INDEX

 メビウスの帯

 広間は闇に覆われていた。窓から見える空に星明りは一つとしてなく、新月のために浮かぶ金色の光も無い。閉ざされた空間を照らし出すのは灯された炎だけで、その腕は妖艶な微笑と共に立つ人影をうつし出している。気まぐれに動きを変えて揺れる輝きは、闇に溶け込むようにして立つ少女の顔をくっきりと空間に浮かび上がらせていた。
 少女の髪は漆黒の闇の色をしていた。瞬きを繰り返す瞳は、今は空から消えている至高の黄金を宿している。歳の頃は十五・六と言った所だろうか。すらりと伸びた腕と足は細く若さに満ち溢れ、なによりの輝きとなって空間にあった。だが健康的には見えないのは、少女の顔色の悪さと震える体のせいだろう。
 寒いと言うのではなく恐怖に青ざめて震える少女は、しかし手渡された剣を投げ捨てる事も出来ずに立っていた。時折、その震えに剣先が床を擦り、鈴なりにも似た音が何も無い部屋へと響き渡る。闇宿す少女は、やがてゆっくりと首を振った。ぎゅっと剣を握り締め唇を噛み締め冷や汗を流し、死人のような顔色で、それだけがやっと出来る事なのだと言うように。
「……できません」
 吐息に乗せて、掠れた許しを請う声が響き渡る。それを受けたのは、少女の立つ位置より一段高い所に座している女性だった。伸ばされた金の髪は、少女の瞳よりも柔らかな光沢を放ち、まるで差し込む日光のように見える。うっとりと微笑んでいる瞳は晴れ渡った空の色をしていたから、それはなおさら光の女神のようだ。
 闇の少女と光の女性は、睨み合うようにして静止した。どちらも、相手の反応を伺って動こうとはしなかった。だが、一度響いた少女の哀願の声に答え、篝火に照らし出された女性の、妖艶な唇が静かに動く。漏れ出たのは極上の、絹の手触りを感じさせるような薔薇色の声。
「どうして? セラーレ」
 簡単でしょう、と言う声に責めは無い。それ所か、なにものにも変えがたい愛を感じる響きだった。言葉一つから、まるで抱きしめているような慈しみを感じる。だからこそ悲しくて、闇色のセラーレは首を振った。透明な雫が、音を立てながら漆黒の床へと消えて行く。
「ルーチェ……わたしの女神、わたしの光、わたしの希望、わたしの愛、そしてわたしを育てし人よ。慈悲を、どうかお慈悲を……。なぜできましょうか、なぜ、それをわたしが……」
 愛しい人から渡されたもの故に、捨てる事も出来ない剣を握り締め、セラーレは絶叫する。
「あなたを害す事など、わたしにはできない!」
「いいえ、できる筈よ? 愛しい娘、セラーレ」
 普段と全く変わらない慈愛の微笑を見せ、ルーチェは少女に手を差し出した。此処まで来いと誘う為に。少女はそれに首を振り、足を踏ん張って誘惑に耐えようとする。出来ない、出来ないと泣いて繰り返しながら。
「……セラーレ」
 困りきった女神の言葉にも、少女は答えようとしなかった。剣を抱きしめてその場にへたり込み、許してくださいと繰り返して泣き続けるだけだ。折れたのは、美しい光のルーチェが先だった。それだけで人の意を奪ってしまうようなため息を一つ響かせて立ち上がり、泣き続ける子の元へとゆっくりと歩み寄り、その肩を引き寄せて抱きしめる。
 許されたと思ったのだろう、喉を引きつらせながらも希望の光を瞳に宿して見上げるセラーレに、しかしルーチェは笑って言った。
「さあ、やりやすくなったでしょう? その剣で私を貫きなさい」
 あまりに自然に放たれた言葉だった。抱きしめられている為にそれ以上逃れる事も出来ず、セラーレは悪夢の叫び声を上げる。狂ったように叫び続ける娘の唇を人差し指だけで封じて、光の女神はゆったりと微笑んだ。
「愛しているわ、私のセラーレ。貴方を見つけた時からずっと、愛しているわ。今この時私を殺す為だけに私は貴方に愛を注ぎ、慈しみ育て上げた。さあ、私を殺しなさい。かつて勇者と呼ばれ、今は魔王と呼称を変えたこの私の、名を唯一知る者よ」
「……ルーチェ」
「できる筈よセラーレ。私ができたのだもの」
 愛しいと。腕の中に抱く少女が本当に心から愛しいと言う表情をして、ルーチェは言った。なによりも残酷に響く真実を。なんの事かと問う視線にゆったりと笑い、光の女神は唇を動かす。
「私にもかつて、育て親が居たの。貴方と同じ髪の色、瞳の色、そして同じ名の、闇色の女神」
 セラーレ、と全く同じ名を呟くルーチェの視線は、だが違うものを見ていた。目の前の少女を通して遥かな過去へと遡り、全く違う人間をその姿に重ねて慈しんでいた。真っ白な肌を滑るルーチェの手のひらはゆっくりと頬をなで、その後に涙の雨を降らせて行く。
「ある日、満月の夜、私はこうして『セラーレ』に呼び出されて剣を渡され、そして言われた」
『愛しい娘、私を殺しなさい。今この時私を殺す為だけに私は貴方に愛を注ぎ、慈しみ育て上げた。さあ、私を殺しなさい。かつて勇者と呼ばれ、今は魔王と呼称を変えたこの私の、名を唯一知る者よ』
 女神は、美しく笑う。
「……そうよ、セラーレ。私は同じ事を貴方に求めた」
 静かに静かに、告白は続けられる。
「だから私は『セラーレ』を殺した。私が身代わりでしかなかった事への怒りのままに、彼女をこの剣で貫いた」
 握る刃にそっと手を這わせて、ルーチェはうっとりと微笑む。過去、記憶にある通りの言葉を繰り返して。少女に自分と、失った愛しい人を同時に重ねて。さあ、と促した。なにも無い空間に、呪いのごとく声が響く。
「……私を愛している? セラーレ」
「はい、もちろんです。ルーチェ」
「私を憎んでいる? セラーレ」
 答えは。涙の雫が、床に弾ける音と。唇から漏れ出た微笑の旋律と。重なって、響いた。
「……はい、もちろんです。ルーチェ」
 一瞬、笑みの気配が場に響いた。
「では、殺しなさい」
 声は答えた。はい、と。



 国中に噂が風のように流れた。あの城に生まれた魔王が倒された、そして勇者が生まれたぞ、と。期限を定められて廻る、水車のようになめらかに。その噂は国中を回った。人々は忘れていた。ちょうど十五年前。同じ噂が広まり、そして、いつの間にか消えてしまった事など。



 運命は繰り返す。



 ここに、勇者と呼称を変えた一人の少女がいた。少女の名は誰も知らない。広大な城に一人で住む伝説の少女、呼び名は勇者。それだけで人々にとってはよかったのだから。名、そんな物は不必要だった。その日、光を浴びようと出てきた『勇者』に向かって、一人の老婆が何か包みを指し出した。闇色の勇者は問う。
「これは?」
「捨て子でございます」
「……捨て子?」
 かわいそうに、と勇者はその赤子に手を伸ばす。そして顔にかかっていた布を取り払ってハッとした。なんと美しい金髪の幼子なのだろう。集まっていた人々から、感嘆のため息が漏れた。愕然とした表情で勇者は赤子に手を伸ばし、その頬に触れる。すると眠っていた赤子は目を覚まして、『勇者』の事を見た。瞳の色は晴れ渡る空の色。まるで光の化身であるかのような子供だった。
 かわいそうに、と囁きあうものたちに向かって『勇者』は言う。
「この子は、私が育てます」
 老婆は尋ねた。
「名は、何としますか」
 『勇者』の唇が笑みの形につりあがった。そうして酷く音楽的な、美しい声が名を告げる。
「ルーチェ」
 数年後、『勇者』は養い子に対する偏執的な愛のあまりに、城に通っていた者達を皆殺しにする。呪われたその所業に対し、人々がつけた呼び名は『魔王』だった。
 そして、それを殺した者に与えられた名こそが……。

INDEX