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 溜息をつかれる理由が分からないものの、アイルはとりあえずニムロに向かって微笑み返す。にこりと笑顔を交わしながら、ニムロは己の頬を指先でなぞるようにし、もう一度溜息をつく。不思議そうに首を傾げたアイルに、軍師の物憂げな呟きが届いた。
「道理で最近、徹夜仕事が辛くなって来た筈だわ……。あなたが生まれるくらいまでは平気だったのに」
「元々、徹夜で仕事などしない方が良いんですから。諦めてくださいね」
 時の流れにだけは勝てませんよ、と微笑みながら言ってくる己の教育官を、ニムロは恨めしげな目で見つめた。クリティカは、ニムロより四歳年下だ。全ての教育官がそうではないにしろ、クリティカは珍しく、主君より年齢が低いのだった。ニムロの年齢はまだ三十を数えてはいなかったが、限りなくそれに近い所にある。年下に時の流れとか言って欲しくないわ、と言わんばかり、ニムロはクリティカに拗ねた目を向けた。
 そんな主君もまた愛らしい、とばかり花が綻ぶような笑みを見せ、クリティカは静かに唇を開く。
「大体、私はいつもお願いしていますよね。徹夜しないで、きちんとお眠りになってください、と」
「……仕事が終わらないの。国に影響が出るかも知れないのだから、終わらせてから休みたいのよ」
「大丈夫です。国王陛下がいらっしゃいます」
 その言葉が、最終的に国王が頑張って踏みとどまってくれる筈という意味なのか、国王があれだけ仕事を滞らせてもつつがなく国が回っているという意味なのか、アイルは口に出して尋ねなかった。まあそうよね、と呆れかえった表情で国王の実妹である人が頷いたことが全てだからだ。セルキストの将来がものすごく心配になりつつ、アイルは深々と溜息をついた。それでも今は戦争もなにもなく、平和な春の日なのである。
 差し込む光は、部屋の奥まで届いていた。太陽が、もう傾いているのだろう。煮詰めた飴色のとろりとした陽光に目を和ませて、アイルはふぁ、とあくびをする。眠いなら帰って寝ればいいのに、と部屋に教育官と二人きりで無いという理由のみでアイルを邪魔がる視線を向けるニムロの頭を、クリティカはごく軽く平手で叩いた。ぺす、と気の抜けた響きで叩かれて、ニムロはますます不満顔でアイルに嫌そうな視線を向ける。
 大人げないことこの上ない主君の視線からアイルを隠すように立ち位置を変えて、クリティカはそれでなんでしたっけ、と気を取り直した呟きを発した。教育官のことでしたよね、と問われて、アイルはこくこくと忙しなく頷いた。子リスか、なにか小動物を連想させる動きに目を和ませながら、クリティカは私に聞いてもさほど参考になるとも思いませんが、と前置きつきで口を開く。
「そうですね……まず、ご存じないことだと思いますので言っておきますが、私は探された教育官ではありませんでした。私は、探される前に見つかっちゃった教育官です。そこの所、他の方々と大きく違いますので、ご了承くださいね」
「……見つかっちゃったの?」
「ええ。見つかっちゃったんです。私が生まれて数時間のことでした」
 ですからもちろん私の記憶に御座いません、と。しとやかな笑みで告げられた言葉に、アイルは思わず体を横に傾けて、クリティカの後ろを見てしまった。偉そうに椅子に足を組んで腰かけたニムロは、向けられた視線を受け止め、頷いてやる。まったくの事実だったからである。ニムロが四歳のことだった。まだ教育官の存在を探し始める前、周囲がなにも言わない時期のことだった。求める気持ちも、ない頃のことだった。
 セルキスト最高臣下とされる五つの家のうち一つ、エフェルト家の三女が生まれた祝いに訪れたニムロは、その場で確信してしまったのだ。この存在だ、と。生まれたての赤子を見て、見つめて、どうしようもなく理解してしまった。この存在こそ、己の教育官であると。だからこそクリティカは正真正銘、産まれてからずっと教育官なのである。物心ついた時からそうなるべく教育され、主君の助けとなるように育てられた存在。
 探されなかった、生まれついての教育官。絶対あなたの参考にならないわよ、と僅かばかり申し訳なさそうにするニムロから視線を外し、アイルは困ったようにクリティカを見返した。女性は穏やかに微笑みながら、お聞きしたいことがあるのならなんなりとお答え致しますが、と告げる。
「教育官とはなにか、という問いでしたら、私は『なるべきものだった』としかお答えできません。気がついた時にはもう、私は教育官でしたし、それに……私は他の方と違って嫌がったこともありませんし、抵抗したこともありません。お城から逃げようと思わなくて、ただニムロさまの傍にあるものだと思っていて、それが最初から嬉しかったので……。他の方と比べて、本当に、随分素直に教育官になりましたから」
「……嫌がる、とか……言った?」
「言いましたけど……え?」
 聞き間違いかな、と不思議そうにするアイルに驚いた声をあげて、クリティカはしげしげと王女を見つめた。二人の間には、なにか決定的な見解の相違があるようだった。それも、あまり良くない種類の。できれば触れないようにそっとしておきたいのだが、教育官に関わることなのでそうも行かない。もう得ているのなら本人同士の問題なので放置しておくが、アイルはこれから教育官を得るのだから。その、とクリティカは言う。
「まさかとは思いますが……教育官について、あまり説明を受けてらっしゃらなかったりしますか?」
「聞いたと、思うけど。居ないと死んじゃうとか、十歳になるまでに見つけないと死んじゃうとか、探し出して見つけられないとだんだん体調が悪くなってくとか、努力と正義と愛の結果でどう考えても無理な床下から出現でもやっちゃうとか、基本的に限界が設定されてないから頑張ればわりとどんなことでもできるとか、不敬罪が適応されないから蹴っても踏んでも大丈夫とか、ちょーだいって言われてもあげないんだよ?」
「……わかりました」
 誰がなにを言ったのかくらいのことまでは理解しました、と苦笑しきりで頷いて。クリティカは深々と息を吐き出し、ごく無造作にニムロの名を呼んだ。ニムロさま、ちょっとこちらへ。視線を向けもせず呼び出されて、ニムロは椅子の上でやや仰け反るようにして顔を引きつらせる。そんな呼び方をされて、喜ばしい出来事であった記憶がない。私は関係ないじゃないの、と呟くと、クリティカは無言のままで振り向く。笑顔だった。
「ニムロさま」
 いいから、ちょっと来い。言葉にされなかった意思を理解してしまった己にこそ泣きそうになりながら、ニムロはそろそろと椅子から足を下ろして立ち上がる。近寄る、というよりは間合いを詰めるのに似た動きでじりじりと寄って来たニムロの腕に、女性の手が触れた。力の限り掴まれた方が、まだ怖くないような触れ方だった。視線を彷徨わせて沈黙するニムロを、アイルは珍しく見つめている。怯えるのを初めて見たからだ。
 逃げだしたくて仕方がない、と言わんばかりの表情は、確かに国王の妹だった。あー、血が繋がってたんだー、と暢気に納得するアイルを睨む余裕もなく、ニムロは己の教育官にひきつった表情を向ける。なにかしら、と問いかける前に、クリティカの目がすぅ、と細まった。表情は笑顔のままだった。とてつもなく怖い。
「……どうして王家の方々は、いつもいつも、大事なことを教えておいてくださらないのでしょうか」
「な……なにが、かしら」
「一番大事なことを教えてあるからと言って、二番目に大切なことを教えなくても良い訳がないでしょう!」
 私は本当に特例中の特例なんですからね、と叫ぶようにしてニムロを叱りつけ、クリティカは真剣な視線でアイルを見た。思わず背筋を伸ばしてしまうアイルに、クリティカは心配でならない、という視線を向ける。
「良いですか。気を……気をしっかり持って探されてくださいね。一度や二度でくじけたりしないでください。大丈夫。時間をかければかけるほど、有利になるのはアイル様ですから……!」
「え、えっ。なん、なんのおはなし?」
「大丈夫。アイル様ほど可愛らしい女の子でしたら、どんな相手でも好きと言われて悪い気持ちにはなりません」
 なったらそれは人類ではありません。きっぱりとした口調で断言して、クリティカはすっかり混乱しているアイルと、言わんとする所を察してげっそりしているニムロを見比べた。ニムロはなぜか使命感に燃える教育官をちらりと眺めやり、仕方がないじゃないの、と言い訳がましい言葉を響かせている。
「長い人生ですもの。壁は何度もあるでしょうけれど、確実にそこに壁があるって教えておくのも可哀想だと言うか。ごねられるのが面倒くさいじゃない。幸か不幸か、このコは上のこどもたちが教育官を得終わった後に産まれたのだし……わざと教えて置かなかった訳じゃないのよ? 教えていなかったことに、誰も気が付いていなかっただけで」
「えー……? ねえねえ、なんのおはなし?」
「……私の口からはとても」
 なんとなく不穏なことだけは感じ取れたアイルが尋ねるも、クリティカはそっと視線を外して口ごもってしまった。そこまで思わせぶりなら、どんな結果であっても教えて欲しい、とアイルは思うのだが。むくれた表情で見つめてもクリティカは申し訳なさそうに笑うばかりで、答える気が起きそうにも見えなかった。仕方がなく諦めて、アイルは部屋の扉を見た。これ以上軍師室に居ても、欲しい情報が手に入ると思えない。
 次は誰に聞きに行こうかな、と思いながら、アイルはなぜか微妙に睨みあって間合いを取っている軍師主従に、ぺこりとばかり頭を下げる。
「じゃあ、ニムロ様、クリティカ。ありがとうございました。私行きます」
「どういたしまして……ああ、でもその前に。アイル様は、どんなものだと思ってらっしゃいますか? 教育官」
 思ってもみない問いだった。お辞儀から顔をあげかけた中途半端な姿勢で動きを止め、アイルは目を瞬かせる。どんなもの、と言われても。それすら分かっていないから、聞いているのに。困った風に眉を寄せて沈黙するアイルに、クリティカはたしなめる口調でダメですよ、と言った。
「尋ね歩くのならば、なおのこと。ご自分の中に答えを持っていなければ。どんなものでも良いんです。おぼろげなものであっても、抽象的な言葉であっても。分からないなら、分からないと言えるようでなければ私たちの言葉に振り回されてしまいますよ。……気を付けてくださいね」
 道行きの安全をも願われた言葉に、アイルは無言で頷いた。気を付ける、と言葉を返せば、やや厳しかったクリティカの表情がふわりと緩む。表情の変化を間近で見ていたニムロが、意外とあなた厳しいのよね、と呆れた風に呟いた。クリティカは唇を笑顔の形にしてからニムロに目を向け、逃げようとする服の袖口を掴んで引きとめる。
「誰のせいで、私がこういう風な性格になったとお思いでしょうか」
「さっぱり分からないわ!」
「ニムロさまです。……アイルさま、こういう風な性格の大人にだけはならないでくださいね?」
 目線を明後日の方向に逃がしながら胸を張って言い切ったニムロに、クリティカは平手打ちでもするような勢いで言葉を返した。それから呆れと悲しみにまみれた弱い口調をアイルに向ける。アイルの周りには、すこしばかり、逆手本になる大人が多すぎる。はぁい、と素直に返事をしながら、アイルはニムロとクリティカを見比べた。
「クリティカは……ニムロ様のこと、好き?」
 こういう風にならないでくださいね、という言葉が、あまりに弱々しかったからこその問いだった。あら、と意外そうに呟いたクリティカは己の失言に恥じ入るように唇に指先を押し当て、くすくすと肩を震わせて笑う。
「ええ、もちろん。ただ、私がニムロさまを愛する気持ちと、他の方から見て愛される要素というのは全く別のものですから。私はもちろん、どんなニムロさまとて心から敬愛しております。呆れたり悲しくなったり、もちろんしますけれど、それ以上に愛しいと思う気持ちがあることが事実です。盲目だとされる恋より、なお深く愛しています。……でも、客観的な判断が下せない訳ではありませんので。困ったさんだとは思います」
「私に困らせられるのを喜ぶくらいの部下って、どこかに落ちてないかしら」
「私一人で十分でしょう? 他に被害を拡大しないでください」
 まあ、人類はニムロさまに困らせられる事実を喜ぶことに目覚めれば良いと思いますけれど、と涼しげな口調で言い放って、クリティカは若干引いているアイルに麗しい笑顔を向けた。それだけで育ちの良さを伺わせる、気品ある微笑みだった。
「もし行き先が決まっていないのなら、ラッセルの所に行くのが良いと思いますよ。ラッセルも……例外組ではありますが、私と違って普通に見つけ出された教育官ですから。なにか参考になるのではないでしょうか」
「う、うん。分かった」
 今度こそ出て行こうとしたアイルは、ぱっと身を翻してかけて行こうとしたのだが。無造作に腕が引っ張られて、体が後ろ向きに倒れかけてしまう。わ、わっと慌てながらもなんとか体勢を立て直したアイルから、手を離したのはニムロだった。迷惑そうに見てくるアイルの額を突いて、ニムロは姪の瞳を覗き込む。鮮やかな紫だった。父親からも、母親からも受け継がず、血を遡って現れた色だった。アイルの髪の色も、そうだ。
 闇夜に光零すような青銀。さらりと流れる一筋を取って無意味に引っ張って見ながら、ニムロは静かに口を開く。
「アリスレシェクト。あなたがどういう気持ちで、教育官に在り方を聞いて回っているのか……正直な所、私にはなんの興味もないのだけれど」
「ニムロさま。お口が正直すぎるのはどうかと思います」
「それでも、貴方の血縁として言っておかなければいけないことがあるわ。よく覚えておきなさい」
 とても注意しているとは思えない優しい声での呟きを完全に無視して、ニムロは不安げに見つめて来るアイルと視線を合わせた。視線は反らされない。そのことに薄く微笑んで、ニムロは急いであげなさい、と言った。
「教育官をどう思うということはこの際だから、すこし忘れてあげなさい。欲しい、欲しくないという感情にも、目隠しをしておきなさい。まだ聞いているだけだけれど、あなたは確実に教育官を探すことに気持ちが向き始めている。……だから、はやく見つけてあげなさい。文字通り、見るだけでも良いわ。視界の端をかすめるくらいだと効果がないだろうから、ハッキリそうだ、と分かるくらいに見つけなければいけないだろうけど」
「……えっと?」
「あのね、アリスレシェクト。知っていると思うけれど、あなたは残念なくらいに始祖さまの『先祖還り』なのよ」
 セルキスト王家に産まれる、紫の瞳と青銀の髪のこども。親の色彩を受けつがず、全く法則を無視してその色を宿して産まれてくる者。それが始祖の先祖還りだ。伝承によれば、セルキストの始祖は天から舞い降りた天使であったという。宝石のような紫の瞳と、夜にこそ煌めくような青銀の髪の持ち主であったというのだ。先祖還りの種類は様々で、色彩として現れずとも、かすかな異能力を宿した者が時々現れる。

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