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 とある少女と家族のはなし

 玄関には明りがついていた。いつものように鞄から鍵を取り出さなかったのは、そういう理由だ。扉を開ければなんの抵抗もなく開いたので、私は顔も見ないうちから口を開いていた。
「ただいま戻りました。ダディ」
「おかえり! マイ・スイート。変わったことは無かったかい?」
 眩いばかりの玄関で両手を広げて出迎える中年に、私は笑顔でなにも、と言ってやった。引きつった表情で動きを止めるのだから、分かりやすい。重たい鞄を置いて、買いもの袋を押し付け、私は靴を脱ぐことにした。座り込んで靴に手をかけると、左手首で金の鎖が涼しく揺れる。思わずチェーンを睨みつけながら、私はそれを投げ捨ててやることを考えた。チェーンを捨てれば、買いもの袋を持った中年は、さぞ悲嘆にくれた顔つきをしてくれるだろう。
 元々ついていたロザリオを目の前でむしって捨ててやった時、この中年は声にならない絶叫をあげて膝からくずれてしゃがみ込み、数秒後には泣き出した。それがまた見られるのか。いいかも知れない。ぜひやろう。つい笑顔になりながら手を伸ばすと、中年が青ざめた顔ですがり付いてきた。
「マイ・ディア。お願いだから、お願いだからそれだけは……!」
「……だって」
「お願いだから……! それまでポイされたら、悲しくってたくさん雨降らせちゃうかも知れないっ!」
 別にそれならそれで、準備はしてあるので全く構わないのだが。しがみついてくる中年を剥がしながら、私はふと思いついて口を開く。
「ダディ?」
「なんだい、マイ・ディア。思い留まってくれた?」
「ユダはどこ? まだ戻っていないの? お迎えがなかったわ……?」
 急に心配になって胸を押さえてしまうと、中年がものすごくなにか言いたげな目を私に向けてくる。そんな目で見る暇があったら、今すぐ探しに行って来い。玄関を開けて中年を蹴りだしたい衝動をぐっとこらえて、私は時計に目をやった。午後七時半。ありえない時間だった。不安になにも言えなくなってしまう私を見つめながら、中年はやけに優しい声で考え直そう、と囁いてくる。
「もっと良い名前につけなおそう、マイ・スイート。どうしてよりにもよって、その名前なんだい……しかも白い鳩に」
「決まっているじゃないのダディ……! それ以外の名前が思い浮かばなかったからよ……!」
 私は胸が張り裂けそうなくらい心配しているのに、それはちっとも中年に伝わっていないようだった。ダディは悲しいよ、と首を振るのを睨みつけて、私は立ち上がる。こうなったら、もう遅いが探しに行かなくては。ユダは賢い鳩だから、声を聞けば飛んでくる。夕食はそれからでもいいだろう。玄関を開けようとすると、外側から開かれた。入ってきたのは白い学ランがとびきり似合う、兄さまだった。肩に、白い鳩がくつろいだ様子で留まっている。
 それがユダなら、どれ程よかったか。思わず目に涙が浮かんでしまう。兄さまはなにも言わずに鞄を中年に向かって投げつけ、私をそっと抱きしめてくれた。
「どうしたんだい、マイ・ハニー。なにがあったか話してごらん?」
「マイ・ダーリン。どうしましょう……ユダが、どこかへ行ってしまったの。帰って来て、いないのよ……」
 兄さまの肩の上で、鳩がくるる、と鳴く。そうよ、ユダが居なくなってしまったの。私の背を撫でながら、兄さまが今日は災難の日か、と溜息をついた。
「変な中間管理職に絡まれたと思ったら、ユダが居ないだなんて……ああ、泣くのはおよし、マイ・ハニー」
 まぶたに口付けて涙をぬぐう兄さまは、肩の白い鳩をそっと手で撫でながら声をかける。
「大丈夫。サタンが探してきてくれる。……行ってくれるね? サタン。ユダが迷子らしい」
 くるるるる、とサタンが鳴いてぱさぱさと羽を動かした。兄さまがそっと玄関を開けると、暗闇の中に飛び立っていく。さすが、兄さまのペットだわ。中年よりずっと役に立つ。ありがとうの代わりに兄さまに抱きつくと、優しく髪を撫でて額に口付けが降りてくる。もう、くすぐったいわ、兄さまったら。でも大好きよ。私は、なんだかますます金のチェーンが煩わしくなってきて、それを指先でいじってしまった。捨てたい。雨くらい降れば良い。
 箱舟用に木材は買ってあるのだし、兄さまが設計図を引いてくれたし、当分生活できる準備はしてあるのだから。それに、そうなれば数学の宿題は無かったことにされるだろう。無かったことになれば、それはつまり無いということなので、未提出ではなくなるし。ダディを呼んで、私はとびきりの笑顔で甘えてみせた。
「ねえ、ダディ? これを捨てたら雨が降るのよね?」
「や……やっぱり降らせないから、捨てちゃダメ……! それはダディの愛情なんだよわかってマイ・スイート! そしてお帰り、マイ・キュート! 変わったことは無かったかい? なんでもダディに相談していいんだよっ!」
「言ったじゃないですか、変な中間管理職に絡まれた、と」
 やけに嬉しそうな中年に、私は溜息をついてしまった。分かっていた。分かっていたが、やはりそうだったのか。ダディめ。学ランの上着をひっぱると、兄さまはすぐに私を見てくれた。なに、と微笑むのをうっとり見つめ返しながら、私もよ、と囁く。
「わたしも今日、そういえば、変な中間管理職に絡まれてしまったの。……もう、大変だったのよ」
「マイ・スイート! マイ・キュート! それはもしかしてもしかしなくてもっ! 神様の予言を伝える天使さまだったりとかしたんじゃないかい……っ? な、なななにか、なにか言われたりしたんじゃないのかい……っ!」
 超声が上ずってるぞ、中年。やはり貴様の差し金か。あの天使のせいで、私がどれだけストレスを溜め込んだと思っている。電車ピンポンダッシュのみならず、駅からこの家に向かうまでの住宅全制覇してもまだすこしムカついているというのに。住民の皆さま、ごめんなさい。元凶はダディです。
「ダディ……! どうしてわたしが、救世主なんていう恥ずかしいものにならなくてはいけないのっ!」
「決まってるじゃないか、マイ・スイート! 君が輝かんばかり美しい乙女だからさっ!」
「消えてくださいな、ダディ。ほら、言うでしょう? 『神の不在は証明できない』と。わたしが、いますぐ、不在証明をヴァチカンに提出して差し上げますので、お消えください。心置きなく、不在になられるとよろしいわ」
 ダディは本気だ。本気でその理由で決めたのだ。くだらないにも程がある。今すぐ死んでくださいダディ。不在が証明できないとか言われているのだから、本当に居なくなってもたぶん誰も困らない。しっし、と犬を追い払う仕草に、ダディはめそめそ泣き出してしまった。さすがダディ。帰ってくる途中に絡まれた、ペ天使と泣き方が一緒だ。上司と部下は泣き方も似るらしい。ウザい。ダディを睨んでいると、兄さまが溜息をついた。
「ダディ? では僕も聞くけれど、僕のハニーが救世主ならば、僕も救世主だと言われた理由は?」
「決まってるじゃないか、マイ・キュート! 予備だよっ! 備えあれば憂いなし!」
 兄さまを予備呼ばわりするとは、ダディめ。よほど死にたいらしい。スーパーでしこたま生肉と刺身を買い込んできて本当に良かった。今日の夕食のみならず、向こう数日はベジタリアンな生活ができないと思え。貴様の通帳、カード、および現金は全て私の手の中だ。断食してやせ細れ、中年。泣いても叫んでも、冷蔵庫の中は全て肉類だ。気分がよくなって来た。これで宿題さえばければ、本当に人生薔薇色なのだが。上手く行かない。
「……ハニー? 唇を噛んだらいけないよ」
 分かってる。でも止められない。代わりに兄さまの指を軽く噛むと、指先であごをくすぐられた。兄さま、くすぐったい。そんなに優しい目で見ないで。
「言ってごらん、ハニー」
「……しゅくだいが嫌なの。数学の宿題が、出てしまったの……すごく嫌なの、ダーリン」
「手伝うよ、ハニー。だからそんな顔をしないでおくれ。笑っている方がずっと魅力的だよ、僕のお姫さま」
 思わず唇がほころぶと、兄さまは綺麗に笑って口付けをくれた。うん。宿題、許してやろう。ダディがなにかわめいてるけど、聞こえない。ダディは空気。さて、着替えて夕食を作らなければ。献立は帰ってくるまでに決めたので、今度はその手順を考えながら部屋に向かう。半分ほど行ったところで思い出して、私はダディの元に向かう。ダディはまだ玄関にいた。ダディ、と呼ぶと嬉しそうに振り返る。
「なんだい?」
「忘れものをしていたわ、ダディ」
 せっかく買って来たのだから、やらなければ。ダディに持たせた買いもの袋の一つに手を突っ込んで、それを取り出す。そして私はそれを、思い切りダディに向かって投げつけた。鈍い音。うん、硬い方がやっぱり痛いんだろうな。額を押さえてしゃがみ込むダディを見下ろし、私はやわらかく微笑んだ。
「祓いたまえ、清めたまえ。国内産の塩が駄目なら、国外かと思って、ヒマラヤ岩塩を買ってきました。200グラム840円なんだけれど、どうかしら……?」
「……何度も言っているけどね、マイ・ディア? ダディは悪霊じゃないんだから、塩でお祓いできないんだよ」
「……せっかく買って来たのに」
 仕方ない。夕食の下ごしらえで使うか。今日はどうせ肉料理だ。ダディに今日の献立を伝えると、両手を祈りの形に組み合わせたまま、突っ伏して泣き出してしまった。ダディ、何に祈ってるんだ。

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