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 彼のはじまり

 星降る夜に、世界がはじけた。
 目の前に広がる真っ白な世界を、無情にも“無”という名の黒が染めていく。ガラガラと崩れていくガラスのような白い欠片は、まるで星のように流れ、いくつも消える。そのたびに、黒の面積が増えていった。
 綺麗だと思う反面、――イカナイデと求めるココロ。
 なんでこんなにも心が痛いのか不思議に思う反面、――ドウシテ忘レテシマエルノと慟哭するココロ。
 相反する感情があるはずだったのに、星が流れるたびに心が欠落していった。そして欠落していることさえ、渦中にいる本人にはわからなくなっていた。
 そんな意識の中で、空中に引っかかる白い欠片を見つける。指で触れた瞬間、それは声を発した。
『これが、最後の言葉になるだろう』
 消えかけた欠片はそれ以上を語らなかった。続きが聞きたくてあたりを見渡したが、どういうわけかあれだけたくさん降っていた欠片は、もうない。完全なる黒に取り込まれたあとだった。そこにあったはずの白い欠片も、やがて星のように流れて、――消えた。
 うるさいほどに流れていた星と声の渦はない。静寂な闇だけが、少年の心を覆っていた。


 そして、少年は大事なものを失った。


「……」
 目を開けて、最初にしたいと思ったのは「泣くこと」だった。どうしてそう思ったのかわからない。ただ、少年の心は空虚だった。先ほどの夢の中で、指の間から零れ落ちたような感覚だけが泣き出したいと叫ぶ心に刻み込まれていた。
「むね、が……いたい」
 うわごとのように呟いた言葉に、心が反応を示す。心と体と脳が全部バラバラな気分だった。
 心は泣きたいと叫び、胸は痛くなる。しかし、脳は「なぜ?」と心と胸の行動を理解しない。自分が“自分”じゃないような感覚のまま起き上がった。
「起きましたか?」
 タイミングよく部屋に入ってきた女性の髪に、目がちかちかした。ひよこのような淡い黄色の髪色と瞳に、二、三度瞬きを繰り返す。
「顔色はいいみたいですね。ただ、今は器と心がちぐはぐなので、ちょっと気持ち悪いかもしれません」
「……」
「大丈夫ですよ、そのうち慣れますから」
 彼女は、少年の寝ているベッドに腰をかけると、彼の頬を両手で覆う。
「戸惑いも、無も、今のあなたにとって大事な糧です。まずは名前を教えてくれるかしら」
 少年は、声を震わせてメーシャと名乗った。目の前の女性は、悲しげな微笑みを浮かべてラティと名乗る。
「いい、メーシャ。今から、私の言うことを信じて」
 信じるも何も、知らない人についていったらだめですよって――誰かが言っていた。
 そんな、ふとした違和感に一瞬思考が囚われる。誰って“誰”だ。ちょっと待て、何かがおかしい。理由のない「何がおかしいのかわからない」不安が、徐々にメーシャの心を占領していく。焦りや不安、そして自分の身に今何が起こっているのか、そこで初めてメーシャは自分の『記憶』という箱に手をかけた。
「メーシャ、だめ、まだ思い出そうとしないでください!」
 しかし、無理だった。メーシャは不安と焦りから触ってはいけない箱に手をかけ、そして知ってしまった。


 ――自分に、記憶がないことを。


 泣きたかった理由はこれなんだ、と妙に納得した気分だった。零れ落ちる涙は感情からのものじゃないのに溢れて止まらない。そんなメーシャを、泣き出しそうな表情で見ているラティに、心が痛んだ。
 あなたがそんな顔をすることはないのに。
 きっと彼女は自分が知る以上に他人で、もっと言えば関係もない。それなのに、どうしてここまでメーシャに心を運んでくれるのか。ラティから伝わる慈愛の心に、メーシャの空っぽな心がほんの少し動いた。
「……メーシャ。その、……とても、言いにくいことなんですけど、今あなたはこの世界で“ひとり”です」
「ひとりだといけないんですか……?」
「そんなことありません。……でも、普通はあなたぐらいの子には“家族”がいるんです。お父さんとお母さんがいて、人は生まれることができるんです」
「……でも、俺は、ひとり?」
「はい。厳密に言えば、ひとりになってしまった、です」
 ラティはぐっと涙をこらえて、言葉を吐き出す。
「暴走した結果、あなたを含む、あなたを知るすべての人間から“メーシャ”という存在が消えてしまったんです。記憶も消え、あなたに関わる人との絆も消えてしまいました。ここに、あなたは……、メーシャはいるのに」
 ああ、だから“ひとり”なのか。メーシャはひとり納得した。空虚だからこそ、事実を受け入れられたのかもしれない。だって何も覚えてないのだ。しかし、そんなメーシャに対し、ラティはひどく心を痛めている。まるで、失われた自分の分まで悲しんでくれるような彼女に、メーシャは心をうたれた。
「……ラティ、さん」
 頼りなげに顔を上げたラティに、メーシャは微笑む。
「俺は、ひとりじゃないです、よ……?」
「え……?」
「今、ラティさんが、俺と絆を持ってくれました」
 そっと握った手は冷えて、綺麗な手なのにもったいないとメーシャは思った。
「ね、“ひとり”じゃ、ないです」
 今、ここに絆ができた。世界から隔離されていたはずの自分は、ラティという救いを得た。それは世界とメーシャを繋ぐもの。だから、これ以上心を痛めてほしくなかった。
「でも、家族が……」
「その家族という人たちが、俺の存在がいなくなったことによって心を痛めることがあるんですか?」
「……いいえ。もとからそこにあなたはいなかった、ということになるから、普通に暮らしているはずよ」
 ほっとした。その家族という人たちも、こうしてラティのように心を痛めていたとしたら、メーシャは悲しくてならない。けれど、そうじゃない。心から、心の底から彼はほっとしていた。
「よかった」
 そんなメーシャをじっと見つめるのはラティだ。今後、もしかしたら自分の後輩になるかもしれないメーシャの将来がちらりと脳裏をよぎる。彼女はほっとするメーシャから離れて、その場に立ち上がるとぐいっと自分の目元を拭った。
「メーシャ、あなたはどうしたいですか?」
 今の彼に聞くには過酷かもしれない質問を投げかける。
「……どう、とは」
 きょとんと首をかしげるメーシャにもっともだと思いながら、メーシャに自分の目線を合わせた。曇りのない瑠璃色の瞳をじっと見て、彼の中の魔力の大きさを少しだけはかる。
「私の見立てでは、あなたの持つ力は諸刃の刃。しかるべき処置をしなければ、きっとまた暴走してしまいます」
 瑠璃色の瞳が一瞬だけ、揺らいだ。その一瞬を見て、ラティは続ける。
「嫌、なのね?」
「はい」
 意思の強い瞳に、光が灯る。
「今回は記憶や絆だけで、ツライ思いをさせる人はいなかった。でも、次は何が起きるかわからない。俺自身、何がトリガーとなって暴走したのかすらわからないんです。……今の俺が信じられるのは、ラティさんだけです。自分を知らないまま、他人を傷つけるのは嫌だ」
 いい目をしている。そして、心から優しい子だ。と、ラティは思った。
 本当は怖くてこわくてたまらないくせに。“ひとり”の実感が湧いて、泣き出したいと思っているくせに。空虚で空っぽな自分ほど怖くて、目の前の現実を受け入れることしかできない、ということを彼はよく知っているように見えた。
 その心が読み取れるからこそ、ラティはメーシャの真剣を受け取った。知らずしらずのうちに自分と闘い、震えている小さな手を、そっと握り締める。可能性の話として聞いて欲しい、と言って。
「たぶん、ここ数年もしないうちにあなたの人生を大きく変える出会いがあります。実は私、今日そこを出てきたの」
「……そう、なんですか?」
「ええ。これも星の導きかもしれません。だから、……もしその出会いがあったなら、そのときは、そこに行って自分がどうなりたいのかをちゃんと考えてください」
「……俺が、どうなりたい、か……」
「力があるということは、幸せであり、不幸です。そして、強さであり、弱さなのです。両方をあわせもつ力を知り、その理をしっかり理解して、制御できるようになれば怖いものはないでしょう。だからこそ、自分がどうなりたいのかを、先に決めてください。それが、あなたの学ぶ指針になります」
 どう、なりたいか。
 もう一度口の中で小さくメーシャが呟く。もう、彼の中で答えは見つかっていた。それは漠然としていたけれども。


「――あなたのように、俺は一緒に泣いてあげられる人になりたい」


 メーシャは思っていた。真っ白になった自分の前に現れた人が、優しい人でよかった、と。心から。
「ばかです、ね」
 涙に濡れた声に聞こえるけれど、実際に涙は見えない。ぐっとこらえたラティの笑顔に、メーシャも応える。
「俺、ばかになりたいんです」
 にっこり微笑むメーシャに、ラティはでこぴんを放つ。痛いと額を押さえた少年の瞳にはきらりと輝く涙が浮かび、ラティは窓の外を指差した。
「もう視認できるはずです」
 そう言われても、何も見えない。ちょっと何か小さな何かが――。
「私はもうこの国を出て行かなければいけません」
 目を凝らしていたところで、耳を疑うひと言を聞き、メーシャはラティを見た。
「ごめんなさい。仕事があるのです」
「……そう、ですか」
 無理を言ってはいけない、そうはわかっていても未成熟な心は空虚な自分に耐え切れず、ラティに手を伸ばしてしまいそうになる。必死に押しとどめて、笑顔を浮かべた。不思議なことに“人”との付き合い方や、距離のとり方というのは知っていて、本当に絆だけが消えていることに、このときメーシャは気づいた。
 記憶ではなく、経験として培ってきたものは体と心に染み付いているということに。もしかしたら、名前を覚えていたのも“家族”と呼ばれる人からとても愛されて何度も名前を呼んでもらったから、心に染み付いていたのかもしれない。
 そう思えば、とても大事な名前だと思えた。少しだけ“自分”に近づいたような気持ちになった。
「しかるべきときがくるまで、この部屋は好きに使ってください」
「いいんですか……?」
「ひとりで生きることは大変ですからね。ただし、自分の責任で生活すること」
「は、はい」
「それから、楽しく生きること」
「……たのしく」
「そう。楽しい記憶をたくさん作って、以前のメーシャよりももっともっと素晴らしい世界を見なさい。人と関わって、その記憶を忘れたくないと思える人に、たくさん出会いなさい」
 ラティはそれだけ言い残すと、部屋を出て行った。
 遠くでドアを閉める音がする。きっと、旅立ったのだろう。仕事だと、言っていた。もし自分のせいで仕事に支障が出てしまったら申し訳ないと思う反面、――その年頃には珍しくない“寂しさ”に押しつぶされそうになっていた。
「……だいじょう、ぶ」
 こわくない。口の中で続ける言葉に少しの勇気をもらうが、寂しさが勝る。やはり、空虚な自分には耐えられなかった。歪んでいく視界をぐっとこらえて俯くと、目の前に羽根の生えた小さな少年がふわふわと浮いていた。
「やぁ」
 目を、見開く。
「ふぁ!?」
「……あ、見えた」
「えぇ!?」
「あ、うん。いいのいいの。気づいてもらえただけで、俺ってばうれしいから」
「え、あ、……そう、なの、か?」
「うん、そう。俺、ルノン。ちなみに、この名前は人間と話すときに名乗る名前であって、本当の名前じゃないんだ。そういうルールなんだから、これ以上は聞くなよ」
「……わ、わかった」
「ま、いろいろラティから聞いてるから、仲良くしてくれよな」
「……なか、よく?」
「ともだちだろ」
「と、も、だ、ち?」
「そう。名前を言ったら、人間の世界だとともだちなんだろ? だから、メーシャは今日から俺のともだち! もうひとりじゃないから安心しろ」
 一緒に泣いてくれたラティはいないが、新しいともだちを残してくれた。妖精の住む星降の国には珍しくない、妖精のルノン。彼はメーシャに、ラティの代わりにたくさんのことを教えてくれることになる。しかるべきときがくるまで。
 けれど、今のメーシャにとっては「ひとりじゃない」ことの安心感に、心が歓びで震えていた。
「って、おま! ちょ、苦しいっ!! 苦しいだろっ!」
「だって、俺、ひとりじゃないって、ひ、ひとり、じゃ……っ!!」
「だからって全力で抱きしめて泣くなっ! こら、放せっ」
 じたばたと腕の中で暴れるルノンをそのままに、抱きしめる腕の力だけを緩めた。
「ごめ、……も、ちょ……この、まま、……で」
 涙に濡れた声に事情を察したルノンが、小さく息を吐く。手で頭を撫でることはできないが、涙に濡れる頬をぺちぺちと叩いた。それがルノンなりの優しさだということは、もちろんメーシャにも伝わっている。


 失われた自分。
 大切な出会いと別れ。
 そして、新しい自分。


 絆を失い世界から“独り”になった少年に、未来への絆をつけたラティとの出会いはメーシャにとって大きなものをもたらした。
 そして三年後の十六になった歳、――彼に学園の入学許可書が届く。

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