彼女が窓を拭く理由

 普段使っている教室なのだから、感謝の気持ちを持って綺麗にしましょう、と言われても、少女たちの動きはどこか鈍い。一週間ごとに当番制で代わっていくとはいえ、掃除当番になると誰もが嫌がり、眉を寄せる。それは綺麗にするのが嫌なのではなく、ただ単に面倒くさかったり、早く帰りたかったり、部活に行きたかったりと理由は様々あるのだが、とにかく大抵は嫌がるものなのだ。
 しかし一人だけ、掃除当番になるたび、うきうきと用具入れに向かう生徒がいた。さくらである。ふわふわウエーブの黒髪をほわほわと漂わせ、いかにも嬉しそうに掃除用具入れをあける姿は、見ている者に理由の知れない脱力感をもたらした。さくらは『さくら』の鼻歌を響かせながら雑巾を一枚取り出し、私窓拭くねー、と宣言して専用の水場へと歩いていく。
 廊下の端に設置された水場は薄暗く、教室からはそれなりに歩かなければたどり着けない。水が冷たいこと、手入れした爪が痛むことなどを理由に水拭きは通常、誰もやりたがらないような作業なのだが、さくらはいつも自ら志願してそれを行うのだった。六実むつみ  さん、いいコよね、と同じ掃除当番の少女が嬉しげに呟くのを聞きとめ、帰り支度をしていた少女の一人が、息を吐く。
 それは呆れ果ててものが言えません、というようなため息で。同じく帰り支度をしていた三つ編みの少女が、きょとんと目を瞬かせてどしたの、と問いかける。ちょうど雑巾を絞って教室に戻ってきたさくらを嫌そうなまなざしで見つめつつ、ため息をついた少女、綾あや は勘違いされてるんだもの、と呟いた。問いかけた少女、沙良さら はますます首をかしげる。
「なにが勘違い? さくらちゃんは、実際良いコだと思うけどな。明るいし、可愛いし、ピアノ上手だし」
「ピアノの上手い下手は、良いコの理由になるものなの?」
 うん、と三つ編みを揺らして頷く沙良に、綾は天然馬鹿と会話するの疲れる、とかなり酷い呟きをもらした。沙良はにっこりと笑ってそれを黙殺し、それでなにが、とはじめの疑問を問いかける。なにが勘違いだというのか、と。教科書を鞄につめながら、綾は視線だけでさくらを示した。さくらは、うきうきした様子で、元気良く窓をみがいている。
「どうしてさくらが、窓拭いてるのかってことよ。善意百パーセントなわけ、ないじゃない」
「あのね綾ちゃん。世の中の人が、皆綾ちゃんみたいにちょっぴりひねくれてるわけでもないと思うのよ?」
「そうね、世の中の人が皆、沙良みたいに腹の底真っ黒じゃないのと同じよね」
 にっこり、笑いあう少女たち。掃除当番の者たちは異様な空気に気がついたのか、関わりあいたくないのか、なるべく二人の方を見ないよう、見ないように作業を進めている。『一年D組の高嶺の花』こと佐伯 綾さえき あや と、同じく『一年D組の見かけ穏やか核弾頭』である高坂 沙良こうさか さら の微笑みあいに、踏み込めば物理的な危険が待っている。
 それが入学して二ヶ月、一年D組の少女たちが学習したことだった。異様な空気が立ち込める中、一人それに気がついていない、さくらの鼻歌がゆるゆると空気を揺らす。いかにも楽しくて仕方ありません、という鼻歌に、二人の戦意は喪失したようだった。どうでもよくなってきた、と思いながらも、沙良は綾に問いかけの視線を送る。綾は呆れた表情で、見てれば分かるわよ、と言った。
 仕方なく、沙良は窓拭きを続けるさくらに目を向け、その様子を観察することにした。規則正しく窓を拭いていくその姿に、特に変わった点は見られない。しいて言えば表情が本当に嬉しそうであり、外の景色を映し出している瞳が、恋する乙女のごとくキラキラと輝いているのが、普通とは違う所だろうか。そこまで考えて、沙良は微妙な顔つきになる。思い当たる理由が、一つだけあった。
 まさかさぁ、と呟く沙良に、綾はその通りよ、と呆れ顔のままで頷く。
「ウチの教室から、森沢もりさわ 先輩の掃除場所が見えるの、知らなかったの?」
 二年生の掃除分担って、教室の他に外もあるのよね、と丁寧な解説を付け加えてやる綾に、沙良はそういえばそうだった、と言い。その瞬間、ぱぁっと頬を赤く染め、外に向かって手を振るさくらの姿を見て、綾と同じような呆れ顔になる。
「さくらって」
「本当に、森沢先輩のこと、好きよね」
「うん。一歩間違えるとストーカーだよね」
 帰り支度をしながら、友人たちがそんな会話を交わしているとは知らずに。今日もさくらは、偶然目があった愛しの先輩に、一生懸命手を振っていた。それが、彼女が窓を拭く理由。

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