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 殆どの場合が薬にも害にもならない程度のものなので、それは教育官に影響するものではない。しかし、アイルは違うのだ。異能力の発現こそ未だ無いものの、アイルは珍しい、二つの色彩を完全に宿した先祖還りなのである。教育官に与える影響は計り知れるものではなく、だからこそニムロは溜息をついた。先祖還りだからと特別尊ばれることもないが、残念と言われたのは初めての経験で、アイルは混乱してしまう。
「な、なにが残念……?」
「王族が教育官を呼ぶのは聞いた? 私たちが探し始めた時点で、教育官は共鳴反応を起こす。それは大体が頭痛、吐き気、もしくは全体的な体調不良となって現れて、王族が見つけ出すまで続くのだけれど……あなたの場合は、もう相手にその反応が起きている可能性が高いのよ。残念なことにね。加えて……先祖還りだから、桁外れの痛みであることは間違いないわ。だからね、この際、あなたの意思は関係ないの」
 理由は相手が可哀想だから、とその一点のみでも十分な筈よ、と溜息をついて。ニムロは、軽く目を見開いたまま言葉の出ない様子の姪に手を伸ばし、そっと頭を撫でてやった。
「だから、デューグ兄さんの所に行きなさい。……兄さんなら、あるいは助けてくれるかも知れない」
 あれは教育官引き寄せ体質だから、とものすごく真面目な顔で言ったニムロに、アイルは沈黙した。とても場にそぐわない言葉が聞こえた気がするが、気のせいにしておきたい。沈黙する表情を、疑いだと思ったのだろう。ニムロは本当なのよ、とすこし遠い目になって呟いた。
「私はあやからなかったけれど、兄上……あなたの父親も、デューグ兄さんのおかげでトリアーセが見つかったようなものだし、レスティーのアニシアも『なんかそれっぽいのが町歩いてた』って言い出して見つかったのだもの。どうも、なんとなく分かるらしいのよね。教育官が」
「……本人以外分からないものじゃなかったの?」
「分からないのよ。確信、という意味ではね。デューグ兄さんは……そういう勘が鋭いのかも知れないわ」
 あるいは、それがデューグに発現した異能力なのかも知れないが、あまりに限定されすぎているので兄弟からは『勘』ということにされているのだった。聞いて損はないと思うから、というニムロに不可解そうに頷いて、アイルは今度こそ歩き出した。呼び止められることもなく軍師執務室を後にして、アイルは最初は早歩き、次は小走りに、最後は全力疾走になって廊下を駆けていく。目指すのは城下町。デューグの店だ。
 まさかそんな、とは思う。本当に見つかるだとか、そこに居るだなんて期待を持っている訳ではないのだ。けれど。しかし。途中で己の護衛官の詰め所に寄ったアイルは、扉を外して壊すくらいの勢いで叩き開け、肩を大きく上下させながら息を整える。一様にぎょっとする視線を、アイルは思い切り不機嫌な表情で睨み返した。八つ当たりの自覚は、十分にあった。どうしたんですか、と問いかけられる前にアイルは口を開く。
「お出かけする! デューグおじ……おにいさんのトコまで!」
「……な、なにか起きました?」
「起きる前に行くの!」
 それでダメって言っとくのっ、と。護衛官たちにはよく理解できないことで怒っているアイルに、それ以上、説明を求める声は上がらなかった。じゃあじゃんけんで勝ったのが付きそうのでちょっと待っててくださいね、と言う護衛官たちにはやくしてねっ、と言いながら、アイルは服をぎゅっと握りしめた。ニムロの言葉を思い出す。だって、とアイルは思った。だって、まさか、そんな。
「わ……私の教育官なんだからー!」
 私が見つけなきゃダメなんだからーっ、と叫ぶアイルに、護衛官たちはきょとん、とした目を向けた。
「……え? 見つかったんですか?」
「まだ!」
 だから一刻も早くデューグさまにダメって言いにいくのっ、と地団太を踏みながら言うアイルに、護衛長官が納得した苦笑で深々と頷いて。見つかって無いといいですね、と呟いた。まったくだよ、とぷんぷん怒りながら頷いて、アイルは決意を改めるように拳を握りしめた。勝手に見つけられてたまるものか、と思った。



 視界がぼやけていた。息を吸い込んで目を閉じると、体の中身を揺さぶられているような気持ちの悪さを感じる。意識を失って起きたのだ、と分かった。力の入らない体を持て余しながら呼吸を繰り返し、そっと瞼を持ち上げると天井が見える。くすんだ色をした木材が重なり合った、温かみと重厚さを感じさせる天井。なにも考えることも出来ず見つめていると、そこでようやく少女は、己が寝台に横になっていると気がついた。
 視線をゆっくり壁沿いに下ろして行くと、焦げ茶色の小さな机と椅子、それから床に投げ出されたままの荷物が見えた。帰って来た覚えなどないのだが、ここはどうやら、少女が宿泊した部屋らしい。意識が安定してくるとひどい脱力感が体をおそい、少女はぐったりと枕に頬を押し付ける。意識が途切れる直前のことを思い出そうとするが、唐突に襲われた頭痛と吐き気に、血の気が引く所までしか記憶できていなかった。
 あ、とは思ったのだ。まずい意識が無くなるな、と思って脚から力が抜け落ちて、地面が近くなって。覚えているのはそこまでで、あとは先程目覚めるまで完全に途切れてしまっていた。やっぱり、どうしようもなく体調は悪かったらしい。熱っぽくはなく、ただひたすら重たく鈍く痛く、だるい体を寝台に投げ出して布団を引き寄せて丸くなり、少女は思い切り溜息をついた。そういえば、どうして部屋に戻っているのだろうか。
 セルキスト。この国に少女は知り合いなど居ないし、昨夜首都に入ったばかりだから、顔を知る者も少ないだろう。少女のことを覚えているかどうかも定かではない。それとも起きてデューグと名乗る店主と会話し、町に飛び出して行ったのは夢だったのだろうか。体調不良が見せた、限りなく現実に近い奇妙な夢。そう思うのが良い気がして、少女はうとうとと意識をまどろませて瞼を閉じた。強い貧血のせいだろうか。
 目を開けていることが辛くて、通常の眠気とは違う意識の薄さがあった。眠れないのに、目を開けていることが叶わない。寝台の上でぎゅぅと体を小さくしながら、少女は自然に耳を澄ませていた。名を呼ぶ声を、期待したのかも知れなかった。けれど知り合いも居ないこの国では、少女の名を呼ぶ存在がある訳もなく。歯を食いしばって耐えるしか出来ない少女の耳に、柔らかな音が聞こえてくる。階段を上る足音だった。
 一階が飲食店。二階が宿泊施設になっているから、人の声やざわめきは耐えずあるものだ。しかし階段を上る足音は二階に用事がある者だけが奏でるもので、すこしだけ異質にざわめきに色を落とす。軽やかに、迷うそぶりもなくトントン、と階段を登りきった足音は、廊下を歩いて少女の部屋の前で止まった。コン、と一回だけノックの音が響く。ああ、ダメだ、と少女の中で『声』がした。寝ては居られない。起きなければ。
 安全な場所なんて、この世界にはどこにもない。自分の身を守れるのは、自分だけだった。まだぐらつく意識を叱咤して、少女は枕の下に置いてあった己の剣を手に取った。鞘を捨てるように床に落とし、体の前で剣を構える。差し込む光ににぶく輝く刀身に、すこしだけ心は落ち着いたようだった。コン、ともう一度ノックの音が響く。はいるよ、と知らない男の声が響き、扉がゆっくりと開かれた。少女は強い視線を向けた。
 現れたのは蜜色の肌をした青年だった。雪国らしく、白い肌の多いセルキスト国民とは明らかに異なる色だった。ますます警戒して剣を構える寝台の上の少女に、青年はすこしばかり困った笑みで肩をすくめる。
「こんにちは。あと、はじめまして。俺はラッセルって言うんだけど……なにもしないから、剣、下ろさない?」
「出ていけ」
「うん。まっとうな要求だと思う。思うけど……君が倒れてたの見つけたの俺だから、心配で様子見に来ただけなんだよね」
 ごめんね、もう体は大丈夫、と笑いながら床にしゃがみこんでしまったラッセルを、少女は意味の分からないものを見つめる視線で睨みつけた。部屋に入って剣を構えられていたなら、もうすこし動揺するものではないのだろうか。狼藉目的ではなさそうなのは、無理に距離を詰めない態度から信じてやってもよさそうだが、なんの裏もないとも思えなかった。
「別に。見つけて運んでくれた……のか? それは感謝する。ありがとう」
「どういたしまして。お医者さま呼ぶ?」
「いい。そんな余計な金はないし、今はなんともない」
 もう元気だ、というのは少女の明らかな嘘だったが、ラッセルは追及をしなかった。そっか、と頷いて意見を受け入れてやり、床に落とされた鞘を持って立ち上がる。途端に追い詰められた獣のように体を震わせる少女に苦笑して、ラッセルは無言で鞘を差し出した。しばし、二人の視線が交わされる。少女がラッセルに向ける視線は好意の欠片すらなかったが、青年が浮かべる笑みに代わりはなく、曇りも現れなかった。
 ラッセルは震える手で剣を持つ少女に、困った様子で目を細める。
「……危ないよ。俺はなにもしないから、剣、戻しなさい」
「信じる理由がないな」
 吐き捨てるように言い放った少女に、ラッセルはだよねぇ、と呟いて苦笑した。少女よりずっと大きな手のひらが、鞘を寝台の上に落とす。伸ばされた指先は、剣の柄を握り締めていた手の甲にそっと触れた。
「……ちょっと安心したりしない? 俺じゃダメかな」
 確信がある訳じゃないし、と囁くラッセルに、なにを言っているのか分からない、と少女は口を開きかけて。感じていた体調不良の波がざぁっと、音を立てて引いていくような感覚に目を見開いて沈黙した。少女の意識がハッキリしたことに気がついたのだろう。ふわ、と包み込むような笑みを浮かべて、ラッセルは少女の肌にほんのすこし触れさせていた指先を引いた。もう一度鞘を持って差し出せば、少女はそれを受け取る。
 硬質な音を立てて鞘に戻した剣を抱きしめるようにしながら、少女は疑わしげな視線をラッセルへと向けた。
「いま……なにを」
「手品みたいなものだと、思っておきなね。……呼ばれて来たなら、それは倒れるよな」
 俺も面会するまで何度か倒れた記憶があるし、と独り言めいた言葉を響かせ、ラッセルは少女に微笑みを向ける。空気を揺らしたのは、少女が思ってもみなかった言葉だった。
「なんで、この国に来たの? セルキストの治安は良いから、暮らしやすいし過ごしやすくはあるけれど、物価が低い訳じゃないから生活していくのは大変だと思う。特に君みたいな、大陸中を渡り歩いて生きてるコには、難しい国ではあると思うんだけど……剣持ってるってことは、傭兵志望? 腕に覚えがあれば雇ってくれると思うけど、まだ十二か十三だよね。女の子だから……有能でも、ちょっと厳しいんじゃないかな」
「十三歳だ! ……なんでって言われても」
 そんな、細かい理由まで考えて目的地を決めて生きている訳ではない。働いてお金を稼がなければいけないのは確かだったが、セルキストで傭兵勤めを望んで来た訳でもなかった。この国に来たのは、単に。
「……え」
「ん?」
「いや……ちょっと待て。私はなんでこの国に来たんだ?」
 お兄さんそれが知りたいから君に聞いてるんだけどな、という視線を黙殺して、少女は己の内側に答えを見つけ出そうとした。この国に来ようとした理由、そのきっかけ。そもそも、来る前はどこの国に居たのか。どうやって生活をしていたのかを、思いだそうとする。手掛かりになりそうな荷袋には着替えが一着と、数日なら遊んで暮らせる程度の金が入っている。それ以外の少女の所有物は、抱きしめる剣だけだった。
 あとは全て、途絶えていた。思い出せない、と少女は呟く。それが誤魔化しでもなんでもなく、深刻な響きを帯びていることに気がついたラッセルの表情が、ひきつったものになる。
「……もしかして、倒れた時にすごく頭打ったりした?」
「かも……知れない。痛くないけど」
 頭に両手をやってぺたぺた触ってみても、痛みを感じる個所も、腫れている場所もなさそうだった。それなのに指先をすり抜ける琥珀色の髪が、確かに自分のものであると確信が出来る。自分に関する最低限のことと、セルキストに来た昨日からのことは覚えていた。けれど記憶できているのはそれだけで、それ以外の全てが途絶えている。まるで、それまでは存在しなかったかのように。そこから、はじめて来たように。
 ぞっとして動きを止めてしまった少女に、ラッセルはそーっと手を伸ばした。噛みつかれるか引っ掻かれるくらいのことを覚悟しながら頭に手を乗せれば、少女は無反応のままだった。よしよし、と撫でてやるとようやく少女の視線がラッセルを向き、ひどく心細げに歪められる。翡翠色の目だった。古い森の木がつける、濃い色をした葉の色だった。なにかを探すように彷徨った視線が、たよりなくシーツの上に落とされる。
「どうしよう。覚えてない」
「自己紹介くらいは、できる?」
「グラスト・リアス。十三歳。女」
 恐る恐るのラッセルの問いかけに、少女は即答でその三つだけを言った。少女が持ち得る己に関する記憶はそれだけであり、他にはなにもなかったからだ。産まれた国の名も、育った場所の名も。父の名も母の名も思い出せず、おぼろげに父親の存在があったことだけは理解する。けれど、やはりそれだけだった。混乱する少女に、ラッセルはすこし眠ってな、と囁いた。なんの解決にもならないが、それは心を救ってくれる。
 少女は戸惑いながら頷き、ラッセルが室内にいる居心地の悪さも忘れて寝台に横になる。剣だけは抱きしめるようにしたまま、溜息をつきながら瞼を下ろした。すぐ、意識は透明に眠りはじめる。髪を撫でてくれる手を心地良いと思いながら、少女はあることを思い出した。眠くて、声に出すことはしなかったそれは、意識が途切れる寸前の『声』だった。笑い声だった。聞き覚えのあるそれは、自分の声であるような気がした。
『それじゃあ、その時までよろしくね。グラスト・リアス』
 その時までわたしを預けてあげるわ、と不愉快な笑い声を、少女は知っていた気がして。思い出そうとして、意識を眠りに落としてしまった。目覚めた時にはもう、思い出したことすら忘れていて。少女の全ては、闇の中に消えた。

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