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 少女の眠る部屋から出て、ラッセルは難しげな顔つきで沈黙した。考えなければいけないことがいくつかある。どれも後回しにして良いものではないが、特別に急を要するのは二つだろう。少女がなぜ、この国に来たのか。そして、なぜ記憶を失ったのか。それは確かに失われたのだ。少女が店を出て、中々戻って来ないことを心配したデューグが探しに行くと言い張るのを押し留めて、ラッセルが道に倒れるその姿を見つけるまでの、あるいは、目が覚めるまでのほんの僅かな時間で。失われてしまったのだ。
 グラスト・リアスと名乗った少女が本当に『そう』なのかは、時が来れば分かることだ。わざわざラッセルが確かめることではない。というより、そんなことで王族の怒りを買いたくはないと思いながら溜息をつき、ラッセルは廊下を歩き、階下に続く階段の上に立つ。真昼をすこし過ぎた時間だからだろう。硝子を貫くように室内に降り注ぐ光は眩いばかりで、ラッセルの暗い気持ちを浮き上がらせてくれる。トン、と階段を一段降りただけで、店内で忙しく働きまわる者たちはすぐに気がつき、視線を向けて微笑んでくる。この店の従業員は皆、気配に敏感だ。全員が元王族護衛官、あるいは侍女官など王宮勤めをしていた者たちだからだろう。
 デューグが『俺、王族やめて城下町に店作って自立するわ』と言いだした時、彼の傍付きであった者たちはほぼ即答で付いて行くと言い放った。彼らは王宮に勤めていたが王家そのものに仕えていた訳ではなく、あくまで主をデューグと定めていたのである。ラッセルと同じように。たった一人、デューグのみを終生の主君と決めて。教育官と彼らの間に違いがあるとするならば、それはひとつ。ラッセルはあくまでデューグのみを主だと思うが、彼らは時として、その庇護と慈しみの対象を教育官にまで伸ばして来ることだけだった。
 主君と教育官は、あくまで一対である。魂の片割れ、切り離せない存在として並び立つものであるが、決して同じものではない。だからこそラッセルは主君と同じように彼らから気遣われることに未だもって慣れないでいる。ラッセルにとって尊いのはたった一人だ。慈しむのはたった一人だ。デューグ以外にそれは存在しない。だから本当は同じように、デューグだけを慈しんで欲しいのに。特にこんな、一人で放っておかれたい気分の時は。溜息をつきながらゆっくりと階段を下りてくるラッセルに、やがてデューグからも視線が向く。
 バーカウンターの奥であきずにグラスを磨く男は、誰よりも早くラッセルが部屋から出てきたことに気がついていて、誰よりも遅く視線を寄こしてみせた。その意図などラッセルには分からないが、最後の一段を降り終えると同時、主君の唇が音もなく動くのを見る。おいで。甘やかすように細められた瞳が手招きの代わりで、一人にして欲しかったと思いながら、ラッセルはデューグの傍へと向かう。まあ、この店に下りてくる時点で逃れられる訳もないのだ。この店はデューグの箱庭のようなもので、てのひらの上に居るのと同意だった。
 なんだよ、と機嫌が良くないことを隠そうともせず睨みつけてやれば、デューグはお座り、と低く甘い声でひとつの椅子を指差した。お座り、ラッセル。一時の躊躇いを許さず、ぐずぐずと溶かしてしまう優しい命令に、教育官が逆らえる訳がない。溜息をつきかけた唇を固く閉ざして腰かければ、グラスを置いた指先が額に伸ばされ、人差し指が前髪を退かす。心持ち開けた視界をどこに逃がすことも許さない響きで、優しく、ゆっくりと、デューグはラッセルの名を呼んだ。ラッセル、ラッセル。砂糖菓子を思わせる白い甘さで、声が囁く。
「……どした?」
 珍しく落ち込んでて、ものすごく可愛い。言葉にされなかった意思は隠されもせずそこにあって、ラッセルは急激に体から力が抜けて行くのを感じた。心配されていない訳ではないのだ。心配もしていてその上で、落ち込むラッセルをデューグは心底可愛いと思って、甘やかしたがっている。前髪を払った指先は引くことなく、額をなぞるように横切ったり、指の背が頬を撫でては飽きない風に動きまわった。カウンターから身を乗り出して愛でるデューグは溜息さえ付けない様子のラッセルを眺め、静かな笑いを響かせてから言葉を紡ぐ。
「振られた?」
「……俺が浮気したみたいに聞こえるから、言葉は選べよ」
「女の子に冷たくされて落ち込んでるようじゃ、振られてしょんぼりしてるのと一緒だろ?」
 まあ、お前が浮気するなんてことはないだろうけど。囁きと共に額をトンと押して行った指先を眺め、ラッセルは乗り出していた身を戻そうとしている主君に手を伸ばした。光を透かせば紫の影を落とす黒髪は、男にしては長めのものだからすぐ捕まえることが出来た。結んでいる先端を指に絡めて引き寄せ、唇を押し当ててから解放する。視線を持ちあげれば年甲斐もなく顔を赤くして絶句するデューグと視線が合ったので、ラッセルは努めて柔らかく微笑んでみせた。うあああああ、と呻きながら、デューグがバーカウンターに突っ伏す。
「ご……ごめんなさい」
「なにが?」
「浮気みたいなこと言ってごめん。ラッセルは俺のです。大丈夫だから、ちゃんと分かってるから、だからお兄さんの心臓が持たなくなるから唐突に触ってくるのとかやめてくれないかな! 無理! 無理だからっ!」
 唐突な教育官の愛に耐えられない俺もう年だから、とラッセルには理解しがたい呟きを発し、デューグはバーカウンターの上でじたばたと上半身を動かした。耳まで真っ赤に染まっているので、なにか相当恥ずかしい想いをしたらしい。髪にキスしただけだろ、と呆れながら声をかけると、デューグは涙目で顔をあげた。
「ラッセル」
「なんだよ」
「ちょっと」
 こっち来なさい、と指先の仕草で距離を詰めるように要求されて、ラッセルは予想しながら主君に身を寄せてやった。負けず嫌いというか、こどもっぽいというか。こういう所は昔から変わらないな、と思いながら見ていると、デューグは全く、と腹を立てているような声で呟き、ラッセルの額に唇を寄せてくる。髪の生え際に触れるだけで唇を離し、デューグはどうだっ、と自慢するような目つきで教育官を見た。どうだと言われても。ラッセルは触れられた箇所に手を押し当てながら椅子に座り直し、別に、と言って息を吸い込んだ。
「普通」
「普通とか! え、なにそれ、なんだよー! 嬉しがれよー!」
「……だから、普通に嬉しいんだけど、なんか文句あんのかデイは」
 所でこの会話が恥ずかしいことにそろそろ気が付け、と睨みつけても、デューグはむくれた表情になるだけだった。教育官って時々そういう反応するよなー、と嘆かわしげに息を吐き、なんの気なしに視線を二階へと向ける。ぎく、と思わず身を強張らせたラッセルに気がついているのかいないのか、デューグはやや不思議そうな表情で目を細めた。
「あの子、どうだった? 体調とか」
「……今は寝てる。倒れてたのは体調不良が原因みたいだから、休めば大丈夫だろ」
 剣を向けられたことも、触れただけで少女が警戒心を解いてしまったことも、ラッセルは告げなかった。言わなかったとしてもデューグにはなんとなく伝わってしまうし、なにより、対となる相手がそこに居ない状態で口に出して良いことではなかったからだ。その存在はこの世界で完全に一対。一人につき、たった一人の存在。確信めいた予感が胸にあっても、言葉に表して良いのは一人だけだった。言うなよ、とラッセルはデューグを睨みつける。主君がなんらかの予感、あるいは勘めいたもので『それ』を感じ取れるのは知っている。
 そして過去、レスティーの対をそうして本人より早く見つけてしまったことも。結果的に最良であっても、二人が対として結ばれるまでの過程を思い出し、返事をしないデューグに、ラッセルはもう一度言った。
「いいか、言うなよ? なにも、一言も、手掛かりも、ほのめかすようなことも、助言も、なにも言うな。手紙とかも駄目だからな。あの子がもうこの距離に来てる以上、アイルちゃんには絶対分かる筈だから……言うなよ? いいか、言うなよ。ぜーったい言うなよ! 分かったら返事!」
「えー」
「えーじゃないだろ! デイ! ばか! レスティーがどんだけ荒れたか思い出せ! 今でこそあんなほわんほわんした馬鹿っていうかあほっぽい感じになってるけど昔は全然そんなじゃなくてマジ切れして怒鳴りこんで来ただろ思い出せー!」
 怒鳴り声は店内中に響いたが、客はやや眉を寄せた程度で特に反応をしなかった。ラッセルがデューグを怒るのは何時もの事だからである。店員も、あんまり騒ぐようなら一度静かにさせないと、という風な視線を店主たちに向けるだけで、遠巻きに様子を伺っているだけだった。慣れているのである。ラッセルは不満げに唇を尖らせるデューグの服を掴むと、ねじり上げるようにしながら顔を近付けた。
「良いか、デイ。もしも一言でも、言ったら」
「い……言ったら?」
「城に帰らせて頂きます」
 まさしくそれは、実家に帰らせて頂きます、だ。ラッセルの故郷はすでにセルキストの城そのものであり、彼は教育官であるからこそ、城下で暮らしていても一室を与えられているのだ。押し殺した悲鳴がデューグから上がり、みるみるうちに顔が青ざめて行く。はい、お返事は、と促してやるとデューグは涙目でがくんがくん頭を揺らして頷き、絶対に言わない約束する誓ってもいいなにも口出ししない、と言い放った。そこまで言うなら、まあ大丈夫だろう。ラッセルが突き飛ばすようにデューグを開放したと同時、ちょっとーっ、と声が響く。
 二人が勢いよく見たのは、店の入り口のひとつだった。そこに、アイルが護衛官を引きつれて立っていた。よほど急いで来たのだろう、ぜいぜいと肩で息をしながらふらりふらりと足を踏み出し、アイルはよろけながらデューグとラッセルの元まで近寄ってくる。駆け寄って抱きあげなかったのは、そこを動くな、とばかり王女の瞳が煌いていたからだ。殺意にすらなりかねない怒りが宿っている。とても怖い。ラッセルはとっさにデューグを背に庇うようにしてアイルを出迎え、椅子に手をついてぜいぜいと息をしているのに声をかける。
「ど……どうした?」
「っ……だ……だめ、なんだから、ね」
 言っておきますけど、と未だ体力の回復しきっていない体をふら付かせながら、アイルは伯父とその教育官に指を突き付けた。
「私の! 教育官なん、だか、らっ! な、なにも、しちゃ、だめ……! わか、たっ?」
 言い切ったと同時、床にしゃがみ込んでしまいそうな体を、走りこんで来た護衛官の腕が抱きあげる。シェザはげほげほと咳き込むアイルの背をてのひらで撫でながら、そういうことなので、と苦笑気味の表情をあっけに取られる二人に向けた。
「道々、アイル様になんとなく説明を受けたので口出しさせて頂きますが、アイル様、自分で教育官ちゃんと探したいみたいなので。お二方はなんにもしないでくださいね」
「……たった今、俺がデイに同じこと言ったトコだから、安心してくれていいよ。大丈夫」
 なにもしない、と告げてやれなかったのは、すでに少女に宿を貸してしまっているからだった。それに加えて、ラッセルは教育官として相手にすこしだけ触れて来た。干渉ならばすでにした後であるので、約束してやれるのはこれからのことだけなのだ。申し訳なさそうなラッセルに、なにごとかを感じたのだろう。もう良いから下ろして、とシェザの腕の中でじたばたしていたアイルが、ぴたりと動きを止めてラッセルを見つめてくる。信じられない、とばかりまんまるく見開かれた瞳が、ぱちぱちと瞬きをした。こて、と幼く、首が傾げられる。
「……あれ?」
 けれど、己の内側に生まれた疑惑の意思の理由を、アイル自身がよく分かっていないようだった。言葉に巧妙に織り交ぜられた欺き、誤魔化しの意思に気がつくことができても、望む正解にまで辿りつけないのだろう。アイルはまだ幼い。そして、教育官を得ていない王族だ。未熟であることをようやく自覚したばかりの魂。だからこそ、ラッセルは気のせいだよ、と笑いながら囁き、アイルの頭を撫でてやる。
「それで、あんなに急いで走って来たんだな……教育官の、デイがあれこれするかも、みたいな話は誰が?」
「ニムロ様! 助けてもらいなさいって言ってたけどヤだって言いに来たの」
 だって私の教育官だからなんていうか全部私のものであるべきであってね、と流れるような口調で言い切ったアイルに、ラッセルは思わず生温い笑みを浮かべ、デューグを振り返って視線を合わせた。この、幼少期から溢れだす教育官への独占欲が、紛れもなくセルキストの王族だった。お前もこんな感じだったっけ、と視線で問われ、デューグはアイルに対して感心しているような、同時にラッセルの反応を不思議がっているような表情で、仕草だけは素直にこくりと頷いた。脱力するラッセルの頭にぽんと手を乗せ、デューグはへぇ、と言う。
「うーん、王族っぽくなってきたなー、アイルちゃん。教育官、欲しいんだ?」
「見つけてからもう一回考えることにしたの!」
「賭けても良い。見つけたら恋に落ちる以外の選択肢が消える」
 こい。告げれた言葉をたどたどしく繰り返し、アイルはデューグを訝しげな目で見つめた。ここ数日で色んな事を言われすぎ、そろそろ頭がいっぱいになってしまいそうだが、その中でぐるぐると考える。こい、とは、恋のことで。恋は、つまり、恋だろう。んんん、と不可解そうに呻いて考え、アイルはそろりと質問の形に手をあげた。はーい、と陽気な声でデューグがアイルを指し示し、言葉を促す。アイルはなにか信じがたい気持ちでデューグを眺め、恐る恐る息を吸い込んだ。
「今、恋って言った?」
「言った言った」
「きょ……教育官に恋する、の……?」
 うーん、と今度はデューグが難しそうな表情で首を傾げて考え込む。厳密に言うと全然違うとは思うんだけど、と告げる声は己の記憶を過去へと辿っているようだった。慈しむように、愛おしむように、言葉が愛に解けていく。
「見つけた瞬間、そうだと確信した瞬間、なんだかとても泣きそうになって。息をするのが苦しいくらい、ただ……その存在を中心に、世界の色が蘇るみたいな。鮮やかに、なって。世界の、空の青さとか、差し込んでくる日差しの綺麗なこととかに、不意に気がついて。この世界を……産まれて、生きてきたこの世界の美しさを、その人が教えてくれる。あんまり愛おしくて……うん、恋に落ちるのに一番よく似てる感覚なんだよ。一目惚れだけど」
 知ってる言葉で一番近い感覚が恋だし、王族はたぶん皆そう言うと思うけど、と告げたデューグに、アイルは思わず胸を両手で押さえていた。鼓動が高鳴るのを、期待だと思いたくない。ううぅ、と複雑そうに呻く主君を見下ろしながら、シェザはラッセルに問いかけた。
「教育官的にはどうなんです?」
「……んー」
 あー、恥ずかしかった、とデューグの言葉に深呼吸をしながら気持ちを落ち着かせたラッセルは、似てるよ、と苦笑しながら呟いた。
「俺たちはあんまり、そういう感じじゃないんだけどな」
「そうなんですか」
「うん。俺たちはただ……その瞬間は漠然と不思議っていうか、惹かれるものはあるよ、確かに。引力みたいな感じで、ぐって惹きつけられるなにかを感じるけど、その時はそれくらいで。……後から、だな。うん、後から。ちゃんと教育官になって、自分がそういうものだって受け入れてはじめて、振り返った時に気がつくんだけど」
 告げる言葉は、笑っていた。
「この存在の為に産まれてきたんだなって、思い知る感じ」
「……へえ」
「安心するよ。嬉しくなる。たまらない感じ。好きとか、大好きとか、愛してるとか、愛おしいとか、そんな言葉じゃ全然足りなくて、全然届かなくて、悔しくてもどかしくて……かなしく、なるくらいに。俺の命がその人のものだって、その人の為だって分かって、同時に、相手もそうなんだけど、なんだろうなぁ……捧げようと、思うよ。全部。全部、全部。なにもかも、全て。支配して欲しくなる。差し出すけど、うん、支配して欲しい感じかな。俺はね。これは個人差あると思うけど。……支配しようと、思ってもらえるくらい、独占して貰いたくなるよ」
 俺はね、と笑って、ラッセルは感激して抱きついてこようとするデューグを避けて突き飛ばすと、複雑そうな顔をしているアイルの前にしゃがみ込む。微笑むだけでしばらく視線を交わし合い、ラッセルはだから、とも言わず、王族へと告げた。見つけ出してあげて、と。教育官の言葉に迷いながら、視線を揺らし。やがてアイルはちいさく、確かに、頷いてみせた。

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