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 アイルが城下まで来た理由は、デューグに釘を刺しておくことだけである。よって用事が終わり次第、城に戻らなければならない。アイルがそれを思い出したのは、ラッセルの膝の上でオレンジジュースを飲み終わった後のことだ。随行してきた護衛官たちはなにかをすっかり諦めた顔で各々店内で食事をしたり、打ち合わせをしているようだった。現在、アイルの傍に居る護衛官はシェザのみである。シェザはさっと顔色の変わった主君の様子にすぐ気がつき、眉をきゅぅ、と寄せてからアイルの顔を覗き込んだ。
「……どうか?」
 お腹でも痛くなりましたか、と真剣に心配しているシェザと視線を合わせ、アイルは勢いよく首を横に振ってみせた。大体の所を察しつつ、ラッセルはアイルを膝の上に乗せたまま、のんびりとした様子で頭を撫でている。分かっているなら、教えてくれればいいものを。舌打ちしかねない様子でラッセルを睨みつけるシェザに、教育官は微笑みを深めて肩を震わせる。その表情を、なんと受け止めたのか。まだ年若い護衛官は唇に力を込めて閉ざし、己の気持ちを宥める為に深呼吸をした。吐息を吐きだした唇が、ゆるりと動く。
 これは敵じゃないこれは敵じゃないこれは敵じゃない教育官だから落ち着けシェザ・クレイス殴っちゃ駄目だし蹴っても駄目だし悪口を言っても不敬に値するから落ち着け俺、と呪詛のように低い声が流れるように漏れ聞こえるのを、ラッセルはひきつった笑みで受け止めた。うん、まあ、王族の専属護衛官なんてこういうものだ。候補生のうちからこうであれば、将来有望として間違いはないだろう。王家の、ひいては王族の優秀な護衛官、もしくは侍女官に最も必要なものは、その存在に対する過度の愛情なのだから。
 それにしてもちょっと怖い、とぬるい笑みを浮かべながら思考を巡らせ、出方を待っているラッセルの視線の先で、シェザは乱暴な手つきで己の髪を乱し、再び深く、息を吐き出して沈黙する。そこでようやく、シェザの様子がおかしいことに気がついたのだろう。ふおぉっ、と妙な声をあげたアイルが、ラッセルの膝にちょこんと腰かけたまま、首を傾げて問いかける。
「シェザ、は……どしたの?」
「いえ。……大丈夫です。大丈夫ですが、すみません、アイル様。ご心配をおかけしました」
「ううん。いいんだけど……そ、それよりシェザ! 大変だよ!」
 私すっごい思い出しちゃった、と拳を握り、アイルはラッセルの膝から床に下りたそうに足をじたばたと動かした。シェザがその仕草をはしたないと咎めるよりはやく、ラッセルはアイルの腹に両腕を回して柔らかく抱きしめてしまう。不満いっぱいの王女の視線と、殺意にすら近い護衛官の眼差しを笑顔で受け止めて、ラッセルはもうすこし、とため息交じりに囁いた。
「王女サマが近くに居ると癒されるんだよ。あと三十秒だけ。な?」
「うぅ……さ、三十秒だけね?」
 なんだか疲れ切っている様子のラッセルを振りほどくことも出来ず、アイルは仕方がなさそうな声で許可を下し、それでね、とシェザに向き直った。
「大変なのはね! 城に帰らないといけないってことなんだけど!」
「なにか予定ありましたっけ。……はい、三十秒、三十秒。さっさとその腕を離してくれませんかラッセルさま」
「予定はないけど、さぼったら爆発しちゃうんじゃないかな!」
 三秒の間違いだろ、と文句を言いながらも従おうとしていたラッセルの動きが凍りつく。遠くから、あー、俺大体の原因分かったから帰ったら国王殴りに行くな、と上司の声が響くのに、シェザは大きく息を吸い込む。一言を紡ぐのに、とても労力が必要だった。
「……ば……爆発、は、しないと思います、が?」
「しないの?」
 そんな、心底不思議そうに純粋な目で聞かれたら、もしかしてなにか爆発するんじゃないだろうか、と思ってしまう。爆発、しましたっけ、とぎこちなく問いかけるシェザに、ラッセルはしないと思う、と脱力しきった声で告げた。深く溜息をつきながらアイルを膝から下ろしてあげたラッセルは、あれ、と首を傾げる王女の頭にぽんと手を乗せる。
「シェザ」
「……はい」
「責任は俺が持つから、シェザも一緒に殴ってくれば?」
 大丈夫、教育官の許可つきだから怒られたりしないよ、と囁かれ、シェザは額に指先を押し当てながら、静かな声ではい、と言った。その日、セルキスト国王は突如執務室に乱入してきた護衛官二人組に拳で顔を殴られたが、事情を聞いた国王の近従は彼らを咎めなかったという。



 なんか今断末魔みたいなの聞こえなかったかな、と首を傾げて嫌そうな顔をしたのはセルカだった。長く伸ばされた銀色の髪が、さらりと肩を滑り落ちて行く。普段ならば黄色いリボンで高い位置に結ばれている筈なのだが、解くか無くすかしたのだろう。長時間結ばれていない証拠に、髪はまっすぐに流れていた。頬にかかる毛を耳にかける仕草はどこか女性的で、アイルはそんな兄を椅子に座ったままで眺めている。まぁだ、と尋ねればまーだ、と返事がすぐに響き、アイルはぷぅっと頬を膨らませた。そのまま、砂時計を睨む。
 紅茶葉を蒸らす時間を教えてくれる砂時計は、ひっくり返されてからまだ幾許も経過していない。音もなく落ちて行く砕かれた石の欠片は、まだ半分以上残っていた。つまらない気持ちで息を吐き出し、アイルは室内に視線を巡らせる。アイルが居るのは兄王子の私室のひとつだった。主に勉強の為の一室だから、広くはないが狭すぎることもない。身の置き所を見つけやすいちょうど良い大きさで、それでいて日当たりの良い部屋に差し込む日差しは、夕刻の気配を漂わせ始めていた。そのうち、茜色の光が本棚を染め上げるだろう。
 ちょっと国王陛下をやってくるので兄王子の所に居てくださいね、とシェザがアイルをセルカの元に連れて来て、もう二十分以上が経過していた。それなのにアイルは、まだ紅茶を一口も飲めていないのだ。砂時計を見つめるのも、これで四回目になる。お水でいいんだけど、と文句を言うアイルに、セルカは死んだ魚の目で俺も水とかでいいんだけど、と呟いた。その様子があんまり可哀想だったので、アイルはそれ以上文句を言うことをやめ、頑張って、と兄を応援してやる。こくん、とセルカが頷いた時、砂時計の砂が落ち切った。
 藍色の瞳がきゅう、と細められ、緊張した様子で手がティーポットに伸ばされる。王子の手は繊細な手つきでそれを持ち上げ、ゆっくりと円を描くように一度だけ、ティーポットが回される。緊張に指を震えさせながら透き通った紅の液体をカップに注ぎ入れ、セルカはそれを、傍らに立っていた教育官へと差し出した。ラグリアは無言でそれを受け取り、唇を濡らす程度、液体を飲みこむ。セルカは、これで駄目だったらお前を殺して俺は死ぬからな、と言いたげな儚い笑みを浮かべていた。ややあって、ふむ、とラグリアが呟く。
「……いいんじゃないですか? 飲んでも」
「ご、合格?」
「不合格にしたらなんだか死にそうな気がするので嘘をついてでも合格を言い渡して差し上げる私の優しさに感激して褒めてくださっても全く構いませんが、どうします?」
 がたん、と音がしたのはセルカが机に突っ伏して動かなくなったからだった。アイルは兄を撫でるかどうか迷いながら、放置されたティーポットに手を伸ばし、勝手に自分のカップに注いでしまう。息を吹きかけながら一口飲み込み、アイルはたっぷり十秒考えた。
「……おいしいよ?」
 とてもではないが、ラグリアの言うような味ではない。涙目で顔をあげたセルカが教育官を振り返るより早く、金髪の美丈夫は明後日の方向を向いて、聞こえるような舌打ちをした。
「ちっ」
「ああああああもうやだあああああああっ! なんでお前そういうことすんのっ? なんでお前そういうことすんの! なんでお前そういう、そういうことっ……ラグリアー!」
 耐えきれなかったのだろう。ぼろぼろ涙をこぼしながら教育官に掴みかかるセルカの肩に、ラグリアはそっと両手を乗せる。ぽんぽんぽん、と宥めるように肩を叩き、ラグリアはストレスで泣きじゃくる己の主君を、うっとりとした表情で見つめた。
「あなたのその泣き顔が見たかったからですよ、セリィアイス様。我が君、私の王子」
「ぎゃああああああコイツ本気だ! 本気だー! ば、ばかーっ! ばか、ばか! ラグリアのばかーっ! ど、どうせあれだろ! 一回目からちゃんと美味しく紅茶淹れられてたんだろっ? そうなんだろっ?」
「そんなことないですよー。ほら、セリィアイス様、私の目を見てください。この、純真で穢れなどひとつもなく真っ直ぐに輝く私の目を。これが嘘をついている人の目ですか?」
 ラグリア・ヴァン・カルニエ・トーラス。第一王子ロイセイルの教育官、ラライの実の兄にあたる青年の瞳は、深くまどろむ海の色をしていた。セルカの藍の瞳と比べて、明るくまばゆい色合いだ。月明りを反射して揺れる水面のようなその色をじっと見上げ、セルカはううう、と困り切ったうめき声をあげた。
「う……嘘、ついて……ない……かも?」
 あれ、じゃあどういうことなんだっけ、とじわりと涙を滲ませるセルカの目尻を指で拭って、ラグリアは艶めいた笑みを唇に乗せる。
「嘘ついてますけどね」
「セルカ兄様はなんで毎日同じ手順で騙されちゃうの? 馬鹿なの?」
「お前お兄ちゃんに向かって馬鹿とかいうなよー、泣いちゃうんだからな俺は……あとラグリア嫌い」
 もういい、お前の相手しない、あっち行け、と手を振られ、ラグリアは幸福そうな笑みを浮かべたまま、つき従う主君から数歩だけ距離を取った。座っている椅子から精一杯手を伸ばせば、服の端が掴める距離。振り返って距離を確認したセルカは満足げな頷きをひとつみせると、呆れかえった様子のアイルに視線を戻した。
「城下に出かけてたんだって? デューグ伯父さんのトコ?」
「うん。駄目って言って来たの。私のなんだから教育官見つけたりしちゃ駄目だよって」
「……見つかったの?」
 訝しげな表情になりながら、セルカはややぬるまった紅茶をカップに注ぎ、唇をつける。兄が喉を潤すさまを睨みつけるようにして、アイルは見つかってないの、と言った。ふぅん、と気の無い返事で、セルカは眉を寄せる。やっぱり美味しいんじゃん、と悔しがる呟きが空気を震わせ、吐息に不満が零れて行く。なぜか申し訳ない気分になりながら、そういえば、とアイルは疑問を口にした。
「なんでラグリアじゃなくて、兄様が紅茶淹れてるの?」
「愚問ですね、アリスレシェクト様。このラグリア、セリィアイス様の泣き顔を見る為に紅茶に毒物を仕込むくらいのことをしないとでもお思いで?」
「なあ、なんで得意そうなの? なんで? なんでなの? なんでお前すぐそういうことすんの……?」
 頭を抱えて落ち込むアイルの兄は、すでに泣きそうだった。目が潤んでいる。その様子を目を細めて微笑しながら眺め、ラグリアは決まっているではありませんか、と胸を張って言い切った。
「愛情表現です」
「普通の愛情表現してくれる教育官が欲しい……。教育官間違えた……」
「間違えてなど。私が、貴方に終生仕え、貴方の身を守り、貴方の傍から離れず、貴方だけに忠誠を誓う、この世界にただ一人の貴方の教育官。ラグリア・ヴァン・カルニエ・トーラスです」
 ラグリアは一歩だけ主君との距離を縮めるとその場に片膝をつき、頭を垂れて一礼した。伸ばされた手は王子のマントの裾をひきよせて、厳かな誓いを確認するかのよう、唇が押し当てられる。信じられないとばかり涙目で睨みつけながら、セルカはじゃあ、と言った。
「俺のこと苛めるのやめろよ」
「御意、セリィアイス様。ご命令の通りに致します」
「……この大嘘つき」
 すん、と鼻をすすりあげたセルカに苦笑しながら立ち上がり、ラグリアは主君の両肩に指先だけを乗せた。泣かなくなったら考えてあげますよ、と囁きながら額に落とされた口付けは、確かに慰めと親愛の意思を持った優しいもので。離れて行くラグリアの頬を平手で軽く打ちながら、セルカはそういえば、と気を取り直した目を妹に向けた。
「取り返しがつかないから、教育官の性格矯正するなら早めにな」
「……うん」
 この城の誰が言うより、説得力のある言葉だった。でも、とアイルは言葉を続ける。
「セルカ兄様は、じゃあ、したの?」
「したって?」
「だから、ラグリアの性格矯正。したの?」
 セルカは無言でマントを手繰り寄せると、それごと抱え込むように椅子の上で脚を抱え込んだ。拗ね切った様子で膝にあごを乗せ、アイルはさぁ、とため息交じりに王子が言う。
「ラグリアの性格が、俺にどうにかできると思ってそれ言ってんの?」
「……しなかったの?」
「できなかったの!」
 こて、と純粋に不思議がって首を傾げるアイルに、セルカは涙声で絶叫した。勢いそのままに背後を指差し、人を指差すような失礼な真似はしないでくださいね、と言われるのを完全に無視して言い放つ。
「大体! これで性格矯正させてたら、俺が教育官に苛められんのが大好きみたいじゃんっ?」
「あ、そっか」
「そうだよ! 俺はラグリアのことは大好きだけど、ラグリアが俺をねちねち苛めて来たり高い所から突き飛ばしてきたり食事とか飲み物に好奇心だか愛情表現だかで毒盛ったり似合うと思うんですよとか言いながら俺の服ひん剥いてドレス着せたり化粧したりワルツの女のステップ覚え込ましたり花よりもセリィアイスさまの方が綺麗で可愛いですよとか囁いて来たりあああああああもうとにかく! とにかく! 俺はコイツの行動とか性格とかは嫌いなの! 嫌い! 聞いてんのかラグリア! お前の性格、きらいっ!」
 言っている途中で我慢できなくなったセルカは、椅子の上に立ちあがって背後に控える教育官に言葉を叩きつけた。ラグリアは平然とした態度で腕を組み、はいはい嫌いなんですね知ってますよ、と告げて微笑む。愛おしさを隠そうともしない笑みだった。でも、と青年は告げる。
「私は、貴方の全てが好きですよ。セリィアイス様」
 呻き声すら上げず、セルカは再び椅子の上で膝を抱え込む。大体毎日、一回は見るやりとりだった。よく飽きないなぁ、と思いながらアイルは紅茶を飲み、ひとつの問いをそっと心にしまいこむ。さすがに、聞けなかった。今のこの状態の兄に、教育官を見つけると恋に落ちる感じがするって聞いたんだけど、本当、と尋ねる勇気はない。動かなくなったセルカに向かい、アイルは兄様頑張ってね、といつものように呟いた。うん、とセルカは言ったきり、沈み込んでいる。ラグリアが幸せそうな表情で兄を眺めているのは、見なかったことにした。
 さてそうすると、誰に聞いたものか。悩んだのは数秒で、アイルはよし、と意気込んだ。アイルには兄がもう一人いる。そちらに聞けば大丈夫だろう。

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