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 カフェには魔法が住んでいて

 待ち合わせの三十分前に、カフェでゆっくりコーヒーを飲む。それが京けい の密やかな習慣だった。元々、待ち合わせの時間には余裕を持ってつく性格だったので、その場所で相手が来るのを待っていてもいいのだ。京に取って、それは何ら苦痛ではないのだから。相手を待つ、ということ。苛立たずに過ごすゆったりとした時間が、好きだとも言えた。それなのになぜ、三十分前に待ち合わせ場所についていながら、カフェに居るのかといえば。
 それは、相手が絶対に時間通りには来ないからである。そこまで大幅な遅刻をされたことは、一度もない。しかし五分か、あるいは十分は確実に遅れてくる彼女を持つ身として、三十分以上の時間を立ったまま過ごすことは、あまり建設的な時間の過ごし方とはいえず。いつからか京は、カフェで待ち合わせの時間ぴったりまでを、過ごすようになっていた。京は、カフェという空間が好きだ。『喫茶店』と呼ばれる場所より、『カフェ』が好きだった。
 落ち着いた空気が外側を包み込んでいるのに、内側には心地よいざわめきがあって、一時も途切れない。居つく人もいれば、すぐに出て行く人もいる。ゆったりとした空気と、せわしない空気が、矛盾なく溶け込んでいる。ミルクとイチゴの甘いキャンディーのように。別々の二つが、調和している空間。ミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレを机に置いて、京はのんびりと店内を見渡した。耳障りではない音楽が、天井の近くを流れていく。
 煙草が完全に排されているので、空気はコーヒーの香りに染められていた。話をしている男女や、食事をしている少女、親子連れなど、沢山の人が居る。全く関係のない人たちが、ひと時の安らぎを過ごす場所。だから京は、カフェという場所が好きだった。そこで過ごす穏やかな時を、一人きりで甘受することが好きだった。しかしその時は、甘やかな声によって終わりを告げられる。
「けーくん。こんにちはー」
 ふわふわ浮かぶ、雲のように。やんわり溶け出す、生クリームのように。明確な形を持たないような声だった。驚いて目を向ける京に、砂糖菓子の印象を持つ少女がにこにこと笑う。
「けーくん、やっぱりカフェに居たんだねぇ。朝子あさこ ちょっぴり探しちゃった」
「え……」
 待ち合わせ相手の意外な言葉に、京は慌てて腕時計に目を落とす。すると時計の針は、いつの間に時間を飛び越えて行ったのか、待ち合わせ時間の十五分先を示していて。慌てて席を立ちかける京の向かいに、朝子はふわりと、鳥が降りてくるような体重のなさで、腰を下ろした。
「あのね、朝子ね、けーくんが居ないから、けーくんを探すことにしたの。それでね、朝子はいっぱい考えて、けーくんの所まで来られたの。えらい?」
「偉い、けど。迷子になるから、あまり一人で移動しないでって言ったよな?」
「うん。朝子ね、けーくんの言うことなら、ぜーんぶ覚えてるのよ」
 ふわり、ふわりと、朝子は笑う。それは無垢なこどものような微笑みで、京は怒る気力を根こそぎ無くしてしまった。元々、待ち合わせに遅れて気がつかなかった京が悪いので、そう怒れる問題でもないのだが。京は、興味深そうにコーヒーカップを覗き込んでいる朝子に、苦笑しながら問いかける。
「朝子も、飲みたい?」
「ううん。朝子はね、いらないー。けーくん、なに飲んでるのかなぁって思っただけなのよ。けーくんは、甘いのが好きなのー?」
「ブラック、飲めないから。苦くて」
 嫌なことを指摘されてしまった、と言わんばかりの京の声に、朝子はゆったりと首を傾げる。そして机のふちに両手をそろえて置きながら、朝子はふわんと漂う印象の声で言った。
「けーくん、かわいいねー」
「朝子に可愛いって、言われたくはないんだけど」
「そうなのー? じゃあ、えっと、朝子のけーくんは、今日もモデルさんみたいにかっこいいねー。朝子は、けーくんが彼氏さんで、今日もとっても幸せです」
 それは、朝子の本心らしかった。えへへ、と本当に幸せそうに笑うのを、京は手を伸ばして頭を撫でてやる。ふわふわにウエーブがかった黒髪は、指先にわずかに絡み付いて、感触が心地よかった。朝子は、嬉しそうに微笑む。
「けーくんは、カフェが好きなのよねー。朝子、ちゃぁんと知ってるの」
「言ったこと、あったっけ」
「ううん。待ち合わせしてね、けーくんのトコまで行くとね、けーくん、必ずコーヒーの香りするのよ。だからね、好きなんだなぁって、知ってたの。だからね、朝子ね、ここまで来られたのよ」
 駅前に、カフェは一件しかない。コーヒーを扱う店はいくつもあるだろうが、カフェは一つしかないのだった。だからこそ朝子は、たどり着くことが出来たのだろう。本当に迷わなくてよかった、と安堵しつつ、京はそっか、といつまで経っても舌ったらずな恋人に微笑みかけた。
「朝子は、カフェ好き?」
「うん。けーくんと一緒で、朝子もカフェ好きよ。……あのね、けーくん、知ってる?」
 小さく首をかしげて、朝子は上目づかいで問いかけてくる。しかしいつまで経っても続きを言わないので、京は朝子をそっと撫でながらなにを、と促した。それこそを待っていた表情で、朝子はふうわりと笑う。甘い甘い、カフェオレのように。
「カフェにはね、魔法が住んでるのよ」
「……住んでる? かかってる、じゃなくて?」
「うん。カフェにはね、魔法が住んでるのよ。それでね、とっても優しい気持ちにさせてくれるの。それでね、言葉を落として行ってくれるの。それはね、カフェに住んでる魔法のおかげなの」
 ふわり、ふわりとわたあめのように。とろりと溶け出す、はちみつのように。柔らかな笑顔で、優しい声で、朝子はくすくすと機嫌よく空気を揺らした。
「だから、朝子はカフェが好き」
「言葉は」
 気になって。朝子を幸せそうに微笑ませるその言葉に、やや嫉妬さえ覚えながら、京は尋ねる。冷めかけた、甘いカフェオレを飲みながら。
「たとえば、どんな言葉を落としてもらえるんだ?」
「おしえてほしい?」
「教えて? 朝子」
 楽しそうに声を弾ませる朝子は、京を見ていた。そしてあのねえ、と声を潜ませ、身を乗り出すようにして囁いてくる。誰にもないしょだよ、というように。
「朝子は、けーくんに会えて、本当に幸せだって思うの」
 嬉しくて、嬉しくて、仕方がないような声だった。
「けーくんが居なかったら、朝子はホントに、ひとりだとなにも出来なくなってたと思うの。でもね、それだけじゃなくて、ありがとうの気持ちだけじゃなくて、幸せだなーって思うの。いつも思ってるんだけどね、こうやって向き合ってゆっくりしてると、いつもよりずーっと思うのよ。朝子は、カフェに住んでる魔法にね、幸せの言葉を落としてもらったの。すごくね、うきうきしてね、幸せなのよ」
 ふわふわの笑顔で椅子に座りなおした朝子から、京は微妙に視線を外して深呼吸をした。まさかそんなことだとは思ってもみなかったので、顔が赤くなっているのが分かる。気分を落ち着かせる為に、冷やすために、カフェオレをまた飲み込んで。京は、小さく呟いた。
「俺も、今幸せだよ」
「そう? じゃあ、けーくんも、同じ言葉を落としてもらったんだね。うれしいね」
 裏表のない言葉は、京の全身に染み渡っていくようで。もう京は、カフェに一人では来られそうにはなかった。一人で居る時間に、幸せを感じられなくなりそうだったからだ。僅かに苦笑しながらカップの中身を飲み干し、京は朝子の荷物を持って立ち上がる。
「お待たせ。行こう?」
「うん」
 すぐに腕をからませてくる朝子に笑いながら、京はまた来ようか、と尋ねてみた。朝子はふわふわの笑顔でうん、と頷いたので、二人の待ち合わせ場所は、駅からカフェの中へと変わるのかも知れない。それは、カフェに住む魔法にかかるために。

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