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 夕方から夜になりかける空を見上げながら兄王子の勉強部屋の扉を閉め、アイルは長い一日に溜息をついた。朝から色んなことが起こり過ぎ、言われすぎて頭の中が整理できていない。異母兄に聞くのはまた明日でも良いかも知れないと思いながら、アイルは廊下の右を見て、左を見て、誰もいないことを確認して困ったように首を傾げる。シェザと護衛官の一人は先程、国王に断末魔じみた叫びをあげさせて目的を達成した筈だが、未だに戻ってきていない。別に一人で移動しても私は構わないんだけど、と呟いて、アイルは眉を寄せた。
 ここに居てくださいね、と言っていた部屋から勝手に移動して、果たしてシェザは怒らないだろうか。セルカはアイルがどこに移動したかは知っているが、それを戻って来た護衛官に正確に告げられる状態まで回復するには、時間が足りないように思われた。そしてセルカの教育官は、面白半分の笑みを浮かべ、アイルの居場所を教えないに違いない。あるいは、まったく違う場所にいると嘘をつくか。どちらにしてもシェザが頭を抱えて胃の痛みに半泣きで呻きつつ通りすがった妹に平手打ちされるまでは、アイルの想像に容易かった。
 んんん、と眉を寄せたまま服の上からポケットを探り、アイルはくしゃくしゃになった紙を取り出した。丁寧に手で伸ばして、同じく取り出したペンで文字を書いて行く。シェザへ、ロイル兄様の所に居るね、まで書いた所で、ふと不安がよぎった。ロイルの居場所を教えてくれたのは、ラグリアである。どうして知っているのか、という問いにはヴァン・カルニエ家は血縁のいる位置がなんとなく分かるという設定で頑張っているもので、と理解しがたいことを言われたので気にしないことにして、アイルは無言で出てきた部屋の、隣の扉を見やった。
 二つの扉の作りは同じものだった。右が第二王子の勉強部屋で、左が第一王子の勉強部屋である。部屋の大きさも作りも、アイルが知らない数日で派手な改装が施されていない限り、ほぼ同じである筈だった。アイルは出てきた右ではなく、左の扉の前までじりじりと警戒も露わに歩いていき、迷いながら扉を数度叩いた。ロイル兄様、とちいさな声で呼ぶ。いるの、と問うより早く、忍び笑いと共に内側から扉が開かれた。
「アイル」
 なにしてんの、と笑いながら問いかけてきたのは、訪ねようとしていた異母兄その人だった。昼過ぎに見た時より、やや疲れている風なのは時間の経過故だろうか。あの、と口を開きかけてそれを思い出し、アイルはおそるおそる、首を傾げて問いかけた。
「ロイル兄様?」
「ん?」
「そういえば、無事に逃げきれたの?」
 昼食の後、廊下で遭遇した兄たちは、そう言えば確かに教育官から逃走していた筈である。逃げる背を見送って後、アイルは国王とトリアーセに会いに行き、そのまま軍師とクリティカの元へ行き、ちょうどおやつの時間辺りでデューグとラッセルの元まで辿りつき、それから帰って来たが、その間にもたらされた情報があまりに多すぎて、兄たちがなにをしていたか知らなかったのだった。帰ってきてセルカに聞いている間に、思い出さなかったのはすぐ泣く兄の為にはよかったのだろう。
 即座にアイルにそう思わせる程、儚い微笑みで、ロイルはふ、と息を吐きだした。
「聞きたい?」
「……聞かない」
「じゃ、言わないけど……セルカまだ生きてた?」
 その問いが全ての答えである気がした。今日も逃げ切れなかったのだろう。アイルはどう答えたものやらと眉を寄せながら、さっきまではかろうじて、とセルカの状態を伝えてやる。ロイルはそうだろうなぁと言わんばかりの表情で笑みを深め、おいで、とアイルの背を押して室内へと誘った。ぱたりと扉が閉まる音を聞きながら、アイルは不思議な気持ちで室内を見回す。全く同じ家具の置かれた、大きさも同じ部屋だというのに、印象がまるで違うからである。ごちゃごちゃと物に溢れかえっているか、整理整頓されているかの違いだ。
 感心している妹の視線に気がついたのだろう。恥ずかしげな笑みを灯して、ロイルは綺麗好きな教育官がまめに掃除してるからな、と囁く。自慢げな、愛おしげな響きに聞いているアイルまでなぜか恥ずかしくなりながら、アイルは再度室内に視線を巡らせる。その教育官、ラライの姿が無かったからだ。そう言えば、なぜロイルが自ら部屋の扉を開けたのだろう。ラライがいる限り、彼の教育官がそれを許すとも思えなかった。きょろきょろ見回すアイルの頭に、ロイルがぽんと手を置く。撫でるというより注意を引きたがる仕草だった。
 自然と見上げる形になったアイルの前にしゃがみこみ、視線の高さを同じにして、王子は微笑む。
「探さなくていいから」
「……ラライ? どこ行ったの?」
 窓辺から、梢の揺れる音がした。窓は閉じていた筈なのに。眉を寄せてそちらを見ようとするアイルの視線を遮るように、てのひらが目の前にかざされる。
「アイル」
「え、えっと……?」
 困惑するアイルの目の前で指をくるくる回して注意をひきつけながら、ロイルはゆっくりとした口調で囁いた。
「俺の言うこと、聞けるよな? ラライのことは探さなくていい」
「探さなくても居ますしねー」
「……探さなくていい。探さなくていいからな、アイル。まだ教育官に絶望したくないだろ?」
 ひどいですよロイル様ー、とのんびりした声は窓辺から響いたが、ロイルが間に座りこんでいるのでアイルにはなにも確認することが出来なかった。たまに、兄の背からちらちら覗く観葉植物の葉が異常に気にかかるが、常識とかそういう存在はセルキストに滞在するのを諦めるべきだから俺はもういい、と言わんばかり微笑むロイルにそれを問う勇気はない。かろうじて見えた窓は、やはり閉まっていた。正確に確認できていないものの、あの観葉植物らしきものは、どうやら自ら動けるようだ。アイルは物分かりの良い笑みを浮かべてみせた。
「ロイル兄様」
「なんだ?」
「強く生きてね」
 五歳の妹に心の底からそう願われた十二歳の王子は、感動以外の理由で目に涙を浮かべ無言で頷いた。浮かんだ涙が零れる前に指で拭い、ロイルはさて、と気を取り直した声を響かせる。
「俺になにか用事?」
 さっきまでセルカのトコに居たみたいだけど、と問うロイルに、アイルは頭の中で言葉を形作ってみた。ロイル兄様、ラライと会った時に恋に落ちたりとかしたの。なにも難しいことのない、単純な言葉たち。うん、とアイルは頷いて、それをなかったことにした。
「なんでもないの。元気かなって思って」
「元気ですよねー、ロイルさまー。さっきまでお昼寝してましたもんねー」
「……気絶と昼寝を一緒にしないで欲しいんだけどな」
 うごうござわざわ音を立てながら響く声に、ロイルは心底嫌そうな顔で呟いた。アイルには聞こえたが、その声は窓辺まで届かなかったらしい。なんて言ったんですかー、教えて下さいよ王子ー、と暢気に問いかけられて、ロイルの笑みがゆるりと深まる。ぶっちん、となにかが引きちぎられる音をアイルは聞いた。そろそろと扉に向かって後退する妹を珍しく気にかけることもなく、ロイルはゆらりと立ち上がり、窓辺の『それ』を振り返った。走って扉まで辿りつき、アイルは好奇心に負けて、とうとう『それ』を見てしまった。そして後悔した。
 窓辺でうごめく『それ』は、確かに観葉植物だった。その形をしていた。常識が、着ぐるみの形をしてラライの顔を覗かせた『それ』を、観葉植物として定義させれば、の話ではあるのだが。青々とした葉は本物に見えた。木の幹部分に胴体が収まっているのだとしたら、枝のどれかに腕が通されている筈なのだが、アイルの目から見て、太さが合わなかった。それは観葉植物である。中庭や城を囲む森にあるような木と違って、枝は簡単に折ってしまえそうな細さだった。幹から伸びる枝は、太い部分でも一センチくらいしかないだろう。
 それなのに腕が通されているとしか思えないぐねぐねした動きを見せるそれは、よく考えれば人類の関節の動きとは異なる軟体生物のそれに見えたので、アイルは深く考えるのを止めにした。考えても無駄である。相手はヴァン・カルニエ家であり、さらに教育官なのだ。ああ、そうか着ぐるみかぁ、とアイルは思った。思って、けれどもどうしても理解できなくて、泣きそうな気分で息を吸い込む。意味が分からない。一言で終わる現実に向かい、怒りに燃えるロイルが立ち向かっていた。
「もういいからお前黙ってろよ! 植物なんだろっ? 観葉植物は人類の言葉を話すんじゃねぇよ!」
「ちょっと、ロイル様。じゃねぇよ、とか言わないでください。それと別に僕は観葉植物になったつもりはなくて、これはただ単に光合成ごっこしてるだけだって、さっきからそう言ってるじゃないですか? もう、人の話はちゃんと聞いてくださいね」
「……え? なんで俺叱られてんの……?」
 もう嫌だ理解できないし意味が分からない、と言って膝から崩れるように倒れたロイルの魂の安息を祈りながら、アイルはそーっと扉を開き、そーっと廊下に出て、そーっと扉を閉めた。なにか悪い夢でも見ていたと思おう、とアイルは自分に言い聞かせた。悪夢が現実だなんてそんな馬鹿なことはない、きっとない。この部屋から出れば大丈夫。ああああああもおおおおおっ、とどうすれば分からなくなったらしきロイルの魂の叫びが一度だけほとばしり、それきり、室内からは何の音もしなくなった。廊下はしんと静まり返っている。
 ふと視線を持ち上げれば窓の向こう、地平線に消える寸前の太陽が赤々と燃えていた。天の高くは、もう濃い紫から漆黒へ色を変化させてきている。アイルは持っていたシェザへの手紙にする筈だったそれを折り、薄く開いた窓の向こう、暮れゆく世界に向けて放り投げた。冷たい風が吹き紙を運んだが、やがてそれは、中庭のどこかに落ちて見えなくなった。今日はもう、誰にも話を聞ける気がしない。厨房はこれから忙しいだろうし、軍部に足を運ぶ気にはなれないし、国王はきっと痛みで動けないに違いないのだから。
 やけにスッキリした顔で小走りに戻って来たシェザを、アイルはおかえり、と言って出迎えた。



 夜更けに訪れた国王執務室は煌々と明かりに照らし出されており、それはすなわち、国政の進み具合が芳しくないことを示していた。それなのに、なぜ国王は床に腹ばいに倒れ伏したまま泣いているのか。軍師、ニムロは呆れ交じりにいくつかの理由を考えた後、面倒くさくなったので片足を床から持ち上げた。そのまま、なんのためらいもなく国王である兄を踏みつけようとした主君に、クリティカは教育官らしく、予想していた笑みで駄目ですよ、と囁きかける。どうしてよ、と不満顔で振り返った主君に、クリティカは柔らかく微笑んだ。
「国王陛下は踏むものではありません」
「考え方を変えなさい、クリティカ。軍師が国王を踏むのではないの。妹が兄を踏むだけよ」
「……それなら、まあ」
 はしたないですけれど、仕方がない気がしてきました、と苦笑するクリティカの声が聞こえていない訳でもないだろうに、しくしくめそめそと泣き続ける国王は倒れたままで動こうとも逃げようともしていなかった。ただ、倒れて泣いているだけである。心底うっとおしいと言わんばかりの舌打ちを響かせ、気を取り直したニムロは国王に向かって足を持ち上げる。そのまま勢いよく下ろされた靴底が踏んだのは、しかし国王ではなかった。がつん、と絨毯では吸収しきれなかった嫌な音が響き、ニムロは別方面から蹴り飛ばされた兄を目で追う。
 横合いから走りこんで来た国王の近従にして教育官、トリアーセの足によって部屋の隅まで蹴り飛ばされたロスタリカは、しくしくめそめそまだ泣いていた。どうして邪魔するのよ、とトリアーセを睨みつけるニムロに、国王の近従からは厳しい視線が向けられる。ぜい、と荒れた息をたった一度の呼吸で立て直し、トリアーセは涼しげな笑みを浮かべた。
「こんばんは、ニムロ様。ひとの主君を勝手に踏もうとしないでください」
「貴方今蹴ったじゃない」
「あれを踏んだり蹴ったりするのは、教育官である私の権利です」
 つまり基本的には誰にも譲るつもりがない、と告げる近従の言に、軍師は難しげに眉を寄せて沈黙した。その主張は分からなくもないが、踏もうと思ったものが踏めなくてとても不満なので、どうにか靴底と国王を親密にさせたいのである。未だしくしくめそめそ泣き続けている国王が、腹の底からうっとおしくて仕方がない。しかし、トリアーセに譲る気配は見られなかった。またの機会を待つことにするわ、と妥協して、ニムロは動けなくなった芋虫のような兄を勢いよく人差し指で指差した。
「で、あれはなんなの?」
 トリアーセは遠慮なく蹴り飛ばした主君をちらりと眺め、なんの感慨もなく言い切った。
「かれこれ四時間くらい泣いている駄目国王ですが」
「その駄目国王がなんで泣いてるのか聞いてるのよ」
「お前ら知ってるかっ! 国王は! この国で一番偉いんだぞっ!」
 両目から滝のような涙を流しながら顔をあげた国王は、軍師と近従、そして軍師の教育官に向かってごく当たり前の主張を行った。しかし三人はそれぞれ、知っていますけれどそれがなにか、という顔つきで沈黙したのみである。沈黙に耐えきれなかった国王は、再びばた、と音を立てて倒れると泣きだした。先程より悲痛な泣き声だった。罪悪感が痛みだした表情で、トリアーセが口を開く。
「……いい加減、泣くのだけでも止めにしてくださいませんか、陛下」
「うるさいばーか! トリアーセなんか俺が誰に襲撃されてもいいくせに……!」
「いえ、一応正当な理由が相手方にあったから黙認しただけなんですけど」
 あとあの程度で襲撃とか言わないでください恥ずかしい、とため息交じりにトリアーセが言うと、国王は手足をばたんばたんと動かしてさらに泣きだした。ニムロは国王主従の会話から大体の事情を察したからこそ、額に指先を押し当てて沈黙する。恐らくこれは、仕事が忙しくて精神的に煮詰まっていたのに加え、昨日は日中から夜半にかけて教育官に会えず、今日はいつものこととは言えないがしろにされたので拗ねているのだろう。二歳児くらいの拗ね方であることを省みなければ、ニムロにも理解してやれないこともない感情である。
 大惨事としか言いようのない光景を前にして、ニムロはしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「トリアーセ」
「……なんでしょう」
 主君以外に名前を呼ばれたくありません、と横顔に書いてある近従も、こちらはこちらで虫の居所が良くないらしい。溜息をつきながら聞き分けてあげなさい、とニムロは言った。
「兄上、寂しかっただけなのよ。構ってあげてちょうだい」
「……陛下、今年で何歳になったんでしたっけ」
「二十八歳よ、同い年でしょう? トリアーセ」
 そうですよね、と抑揚に乏しいトリアーセの声が囁く。落ち込んでいるようだった。
「これが許されるのは……八歳でも怒りたいんですが?」
「二十八だから怒ってもいいわよ。慰めて復帰させて私の用事が終わったらにしてちょうだい」
「……耳を塞いで、五分間壁を眺めていてください」
 廊下に出て行けと言っても駄目なんでしょう、と告げるトリアーセに、ニムロはおかしげに唇を和ませながらそうね、と言った。以前、同じような状況で二人きりにした所、部屋に鍵をかけて朝まで出てこなかったことを思い出したからだ。立て篭もらないなら出て行ってあげるけど、と告げられて、トリアーセは嫌そうに眉を寄せて沈黙した。やがて、溜息がつかれる。五分で終わりますから、と言われて、ニムロは耳を手で塞ぎ、壁を眺めて時間をつぶしてやることにした。クリティカも同じようにする。二人は視線を交わし、肩を震わせて笑った。
 困り切ったトリアーセが、ロス、と国王の愛称を呼んだのは、聞かなかったことにした。

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