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 アニシアに対する言い分に理解を示して頷いたトリアーセは、続く王子兄弟の教育官の惨状に、無言で胃のあたりを手で押さえてうずくまった。しかしアイルが心配の声を発するより早く自力復活を遂げたトリアーセは、聞かなかったことにします、と言って首を振った。それでは他ですね、と呟いて立ち上がり、トリアーセはうきうきと仕事をしている国王の元に歩み寄った。顔をあげた国王に、トリアーセは手を差し出す。
 なにも考えていない笑顔で、国王は差し出された手のひらにぽん、と手を乗せた。お手すんな、と見ていた護衛官が突っ込む。国王はものすごく不思議そうな顔で首を傾げた。
「なんだ、違うのか?」
「……会話の流れを聞いていなかったくらい、仕事に集中していたんだと思ってあげましょう。違いますよ。軍師に提出する書類、あったでしょう。貸してください」
「ニムロの? ……ちょっと待て。二秒待て」
 このへんに入れといたと思う、と言いながら引き出しを開け、国王はよれた書類を取りだした。汚れを手で払って、端っこに描いたお花とちょうちょの絵に線を引いてなかったことにしてから、国王はそれをトリアーセに差し出す。もちろん一連の流れを見ていたトリアーセは、書類と引き換えに国王の頭を平手ではたき倒した。拳で無かっただけ、まだマシな処遇である。出したのに叩いた、とすんすん鼻を鳴らすのは無視だ。
 アイルの元に引き返して来たトリアーセは、ざっと書面に目を通してミスがないかだけ確認した後、その書類を差し出した。
「それでは、ニムロ様の元へ行く口実を差し上げましょう。これを持って行けば、おつかいになりますから怒られませんよ」
「……うん」
 軍師。ニムロは、国王と違って仕事中の無駄を嫌う。王子であっても王女であっても、話を聞きたいくらいの用事では相手にしてもらえない可能性が高かった。それを知っているからこそ書類を受け取っても不安そうなアイルに、トリアーセは苦笑して尋ねる。
「護衛官でも呼んで、一緒に行きますか?」
 そもそもアイル様と一緒に居ることも彼らの仕事なので、喜んで来ますよ、と言うトリアーセに、アイルはぶんぶんと首を振って椅子から飛び降りた。一人でできるもん、と胸を張ると、トリアーセは激励代わりにアイルの頭を撫でてくれる。はい、じゃあ行ってらっしゃい、と優しく送り出されて、アイルは力強く頷いて執務室を飛び出して行った。出て行った娘のちいさな背を見送り、国王は不安げに顔を曇らせる。
「……ニムロの機嫌、良かったか? 昼前に本の角でぶん殴られたんだが」
「兄上を殴ったら気分がスッキリしました、と仰って高笑いなさってたので、悪くはないんじゃないでしょうか」
 ぐすん、と国王は鼻をすすりあげた。俺の妹怖い、と呟くのに、トリアーセは仕事が滞ってるから怒られるんですよ、と言いつつ国王を慰めてやる。セルキスト王国の軍師にして国王の実の妹、ニムロが怖いのは、一応事実ではあるからだ。また殴られないように頑張って仕事しましょうね、と言うトリアーセにこくこくと、アイルそっくりの仕草で頷いて。国王はそういえば、とアイルが出て行った扉を見つめながら呟いた。
「昨日はいらないって言い張ってた筈なんだが……気が変わったのか」
「欲しい、とは言ってませんでしたから。考えている最中なんでしょう。見守ってあげましょうね」
 というか下手な手出しするんじゃありません、と笑顔で脅して来るトリアーセに、やや怯えながらもこくりと頷いて。国王はそうか、と呟いた。そうか、とこみあげてくる幸せに、口元を緩ませて。手を止めて喜びをかみしめるのに、トリアーセは怒らなかった。



 城の北側の一角。一階から三階までのある区画は『軍棟』と呼ばれている。理由はそのまま、軍関連の人々がひしめき合っているからなのだが、アイルは単純に、軍師の執務室がそこにあるからだと思ってる。セルキスト王国軍に置いて命令系統の最上位に属するのは、国王ではなく『軍師』なのだ。他国とはそもそも軍の階級編成が違う為にそうなっているらしいのだが、アイルにはまだ上手く理解できないことだった。
 とりあえず、この城に置いて一番偉いのは国王ではなく軍師である。精神的に。それだけは確かな事実で、だからこそアイルは父親の元に行くよりも緊張して、その一角に足を踏み入れた。その一角はあくまで城の中に存在しているので、明確な区切りがあるわけではない。しかし廊下の角を曲がった瞬間、空気がさっと冴えて透き通り、きびしく引き締まっているのをアイルは感じ取る。思わずアイルは、息を飲みこんだ。
 続く廊下はなにも変わらない。床にはまっすぐにクリーム色の絨毯がひかれ、ほこりひとつ落ちていない清潔さで整えられている。窓には外で咲き乱れる花びらが付いていて、目から春だということを教えてくれていた。壁には花が飾られていたり、あるいは風景画や人物画がかけられている。なんの変哲もない、ただの廊下だ。それなのに異常に怖い気がして、アイルは書類をぐしゃぐしゃにしないよう、そっと抱きしめた。
 人通りは中心部と比べれば確かに少なかったが、それでも無いものではない。忙しく動きまわる大半が軍人や兵士見習いの学生たちというだけであって、それ自体が怖いものではなかった。見なれた侍女服や文官の姿もちらほらと混じっているが、圧倒的に数がすくないからこそ、やけに浮いて見えた。そーっとそーっと足を進めながら、アイルは廊下を歩いていく。視線がかすめるが、誰からも声はかけられなかった。
 軍師の執務室があるのは、二階の一番奥の部屋だった。そこへ続いていく廊下を曲がると、空気がふわりと柔らかに滲む。アイルは思わず目を瞬かせ、胸いっぱいに息を吸い込んだ。執務室の扉は開け放たれていて、そこから良い香りが漂って来る。甘いオレンジと、爽やかなレモンの香りだった。ぴりっと刺激的なしょうがの匂いも混じっていて、目が覚めて行くような、気持ちが研ぎ澄まされながらも緩む気が、した。
 そこまでの緊張がするすると溶け、アイルはほっと力を抜きながら執務室の中を覗き込む。どこか落ち着きの無い印象の国王執務室と違って、軍師の執務室は無駄がなく、整然とした印象だった。部屋の隅々まできっちりと整えられているのは、仕事に必要でないものを入れないからだろう。ただ、窓辺に置かれた大きな執務机の端に、精油を焙じる香炉がそっと置かれていた。漂う香りは、そこからのものだった。
 室内には、その部屋の主と補佐役が居るだけだ。ちょうど人が引いたばかりなのだろう。すこし疲れた様子で椅子に座りなおした軍師の視線がすっと持ち上がり、アイルの姿を捕らえた。若干眉を寄せられたのに怯えながら、アイルはなにかを言われる前におつかいです、と言う。
「ち、父上の書類持ってきました! こんにちはニムロさま! クリティカも、こんにちは!」
「はい、こんにちは。いらっしゃいませ、アイルさま。……ニムロ様、アイルさま怯えてるじゃないですか。ダメですよ」
 大丈夫だから入っておいでなさいな、とアイルを手招きながら軍師に注意したのは、補佐役の女性だった。菜の花の柔らかな黄がかった茶色の髪は、優しい表情をする女性によく似合っていた。瞳も同じ、温かな色合いだ。おずおず近寄りながら、アイルはぺこ、と頭を下げる。
「クリティカ、こんにちは。……おび、えてないデスヨ!」
「……アリスレシェクト。良いから書類」
 軍師補佐、クリティカとの会話を打ち切らせる響きで言い放ち、軍師ニムロはアイルに向かって手を差し出した。クリティカはもう、と咎める視線を向けただけでそれ以上は口をはさまず、アイルの背をそっと押してやる。アイルはニムロに向かってそーっと書類を差し出し、無意識に父親との共通点を探し出そうとした。軍師ニムロは、異母兄弟が多い親世代において、唯一国王と両親を同じくする『実の妹』なのである。
 国王が銀髪に黒い瞳なのに対し、ニムロは濃い茶色の髪に藍色の瞳をしていた。藍色が、アイルにしてみれば祖父にあたる、先代国王の瞳の色であったと言う。書類をめくって行く白い指先は国王と似なくとも、瞳はアイルの兄と同じ色だ。血の繋がりをなんとなく、感じ取る。ニムロは軍服に似た動きやすそうな男装に身を包んで、椅子の上で足を組みながら書類に目を落としていた。国王より、よほど格好良い姿だ。
「……ニムロさま。足」
 格好良いなぁ、と思うアイルとは対照的に、クリティカの声はすこしばかり恥ずかしそうだった。行儀悪い格好でお仕事しないでください、と優しく響く声でやんわり注意され、ニムロは眉を寄せながら視線を持ち上げる。
「細かいことは気にしないでちょうだい。……あらアリスレシェクト、あなたまだ居たの? 何か用事?」
 用事ないなら出て行きなさいな、と麗しく微笑む軍師の指先は、すでに部屋の扉を指差していた。さっそくめげそうになりながら、アイルはぶんぶんと首を振って用事なの、と言う。
「クリティカに……聞きたいことがあって、来たの」
「あら、私ですか? 嬉しい。なんでしょう」
 ふふ、と嬉しげに笑みをこぼしたクリティカは、しゃがみこんでアイルと視線の高さを合わせてくれた。なんでも聞いてくださいね、と笑う表情は優しさに満ち溢れていて、アイルは嬉しい気持ちで頷きかけたのだが。刺すような視線をニムロから感じたので、ぎこちなく動きを止めてしまった。怖い。やっぱり怖い。ごめんなさいやっぱり止めます、と言いかけたアイルの唇を指先でそっと塞ぎ、クリティカが眉を寄せて振り返る。
「ニムロさま、いけません! どうしてこんなことくらいで嫉妬されるんですか!」
「だって貴女は私の教育官じゃない。他の人と会話する意味が分からないわ?」
「会話するくらい許してください。それに、相手はアイルさまですよ? あなたの可愛い姪なんですから、私にも可愛がる権利があるというものです。私はあなたの教育官なんですから。……ごめんなさいね、アイルさま。ニムロさまはちょっと……すごく、かなり、嫉妬深いだけなの」
 だから怖くないのよ、と唇から指先を離しながら言い聞かせるクリティカの背後で、ニムロはとても納得していない表情で、椅子の上で足を組み替えている。アイルはとりあえず頷きながら、なぜニムロがものすごく怖かったのか、が分かる気がした。たぶん軍師執務室に来るたび、クリティカに抱きついたり、抱っこされて可愛がられていたからだろう。さすがに体がそれなりに大きくなってからは、抱っこされていないのだが。
 もう抱きつくのも止めよう、と思いながらアイルは困った風に微笑むクリティカを見つめ、それからニムロにそーっと視線を移した。あなたが姪でなければ敵だと認定してあげたのに、と言わんばかりの視線が返ってくる。泣きそうになりながら、アイルは手をぴしっとあげて宣言した。
「ニムロさま! 私もう、クリティカに抱きついたりしないです!」
「あら、そうなの?」
「絶対しないです! ほっぺにちゅーとか、抱っこしてとかも言わないし、クリティカ大好きっていうのは心の中で想うだけであんまり口に出さないようにしますっ!」
 顔を真っ赤にしたクリティカは、頬を押さえながらしゃがみこんだ膝に額をくっつけ、動かなくなってしまった。そうですよね、アイルさまも王族だからそうなりますよね、と涙声での呟きは、大量の諦めを含んでいる。ニムロは聞き分けが良くなって理解力を増した姪に、おうような仕草で頷き、見せたこともないような上機嫌な笑みを浮かべた。分かって来たじゃない、と褒められて、アイルはこくこくと必死に頷いた。
「クリティカはニムロ様の教育官だから、好きだけど、でもニムロ様の教育官だってちゃんと分かってます」
「よろしい。会話を許可します」
「ありがとうございます!」
 両手をあげて大喜びするアイルに、ニムロは微笑ましい視線を向けた。大きくなったのねえ、と言って来るニムロに、アイルはだってもう教育官探すくらいの年齢になりましたから、と胸を張る。あら、と意外そうに目を瞬かせたニムロから視線を移動させて、アイルは未だ恥ずかしがって動けない様子のクリティカに、だからねあのね、と首を傾げてみせた。
「クリティカに、聞きに来たの。教育官って、なに?」
「……もうそういう時期なんですね」
 いらっしゃった理由が分かりました、と頷いて顔をあげながらも、クリティカは脱力しきった息を吐き出した。
「私に聞いても、あまり参考になるとも思えないのですが」
「そうねぇ……。それにしてもアリスレシェクト、あなた本当に五歳になったの? だってついこの間、産まれなかったかしら。……本当に五歳になったの? 数え間違えたか、兄上が先走っていたりしない?」
 落ち着いてよく考えてみなさいね、とニムロに言われてしまうと、アイルもなんだか自信がなくなってくる。指折り自分の年齢を数えると確かに五歳ではあるのだが、国王が先走っている、という可能性が捨てきれなかった。なにせ、国王なのである。たぶんだいじょうぶ、だとおもう、んですけれど。だんだん尻すぼみになっていくアイルに、ニムロはそうよねぇ、と納得していな風に首を傾げ、己の教育官にも視線を向けた。
 確認を求める主の視線に、クリティカはやや呆れた様子で口を開く。確かにアイルさまは産まれて五年経ちましたよ、と。不安がらせるようなことを仰らないでください、とたしなめられて、ニムロはきゅぅと眉を寄せて沈黙した。五年、となにか確かめるようにニムロは呟き、アイルに視線が向けられる。成長具合を確かめるようにしげしげと見つめ、ニムロは大きくなったのね、と感慨深そうな呟きと、溜息をもらして微笑んだ。

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