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 弦月に降る雨

 どうか私を憐れみ給うな。

 ……そして、どうか伝えて。
 私はしあわせであったのだと、
 あのひとに。



 失恋した。三年間の恋だった。
 握り締めたお守りに、ぼたぼた涙が落ちて行く。恋愛成就の四文字が胸の奥をずんと重たく、痛くした。浅葱あさぎの恋は叶わなかった。こんなものに縋るくらい、祈るくらい、好きだったのに。好きなのに。精一杯の努力をした。長い髪が好きだと聞いたからお手入れにはとびきり気を使った。清楚な子が好きだと聞いたから、制服の丈は一度も弄ったことがない。よく本を読んでいたから、浅葱もたくさん、本を読んで、それから勉強をした。
 中学の入学式で出会って、それから三年。三年続けた恋だった。こんなに苦しい終わりだなんて、思ったこともなかった。浅葱は賽銭箱の影に隠れるように蹲り、唇を噛んで涙を零した。哀れっぽく声をあげて泣くことだけは、浅葱の矜持が許さなかった。そんな弱い女の子になど、なりたくはなかった。今も別に泣きたい訳ではないのに。傷ついた心が勝手に痛んで、ぼたぼたと涙をこぼし続ける。
『浅葱のことは好きだよ。大事。嬉しいと思う。でも』
 誤魔化しのない。嘘も混じらない。まっすぐで、優しく、清潔で、誠実な言葉だった。
『俺にも好きな人がいる。その人と、付き合ってる。俺は、その人が好きだよ』
 ごめん、とは言われなかった。付き合っていなかったら、と気を持たせることもしなかった。その潔さが、たまらなく、好きだと思う。叶わないのに。受け止めてもらうことはできないのに。できなかったのに。失った今でも、その恋が、浅葱に好きだと囁きかけてくる。息を殺して、浅葱は泣いた。ゆるゆると春になっていく時期の夕刻、この神社に来る者はいないと、幼い頃から知っていた。
 桜が目を覚ます間際が、最も危ないのだと。ざわざわと、胸の奥の不安と同じ音色で、木の枝が揺れた。夕暮れの紅が、長く尾を引く影になる。落ち着いたら、帰ろう。そう思う浅葱の耳に、笑みに揺れる囁きが触れた。
「……秋には幸福で満ちていたものだが」
 さくらのにおいがした。蕾が、ほんのひとつ。開いたばかりの頃にする、雪解けの陽のように甘い。きよらかな、さくらのにおいがした。
「なにを悲しむ?」
 賽銭箱に手をついて、浅葱を覗き込みながら。青年が微笑んでいた。背の半ばまで伸びた柔らかな髪は、ゆるく波打つ宵闇のさくらいろ。瞳は春の朽葉色。真昼に散り咲く花弁のような白い肌は、ほんのりと上気しているようにも見えた。くちびるは、うっすらと微笑みを浮かべている。伸ばされた手で、目元を拭われる。すこしだけひんやりとした熱が、浅葱の涙を奪って行った。
「なにが、そんなに悲しい」
 かわいそうに、幼い子。滑らかに響く声に子供扱いされても、不思議と怒りは感じなかった。ただ、語ることを求められた気がして、浅葱はひくつく喉で息を吸い込む。何度か、咳をしながら浅葱は告げた。恋のこと。三年間の恋のこと。中学生の、幼いものだと言われるかも知れない。それでも、それは精一杯の。浅葱の恋で、想いで、その結果だった。座りこんだまま言葉を重ねた浅葱を見つめ、青年はじっと言葉を聞いていてくれた。これで終わり、と浅葱が言葉をしまうまで。
 ひやりとした指先が、目元をなぞり、瞼を撫でて行く。
「想われぬことが、辛かったか」
 きゅ、と指先に力をこめてお守りを握る。涙で濡れそぼった恋愛成就の文字は、どこか空々しかった。
「すきに、なってくれる、ひとを……」
 すきに、なりたかった。言葉にして。違うと叫びたい感情と、だって好きになってはもらえなかったでしょうと癇癪を起こす心を、浅葱は体を強張らせることで内側に留めた。泣き叫んでしまいたかった。大事だと言ってもらえた。そのことが、なお苦しい。
「そうか」
 震えるほど、お守りを握り締める手に、指先が触れる。指先から手の甲を何度も撫でおろされて、ゆっくりと力が抜けて行った。
「ならば、私を愛せば良いよ」
「……あなたを?」
「愛すことが叶えば。愛すると誓おう」
 その者のように、想いを向けるだけで終わらせは決してすまいと。囁く青年に、浅葱は嗚咽まじりの笑みを吐き出す。そんなことがもし叶うなら。
「だから……名を。捧げてくれるね。愛しい子」
 抱いた想いが、報われるなら。
「浅葱」
 匂やかな、さくらの声で名を呼ぶ、その人に。恋をしてみよう、と浅葱は思った。三年間。今度こそ、報われる恋を。



 ひややかな初夏の夕闇は足元まで迫って来ていた。朱に染められた尾の長い光が、真新しい皮靴の表面をゆらゆらと撫でている。はやくこちらへおいでと誘いかけてくるようだった。静まり返った昇降口で、浅葱は何度か瞬きをする。その仕草が、泣くのを堪えているとでも思ったのか。悔いた少年の声が、ぎこちなく言葉を重ねた。
「でも、付き合い悪くなったのは……本当だろ」
 お前、最近おかしいよ。言葉が不意に反響してよみがえり、浅葱の胸をじくじくと痛ませた。高校に入学してから、浅葱の友人は増えなかった。同じ中学から進学した者たちと、席の近いほんの数人。ちっとも全体と打ち解けられない浅葱は、はじめこそ教師の目を引いたが、それが悪意ある孤立ではないと知れると穏やかに放置された。その適度な放置と見守りが、浅葱には嬉しく。こうして差し伸べられる旧友の手と言葉は、煩わしいものだった。
「勉強ばっかして、図書館ばっか通って……毎日、なにしてるんだよ、お前」
 その問いの答えは、いま青年が言ったばかりのことで。分かっている疑問に応える言葉を、浅葱は持ちはしなかった。日々は緩慢に過ぎて行く。その緩やかさに縫い付けるように、浅葱は学ぶことを選びとった。知らないことが多すぎた。自覚してしまえば焦るほどに。中学の三年間も勤勉であったけれど、それでは到底足りないくらい。学校で教えてくれることと、そこでは学びとれない知識が。いまの浅葱には必要で、心から請うているものだった。
 三年間。少年を求め続けたこころと、それはよく似ていた。
「お前、ほんと……どうしたんだよ」
 眉を寄せて困ったように問う、少年の言葉はまっすぐだ。潔く、清く響き、心地よく。まだ浅葱の胸をじんとさせる。好きで。まだ好きで。好きなままだった。浅葱はてのひらを握りこんで瞬きをする。それでも、いつからか、浅葱のことを『お前』と呼ぶようになった慣れない親しさは、石を飲み込んでしまったように喉をごろつかせた。その呼称の変化の理由を、浅葱は知らない。告白したからなのか、進学を気に心境の変化があったからか、それとも年頃故の荒っぽさを持ちたかったからなのか。
 分からないけれど。その無遠慮な親しさが、無意識に近くに置こうとされる、そのこころが。嬉しいと思ってしまって。まだ好きなのだと思い知る。何度も、何度も。三年間、想い続けたのと同じ気持ちで。
「浅葱」
 だって。好きだったの、と言葉が漏れかける。あなたが、好きだったの。好きなの。でもあなたは私を好きにはなってくれなかったでしょう。きっとこれからも、そうなのでしょう。唇を噛んで顔をあげ、息を吐いて、浅葱は少年をまっすぐに見た。浅葱と話をする為だけに追いかけてきた少年が、教室に可愛らしい少女を待たせていることを知っている。浅葱が恋した少年が慈しむ少女は、愛らしいひとだった。すくない、浅葱の友人のひとりになってくれた。
 不思議と、怨む気も妬む気にもならない。ただほんのすこし、辛い気持ちを抱かせるだけの。少年の思いびとは、浅葱の親しい友だった。だからこそ、戻って、と思う。あのこを不安がらせないで。悲しむような真似をするのはやめて。ほんものの気持ちでそう思うのに、痛むこころが悲鳴をあげる。それでも、私の為だけに。ここまで走ってくれたことが嬉しい。行かないで。そこへ居て。私を求めて。
「……好きに」
 なって、という悲鳴を喉の奥に封じ込める。
「なりたい方が、いるの。……その為に、たくさん、勉強したい……だけ、なの」
「なりたい?」
「恋をしたい。大事にしたい。でも、私はなにも知らないから」
 非難を刷く瞳に、はっきりと言い放つ。
「知りたいの」
 愛することは叶うだろうか。恋をすることは、できるのだろうか。冷静になれば、それが途方もないことだと浅葱には分かる。その存在が、果たしてなんであるのかも、はきと分からないというのに。神話も伝承も、それを教えてはくれなかった。祖母は恐れるように口をつぐみ、浅葱に語ってくれなかった。神か、はたまた、あやかしか。それとも、弱ったこころの生み出した幻なのかすら。浅葱には分からない。それでも。
 想えば、それを返されるという誘惑が、胸の芯までこびりついている。



 神に招かれた者も、あやかしに魅入られた者の末も、浅葱には同じに思えた。人の世から消えてしまう。人としてのいのちを、全うすることができない。それは恐ろしく哀れなことなのだろうか。
「……私がそれを選んだのだとしても?」
 ひとりごちで、浅葱は夢の中のくらやみを歩んで行く。夢だと分かっていても塗りつぶされた漆黒がたゆたう場所は恐ろしかったが、遠くに見えるほの灯りと、薄く聞こえてくる音楽が浅葱の心を慰めた。近づいて行くにつれ、すこし、息が楽になる。胸の痛みも、喉のつかえも。楽になって行く。歩いて、歩いて、朱塗りの鳥居をくぐって立ち止まる。広々とした境内に、蛍火のような桜が降り注いでいた。ほの甘い光の奥から弦楽が聞こえてくる。
 歩めば、出会った場所に。青年は佇んでいた。振り返って視線が重なる。呼びかける名を、浅葱は知らない。
「浅葱」
 それなのに、青年は微笑みを浮かべて浅葱に片手を差し出した。その不公平な差を、いまは未だ埋めようと思わないのはどうしてなのだろう。呼び名は、なんとなく浮かび上がった。浅葱は指先に触れるよう手を重ねながら、青年の目を覗き込んだ。
「かみさま」
「どうした。ひとり、このような所まで」
 否定はされなかった。ならば、やはり、そうなのだ。かみさま、と口内で飴を転がすように囁き、浅葱は重ねられた手に視線を落とした。
「わたしは間違っていますか」
「なにを? どうしてそう思う」
「好きに、なりたいと思って……恋を、したいと思って、するのは」
 瞼に力をこめておろせば、震えの向こうで鮮やかに声がよみがえる。なりたいと思って、なる好きは。しようと思ってする恋は。ほんものじゃないと思う。ほんもの。本物の恋をした。そのひとに、浅葱は否定されている。
「好きだと、思った時にはもう好きで……恋を、していると思った時には、もうしているのが、ほんとうだって。だから、わたしの気持ちは……」
 嘘を重ねようとして、偽りに塗れている。そう告げられた訳ではなかったが、向けられる瞳の強さはその意思を物語っていた。浅葱のことを心配していた。まっすぐに。なにをしようとしているのかと。それを辞めさせたがっていた。
「わたしは、間違い、ですか……?」
 打算的な恋をしようとしている。想われることをされたいと悲鳴をあげるこころが、差し出された手の誘惑に縋りついている。それを愛すれば今度こそは叶うのだと。叶うからこそ、そのぬくもりに恋をしたいと切望している。重ねられただけの手が、浅葱の指を柔らかく握りこむ。ぎこちなく繋がれた手に、浅葱はくるしく、顔をあげた。
「間違うのが嫌であるなら、辞めるか。これが、偽りであるのだとしたら」
 偽りや、嘘や。間違いであるのなら。正しさを求めて厭うなら。繋ぎ慣れない手は、きっと離れてしまう。浅葱は指先に力をこめた。歪なままで、繋ぎ合わされる。
「間違うわたしは、間違った……好き、は」
「うん」
「好きになっては頂けませんか……。駄目、な、もの、ですか……?」
 それが間違いなのだとしたら。それが偽り、嘘の結晶なのだとしたら。誰かが指差し、咎めるものであるのだとしたら。受け取ってはもらえませんか。いけないことですか。青年は花が綻ぶように、笑った。
「時間をあげよう、浅葱」
 良いとも、駄目だとも告げず。青年は戸惑う浅葱の頬を撫でた。
「間違いだと思うのなら、間違いながらここへおいで。正しいと思うのであれば、正しさと共に。偽りだと思うなら、上手にそれをこなしてごらん……。急がずとも良い。幸福で満ちてごらん、浅葱。しあわせの夥しい息苦しさで……もう一度心を満たしておいで」
 大切なものを積み重ねて。幸せなものに指先で触れて。心に、涙だけではない雫を満たして。笑って生きる時間を、わたしは許して差し出すのだと。微笑んで、青年は浅葱に身を屈めた。そっと額が重ねられる。ぬくもりが触れて、瞳の距離が近い。
「しあわせで満ちて、わたしの愛を叶えてごらん」
「……かみさま」
「傷ついたらここへおいで。苦しいことがあるのなら。……浅葱が許せば、その痛みも私は愛そう」
 だからどうかわたしを愛して。愛することを許してごらん。囁き、青年は浅葱の髪を指先で櫛梳った。御守りだと。その髪に鈴のついた、赤い組み紐を結いつけて。



 り、り、と耳元で鈴が鳴る。約三年間、片時も傍を離れずあった音だった。浅葱は晴れやかな気持ちで、境内の奥に導く、まっすぐな道を歩いて行く。世界はひかりに満ちていた。もうすぐ満開の春を迎えようとする三月末の、心を弾ませる柔らかなひかりだった。三年間の恋だった。長い長い、時間だった。たくさんの友人に囲まれ、後輩たちに送り出されて、浅葱は高校を卒業した。長く伸ばした黒髪が、風に揺れる。笑って、浅葱は目を細めた。
 道の先に、青年が立っている。
「かみさま」
 駆けよらず、背をまっすぐに伸ばして、浅葱はそこまで歩いて行った。傍らに立ち、いつのまにか浮かべるようになった柔らかな、満面の笑みで、青年を見上げて目を細める。
「たくさんの日々でした」
「そうか」
「大切なものがたくさん、できました。幸せだと思うことが増えました。毎日、毎日……楽しかった」
 あなたのくれた時間を。精一杯の幸せで満たして、生きました。浅葱は笑って、青年の手を強く握った。
「そのしあわせの中で、あなたのことを好きだと思います」
 手が、握り返される。青年は浅葱を抱き寄せ、そうか、と幸福そうに囁いた。春を巡らせる風が吹く。梢の音が止んだ頃、境内には、もう誰の姿も見つけることはできなかった。



 どうか私を憐れみ給うな。

 ……そして、どうか伝えて。
 私はしあわせであったのだと、
 あのひとに。

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