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 ぴくりとも動かない国王をどうしようもない呆れの目で眺めて、トリアーセはこんな大人にはならないでくださいね、とげっそりした声でアイルに求めた。トリアーセの腕に大人しく抱きあげられていたアイルは、こくりと無言で頷き、国王教育官の頭に手を伸ばす。よしよし、トリアーセは頑張ってるよ、と頭を撫でると、トリアーセはゆるりと目を細めて微笑した。ありがとうございます。囁きと共に、頬にごく軽い口付けが落とされる。
 そのまま顔を見合わせてくすくすと笑う姿こそ、数日ぶりに再開した父娘のようだった。王女を抱き上げたまま国王を放置して室内に戻るトリアーセに、アイルは首を傾げて問いかけた。
「トリアーセ。そういえば、昨日はどこに行ってたの?」
 死体のように動かない父親を案じる言葉は、アイルの口からはもれなかった。案じる程にひどい一撃が加えられた訳ではなかったし、単に日常風景の一つであるからだ。たまの出張でトリアーセが城を留守にしていない限り、国王が教育官に蹴り飛ばされるのは一日に二回から五回に及ぶ。駄目国王に対する教育指導なのだ。トリアーセはアイルの体を恭しい仕草で椅子に座らせてから、その前にしゃがみ込んで口を開く。
 微笑みながら伸ばされた指先は、慈しむようにアイルの頭を撫でて行った。
「ちょっとアホの後始末に。お出迎え出来ず、申し訳ありませんでした。一日遅れですが、お帰りなさい」
「えへへ。ただいま!」
 さらりと告げられた言葉は、教育官が浮かべる麗しい笑顔にややそぐわないものだったが、アイルは気にした様子もなく嬉しそうに頷いた。アホってあれかなぁ、とアイルが視線を向けたのは未だ床に倒れたままの父親に対してで。まあその通りなんですけどね、と呆れと諦めが滲んだ表情で視線を追いながら、トリアーセは腕組みをして息を吐く。二人分の冷たい視線に耐えきれず、国王は涙目でがばっと顔をあげた。
「アイル、父上に対する愛が足りないんじゃないかっ? トリアーセも、夜中に急いで帰って来たと思ったら報告より先に『アイル様はもう帰ってきちゃいましたよね……!』だし、そこはまず『只今戻りました、国王陛下』だろ。俺だろ、俺っ! なんでそんな蔑ろにするんだっ!」
「理由も原因も全て貴方が握っておられますので、胸に手を当てて鏡を前にしてよく考えて来なさい」
 口元に浮かべた冷笑をまっすぐに主君に向け、トリアーセは淀みない口調で言い放った。衝撃を受けてさらに涙目になる国王を、通りすがりの城勤めの者たちが生れた仕草で避けていく。抱き上げるでもなく、しゃがみ込んで安否を問う訳でもなく。ある者は自国の国王に対してぬるい笑みを浮かべ黙殺し、ある者は室内を覗きこんでトリアーセとアイルに苦笑交じりの一礼を向けて行くだけで、基本的に放置していた。
 放っておかれている最高権力者はもぞもぞ身動きをしながら起き上がり、床にしゃがみ込みながら首を傾げて胸に手を当てる。先程の衝撃が、教育官の言葉ではなく冷笑によるもののみであったと仕草一つで暴露しながら、国王は不思議そうな表情で沈黙していた。言語理解能力の高い上司が欲しい、と思いながら、トリアーセは一応答えを待ってやった。やがて顔をあげた国王は、トリアーセをまっすぐに見ながら言う。
 トリアーセ、と名を呼ぶ声に、国王の教育官はゆるりと微笑むだけだった。期待してしまう己を内心で殴り倒して警戒する教育官に、国王はごく真面目な、厳かな声で告げる。
「心当たりが多すぎて特定できないんだが」
「爆発して死んで来い」
 お願いしますから本当にこんな大人にならないでくださいね、とアイルに向き直るトリアーセの目はごく真剣なものだった。う、うん分かってる、大丈夫、とひたすらこくこく頷くアイルに深々と溜息をついて、トリアーセは国王に歩み寄った。蹴られるかも、とびくびく怯える国王を呆れかえった視線で見下ろし、トリアーセは腰を屈めて手を差し出す。いつまで無様に座り込んでるつもりですか、という言葉に国王は嬉しげに笑った。
 手を重ねて引っ張り上げられるように立ちあがった国王の額を、トリアーセの拳が小突いて離れていく。良いか馬鹿仕事しろよ、と言い聞かせるように告げられて、国王は御主人様に褒められた大型犬の微笑みで大きく頷いた。
「おう、するする! 仕事頑張る! ……そういえばアイルは、なんか用事だったのか?」
「うん。でも父上にじゃないから、なにも気にしないで仕事していいよ。してね?」
 そろそろ部下の人たちが泣いちゃうからね、と言いながら執務机を指差したアイルに、廊下で待機していた文官たちと国王護衛官から拍手と歓声が向けられた。溜息を付きながら執務机に戻り、国王は肘を付きながら俺が国内最高権力者ってなにかの間違いだと思うんだよな、城内の扱い的に、とぼやいている。教育官は微笑みを浮かべて国王を見送るだけで特にフォローもなにもせず、アイルの前まで戻って来た。
 有能この上ない国王教育官は、なんとなく、幼い王女の用事が自分にあると察したようだった。お待たせしました、と苦笑するのに首を振って、アイルは改めてトリアーセの顔を見る。
「あのね、トリアーセ。私、トリアーセに聞きたいことがあるの」
 はい、と。ごく穏やかにトリアーセが相槌を打つのとほぼ同時に、しょんぼりしきった国王の声が俺はー、と問いかけて来た。王女と教育官は、ものも言えないくらい呆れた視線を机に突っ伏しかねないくらいしょんぼりした国王に向ける。
「あのね、父上。父上に聞いてもしょうがないことだから、トリアーセに聞くんだよ?」
「国王陛下。誰かと話している時に会話に割り込まないでください。それはすごく失礼なことです。……礼儀作法、きっちり叩きこんだ筈なんですが、もう一回教育し直した方がいいですか?」
「……娘と教育官が、俺を蔑ろにする」
 ひどいと思わないか、と書類を手渡されながら問いかけられた文官は、完璧な笑みで持って国王陛下に返事をした。いいえ、全く。城内誰に聞いても同じ答えが返ってくるであろう、という確信に満ちた一言だった。いいから仕事してくださいね、と言い残して部屋を出ていく文官の青年の背を恨めしく見送って、国王はしょんぼりしたまま書類仕事を再開した。すでに半分飽きているような手つきだが、ペンが動くだけマシだ。
 そう己に言い聞かせて国王から視線を引きはがし、トリアーセはアイルの前にしゃがみこむ。椅子に座らないのは、そうするよりも有事に反応しやすいからだ。国王が逃亡しようとした時、未然に防ぐ為でもある。慣れきった対応に申し訳なく思いながら、アイルはあのね、ともう一度口にした。飽きもせずはい、と促してくれるトリアーセに嬉しく笑い、アイルはそっと問いかける。
「トリアーセは、教育官だよね? ……教育官って、なに?」
 僅かに目を見開いた後、トリアーセはくすりと笑った。くすくす、くすくすとおかしげに肩を震わせて笑いながら、トリアーセはごく優しい目でアイルを見た。そっと撫でて離れて行った指先が宿す、慈しみに満ちた愛情。父親が娘に向ける庇護の想いに、よく似ているようだった。さざめく笑いを止められないまま、トリアーセは悪戯っぽく問いかける。
「あなたの教育官、ですか?」
 それは私ではなく、あなたの胸に聞かないと。心を指差すように向けられた指を押しのけながら、アイルはぷくぅ、と頬を膨らませて不満を表した。分かっているくせに、からかう者が多すぎる。
「ちがいますー。トリアーセがどんな風なのって聞いてるのー。私のがどうとかじゃないのー」
 微妙な言い回しにそっと目を細め、トリアーセはくすくすと笑って頷いた。そうですか、と言うと、アイルはそうなのです、とうんうんと頷く。可愛いなぁ、と思いながら手を伸ばし、トリアーセはアイルの頭を遠慮なく撫でやった。王女の教育官が発見されれば、しばらくは触れることもできなくなるだろう。寂しくなる、と娘を嫁に出すようなしんみりした気分になりながら、トリアーセは心の在処を示すように胸に手を押し当てた。
「私は……まず国王陛下第一の僕であり、忠臣であり、そしてその身を護る者でしょうか」
「俺のことすぐ蹴るくせに」
「自業自得以外のなにものでもありませんね」
 会話に割り込むな、とは言わず。しょげる国王に視線すら向けずに、トリアーセはきっぱりと言い切った。アイルはそのやり取りに二人を見比べるよう視線を動かし、ごく純粋な疑問に首を傾げる。
「トリアーセは、なんで父上のこと蹴るの?」
「折檻している時になにか起こると困るので、手を開けておく為に蹴ってるんですが、理由でしたら一番は教育指導。あとはこの国を良くしていく為に仕事をさせる為と、効率の問題と……ストレス発散です」
 ふふ、と恥ずかしそうに微笑むトリアーセに、アイルはよく分かりました、と頷いた。特に、最後に付け加えられた理由に納得する。それは蹴っちゃうよね、と同意するアイルに、国王はそれは違うだろうっ、と涙声で絶叫する。
「ばか! ばかトリアーセ! 俺をストレス発散の道具にしていいと思ってんのかっ!」
「して良いと思ってるから蹴られるに決まってんでしょうが仕事しろー!」
 国王の襟首を掴んで締め上げ、一部のためらいもなく頬を叩いたのは国王直属護衛官の証を付けた青年だった。同僚の暴挙に、護衛官たちは止めもせず、扉から顔を覗かせて拍手をしている。国王の身を守る最後の盾であり最強の剣であるべき教育官は、服を締めて首を圧迫している護衛官を止めるでもなく眺め、溜息をついて首を振る。
「気がすんだら離してくださいね。それ、まだ使うので」
「分かってます。……反省、反省しろよっ! お前のせいでトリアーセ様が頭痛薬持ち歩いてんだからなー!」
「絞まる! 絞まる絞まる絞まるしまってる本気で息苦しい! ちょ……ばっ、やめっ」
 ばったんばったん暴れる国王に本気の舌打ちをした護衛官を複雑そうに眺め、アイルは殺さないであげてね、とだけ言った。あまりに暴れるので手を離した護衛官は王女に振り返り、凶行に及んだとも思えない笑みで加減はしました、と告げる。なんとも言えない表情で頷きだけを返し、アイルは和やかな笑みを浮かべているトリアーセを見た。頭痛薬、持ってるの。呟きに、国王の教育官は吐息に乗せて笑みをこぼした。
「教育官なら誰でも持ってますよ。私だけではありません」
「……ラグリアとラライも?」
「彼らは王子様方が常備してそうですけれど……そうだ国王陛下? ひとつ申し上げておきますが」
 げっほげほ咳き込みながら呼吸を整える国王に、トリアーセは綺麗な笑みを浮かべてみせた。背筋がぞっと凍りつきながらも見とれてしまうような、残酷な美しさを秘めた笑みだった。
「良い、と思って蹴ってます。教育官ですから」
「……そうか」
「そうです。幸いなことに、教育官は不敬罪に問われませんし」
 全部教育指導で片付けられますし、と言うトリアーセに、アイルは自国の法律を思い出していた。教育官に関して。教育官は己の主君である王族に手をあげることが許される。ただし教育的指導の範囲を越えなければであり、範囲は各々の良識に任せるものとする。つまり動けなくなるまで蹴ったり踏んだりすることは、トリアーセにしてみれば良識の範囲内の教育的指導であるらしかった。納得して、アイルは深々と頷いた。
 どうりで、ラグリアとラライが捕まらない訳だ。兄様逃げ切れたかなぁ、と思って遠い目になるアイルに、トリアーセはさて冗談はさておいて、と全くそうは思っていない声の響きで笑顔を向けた。
「教育官は主君の絶対の味方です。決して、なにがあろうと主君を見捨てません。どんな馬鹿だろうと、どんなアホミスされようと、どれだけ頭悪かろうと、教育官は主君の味方です。……ちょっと欠点があったくらいが可愛いかな、とも思えますし。陛下の場合は欠点というか致命傷を通り越して死傷に近い欠点ではありますが、それでも見捨てられないというか。慣れてくるとそれが快感……いえ、可愛いと思えてきますし」
 けほ、とわざとらしく咳き込んで、トリアーセは致命的なミスをなかったことにした。有無を言わさないような笑みも付いて来たので誤魔化されることにして、アイルはそっか、と頷いた。確かに、それはその通りだったからだ。どんなに国王がアレであろうとも、トリアーセは常に傍に居る。嫌悪などの悪感情を向けることもなく、怒っていても根本には信頼と愛情があった。主君に対する比類なき好意が、そこには存在している。
 それは、アイルがまだ知らないものだった。不思議な気持ちになって、アイルは問いかける。
「なにがそんなに好きなの?」
「……存在がもう愛おしいもので。病気染みてるんですけれど」
 くす、と口元に指先を押し当てて、困った風に微笑んで。トリアーセは、眉を寄せて呟いた。
「そこに居るだけで、好ましいと、思う。そういうものなので、なにが、ではないんですよ」
「……よかったね、父上」
「ああ、でも仕事しない主君は嫌いですから。そこお間違えの無いように」
 ぱあぁっ、と明るい顔で復活した主君の精神を即座に崖下に叩き落とし、トリアーセはにこりと笑って手を動かせ、と言い放つ。国王はめげた様子もなく頷き、打って変わって上機嫌で書類仕事をし始めた。鼻歌交じりにサインをするのを眺めるトリアーセの横顔は、しまった本人の居る所で言い過ぎた、と反省している。トントン、と指先で額を叩いてなにかを堪え、トリアーセは私から言えるのはこれくらいですが、と息を吐く。
「教育官についてお知りになりたいのなら、教育官に聞くのは正しいと思いますよ。当事者ですからね……ラグリアとラライには聞きました? アニシアも、比較的捕まえやすいと思いますが」
「アニシアは、レスティーが二人でお話させてくれないと思うの。ラグリアとラライはさっき見たよ。兄様たち追いかけてた」
 城内に常駐する教育官の名を出して問うトリアーセに、アイルは指折り数えながらそう言った。レスティーはふざけた態度と口調で誤魔化しているだけで非常に狡猾で独占欲も強く、アニシアを一人で自由にさせてくれるとも思えない。それにうっかり発作的な自殺に走らせた場合、アイルに止め切る自信はないのだった。トリアーセが国王を蹴るのと同じくらいの頻度で発作的自殺未遂を起こすのが、アニシアなのだから。

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