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 高嶺の花

 大人びた美人、と言う表現が一番しっくりくる少女だった。中学一年生という背伸びして大人になりたがっている誰よりも、近藤こんどう と言う少女は大人びていた。無理に大人の真似をして化粧をしている訳でも、胸が大きく腰がくびれて、見事なスタイルと言う訳でもない。ただ、大人びていた。そして美しかった。
 染まり気のない髪は肩を僅かに越した程度の長さで切りそろえられていて、手の込んだ髪形にもならなければ、飾りをつける事もない。化粧けの全くない顔はいつも不機嫌そうにされていたが、キツい綺麗さを感じさせる程整っていたので、愛想がなくても受け入れられていた。
 マニュキアを塗らなくてもどこか艶のある爪先に細い指は、密かにクラスの女の子たちのあこがれで。坂木 志保さかき しほ も、その中の一人だった。志保はいつもこっそり、教科書で隠すようにしながら窓際の、一番前の席の近藤を眺める。だらしなく背を丸めて机に突っ伏している友達たちとは違って、近藤はすっと背を伸ばして席に座っていた。
 ほんの少し日焼けをした、それでも白い肌に、同性ながらどきっとしてしまう。甘さなど感じさせないキツい美しさで整えられた横顔は、今日もどこか不機嫌に黒板を睨みつけていた。シャープペンシルが、気だるげにノートの上で踊っている。やがてやる気がなくなったのだろう。最前列と言う目立つ席にいながらも臆する態度など一点もなく、近藤はシャープペンシルを机に横たえている。
 手を膝の上に置いて、視線は窓の外へと向いていた。五月晴れの眩しいほどの空に、真っ白な雲が浮かんでいる。視線を少し落とせば見事に輝く青葉で桜が風に揺れているのだが、近藤はただ太陽を睨むように空だけを見つめていた。なにか、その視線の先に嫌なものでも浮かんでいるのだろうかと、志保もこっそりと空を見上げてみるものの、広がっているのは変わらない青い世界で。
 訳が分からなくて、不思議で、志保は近藤に視線を戻した。その視線に気がついていないのか、それとも無視しているのか、近藤は揺ぎ無い態度で空を見続けている。志保には分からない。その視線の先に何があるのか。その横顔が、どうして泣きそうなのか。どうしていつも不機嫌そうなのか。志保には分からない。
 そして、このクラスの誰にも、それは分からないのだろう。笑う事などないような、不機嫌な表情。同性ですらつい見惚れてしまうような、整った顔立ち。そして、大人びた空気に。誰もが近藤に親しく話しかけることはせず、そして、それが出来なかった。姿に憧れ、横顔に見とれても、それだけで。打ち解けようとはしなかった。高嶺の花を眺めるように。
 だから近藤はいつも一人で。それでいて孤独を感じさせることも、寂しさを感じさせることも、なぜか無く。一人でただ静かに、空を眺めているような少女だった。



 季節は五月。つまりは春である。それなのにこの寒さはなんなのだろうか、と志保は手袋をした手でマフラーを巻きなおした。吐き出す息が白く染まっているのからなるべく目をそらしつつ、志保は一人、学校への道を急ぐ。学校にそれと言った用事はないのだが、ゆっくり歩いていると、骨まで冷たくなってしまうような寒さなのだ。春はどこに行ってしまったのだろう。
 そんな事を思いながら校門をくぐり、グラウンドを右手に眺めながら昇降口へと急ぐ。寒い、寒いと小さく呟きながら昇降口へと飛び込んで、自分のげた箱がある区画へと足を踏み入れた志保は、しかしその瞬間に足を止める。そこには、近藤がいたからだ。しかも一人ではなく、見覚えの無い、恐らくは上級生だろう男子を目の前にして。前後の会話など聞かずとも、そこにある微妙な空気で、志保は告白現場に踏み込んでしまったのを悟った。
 恥ずかしさに赤くなる頬を隠して、そのままげた箱にも近づけずに逃げようとした志保だが、その背を静かな声が縫いとめる。おはよう、と静かに、どこか冷たい印象のある響きで響いた声。それが近藤のものだと志保が理解するのに、数秒間必要だった。恐る恐る視線を上げて近藤を見ると、少女は普段の不機嫌な顔つきが嘘のような微笑を浮かべて志保を見ている。
 瞬間、告白されて機嫌がいいのだろうかと思いかけたが、相手の表情を見るだけにどうもおかしい。呆然とした、それでいて湧き上がってくる怒りを抑える表情で近藤を見ている。近藤は、視界から完全に少年の姿を外した上で、志保に向かって再度微笑みかけた。
「おはよう、坂木さん」
「おっ、お……おはっよう、近藤さん!」
「早いのね。よかったら、一緒に教室行かない?」
 先程と変わらない、冷たい印象のある声。しかしそれは、どこか心地いい涼しさのある声だった。はじめて見る近藤の笑顔に浮き立つ心を感じながら、志保は一も二もなく頷く。駆け寄るようにしてげた箱に靴を入れ、上履きをはいて近藤に向き直る。一連のやや慌しい志保の動作に、近藤はクスクスと笑いながら告げた。
「じゃあ、行こう?」
「はいっ」
「……待てよ」
 低い、怒りの声。年上の少年が発したそれに、志保は反射的に体を震わせて立ち止まった。笑いかけてもらった嬉しさで忘れかけていたのだが、告白現場に踏み込んだのだ。少年の怒りはもっともな事だろう、と思いながら振り返ったのだが、その鋭い視線が向けられていたのは志保ではなかった。
 平然とした態度で、やや嫌そうに眉を顰めている近藤だった。訳が分からなくて近藤と少年と見比べる志保に、少女は溜息をついて口を開く。
「なにかしら」
「なにって……なんだよ、その態度っ!」
「怒鳴らないでくれない? 見苦しい」
 ぴしゃりと跳ね除けるような近藤の言葉に、少年の顔がみるみるうちに怒りに歪む。怯えて体を硬くする志保の手をそっと握り、背に庇うように立ち位置を変えて、近藤は少年を真正面から睨みつけた。手をいきなり繋がれた驚きや、庇われた理由を考えるよりも早く、志保は一歩も引かない近藤の気迫に思わず見とれてしまう。
 背からでも分かる、近藤の怒りの気配。それは少年を威圧するものでありながら、志保に取っては見とれるものだった。眉を吊り上げた怒りの表情で、それでもどこか美しい表情で、近藤は言い放つ。
「私は、アンタの事なんか何も知らないし、付き合う気もない。好きだなんていきなり言われても、気持ち悪いだけよ。分かった?」
「こ、近藤さん……?」
「ああ、ごめんね? 坂木さん。行こうか」
 それは言いすぎなんじゃ、と控え目な志保の言葉に、近藤は振り返って微笑する。そしてそのまま手を引いて歩き出すのに、志保は引きずられるように歩き出した。角を曲がる寸前に振り返ると、少年は呆然と立ちすくんでいる。咄嗟に何か言わなければいけない気がして、志保は痛い程の力で一方的に手を繋いだまま歩く近藤を見た。
 そして口を開きかけたのだが、そこから言葉は出る事がない。つんと前だけを向く視線。その横顔が、どこか泣き出す寸前に見えて、声をかける事が出来なかった。繋いだままの手が、やけに汗ばんでいる。感触が気持ち悪くて、そしてどこか切なくて、志保は俯いたままで教室まで黙り込んだままだった。
 その日の会話はそれだけで。それからも、志保は特に近藤に話しかける事はなく。近藤も、志保に話しかけてくる事はなく。二人はそれまで通り、高嶺の花とそれに見惚れる者のままで。



 季節はやがて、初夏を迎えた。



 蝉の鳴き声が夏の暑さを盛り上げている気がするのは、志保だけではないだろう。朝からこの暑さは反則だ、と何に反則なのかは関係なく呟きながら、志保はあくびを噛み殺しながら昇降口へと向かった。やる事もなく早起きしてしまったので、なんとなく学校に来たのだが、まだまだ始業には余裕のある時間だ。
 早まったかも知れない、寝てればよかった。次々出てくるあくびを噛み殺しながら、志保はのんびりとげた箱に向かい、そして。パンっと乾いた音が響くのに、びくっと背筋を伸ばして前を見る。広がっていた光景に、状況を理解するより早く、掠れた声が漏れる。
「こ……んどう、さん?」
 対峙する男に平手打ちをした近藤は、その声に嫌そうな視線を志保へと向けた。その視線の鋭さに志保は怯えかけるのだが、近藤は申し訳なさそうに苦笑する。どうやら、志保だと分かって睨んだ訳ではなかったらしい。緩んだ敵意に志保がホッと安堵した瞬間、近藤は再度その冷たい目で男を睨みつけ、場から立ち去らせる。
 言葉は無かった。それでも、志保には二人の間に何があったか、分かっていた。無言でげた箱に靴をいれ、上履きを履きながら志保は問う。
「今の……お付き合いしてた人か、なにか?」
「しらない人。多分、先輩じゃない? ……それだけよ」
「よ……よく、あるの?」
 はき捨てるように言った近藤に、志保は恐る恐る問いかける。それに、近藤はただ静かに頷いた。言葉はなく。泣き出す寸前の表情で。その理由が、志保には分からない。なんでそんな表情をするのか。なんでそこまで辛そうなのか。そして、なぜ泣いてしまわないのか。志保には分からない。分かろうと思っても、なにを言えばいいのかが分からない。近藤が、ふっと溜息をついた。
「……よかったら、一緒に教室いかない?」
 春先に聞いたものと同じ言葉。それに志保は、どこか浮かない気分で頷いた。静かに歩き出しながら、志保はそっと近藤の横顔を窺う。こんな気分でも、うっとりと見つめたくなるような冷たい美しさ。高嶺の花。視線に気がついたのだろう、近藤が足を止めて振り返る。
「なによ」
 冷たい声。しかしそれは拒絶するものではなく、不思議がるもの。真夏に感じる氷のような、心地良いもの。取り巻く蝉の鳴き声が、遠くの世界のものに感じた。志保は返す言葉を持たないまま、気づかれてしまった恥ずかしさに立ち尽くす。ぎこちなく視線を外すと、近藤はどこか呆れたような、気分を害しては居ない溜息をつくとまた歩き出した。
 その背を小さくなって追いながら、志保は気がついてあっと声を上げる。今度は若干の苛立ちを持って振り返った近藤に、志保はしどろもどろになりながら、勇気を振り絞って尋ねた。
「こ、近藤さんっ。聞いていい?」
「なに」
「し……下の名前、なんて言うんだっけ」
 志保の言葉に、近藤は思っても見なかったといわんばかりの、意外そうな表情で目を瞬かせた。同じクラスになって数ヶ月が経過している相手に、そんなことを聞かれるとさえ思わなかったのだろう。聞くんじゃなくて、後で名簿を見ておけばよかったかも、と後悔する志保に、近藤は穏やかな笑みを浮かべて口を開く。
「綾あや
 学校に通う生徒たちの中で、恐らくは一番大人びた空気を背負って。不機嫌な空気を、今は少し和らげて。見とれる美しさを存分に振りまいて、綾は、志保に向かって微笑した。志保には分からない。どうしてこんなにも大人びているのか。どうしていつも不機嫌で、滅多に笑わないのか。どうして綺麗だと思うのに、胸の奥がつんとして悲しいのか。志保には分からない。どうして綾が優しいのか。
「学校の人たちは、皆名前を呼ばないものね。どうしてか分からないけど。……坂木さん、よかったら、綾って呼んでくれない? 一人くらい居ても、いいと思うのよ」
 志保には分からない。涼しげな声がかすかに震えている理由も、空に挑むように向けられていた視線が、やや困ったようにさまよっている訳も。けれど一つだけ分かる事があって、志保は鞄を持たずに揺れていた綾の片手をぎゅっと握って、その目を至近距離から見つめなおした。驚きに軽く見開かれた綺麗な目に、見とれそうになるけれど。今するべきことは、そうではなくて。志保は、にっこりと笑って言った。
「よろしく、綾。私も、坂木じゃなくて志保って呼んで?」
 自分でも驚くほど、どもらないですっと出てきた言葉だった。心臓は早鐘を打っているのに、どこか静まり返る気持ちで、志保は返事を待つ。繋いだ手が、汗の感触でべたついて気持ち悪かった。それでも、離す気にはならない。綾は迷うように目を彷徨わせ、やがて小さく唇を噛むと、泣きそうな表情で口を開く。
「……っし……志保、さん」
「志保。呼び捨てで。私も、綾って呼ぶから。ね?」
 まるで立場が逆になってしまっていた。志保が綾がどもって何かを言う所などはじめて聞いたし、こんなはっきり話す事が出来るのも珍しいことだった。
「さん、やめよう? 癖とかだったら、仕方ないけど。……志保って、呼んで欲しい。だって、私」
 静かに動き出す朝の学校の空気の中で。志保は揺るがない声で言葉を紡ぐ。なんか、愛の告白のようだと思いながら。
「綾と……友達に、なりたいの。なっても、いいでしょ?」
「……友達?」
「うん。だから……綾?」
 静かな朝の空気。初夏の生ぬるい風が吹きぬけて、蝉の鳴き声が煩く響く。動き出し、それでいて動かないような学校の空気。遠くでざわめく部活動の声。繋いだままの手が汗ばんで気持ち悪かった。それでも、それらはどこか遠い世界のもののように感じられる。志保には分からない。誰よりも大人びて綺麗で、美しいと言い切れる綾が、どうして泣いているのか。
 どきっとする程赤い唇を噛み締めて声を殺して、涙を流すその理由が。志保には分からない。けれど、慰めたくて抱き寄せる。志保の肩に額を押し付けて、綾は小さい声で呟く。
「志保……?」
 その一言が問いかけの許可で、そして全ての合図。志保と綾は、その日友達になった。



 夏真っ盛りを告げる痛い日差しが教室に差し込む。それを嫌そうに避けながら日陰を歩きつつ戻って来た綾に、志保は苦笑する。浮かぶ不機嫌な表情はいつもと変わらないように思えるけれど、それでも志保にはほんの少し違うものだと分かったからだ。手を伸ばして椅子をひき、座るように示してやると、綾は無言でそこに腰を下ろす。
 同年代の誰にも真似できないような、優美な音のない仕草で。ふわっと涼しげな風さえ流れてくるような動作に、志保は思わず溜息をつく。さらに不機嫌に細められた綾の視線から微妙に顔を背けつつ、志保はまた告白だったの、と問いかける。綾は、無言で頷いた。
「……その人の中身を把握してないくせに、外見だけ見て好きになって、付き合ってくれとか言ってくる。その神経が分からないわ。気持ち悪い」
「綾。それでまた先輩泣かせて来たんじゃないだろうね……?」
「年下の女に睨まれて泣く男の方がいけない」
 やけにきっぱりとしたものいいに、志保は微妙な笑みを浮かべて溜息をついた。綾くらい綺麗な人が怒って睨んだら、それはもう怖いんだよ、と言ってやりたい気もするが、口を噤む。友達として親しくしはじめて一月。綾は、自分の外見を褒められるのを過剰なまでに嫌がると言うのが分かったのだ。うっかり褒めると、例え志保でも平手打ちが飛んでくる。
 あれは痛かったなぁ、と遠い目をして考える志保は、綾にバレないようにその横顔を見つめた。綺麗で、涼しげな印象を受ける、整った横顔。浮かんでいるのは、どこか泣きそうな色。志保には分からない。どうして男に告白されるたびに、綾がこうして泣きそうになるのか。どうして外見を褒められるのを嫌がるのか。どうしてこんなに大人びているのか。
 志保には分からない。それでもほんの少し、分かることは増えてきた。
「これから綾、部活だよね?」
「そう。……貴重な時間を無駄にしたわ」
 遅刻したらどうしてくれる、あの男、と半眼のままで呟く綾に思わず笑いながら、志保はじゃあ、と囁く。
「待ってるから。終わったら一緒に帰らない?」
「……気が向いたらね」
 そっけない言葉。冷たい、とも受け取れる声。それでも志保は知っている。気が向かないことは、今まで一度もなかったことを。そして、これからもないのだろうと言うことを。教室を出て行く綾を見送って、志保は痛い程晴れた空を見上げた。いつも綾が挑むように睨んでいる空。広がっているのは、志保に取っては見知った、変わらない青の世界。
 それでも綾に取っては何かが違うのだろう。いつか分かるようになればいいと思いながら、志保は椅子に座りなおした。

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