野辺の送り

 庭園には、薔薇がなかった。見事な英国式庭園であるのに、その一点が損なわれている。なんということだろう、と男はため息をついた。いつの間にか見つめていた庭園に、夕暮れのような紅の花が見られないことは、ひどく残念で悲しいことのように思われた。よく手入れをされた庭だった。世話をする者の愛を受けて植物は育つというが、まさしくその通りの、どこか優しい印象のある庭である。
 瑞々しい葉は、翠緑の輝きで陽光を受けている。細い枝は不透明な琥珀のようで、弱く折れそうな印象とはほど遠い。くるりと巻きつく蔦は小生意気な蛇のごとくだが、それでいて狡猾さなど感じさせない慎ましさだった。整地された細い道の両端には、花壇と足を進める場所とを区別する銅色の煉瓦がまっすぐに線を引いている。庭園には、人の手によって作られた、整然とした美しさが存在していた。
 それでいて、人の手を離れた美も庭を飾り立てている。雲のない凪のような青空は、静寂を孕んで天から見下ろしていた。潮騒のような、耳鳴りのするようなかすかなざわめきは、時折吹く微風によってかき乱されて安定しない。常緑樹の梢が、微笑むように揺れた。寂しげな音を立てて枯れた葉が一枚、男の足元に落ちる。背をかがめ、男は枯れ葉を拾い上げた。葉は手の中で崩れ去り、風に消えていく。
 男の履く草履の鼻緒は、やけに赤かった。花のような紅。それは庭園に足りない鮮やかな色彩だ。黒い着物をまとう男の、足元だけが紅だった。人の作り出した庭にも、作り出せぬ自然にも、存在しない色が足元に咲いている。男はじっと、鼻緒を見つめていた。いつまで経っても花になどならない、鼻緒の色を見つめていた。
「お散歩ですか」
 ごく自然な様子でかけられた声に、男は顔を上げた。男の他に誰も無かった筈の庭園に、初老の執事が立っている。その姿は庭園の主のようでもあり、管理者のようでもあり、また案山子のようでもあった。用事無く立っているようでもあり、男を出迎えに赴いたようでもある。男は初老の執事を見つめ、ああ、と言って頷いた。確かに男は、この庭園を散歩していたのだ。
「執事さん、ですか」
 どこか不器用に声を向ける男に、初老の執事はその通りでございます、と恭しい態度で肯定し、しかしすぐに否定した。
「私は、庭師でもございます。この庭を管理しております」
 ほう、と男は関心した呟きを落とした。眼前に広がる英国式庭園は広く、終わりが見えない程である。それなのに手入れはどこまでも行き届いていて、一分の隙もなければ乱れも無い。凛とした佇まいだった。整然とした、確固たる信念のようなものさえ感じられる。美しくある、ということに関する絶対的な誇りが作り上げている庭なのだ。だからこその不思議さを感じ、男は庭師に尋ねかける。
「なぜ、この庭には薔薇がないのだ。薔薇さえあれば、完璧であるのに」
 庭師は静かな微笑を浮かべた。問いかけを予想していたようだった。あるいは、何度も同じ問いを受けたのだろう。物静かに慣れた雰囲気が、幾度も語った答えであるということを男に告げていた。
「弔いでございます」
「とむらい? とむらいとは、その、弔いのことか」
 死者への、と続く言葉はごく居心地が悪そうに響いた。その言葉自体が、美しい庭に放たれるのを嫌がったような、不自然な掠れ方だった。ええ、と庭師は厳粛に頷く。執事服にぴったりと合う白手袋が、愛しげにツツジの葉を撫でる。
「この庭は、お嬢様を弔っているのでございます。薔薇が見えぬのは、そのせい」
 悲しい昔話でございます、と執事は言った。物語を始めようとする執事に、男は口を閉ざすことで拝聴の意を示す。執事の視線は、穏やかに庭園を眺めていた。しかしそれ以外のものを見つめていることは、詳しい事情を知らぬ男にも明白なことだった。
「私は、庭師としては見習いなのでございます。先代の男と親しかったからというだけで、旦那様は私を、後釜にと仰られました」
「それはまた、どうして乱暴な話だな」
 専門知識が無いものに庭を任せるなど、自殺行為にも等しい暴挙である。草を抜き、水をやるだけでは庭園は保てぬし、花は見事に咲きはしない。けれど、と男は庭園を見回す。男が見惚れた凛とした佇まいの庭園は、変わらず微風に吹かれている。先見の明があったと、そういうことなのだろう。ふむ、と頷く男に、執事はゆるりと苦笑いを浮かべた。
「先代の残した資料の賜物でございます。先代の男はとかくまめで、なににつけても帳面に事細かに記して残しておくことを、常としておりました」
 けれど薔薇だけは、と執事は悲しく目を細めた。弔い、と告げられたことを男は思い出し、育たぬのか、と問いかける。執事は答えることなく遠くを見つめ、終わった過去を語っていく。
「お嬢様は、薔薇がお好きな方でした。先代の庭師はそれは丹精こめまして、毎年美しい薔薇を飾ったものです。庭師は、お嬢様に恋焦がれておりました。叶わぬ筈の恋でした。身分の差もあれど、お嬢様には婚約者様がおりましたので」
 そこまで聞いて、男は結末さえも分かった気分で口を閉ざした。恐らく、庭師の恋は叶ってしまったのだ。二人は手に手をとって逃げたに違いない。語るより雄弁な男の表情に、執事はひっそりと告げる。その通りでございます、しかし、と。しかし、と悲しげに目を伏せて。
「旦那様はやはり、お許しにならなかったのです。旦那様は二人を追わせました。逃亡の末に庭師は捕らえられ、屋敷に戻ってまいりました。しかしお嬢様は屋敷に戻ることだけは、庭師と引き剥がされ、婚約者と無理に添わせられるのであれば、と川に身を投げたのでございます。遺体は上がりませんでした。戻ってきた庭師はすでに心を亡くし、生きる屍と成り果てておりました」
 そしてそのまま、庭師は殺されたのです、と執事は言った。なんの感情もない、哀惜もなければ懐かしさもない、事実のみを告げる声だった。男はぞっとして庭園を見回した。この場で殺されたわけではあるまいと思いながらも、あれ程美しいと感じていた庭を、空恐ろしいものであるかのようにして。しかしその恐ろしさは、続きはしなかった。庭はただ、庭としてそこにあったからだ。
 うむ、と呻いて黙り込む男に、執事は柔らかな笑みを浮かべる。それは庭によって得た恐怖を、庭によって解消された男に対する、ささやかなからかいの笑みだった。庭は血を吸ってなどおりませんよ、と告げた執事に、男はまたうむ、とだけ言って黙り込む。話の続きを促す男に、執事は素直に口を開いた。
「だから、薔薇は見えぬのです。薔薇は庭師が、お嬢様のためだけにと育てていた花。亡き主人の意を、植物も汲み取ったのでございましょう。薔薇は咲いております。が、見えぬのです。薔薇は生きています。生きているものにしか、薔薇は姿を見せません。ですから、こうして」
 空を泳ぐ燕のような動きで、執事の手が動く。なにもない空へそっと添えられた右手は、花の茎を持っているような形だ。眉を寄せる男にかまわず、執事ははさみを持っているような形になった左手を動かし、剪定の音を響かせた。なにもない空を、なにもないもので切ったに関わらず、剪定の音が響いたのだ。執事の右手には、切り落とされたばかりの薔薇の茎、薔薇の花があった。
 目に鮮やかな紅。瑞々しい花弁。濃緑の葉。棘のするどい茎。それらは全てなまものの質感を持っていた。作り物ではない、本物の薔薇である。男は、あ、とも声を出せないでいた。執事は現れた薔薇を伏せた目で見て、こうして死んでしまえば現れる、と言う。
「差し上げましょう。こうしてお会いしたのも縁なのですから。行きがけの駄賃に、持って行かれるがよろしかろう」
 さあ、そろそろお行きなさい、と執事は言った。そこではじめて男は、この庭園に入った覚えのないことを思い出す。はっと気が付いた瞬間に、男はもう庭園に見惚れていて、その始まりがなかったのだ。お気づきではなかったか、と執事は言う。
「ここは、死者の庭でございます。死者が集い、死者が通り、死者がまどろむ野辺の庭。辛く生き、悲しくさ迷うものだけが、砂一粒の確立で辿りつく。川への通り道でございます。庭師も、お嬢様も、皆この場所を通って川へと行きました。あなたも、もうお行きなさい。さ迷うのは、あまり、良くない」
「執事さん、アンタは」
 行かないのか、と言う男に、執事は庭師の表情をして笑った。
「私は、この庭の管理をしております。先代のあとを引き継いだとは言え、旦那様よりのご命令とは言え、私はこの庭を愛しております。なにより咲く花は、薔薇は、今もお嬢様を弔っているのです。それなのにどうして、私がこの場所を離れられましょう。私は、ここでお見送りするのみでございます」
「花は、弔いを止めぬのか。いつまでも、いつまでも弔うのか」
 それではまるで可哀想だ、と男は思う。永の弔いは、尽きぬ悲しみと同意なのだから。人は、人の喪失を乗り越えていく為に弔う。けれど死者に姿見せぬ薔薇たちは、弔う為に弔っているのだ。そこに終わりはない。弔うための弔いなのだから。やり切れぬ表情で歩き出す男を見送りながら、執事は丁寧に頭を下げた。それは男の感じたやるせなさへの感謝のようでもあり、送り出す者の礼儀でもあるような仕草だった。
 やがて執事は顔を上げる。庭園には誰の姿もなくなっていた。男は、川へと行ったのだろう。次の生こそ幸せにと、他人事ながら祈る執事は、かすかな足音を聞きとがめて振り返る。そして咲き誇る喜びのような笑みを浮かべて、丁寧に頭を下げた。
 
 
 
 ある町外れに在る庭園は、春になると薔薇が咲く。管理者もいない打ち捨てられた庭園であるのに、どうして毎年咲くものか、と人々は首を傾げて不思議がった。けれど咲くものは咲くのだから、季節になれば多くの見物客がやってくる。訪れた男女も、その一組だった。女性は幸福そうに微笑み、男性に寄り添いながら庭園を歩いていく。男性は満ち足りた笑みを浮かべ、女性と共に足を進めた。
「薔薇は華やかなもの、というけれど。私にはどうしてか、悲しいものに思えるわ」
 指先で花弁に触れては目を細め、女性は愛しげに呟いた。
「申し訳なく、思ってしまうわ。どうしてなのかしら」
「さて、なぜだろうね」
 空を泳ぐ女性の手を取り、男性は微笑みながら尋ねかける。
「君の為に薔薇を育て、花束を作って送っても、君は悲しく、申し訳なく思うかい?」
「いいえ。嬉しいわ。あなたの育てた薔薇ならば」
 微笑みあう二人を喜ぶように、梢をざわめかせて風が過ぎた。その、風が流れて行った方へ、二人はどちらともなく目を向ける。そこには、初老の執事が立っていた。執事は心から喜びの溢れる笑顔で丁寧に頭を下げ、おかえりなさいませ、と囁く。そして執事は、何処へと歩き去って行った。その日から庭園の薔薇は枯れ始め、二度と花咲くことはなかったと言う。
 
 
 
 薔薇は弔い。
 野辺の花。

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