傍に来ていたのか。気が付けなかった、とわずかに落ち込みながら、アイルは二人の名を呼んだ。
「ロイル兄様、セルカ兄様……なーに? どしたの?」
「どうしたの、はこっちの台詞。どうしたの、アイル。こんな廊下の端っこで、一人でしゃがみ込んで」
 よしよし、と優しい手つきでアイルを撫でながら聞いたのは、青い髪を持つ兄だった。王国の第一位王位継承者にして、アイルの異母兄。ロイルだった。ロイルは問いかけながらアイルの周囲にざっと目を走らせ、護衛官の姿が見当たらないことを確認して苦笑する。どうせまた撒いたか、説得して一人にしてもらったに決まっているのだ、と思って。アイルはやや過敏に、『守られる』ということを嫌がるきらいがあった。
 人を嫌がって遠ざけているのではないことだけが幸いなのだが、これでは護衛官も大変だろう、とロイルは思う。もっとも、現在『専属』育成教育中でもあるアイルの護衛官は、王女がそう望んでいるのを良いことに、手元でみっちりと候補たちを鍛えているようなのだが。セルキストの城内に居る限り、アイルの身の安全はとりあえず保障されているからこそ、なのだろう。それでも他国では考えられない放置具合だった。
 まあ俺たちも人のこと言えないんだけどね、と思いながら、ロイルは微笑んでアイルの答えを待つ。アイルは気まずそうに視線を彷徨わせた後、まあるく開かれた紫の瞳をまっすぐに向けて言う。
「人がいっぱいいると、落ち着かないから。ざわざわする、から」
「ざわざわ? ……ふーん?」
 ひょい、とアイルの顔を覗き込むようにして不思議がったのは、実兄の方だった。セルカは艶やかな銀の髪を耳にかけながら、兄とお揃いの藍色の目を楽しげに細め、くすくすと笑う。なんで笑うの、とむっとしたアイルの額に軽く口付けて、セルカはそう言えば久しぶり、と告げた。ああそう言えば、と同意したロイルは頬に口付けて来て、アイルはくすぐったさに肩をすくめて笑顔になった。ひさしぶり、とアイルも返す。
 ヴァン・カルニエの家にお泊りに行って一週間。昨日帰って来て、合計八日間、アイルは兄たちと会っていなかったのだ。基本的には毎日顔を会わせる仲良しの兄妹にしてみれば、これはかなりの久しぶりなのである。八日ぶり、八日ぶり、とそれぞれ口々に嬉しがるロイルとセルカに恥ずかしげに頷いて、アイルは兄たちに口付けを返す。頬と、額に一度ずつ。そっと触れれば、二人は顔を見合わせて幸せそうに笑った。
 幸福を分かち合うような微笑みを交わして、ロイルとセルカは妹に問いかける。
「それで、元気だったか?」
「なにしてた? 怪我とかしてない? なんか面白いことあった?」
「……ああ、反抗期なんだって?」
 次々に尋ねながらも、兄たちはアイルの答えを待つ気などないようだった。問いの形をした確認のそれに、アイルは頬を膨らまして沈黙する。特に最後の一つにはやや脱力しながら、アイルはロイルとセルカを睨みつけた。知っているくせに。そう言いたげなアイルの額を、セルカは指先で突いてからかうように笑う。
「なのに、ざわざわはするんだよなー? 面白いヤツー」
「面白くないんだから……! ちょっと、もー。なんなの暇なの? やることないの? いじめなの?」
 指先をぺしりとはたき落として言うアイルに、三日違いで生まれた異母兄弟は声を揃えて言い放った。いや、これ愛だから。妹に向ける兄としての純粋な愛情の形のひとつだから、と言い放たれて、アイルは非常に疑わしい眼差しを二人に向けた。さすがは教育官史上、一二を争うくらいに性格の歪んだ教育官を持つ主君である。そんなだからラグリアとラライがあんな風なんだよ、というアイルに二人の反応は劇的だった。
 演技ではなく顔色を悪くしてふらついた二人は、それぞれに怯えた表情であたりを見回した。問題の教育官の姿を、必死に探しているようだった。影も形もないことを安心できるまで見て確かめてから、ロイルはなんてこと言うんだ、と静かに苦悩する呟きで、己の体を抱くように腕を回す。セルカは涙ぐんでいやいやと首を振り、違う、絶対にそれだけはないんだからな、と血を吐くような呟きを絨毯の上に落っことした。
 なにその反応、と半眼で見守るアイルに、二人は意気込んで主張する。いいか、と。
「俺たちの性格が多少歪んでるとしても、それは教育官のせいであって俺たちの生来の性格とかじゃないから! それだけはないから! 絶対ないから! だから俺たちの性格があれを引き寄せたとは絶対に思わないでくれ……! 俺は一度も、ラライに弟を虐げて遊べとか言った覚えないし! というか俺を虐げて遊ぶなって言ってるのになんでやるんだ。今だって逃げてるのに。も、もし捕まったらなにされるか……!」
「そうだそうだー! アイルのばかーっ! 俺に謝れーっ!」
 ラグリアの性格が歪んでるのは俺のせいじゃなくてアイツの生まれつきなんだからなっ、と号泣一歩手前で何とか踏みとどまっている表情で、セルカは若干引いている妹に主張した。
「だって、だってだってなぁ! ラグリア、本当に初対面の時、俺になんて言ったと思うっ! 『おや泣かせがいのありそうな可愛らしい顔立ちをしてらっしゃいますね、セリィアイス王子。はじめまして、ラグリア・ヴァン・カルニエ・トーラスと申します。以後お見知りおきを』だぞっ? 俺は……俺は、その瞬間に運命を感じ取った自分をマジ殺したくなった……! これが殺意か、自分に対する、とか思った! 今も後悔してるっ!」
「ちょ、ばかセルカ落ち着け! これから教育官に運命感じるアイルが不安がるだろっ?」
 なにを言われなくとも普段のラグリアとラライを見ているだけで、十分にアイルは不安なのだが。そう言われてしまうと、さらに教育官を探すのが嫌になって、アイルは溜息をついた。そのラグリアの第一声は、普通に臣下が王子に対面したとしても十分どうかと思う挨拶だったが、それで己の教育官だと確信したセルカも凄まじくどうかしていた。教育官と王族は、生まれ落ちた瞬間に運命によって定められるのだという。
 教育官の側からはそれは分からず、王族が見染めることによって初めてそれは成立する。見つけ出す、ということが一つの鍵なのだった。自覚もない、そしてどこに居るのかも分からないたった一人を、とにかく見つけ出すこと。それだけで、定められた運命の出会いが成立する。涙ぐんで言うセルカのように、そもそもどうしようもない相手に巡り合うこともあるのだが。ロイルにばか、と言われて、セルカはますます涙ぐむ。
「だ、だって……。アイルが、ひどいこと、言うからっ……! 俺、俺あんなじゃないもん。あんなじゃないもんー!」
「分かってる。大丈夫。分かってる。大丈夫……よしよし、泣くな」
 ほらおいで、とばかり広げられたロイルの腕の中に飛び込むようにして、セルカは三日違いの兄にひっついた。ぐずぐず鼻を鳴らして泣きながら、零れる涙を拭ってもらっている。ロイルは慣れた様子でセルカを慰め、呆れているアイルに苦笑した。
「アイル。あんまりセルカ苛めたらダメだぞ?」
「……はーい。ごめんなさーい」
 あまり悪いとも思えないのだが、そこまで本気で泣かれると謝りたい気分にもなってくる。ぼそぼそと響かない声で呟いたアイルに、セルカはしゃくりあげながら頷いた。それからようやく落ち着いた様子で深呼吸をして、セルカはまた注意深く周囲を見回した。とりあえず今のところは、廊下の端でしゃがみこんだりしながら話している自国の王子王女に、微笑ましさを感じる視線が向けられるばかりである。教育官はいない。
 よかった、泣いてるトコ見られたらさらに泣かされるトコだった、と深呼吸をしながら己の気持ちを落ち着かせているセルカを眺め、アイルは思わず口に出して尋ねていた。
「教育官って、なに?」
 王族と対の相手であり、世界でたった一人の存在であり、生きていく為に必要な他者であり、誰よりも近しい場所にある者。そして、アイルがこれから見つけ出す者だ。文面上のそれは分かっているものの、アイルにはいまひとつ、それが理解しきれない。身近にずっと存在してきたからこそ、当たり前になってしまっていて、実際はなにも分からないのだった。つまりそれは、どういうものなのか。分からない、とアイルは呟く。
 難しい顔で考え込むアイルに、そっと言葉をかけたのはロイルだった。
「俺にとっては、俺の命を持ってる相手、だけど。……いや、危機管理的な問題じゃなくてな?」
 確かに生命を握られてる危機感を感じることもあるんだけど、と苦笑して、ロイルは首を傾げながら、そっと目を細めて微笑んだ。愛おしい存在に対する、温かな想いから浮かんだ笑みだった。大切で、大好きな相手なのだと。言葉にされるより強く、表情がそれを届ける。あれは俺の命だよ、とロイルは言った。失えばそれだけで、生きていけはしないのだ、と。まだ成長途中の少年の姿で、声代わりもしない柔らかな音で。
 ロイルは恥ずかしそうに微笑み、己の教育官を語る。
「ラライは、もうひとつの俺の命。一緒に生きてる相手で、ラライが居ないと俺は生きられない。本当に、そう思うよ。たとえば……好き、とか。そういう言葉で片付けられるなら、それが一番簡単なんだけど。それだけの言葉で表したくもないくらい、俺はラライを想ってるよ。俺の命は、アイツが教育官になってくれた瞬間から、もう俺の手元にはないんだ。全部、ラライに預けて来た。全部、ラライが守ってくれてるし、守らせてる」
「……俺は、ラグリアは、そういうんじゃないかも」
 ロイルの言ってることはすごく分かるし、俺にもそういうトコあるけど、とセルカは息を吸いこんだ。
「でも俺にとってのラグリアは、命とかそういうのの前に、酸素とか空気とか、そういうの。なんかこう、絶対そこに在るって言うか、目に見えない大切さっていうか。基本的に全部が全部俺のものでそうあるべきなのに、どうもなんか俺の手に余るっていうか。ちゃんと手に入らせてくれないっていうか。居なくなると死ぬなっていうのは、おんなじだけど。ただ俺はロイルと違って……ラグリアが居ないと、息出来ないからなぁ」
「……たとえじゃなくて?」
「例えじゃなくて。別行動するとか、そういうんだったら良いんだけど。存在が無くなったら息の仕方を忘れると思う。あれ、どうするんだっけって思って、呼吸ができなくなって、そうやって俺は死んじゃうんだと思う。ロイルは命が無くなっちゃうから死んじゃうんだけど、俺は生きてく方法が分からなくなってダメんなると思うんだよな。ラグリアに会う前、どうやって生きてたか、俺ちょっと思い出せないし……困った。ほんと困った」
 あんなに性格が破綻してるのに、それでも傍にいなきゃいけないんだ、と。語るセルカは苦笑いをしていても、愛しさを隠し切れてはいなかった。自分ではもうどうすることもできないくらいに愛おしいのだと、瞳と表情が語っていた。
「つか、聞くってことは興味はあんの?」
 わくわくした様子で問いかけてくるセルカに頷くのにためらいを覚えつつ、結局アイルはこくりと頷いて溜息をついた。興味があるのかないのか、でいうなら今は『ある』が正しいからだ。無関心ではない。それでも積極的に欲しいと思う訳ではなく、複雑なのだった。自分の気持ちを持て余しながら、アイルは正直にそれを口にした。積極的に欲しくはないし、探してもいないし、ちょっと興味があるだけなんだけど、それでも。
「レスティーにあげるのは、ダメだと思ったの……! だって私の教育官は私のってことでつまり私のだし、あげるとかそういうんじゃなくない? ないよね? だから……だから、んと。なんか、ちょっと、どういうのなのかなって気になっただけで」
「……レスティー?」
 どうしてそこで従兄の名前が出てくるか分からずに眉を寄せたロイルに、アイルはレスティーの会話をおおまかに告げた。聞いたロイルは苦笑しながら頷き、災難だったな、とアイルの頭を撫でてくる。ほわりと嬉しい気持ちになって笑いながら、アイルはこくこくと頷いた。そこで変な自覚だけを促されてしまったからこそ、落ち着かない気分になっているのだった。いらない、から、気になる、になっただけ進歩であるのだが。

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