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 とある少女と天使のはなし

 いつもの通り、終点一つ前のバス停でバスを降りる。夕方の混みあったバスは電車に乗りたい人で息苦しく、停止ボタンが鳴る音だけで空気がひどく張りつめた。その、誰のものか特定できない緊張感と苛立ちが、私が駅までバスに乗らない理由だ。否定的な音を立ててバスが止まり、私はゆっくりと席から立ち上がって降車口へ向かう。突き刺さる無言の抗議は気がついていないふりで受け流して、定期券をかざしてバスから降りた。
 怒りを吐き出すような音を立て、バスが発車していく。日暮れ前の涼しい風に髪を散らして、私は口元を和ませてそれを見送った。私のささいな行動が、あの細長くて四角い空間に居たほぼ全員の苛立ちとなったかと思うと、それだけでひどく、気分が良かった。最高だ。明日もバス停は、絶対に駅のひとつ前で降りなくては。ささやかな悪意、バンザイ。なんて素晴らしい毎日。歌いたい気分になりながら、駅前通りへゆっくり向かう。
 電車は、中途半端に止めると大騒ぎになりすぎるから止められない。一度やってひどく怒られてから、私は電車だけは止めない、と決めてあげることにしたのだ。なんて良識があるんだろう。浮かんだ気持ちのまま、その場で無意味に回ってみた。中々楽しいけれど、その瞬間、黒い革カバンの中でプリントがカサついた音を立てたので、私の気分は一気に台無しになってしまった。やっぱり電車くらい止めないと、気持ちが晴れないかも知れない。
 今すぐ世界なんて滅びればいいのに、と真面目に口に出したい気分にすらなる。それもこれも、全部プリントのせいだ。この数学の宿題さえなければ、私の世界は今日も薔薇色だったというのに。ああもう、本当、世界なんて滅びてしまえばいいのだ。そうすれば宿題、やらなくてすむし。出された以上は世界を天秤にかけてなげ捨てても未提出だけは選べない、私の真面目さが悲しい。こんなに優等生でなければ、宿題なんて無視するものを。
 電車の停止ボタンと監視カメラの位置を思い出しながら歩いていると、妙な居心地の悪さを感じた。誰かに、見られている。それもチラチラとかそんな可愛いレベルではなく、レベルマックスの凝視クラスだ。変質者かも知れない。身の危険を感じながらも視線の先を辿ってしまった私は、瞬時にそれを後悔した。だって天使。天使が私を熱い目で見ていたのだ。ファンタジックな白い衣装に、これまたファンタジーな白い羽は、まぎれもなく天使だ。
 天使は駅前通りに店を構える、呉服屋の前に立っていた。いやお前そこ立ち位置じゃないだろ、と誰か親切に教えてやればいいものを。せめてアンティークショップの前に居れば良いものを、なぜわざわざ呉服屋をチョイスしたのだろうか。趣味なのか。意味が分からない。思わず足を止めていた私と、天使の視線が出会ってしまう。ガン見していた相手に目を向けていれば、当たり前の結果だ。天使は心底嬉しそうな表情で、私に微笑んだ。
 一般的な礼儀としてやわらかく微笑み返し、私はそのまま天使の前を素通りした。ほうぁあっ、と理解できない叫びが上がるが、私には関係ない。私はこれから電車でピンポンダッシュするという重要任務が控えているのだ。乗る駅ではなく、降りた駅でやった方がいいだろう。帰るの遅くなるし、買いものもあるし。信号待ちをしながら、夕食の献立を考える。塩が切れていたから買わなければいけないだろう。岩塩がいい。固まりで、硬そうなヤツ。
「あ……あのう、もしもーし」
 控え目にすぎる声が向けられたのは、私ではない筈だった。くたびれたサラリーマンや主婦、同じ高校の制服を着た少女がもの言いたげな視線を、私に向けてくる意味が分からない。いや、あれ私を呼んでるんじゃないから。だからこっち見んな。呉服屋前の天使などに知り合いは居ない。
「え、あの、あの。無視? 無視しないで……!」
 天使の声がしょんぼり、泣きそうなものになってきた。打たれ弱すぎる。ヘタレめ。というかそこのサラリーマン、喧嘩したなら仲直りを、とでも言いたげな暖かい目で私を見るのはやめて欲しいのだが。お前が気にするのはそこではなく、日常になぜか天使が存在しているという、その一点のみでかまわないはずだろう。平和ボケするのもたいがいにしろ。あれはコスプレじゃない。本物だ。本物の天使がそこに居る。まずそこに誰か突っ込め。
「あ、あなた、あなたですよー。まっすぐで長い黒髪の、白いワンピースの制服で、黒い革カバンを持ってて、とびきり綺麗な女の子。左の手首に、細い金のチェーンをつけてらっしゃる、あなたですよー」
 信号待ちの市民、いいから私を見るな。確かにその特徴に完全一致しているのは私しかいないが、それでもきっと人違いだ。というか天使、細かい所まで指摘するな。チェーンのことを言われなければ、同じ制服の誰かに押し付けていけたものを。左手首に視線を落として、忌々しく目を細める。純金のチェーンは、どうしても、と送られたものだった。元は金のロザリオがついていたのだが、それは即日、むしって捨ててやったからついていない。
 あの時の送り主の、悲嘆にくれた顔といったら無かった。近年まれに見る満足度の高さだった。捨てたかいがあるというものだ。信号が青になる。駅に向かって人が動いていくのに逆らわず、私も足を踏み出した、のだが。そっと左腕を取られて、全身に鳥肌が立つ。振りほどくのと同時に振り向けば、やはり天使が、にこにこと暢気に笑っていた。振り向いた過去の私を脳内で存分に罵り倒すが、全く気が晴れない。それでも天使は、笑っている。
「よかったー。ようやく気がついてくれましたねー。あなたですよぅ、あーなーたー」
 気持ちを落ち着かせて息を吸い込んでいる間に、信号は赤になってしまった。また青になるまで天使につき合わされると思うだけで、心がささくれ立って行く。けれどそれを顔に出すことはしない。制服を着ているからだ。それなりの名門高校の制服を着ている以上、ふさわしい振る舞いでなければ、私は私を許さない。息を吸い込めば、バスを降りた時より冷たくなっていることに気がつく。日が落ちはじめている。逢魔(おうま) が時だった。
 私はつとめて優しく笑い、天使に向かって口を開く。
「ごきげんよう。わたしに、なにかご用事でしょうか? ペ天使さま」
「……え? 空耳?」
 ペテン師呼ばわりされたのが気にくわないのか、天使はぎこちなく首を傾げて呟いた。なにも言わずに微笑んでいると、天使は空耳だったとして処理してしまったらしい。人好きのする笑顔が復活するのを待って、私はもう一度口を開いた。そろそろ、信号が青になる。
「あいにくなのですが、手相占いやアンケートはお断りしております。それともわたしの幸せを数分、祈ってくださる系統でしょうか? それでしたら数分間などと寝ぼけたことを仰らないで、あなたの人生をかけてわたしの幸せを願ってくださいませ。わたしの視界に入らない、どこか、遠くで。黄泉の国あたりで。それとも、まさか、不幸の卦が出ているとでも仰るの? そうでしたら、きっと、見間違いです。眼科に行かれたらいかが?」
 天使はなんだか、信じられないものを見る表情になってしまった。怯えているようにも見える。失礼なことだ。信号が青に変わった。さて、ピンポンダッシュだ。ちょうど良く日が暮れて人が増えてきたので、迷惑具合も跳ね上がる。恨むなら数学の宿題を恨め。あと私を引き止めた天使を。ふわふわに浮き立つ気持ちで出した一歩は、またしても止められてしまった。服の、裾が、つかまれている。掴んでいるのは、もちろん天使だった。
 天使は哀れっぽく座り込んでしまって、べそべそと泣きながら私を見上げていた。捨てないで、と大きく文字が見えるようだ。ええい、放せ。蹴り飛ばしてやりたいが、制服を着ている以上、しとやかな動きしか出来ないのが私の悲しい性格だ。なんてことだろう。私が、優等生である、ばかりに。これではもう、電車だけでは気がすまなくなって来た。最寄り駅から家に帰るまでに通る住宅街を、私は走り抜けて行かなければならないだろう。
 一つ残さず、しらみつぶしに押してやるのだ。住民どもめ、苛立つがいい。悪いのは私ではなく、ぐずぐず鼻をすすっている天使だ。天使は人目もはばからずに泣き、すこし気分がスッキリした様子で私を見つめてきた。落ち着いたのか。よかったな。そのまま天界にでも帰ってくれ、今すぐ。
「あの、あのぅ……お話を、聞いて欲しいだけなんですよぅ。実はですね、神様からあなたに、とーっても重要な使命が下されました。あなたはぁ、来るべき終末を食い止めることのできる存在。救世主に、選ばれたのです……!」
 キラキラの後光つきで言い切った天使は、満足そうだった。よし、言ってやったぞ、という気持ちにでも溢れているのだろう。私は制服の裾を掴む天使の手に両手をそえ、指を一つ一つ外して自由を取り戻した。視線を合わせて穏やかに笑い、すこし待っていてくださいね、と天使にささやく。天使はなんだか感激した面持ちで手を震わせ、静かに頷いた。ピンポンダッシュで帰宅ルートを思い描きながら、私は鞄から筆記用具と紙を取り出す。
 小テストの答案用紙をひっくり返し、そこに黒ペンで地図を書いていく。駅を描き、悪魔を描くのが面倒くさかったのでコウモリのイラストを描き加えた。ほんのすこしの優しさで目的地は十字架の記号にしてやって、コウモリからそこまで、矢印を引いてやった。天使に向かって差し出すと、なんの疑いもなく受け取り、覗き込んで首を傾げている。地図は読めるらしい。よかった。胸を撫で下ろしたい気持ちになりながら、黒ペンを鞄に突っ込む。
「現在位置がコウモリ。病院が十字架です。診療時間は終ってしまっているけれど、あなたならば大丈夫。精神科の先生が、喜んであなたを監禁してモルモットにしてくださるでしょう。めったに居ないサンプルだもの」
「言葉を隠したりしてくださいよぅーっ! そんな、私が、頭のおかしい天使みたいじゃないですか……!」
 青ざめて震えながら抗議する天使に、私はやわらかく笑いかける。もう日は、暮れてしまっていた。
「救世主、なんていう恥ずかしい単語を口に出せるのですもの。それだけですこし、違うのではないかしら」
「……神様ぁっ! ど、どうして、どーして彼女が救世主なのですか……!」
 両手を祈りの形に組み合わせたまま、天使は突っ伏して泣き出してしまった。泣きたいのはこっちだ。なんでそんな、聞いただけで背筋がかゆくなってくるような単語の存在に決められなければならないのか。信号はちょうど青だった。ゆっくり、足を踏み出す。走りたいのは山々だが、ここはまだ人目が多い。あくまで制服に似合う立ち居振る舞いをしなければならないだろう。天使の泣き声は、駅の改札前に来るまで響いていた。

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