時が終わりを告げたなら

 まったく、らしくない。どこか沈んだ顔つきでパスを投げてくる友人に、志保しほ はそう思い、目を細めた。用意していた手に取りやすいように飛び込んできたバスケットボールを、投げ返すことなく軽く抱きしめて。志保はまったくらしくないと、そう思いながらパスの練習相手を見つめた。放課後。太陽がまだ空高く上っている時間なので、逆光を浴びる姿はとても眩しく、正視が出来ない。
 そうでなくとも志保にとって、相手はどこか正視しにくい姿かたちの持ち主であるのだが。三河 真紀みかわ まき は、同じ一年D組のクラスメイトであり、高校に入って出来た志保の友人の一人だ。バスケット推薦で入学してきたという言葉の通り、体つきは痩せているが貧相なものではなく、すらりと引き締まっていて格好いいし、背は同年代の少女と比べ、頭一つ半分も違う。
 ばっさり切られたショートカットの、染められていない黒髪は健康的にうっすらと日焼けした肌にとても映えていて、流行に乗って茶髪にしている志保からすれば、なんだか羨ましいくらいの凛々しさなのだった。性格は明るく面倒見が良く、同年代には優しいし、先輩にはとても礼儀正しい。その礼儀正しさは表層的なものではないからこそ、真紀は誰にでも可愛がられるし、人気がある。
 いつもにこりと微笑んで、前を向いて歩いているような少女なのだ。『一年D組の天然王子カリスマ系』のあだ名は、からかいでつけられたものではない。真紀は、少女たちのあこがれの的であり、まさしく『王子様』なのだった。だからこそ、沈んだ顔つきなど、真紀らしくないのである。相手もれっきとした人間で少女であるので、悩むな沈むなと言うわけではないのだが、似あわないのだ。
 止めて欲しいわまったくもう、と志保が内心の苛立ちと心配を口に出して呟いた時だった。あれ、とどこか温かみのある声が、不思議そうな呟きを響かせる。真紀の声は太陽の光を一身に浴びて実った、きれいなオレンジを思わせた。気分が沈んでいる時ですら皮肉なまでに暖かいその声に、志保はますます呆れた顔つきになり、ボールを抱きしめる腕に見せ付けるように力を込めた。
「注意力散漫、よ。なに、体調でも悪い? 部活休んで、帰らせてもらう?」
「いや、体調は別に。大丈夫だよ。ごめんね、志保」
 気にさせちゃってごめん、と笑う真紀に、志保はにっこり笑ってボールを投げつけた。パスではなく、顔を直接狙い打つ暴力的な動きに、真紀はわぁっと驚いた声を上げ、ボールを床に叩き落す。勢いがあったボールは体育館の床に激突し、ダンっ、と思いも寄らぬほど大きな音を立て、何度もバウンドを繰り返しながら彼方へと転がっていった。ざわめいていた空気が、しん、と静まる。
 悪いのは撃ち落した方ではないのだが、視線を集めてしまったのは真紀だった。え、あ、とうろたえた声を出して立ち尽くす真紀につかつかと歩み寄っていった志保が、友人譲りの有無を言わせぬ、それはそれは美しい笑顔を貼り付けたままでがしりとばかりに両肩を掴む。ひぃっ、と恐怖の叫びを上げた真紀に、志保はにこにこと笑いながら、視線だけを動かして問いかけを送った。
「部長。真紀の調子が悪いようなので、ちょっと休憩してきても良いでしょうか。三十分で戻りますから」
「い、いいけど、志保はなにしに行くの?」
 真紀の体調の良し悪しは、志保には関係ないでしょう、と言って来る部長に、志保はふふ、と可愛らしい笑いを響かせた。体育館の温度が、一気に下がるような錯覚。それを誰にも覚えさせながら、志保は貼り付けた美しい笑顔のままで、言った。
「オナカが、痛くナリマシタ」
「絶対嘘だっ!」
「うるさいわよ、真紀。じゃあ、先輩、すみませんが二人して三十分程抜けますので。場合によっては真紀はそのまま帰しますが、私は戻ってきますね。サボリとかじゃないですから、よろしくお願いします」
 うふふアンタ私から逃げられると思ったら大間違いも百年早いということを覚えなさい、となめらかな口調で言い放ち、志保は真紀の腕を掴んで、引きずりながら体育館を出て行った。二人の背を見送った部長のため息が響き。諦めたような、微笑ましいような声が、背を追うように響いた。
「うん、まあ。いってらっしゃい」
 部活に燃えるだけが青春じゃないしね、と苦笑しながら呟いて。部長は、練習の再開を命じた。



 真紀が連れてこられたのは、体育館と教室棟を繋ぐ渡り廊下がある、階段の踊り場だった。教室棟の二階から伸びている渡り廊下は、一階部分がない。そこは普通の道になっていて、昇降口から出てくる生徒たちの姿が窓からは見えるだろう。しかし渡り廊下から体育館へと降りてくる階段の踊り場に窓はなく、人の声や気配もどこか遠くに感じるので、開放感は感じられなかった。
 踊り場は、どこか窮屈で寂しいような空間だ。上にも下にもいけるのに、空間は開いているのに、どこにも行けない迷宮に迷い込んだような錯覚がある。そう思ってふと俯いた真紀に、志保は額に手を当て、ため息をついた。
「それで?」
「それでって、なによ。こっちが聞きたいんだけど? いきなり連れ出して、どういうつもり」
「今日に限って、なんでそんなにネガティブシンキングな表情してるのか聞いてるのよ。質問に答えてから質問してくれない? 真紀の後ろ向き思考」
 じわりと胸に染み込んでくる怒りを感じながら、真紀は今のは悪口なんだろうか、と考えてみた。多分、悪口なのだろう。あまり聞いたことのない種類のけなし言葉だが、そうに違いない。結論を出して、質問されたことに対しての回答、ではない言葉を発しようとする真紀に、志保はにっこり微笑んだ。それは、怒る暇があったら考えて返事しろよコラ、と言わんばかりの微笑みで。
 ちょっと怖い、と思いながら、真紀はそぅっと口をひらいた。
「志保って綾あや と仲良いよね。怒り方も、ちょっと似てるし」
「そう? あそこまで短気だとは思わないけど」
 まあ、昔に比べて驚くほど性格が丸くなってはいるけどね、ともらされた呟きに、真紀はとんでもないことを聞いてしまいました、と表情を引きつらせる。二人の共通の友人である綾は、とてつもなく美人ではあるのだが、口が悪くて気が短いのだ。なにかあればすぐに毒を吐くし、一応許可を求めるが結果をあまり気にせずに人を軽くではあるが、殴ることもしばしばだ。平手打ちも、よくする。
 それなのに、驚くほど丸くなったと、志保は言うのだ。詳しい事情はよく知らないのだが、志保は中学一年から二年の半ばにかけて、綾と親しくしていた時期があったらしい。いきなり綾が転校して以来、連絡も取れないままだったとのことだが、高校で偶然再会してからは、また親しくしているという。そんな、限られているとはいえ、昔を知っている志保の言う事なのだから、本当なのだろう。
 しかしどうしても信じられず、あれで、と非常に疑わしい問いかけを向ける真紀に、志保はあれでもなんだよ、としみじみ頷いた。
「すんごい丸くなってるよ、綾は。でもまあ、今はそんなこと関係ないし。話題は綾じゃなくて真紀だし。誤魔化さないでね? なんで、落ち込んでたの? 言いたくなかったら言わなくてもいいけど、とりあえずまあ、問答無用で私に話せ?」
「矛盾してるっ、矛盾してるっ」
「黙れ。言え」
 どっちっ、と叫ぶ真紀に、いいから私が笑ってる間に話してくれないかなぁ、と志保は言った。時間制限もあるんだし、との呟きに、真紀はやっと、今が本来なら部活の時間であることを思い出し、慌てて戻ろうとしたのだが。逃げんな、とばかりに志保の笑みが艶めいたので、とりあえず部に戻ることは諦め、ため息をついた。言うまで離してくれないだろう、という予測は簡単につくのである。
 あー、と口ごもる真紀にハッキリ言いなさいっ、と体育会系の叱りを飛ばし、志保は階段に腰を下ろした。悩みながらも真紀も座り込み、あのさ、と諦めた様子で声を響かせる。
「志保は、バスケしてて楽しい?」
「楽しいわよ。そうじゃなかったら部活になんて入らないでしょ、普通」
 あまりにあっさり告げられた答えに、真紀はだよねぇ、と言って苦笑を浮かべ、そのまま黙り込んでしまった。わけ分からないんだけど、と折りたたんだ足を腕で抱き、膝にあごを乗せながら、志保はとりえあず言葉の続きを待ってやる。しん、と静まり返った踊り場に、現れる人影はない。近づいてくる足音も、一つも聞こえなかった。ただ別世界の音のように、響く音はあって。
 下校する生徒の笑い声と、部活に打ち込んでいる者たちの、言葉の形を成さなくなったざわめきが、ゆらりと漂ってくる。それは一人で静まり返った空間にいるより、よほど強く孤独を感じさせる音で。場所、他の方がよかったかな、と考え出す志保に、真紀は悩みながらも言葉の、続きを紡いでいく。
「私も、普段は楽しいんだけどさ」
「うん」
「なんか今日に限って辛いなー、とか思っちゃって。部活出るの嫌だなって、いうか」
 ぼそぼそと、あまり響かない声で言葉は紡がれる。明るい内容ではないことは予想していたのだが、あまり聞いて楽しい気分にはなれずに。無意識にみけんにしわを寄せながら、志保は若干怒ったような声で問いかけた。
「どうして?」
「あー。くだらないって笑わないんだったら、言う」
「聞かなきゃ分からない、けど。まあ。努力はしましょう。なに?」
 それは、笑わないと即答で返されるより、ずっと誠意を感じる言い方で。真紀は思わずくすくす笑いを響かせて、えっとね、と僅かに口ごもった。志保は、黙って待ってくれている。時間大丈夫なのかな、とちらりと思いながら、真紀は静かに呟いた。
「バスケ出来なくなったらどうすればいいのかな、って」
「怪我で、ってこと?」
「うん、怪我でもいいし。なにか事情がって出来なくなって、止めなきゃいけないことになったら、私どうすればいいのかなー、とか考えてた。綾みたいにじゃあ帰宅部になります、って気持ちの切り替え、すぐに出来ない気がするんだよね」
 綾は、中学では有名な陸上の選手だったらしい。らしいというのは、真紀が実際を噂でしか知らないからだった。運動測定で行われた百メートル走で、綾は確かにクラスでダントツで、驚くべきタイムをたたき出したのだが。それだけだ。真紀は、綾が『走っている』所を知らない。部活の勧誘を全て断って帰宅部になった綾が、陸上部に入らない理由は、家庭の事情にあることだけ知っている。
 本人としては別にどうでもいいらしく、執着はしていないのだが。同じ立場になったとして、真紀にはどうしても切り替えができないと思ったのだ。志保はため息をついて、綾が聞いたら多分怒るよ、と小さな、小さな声で呟いた。聞こえていたが問い返すことはなく、真紀はあとそれに、と視線をそらして言い放つ。
「それに、部活やってると放課後遊べたりとか、出来ないじゃない」
「真紀。実は本音はそっちでしょ」
「あれ、なんで分かるの?」
 若干冗談交じりの言葉のやりとりに、場にはやや緩んだ空気が流れかける。真紀としてはそのまま誤魔化して終わりにしたかったのだろうが、志保はそれを許さなかった。あのね、と呟き一つで空気を引き締め、息を吸い込んでから口を開く。
「辛いことなら無理してやらなくていいんじゃない? って普通なら言うトコだけどさ」
 視線は、まっすぐに。まっすぐに、放たれた矢のように、真紀に向けられていた。抱え込んだ膝の上に頭を横たえるようにしながら、志保は視線をそらさずに、真紀を見ていた。挑むように。
「そんな辛さは、選んだ時点で覚悟しとくべきものなんだよ」
 誰も来ない廊下の踊り場。下へと向かう階段の一段目に腰を下ろしながら、志保は淡々と言葉を紡いでいく。苛立ちを押し殺して、相手にむやみにぶつけないように自制しながら。己にも言い聞かせるようにして、語っていく。
「楽しいだけじゃない。辛いことの方が、いっぱいあるよね。これからも山のようにあると思うよ? それが我慢できないんだったら止めればいいし、それでも好きなんだったら続ければいい。どっちも出来ないんだったら、時々サボって帰っちゃえばいいし、遊びに行けばいいじゃない。ただ」
 真紀は言葉を話せない。空気を揺らしていくその声を、どこかぼんやりと聞き入れるだけだ。反応がないことには苛立った様子も見せず、志保はただね、と言葉を続けた。
「その辛さは、バスケが好きだから辛いんだと思うよ」
「なんで?」
「好きじゃなかったら、辛くなんてないでしょ? 未練なく気持ち切り替えて、遊びにいっちゃおー、って部活サボると思うもの。実際、そういう人沢山いるじゃない」
 今日だって全員居たわけじゃないでしょう、との言葉に、真紀は思い出しながらも頷いた。確かに、部長副部長をはじめとした、熱心な部員はいつものように居たのだが、その他のなんとなく入部してしまった面々に関しては、いつもより数が少なかった気もするのだ。うん、と言う真紀に、志保は続ける。
「真紀が感じてる不安は、誰にでもあるものだよ。だからってくだらないものなわけないし、簡単に解決できるものでもないんだけど。まあ、要するにね?」
 ふぅ、と疲れたように言葉を途切れさせて。それでも終わらせることなく、志保は言った。
「今の真紀は、試合が始まる前から負けたらどうしよう、勝てなかったらどうしよう、って怖がってるのと一緒だと思う。たくさん練習して努力して、負けたら辛いし悲しいし悔しいけど、そんなの始まる前から心配してどうするの? 馬鹿じゃない? って私は思う」
「そ、だね。分かってるんだけど」
 反射的に。ほとんど反射的に、答えた言葉だった。名前を呼ばれれば返事をするくらいの気持ちで、言ってしまった言葉だった。志保の表情が、消える。一瞬の空白を置いて現れたのは、怒りのまなざし。
「分かってないよ、全然」
 立ち上がって、睨みつけて。志保はどこか泣きそうな表情で、首を振る。
「分かってない」
「志保」
「分かったふりされるのが、私は一番嫌いだよっ」
 悲鳴、だった。それは恐らく過去に根ざしたなんらかの出来事が叫ばせた言葉なのだろう。それがいったい何であるのか、真紀には分からない。だが決定的な失敗をしてしまったことだけは理解して、だからこそ真紀は、告げる言葉に苦しんだ。なにを言っても、ダメであるような気がして。志保は、泣き叫んでいるような、裏返った声で言う。
「分からないなら、それでいいじゃない。分からないままでも、別にいいじゃないっ」
「志保、ごめ」
「答えが出ないことが答えになる問題だって世の中にはあるんだからね!? 真紀が悩んでんのはそういうことなのよっ。分かれ馬鹿真紀理解しろっ」
 叩きつける雨のように。地を穿つ雨のように。吐き捨てられた、言葉だった。なにも言えなくなった真紀に、志保は荒れた呼吸を整えながら顔を上げ、まっすぐに相手を見据えて言い放つ。
「終わってから考えなよ」
「な、なにがでしょう。志保さん」
「人生とか」
 話が飛んだ。それも、一気に飛んだ。え、とひきつった笑みになる真紀に、志保は大真面目の表情で睨みを聞かせる。
「頑張って頑張って頑張って頑張って、死ぬほど頑張って血反吐はく程努力してっ。そしたら、そんな悩みを持ちなさいっ。百年早いわ青二才っ」
「えー。あー。志保さーん、志保さーん。落ち着いてー?」
「うるさい馬鹿真紀っ。私もう、部活戻っちゃうんだからっ」
 言い捨てて、志保は本当に走り去ってしまった。後には、真紀だけが残される。ああ怒らせちゃった、とため息をついて、真紀はうん、と頷いた。
「とりあえず、謝ろう」
 なにに対しての謝罪か、間違えることなくきちんと相手に伝えて。分かったふりなんてもうしないから、許して欲しいと拝み倒して。それで許されなかったら、どうすればいいのか考えれば良いし、許されればよかったと笑えばいいだけだ。それだけの、話だ。全部全部、今一度に答えを出して行動しなくても、いいだけなのだ。わずかばかり苦笑して、真紀は階段から立ち上がった。
 そしてゆっくりと、部活をしている仲間たちの元へ歩き出す。まだ胸の中には部活に出ることの辛さとか、不安とか、そんなものが渦巻いてはいるけれど。それを今、どうするかは考えずに。答えを、出さずに。真紀はタン、と音を立てて階段を下りた。そしてふと、胸に渦巻くものに向き合う時のことを考える。それは、いつになれば出来るようになるだろう、と。
 答えは出なかった。けれど、分かるような気もした。それはきっと、遠くない未来のことで。積み重ねていくたくさんの月日が、数え上げていくたくさんの時が、その一つが。終わりを告げた瞬間の、ことなのだろう。きっと、向き合って答えを出せる瞬間がやってくるのだ。今も過ぎ去って行く、いくつもの、いくつもの時間。そのひとつ。その、ひとつの。時が、終わりを告げたなら。

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