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 それで、なんの用事なんだとそれまで晒していた醜態などまるで記憶に留めていない顔をして問いかけた国王に、軍師はにこりと笑いかけてから襟ぐりの辺りをひっつかんで引き寄せると、兄そのひとの顔を平手で叩き払った。殴らなかっただけ、ニムロは我慢した方である。そっと視線を反らして溜息をつくクリティカは、当然主君の動きを予想していたものの、止めず、トリアーセもまあこれくらいなら、という妥協の眼差しで兄に対する妹の怒りの発散を受け入れた。まったくもう、と息を吐きながらしびれる手をひらひらと振って誤魔化しているニムロに、国王から向けられるのは驚愕に染まった怯えの視線。
「お、お前……突然、なにするんだ!」
「心当たりが全くないと仰る?」
「ない! ……よな?」
 ないであってるんだよな、とこてんとばかり首を傾げながら教育官を振り返って問う国王に、トリアーセが向けたのはこれだからあなたという人は、と言わんばかりの憐憫の眼差し。
「よくよく考えて頂きたいのですが」
「おう!」
 この国王の、即座に返ってくる返事だけは心地良い。返事だけは。ふ、と零れる笑みを諦めに染めながら、トリアーセは主君の目をじっくりと覗きこみながら言った。
「三十五分ですよ?」
「なにがだ?」
「……陛下が泣きながら床を転がるのを私が止めて、慰めて、落ち着いたはいいもののもっと俺を慰めろとかいう要求をなぜか飲まざるを得なかった私が椅子に座り、その膝に陛下が懐いてきて、三秒で寝落ち。そこから二十分、ぐっすり眠った陛下が目覚め、膝枕から起き上がり、ああよく休んだとばかり伸びをされ、立ち上がり、それでようやく気がついたように視線を向けられて問いかけられるまで。もうすこし分かりやすく言って差し上げるのなら、ニムロ様が用事があってこの部屋に足を踏み入れてから、陛下がその問いを発せられるまでに必要とした時間です。三十五分」
 近従の、なるべく感情を抑え込んだ言葉が詳しく説明してくれるのを、国王はこくこくと頷きながら聞いていた。その横顔を見ただけで、俺の教育官は美声だな本当にいい声してるよなぁ、という感想しか抱かず、内容などちっとも聞いていないことを察した軍師は、この兄本当に燃えるゴミの日に出して燃やしてやろうか、と考えたのだが、クリティカに無言で袖をひっぱられ、首を左右に振られたので諦めてやることにした。主にこの軍師補佐の細やかな気遣いによって、セルキスト国王の命運は、か細く明日へと繋げられている。
 そういうことだから、怒られるのも分かるでしょう、と主君がそれなりに己の言葉を聞いてくれていたと信じる表情で説明を終わらせたトリアーセに、国王はよし分かったっ、と握りこぶしで大きく頷く。
「待たせたってことだな!」
「……要約、されたと、思えば」
「最初と最後しか聞いてなかったってことですわよ。駄目でしょう、国・王・陛・下?」
 一言一句に力を入れて告げながら、ニムロはまたしても平手をひらめかせた。ぱぁんっ、と音が国王の頬から響くが、その教育官は諦めの眼差しでそれを見守るに留める。ぽんぽん国王殴っていいと思ってんのかーっ、と叫ぶ兄に対し、その妹はうるさそうに眉を寄せながら、冷静に告げた。
「思っているに決まっているでしょう。それと、殴ってなどいませんわ。叩いているだけです。ね、そうよね? クリティカ」
「ニムロさまの仰る通りです」
「トリアーセ、トリアーセ! こいつら、俺のこと苛める!」
 軍師とその補佐官をびしりと指で指し、きゃんきゃんと甲高く鳴く犬のように訴えてくる駄国王を白んだ目で眺め返し、トリアーセはそっと、痛む額に指先を押し当てた。これが終わったら医務室に行って、頭痛薬と胃痛薬と睡眠薬をもらってこよう。
「……陛下。お願いしますから、本当にお願いしますから、なにとぞ、もうすこし頭の良い感じに訴えてはくださいませんでしょうか……! 三歳児かっ」
「トリアーセ、本音漏れてるわよ」
「失礼しました。それで? どういったご用事でしたでしょうか、ニムロ様」
 はやく仰ってください、そして速やかに退出してください、と思っているのが分かる表情で問われ、軍師は面白くなさそうに鼻を鳴らして腕を組んだ。全く、失礼な国王主従である。
「昼間に、アリスレシェクトが尋ねてきたのだけれど。教育官のことを聞きに」
「ああ、なんだ。そのことか。……それで?」
 もう五歳になったから、そろそろと思って、と言いながら痛そうに頬をさすり、国王は素直な足取りで執務机の向こう側へ戻って行く。国政に関わりのある話題ではなく、身内ごとだと分かったので、書類を整理しながら聞くつもりなのだろう。いつもこれくらい仕事に対してやる気を見せてくれれば、と二人の教育官から祈りの目を向けられている国王に、軍師は呆れ交じりの声で言った。
「一番大事なことを教えていないでしょう。教育官についての」
「というか、そんなには教えてないぞ? 探さないと死ぬ、くらい。ニムロはなに教えてくれたんだ?」
「アリスレシェクトは先祖返りだから、教育官の共鳴反応がケタ外れ。それを可哀想と思うなら、あなたの意思は置いておいてかまわないから、とりあえず探して見つけてあげなさいな、くらいですわ。あとは、デューグ兄さんの力を借りなさい、とも」
 だからあのコ、昼過ぎに城下まで出かけていたでしょう。問われた国王は、ああそれでか、と頷きながらも、目に見えてしょんぼりした。その時のアイルの発言が原因で、国王はアイルの専属護衛官に、主君への愛故に襲撃を受けたのである。教育官認可襲撃であるので、彼を罪に問うものはこの国に存在しない。せっかく復活しかけていたのにどうして思い出させるんですか、と咎める国王近従の視線をうっとおしそうに手をひらつかせて散らし、ニムロは腕組みをして口を開く。
「それで? アリスレシェクトに、ちゃんと告げていないのはどうしてなのかしら」
「……考えてもみろ、ニムロ」
 国王は、ややうんざりとした顔つきでそう言った。
「一番大事なことって、アレだろ?」
「ええ、もちろん。アレですわ」
 私にはありませんでしたけれど、兄上のは酷かったのでしょう、と真剣な顔で問いかけられ、国王は重々しく頷いた。国を代表する立場の方々なのだから、アレとかいう単語で会話しないでください分かり合わないでください、と呟きながらも、国王の近従は黒歴史を突き付けられでもしたかのように、苦い顔つきで視線を床へ落とした。対して、軍師補佐はやや他人事である。その存在は知っているものの、己の身に起きなかったことなので不思議で仕方がないのだろう。己がごく稀な例だと知っていても、最初から教育官として生まれ、育って来た女性には理解しがたいことなのだ。
 それぞれの運命の反応を意に留めず、国王と軍師は頷きあい、重たく息を吐きだした。
「もしかしたら、という可能性も残ってるだろ? クリティカみたいに」
「そうなると、生まれた時からアリスレシェクトの傍に居る誰か、ということになりますわね? ……侍女官の、シュオと言ったかしら。彼女は違ったのでしょう? 可能性があるのなら、彼女だと思っていましたもの、それが違うんなら、他に誰かいる筈もありませんわ」
「……男、だったり、するかも」
 自分の発言を信じていない顔で視線を反らしながら呟く国王に、ニムロはそれだけは絶対にない、と首を振った。
「教育官ですわよ?」
「……だよなぁ。教育官、だもんな。……ニムロ、なんでアレの説明はしてくれなかったんだ?」
「嫌なことを人に押し付けようとされないでくださいます? というか、いま言っていて気がついたのですが、兄上」
 珍しく胃のあたりを手で押さえながら、ニムロがやや落ち込んだ声で問いかけた。その呼称が国王ではなく、完全に私的な兄上に切り替わっていることに気がついても、ロスタリカはなにも言わなかった。どうしたんだ、と妹の頭に手を触れさせ、ごく普通の兄妹のように撫でながら聞いてやる。微笑ましい光景である筈なのに、空恐ろしいものを感じさせるのはどうしてなのだろうか、と教育官は視線を見交わした。妙な緊張が空気に走る中、ニムロは怖々と息を吸い込む。
「私たち……父上に、なにも言われた記憶がありませんわ」
「……俺もない。というか、俺なんて、トリアーセ連れて城に戻ってきた時とか、父上に『え? 居たの? そっか、よかったね、ロスタリカくん。おめでとう』とか言われた気がする……説明? 説明とかってされたか? 教育官がいるってことは誰かから聞いた気がするけど、それって父上じゃなかった気が……母上、か? それとも父上の教育官?」
「……父上の教育官、じゃなかったかしら。こう、私を膝に抱きあげてくれた記憶がありますもの。そんなことをしてくれたのは彼だけですし……父上は基本的に、なんというか、非常に……自由な、そう、自由な放置の仕方をする方でしたもの」
 なにせ幼少期、父親の口癖として一番記憶に残っている言葉は『え? 言ってなかった?』『あれ、知らなかったの?』『ん? 教わってない?』という三つである。言ったつもりで、なにも言ってくれないひとだった、とニムロはしみじみと頷いた。
「……私たち、子世代に優しい対応をしているのですね」
「そうだな。本当に、そうだな……!」
「そして、よくよく考えたら、クリティカがちゃんと言ってくれていた気がしてきました」
 そうよねクリティカ、と確認されて、軍師補佐官は力なく頷いた。
「ニムロさまの、仰る通りです……。ただ私も、はきと教えて差し上げることはできませんでした。申し訳なくて、というか、可哀想で……ほのめかす、くらいしか」
「なんだ。じゃあ大丈夫なんじゃないか?」
「あらやだ、私としたことが」
 まあ純粋に文句を言いたかっただけという面もありますので、目的は達成できたんですがと息を吐き、軍師は恥ずかしそうに立ち上がった。そのまま、それでは、と部屋を出て行こうとするニムロの手を、慌てた仕草でクリティカが捕らえる。
「ニムロさま……!」
「え?」
「え、ではありません! もう、この際、ニムロさまでも、国王陛下でも、どちらでもかまいませんから!」
 アイル様に反抗期のことを教えておいてください、と叫ぶクリティカに、国王が、ああそういう呼び方でいいのか、アレ、というしみじみとした頷きをみせた。
「反抗期、反抗期か。……お前も酷かったものな、トリアーセ? 反抗期」
「思い出さないでください。紙に書いたり、口に出したりもしないでください、家出しますよ?」
「アイルもなぁ……反抗期、乗り越えられればいいんだけどなぁ……」
 だってあれ心が叩き折られる、と息をはいて首をふり、国王はへしょりと机に突っ伏した。未整理の書類がぐしゃりと歪むのに、近従が眉を寄せるが、言葉は響かない。ぐっと我慢している様子を眺めながら、ニムロがそうですわね、と囁いた。
「私は、ありませんでしたが……一番酷かったのは、最近だと、アニシアかしら? ……いえ、ヴァン・カルニエ兄弟ですわね。あれに勝る反抗期など、そうそうありはしないでしょう」
「セルカは本当によく持ちこたえ……てると、思う」
 現在系に言い直したのは、王子に向けられる教育官の愛が、すこし所ではなく歪んでいるからだった。好きな子ほど苛めたい、の進化系が教育官としてのラグリアの愛、そして忠義だ。ああいう教育官ではないといいですわね、と心底祈ってやっているニムロに、国王は本気で頷いた。子供たち三人の教育官が全部そういう系統だったら、国王はなにか責任をとってやらなければいけない気がするのである。性格は矯正できるものですよ、例外もありますが、と言ってくれる近従に力ない頷きを見せながら、国王は用事は済ませた、と出て行く妹に、見送りの為に手を振った。



 長い一日だった。それも、ものすごく。寝台にごそごそと潜り込みながら、アイルはそう思い、浮かんで来るあくびに素直に身を任せる。ふぁ、としてから目を瞬かせ、ぼんやりとした頭でさらに考えようとした。考えなければいけないことは、たくさんあるのだ。教育官のことにしてみても、与えられた情報が多すぎて、未だ整理しきれていない。それなのに、眠たい頭は思考をまとまらせず、指先をすり抜けさせていく。教育官。アイルの、たったひとりの運命。対の相手。どこにいるのだろうか。いま、どこで、なにをしているのだろう。
「……もし、会えたら、私は」
 なにを、想うんだろう。呟いて、アイルの瞼がゆるゆると落ちて行く。すっと息が深まって、部屋には静かな眠りが漂い始める。夜は深く、朝は遠く、眠りの中に見る夢に。アイルは、誰かの姿を見つけ出した気がした。

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