雨の日も二人で

 原因は、ちょっとした言葉のすれ違いだったと思う。ただそれはあまりにささいな言葉で、どうしてそうなってしまったのかは分からないが、ともかく軽い言い合いになって。馬鹿、とか。わからずや、とか。嫌い、とか。言われた気がして。思い出して、さくらはかなり落ち込んだ。とてつもなく泣きそうだった。雨の気持ちがよく分かる、とまで呟いて、友人からは呆れの視線を向けられる。
 簡単な話、さくらは最愛の先輩と本日、喧嘩をしたのだった。
「死ぬかもしれない」
 さくらとしては、それはかなり本気の言葉だった。最愛の先輩、こと、森沢 香奈もりさわ かな は、さくらに取って世界の全てであり、生きていく上での原動力のような存在だからだ。喧嘩して、しかも嫌いとまで言われてしまっては、しょげ返るのも仕方がないことなのかも知れない。仲直りしようにもきっかけになったことは思い出せないし、なにより相手は先輩なのだ。
 同じクラスにいる筈もなく、廊下を歩いて階段を登って、上の二年生クラスにまで行かなければならない。当たり前のことなのだが、それは今のさくらには怖くて出来ないことだった。机につっぷしてめそめそ泣いているさくらの、ふわふわにウエーブがかった黒髪を、呆れた顔つきで綾あや が引っ張る。当然のごとく涙目で視線を向けてくるさくらに、綾は深い深いため息をついた。
「仲直りしてくればいいじゃない」
「無理っ」
 即答の叫びだった。穢れない白薔薇を連想させる少女の顔つきが、怒りに引きつる。落ち着いて綾、と宥める声が響く。さくらはそんな友人たちの反応に気がつくことなく、半泣きの声で途方にくれる。
「だって香奈先輩、私のこと嫌いってー……嫌われたー」
「はいはい、はいはい」
「流さないで聞いてよっ。死活問題なんだよ!」
 私は先輩の愛がないと生きてけないんだよっ、と涙声で叫ぶさくらに、綾はたいそう嫌そうな目を向けた。友人たちは若干遠巻きに二人を見ているだけで、今日に限って気の短い綾の暴言を止める気配は見られない。ため息が響き、綾が口を開く。
「じゃ、死ねば?」
 言うと思った、とちょっとした拍手が巻き起こる。さすが綾、と呟かれる声に、言った本人はさらに嫌そうな顔つきになったが、言われたさくらはぽろりと涙を流す。それでも、慰めの声は上がらない。ちょっとした痴話げんかだと、本人以外は分かっていたからだ。時々事故のように起こるいつものこと、なのである。ううぅ、と鼻をすすりつつ、さくらは嫌、と呟いた。
「香奈先輩に嫌われたままで死にたくない」
「じゃ、仲直りしてくればいいじゃない」
「無理」
 堂々巡りである。ふふ、と綾が危険な笑いを漏らした。そして、安全区域で傍観している友人たちに向かって、睨むような視線で問いかける。
「殴っても許されるわよね?」
「綾は相変わらず短気だよねー。別に許すけど」
「よし」
 間髪いれずにさくらを殴った綾は、すっきりした表情で立ち上がった。ついでとばかりにさくらの腕も掴んで立ち上がらせると、許可を下した志保しほ が近寄ってきて、絶妙の間合いで背中へと回る。そして志保は、さくらの背中を笑顔で押しやると、鞄と共に廊下へと投げ出した。べしゃりと廊下に倒れたさくらに、締められた扉の向こう側から、志保の暢気な声が告げる。
「はい、さようなら。また明日ねー」
 ほらお迎えも来てることだし、との声に、さくらは慌てて立ち上がり、顔をあげた。すると教室の扉のすぐ隣に、気まずそうな顔つきをした香奈が立っていて。なにも言えずに俯いてしまったさくらに、香奈は深く、息を吐き出した。
「さくら」
「はっ、はいっ」
「帰るわよ」
 まったく、どうしてこういう時に限って傘が壊れるのかしら、と文句を呟きつつ、香奈は戸惑うさくらの手を引いて歩き出した。ごく自然に手を繋ぐ動作は、普段通りの気まずさのないもので。思わず泣きそうになるさくらに、香奈は歩きながらあのね、と言った。
「傘持ってる?」
「一本だけなら、持ってます」
「入れて」
 きっぱりと告げられる、迷いのない言葉。何度か目を瞬かせて意味を理解して、さくらは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「はい、香奈先輩っ。大好きですっ」
「私も」
 気まずさに、すこしだけ視線をそらしながら。わずかに、苦笑を浮かべながら。香奈は、さくらにそっと囁く。それは、普段通りの優しい声で。
「私も、好きよ」
 そしていつものように、二人は一緒に帰って行く。それは雨の日も晴れの日も、変わらない日常の一つ。