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 ひとかど

 呼び止められ、振り向く。少女はたったそれだけの動作で、人目を惹き寄せるのだった。なぜ見てしまうのかは分からない。ただ少女が振り向く瞬間、耳が声を聞きつけ足が止まり視線が動き頭がゆっくりと半円を描いて後ろに回される時、そこには美しさが生まれるのである。良い香りを抱いた春風が、さっと吹くように。一瞬、誰も彼もが彼女に注目するのだ。道行く生徒も、教師でさえも。
 それだけの動作において、少女はひとかどの人物であった。しかしそれ以外はてんで秀でたところの見られない、ごくごく平凡な少女でもあった。だからこそ、絹きぬ は少女を呼びとめ、振り向かせるのだ。美しいだろうと、自慢するかのごとくに。私の片割れは美しいだろうと、褒め称えるかのごとくに。絹は少女の双子の姉として、この世に生を受けていた。絹は少女と比べて、素晴らしい才能を持っていた。
 勉学においても運動においても、絹にかなうものはいなかった。一人として、右に出るものはいなかった。存在すらしないようでもあった。唯一その資格を持っていそうな双子の片割れは、姉に対して二歩も三歩も遅れていた。少女は平凡でどうしようもなく、顔立ちも絹と同じである筈であるのに華を感じず、いつもどこかくすんで見えた。人は、少女を影で笑ってこう言った。名は体をあらわすというが、その通りだと。
 双子の姉の名は絹。妹の名は麻あさ と言った。麻はそのような評価など知っていて聞き流すことが出来たが、絹は我慢がならなかった。妹に対する陰口を、決して許さなかった。口に乗せたものは、誰であろうと許さなかった。同年の生徒も、先輩も後輩も、教師でさえも。時にその怒りは名づけた親にも向けられたのだが、それはさすがに麻が止めた。気にしていないからと、春風のように微笑んで。
 そんな時の笑みは、振り向く動作の美しさに酷く似ていた。控えめなだけで、麻はとても美しいのだった。麻をそうして微笑ませることが出来るのは絹だけだったので、この世で少女の姉だけがそれを知っていた。絹はそれを残念がったが、麻は人の目がある所ではあまり笑いもしない少女だったので、吹聴して回ることはしなかった。嘘だとレッテルを貼られてしまうことが嫌だったからだ。
 絹はたいがいの人間から特別な存在だと思われていたようだが、麻も別の視点からそう思っているようだった。絹はほとんどの人間がよせる憧憬に似た特別視を快く思っていなかったが、麻にそう思われるのは酷く心地よかった。だから、絹は今日も麻を呼びとめ、振り返らせる。その瞬間だけ、麻が酷く世界に特別視をされて美の恩恵を受けるのに、うっとりと目を細めながら。
「麻」
「……絹」
 雑踏にまぎれてしまいそうな小さな声で、囁くように言葉を発するのが麻の常であった。どこまでも響いていくかのごとくにハッキリと言葉を紡ぐ絹とは、声からして作りが違うようでもあった。いっぱく開けてためらいがちに、すがるように名を呼んでくる麻の声を、絹は大変好ましく思っていたが、周囲はその感想と真逆のようであった。今も、麻には苛立たしげな視線が向けられている。
 麻が周囲の目を惹き付ける栄冠を手にするのは、本当に一瞬のことなのだ。麻はその一瞬ですら煩わしく思っているふしがあったが、絹はいつでも少女に向けられる視線が優しいものであったらいいと思っていた。だから絹は周囲が麻に向けるそれ以上に厳しい目つきであたりを一瞥し、片割れの腕をつかんでぐいと引き寄せた。印象の違う、しかし作りは全く同じはずの顔が、間近で向き合う。
 ためらいがちに視線を向けてくる麻に、絹は艶やかな笑みを向けた。
「麻。今日の授業はもう終わったでしょう? だから、一緒に帰りましょう?」
「……絹。それが、わたし……わたしね」
 ぽそぽそと小さな声で麻が言うには、刺繍の進み具合が思わしくなく、教師に居残りを命じられてしまったとのことだった。つまり、いつものように一緒には帰れないと言うのだ。絹は芸術的な仕草で眉を吊り上げ、麻の腕をぱっと放した。無言できびすを返し、どこぞへと行こうとする背中を、慌てて麻が呼び止める。
「だ、だめよっ」
 ふくれた様子で絹が立ち止まり、振り返った。しかしそこには麻のような優美さも、繊細さもなく、春風も立たなかった。道行く生徒も、教師も絹には目もくれず、目的地に向かって歩を進めていくだけだ。絹が振り返っても、麻のような美しさは匂い立たない。それを知れば周囲はすこし苦く思うかも知れないが、絹に取っては誇りですらあった。姉の行動を正確に先読みする麻を、絹は素晴らしく思うのだ。
 絹はすこしばかり相手の気持ちを汲み取るのが苦手だから、とうてい麻のようには出来ないのだった。
「……わたし、残ってやっていくから、いいの。遅れているのは、本当で、仕方のないことですもの。だから、先生はなにも」
「悪くない? 本当にそうかしら」
「絹……ね、怒らないで? 一緒に帰れなくて、ごめんなさい。残念なのは、わたしも、一緒なの」
 斬りつけるような絹の言葉に体を小さくし、震える子犬のような目をする麻の姿は哀れですらある。そしてその哀れさに、絹は打ち勝つことが出来ないのだった。再び歩み寄りそっと頭を撫でてやると、麻の表情がほっと緩む。
「……絹。本当に、本当にごめんなさい。明日はきっと、一緒に」
「いいえ、今日も一緒よ。私も残るわ」
 告げると、麻の目が驚きに見開かれ、硬直する。全く予想もしていないかったのだといわんばかりの顔つきである。しばらくしてハッとした麻は、手をせわしなく動かしながら言葉を捜すのだが、上手く紡ぐことが出来ず、困りきって俯いてしまうのだ。その反応は予想の範疇であったから、頭に乗せたままの手をそっと動かし、絹は優しく囁きかける。
「だって、遅くなったら暗くなってしまうじゃない。麻は、暗い道が怖いのでしょう?」
「そう。そう、だけど、でも」
「大丈夫。邪魔はしないわ。終わるまで、隣で今日の復習と、終わったら予習をして待っている。それでも、居てはいけない?」
 絹はなにごとにも素晴らしい成績ではあるが、決して努力をせずに結果を出せるわけではないのだ。しかし、努力している姿を他人に見られることを快く思わないと、麻は知っていた。同時に、麻の前では気にもせず、あるがままの姿を見せることを好むのも知っていた。つまり、絹がそのような申し出をするのは、麻にだけなのだった。麻は、控えめな笑みを浮かべ、嬉しさを表に現した。
 その笑顔が了承のしるしであると知っているからこそ、絹もまた笑みを浮かべた。



 麻は、要領が悪い。絹と比べれば五倍ほど作業に時間がかかるが、一般と比べても三倍ほどは確実に時間を食わなければ同じことができないだろう。しかしその分、緻密で繊細な作業ができるのだと、絹は知っていた。周囲は、はなから麻を愚鈍と決め付けているので完成品を見てもなんとも思わないらしいが、絹はそれらの曇った目を馬鹿だとしか思えない。
 ゆっくり、ゆっくりと針が進んでいく。一本ずつ丁寧に丁寧に、刺繍が重ねられていく。ひかれた図面の半分ほどをやっと攻略した布を見て、絹はうっとりと息を吐き出さずにはいられないのだ。恐るべき繊細さ、恐るべき美しさだった。芸術品は、それを成すものの魂がそのまま反映されるというが、麻に取っての刺繍がそれに当たるのは明白であった。模様の描き出された布は、しっとりと美しかった。
 美しく、また艶やかだった。官能的ですらあった。それでいてどこまでも控えめで、押し付けがましさなど微塵も感じさせなかった。派手ではなく、落ち着いていた。華美ではなく、穏やかだった。そこに絹は、振り返る麻のひとかどの美、それと同一のものをみいだした。けれど曇った目しか持たない者たちは、気がつきもしないのだろう。平々凡々なものでしかないと、決め付けるのだろう。
 絹はそれが悔しくてたまらないのだが、麻にはどうでもいいことであるようだった。麻は周囲の評価よりなにより、絹からの評価を欲しがって嬉しがったし、完成品を眺めるより、作っている工程にこそ喜びを感じているふしがあった。慈母のように微笑みながら針を進めている麻の手が、ふと止まった。時計を見ると、ちょうど下校時刻限界の、五分前を針が指していた。麻は、そんなものに酷く敏感で忠実だ。
 音もなく道具をしまい始める麻に、絹は手を貸そうか貸すまいか悩んで、結局見守るに留まった。絹自身の片付けはすでに終わっていて、麻を待つだけになっていた。予定していた復習も予習も終えて、絹はあとは気楽に麻を眺めていたのだった。全ての道具をしまい終えた麻は、道具箱と鞄を持って立ち上がり、絹に控えめな笑みを見せる。意味を取り違えることなく、絹は口を開いた。
「進んだ?」
「……お言いつけのあった所までは。帰ったら、またすこし、やろうとは思うのだけれど」
「そう。完成するのが楽しみね。また、素晴らしい出来上がりだと思うわ」
 心からの言葉として、絹は麻に言う。途中でさえ素晴らしいものだと思えるのだから、完成すればどれ程のものになるのだろうかと。楽しみだと弾む声に、麻は控えめな笑みで頷いた。



 完成品は素晴らしい出来だったが、絹以外がそれに正当な評価を下すことは、ついぞなかった。絹は、それが不満でならず、今日も麻を呼びとめ、振り返らせる。その瞬間だけは、誰もが少女のひとかどの美しさに惹かれ、評価するのだと知っているからだ。その瞬間だけしか評価されないことを絹は不満に思っていたが、麻はその一瞬すら煩わしく思っている。噛みあわないまま、二人は互いを思いあうのだ。
 絹が呼び止め、麻が振り返る。ひとかどの美しさと共に、春風が吹いた。

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