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 始まる前の日常

 ナリアン、私の愛おしい、息子。


 呼ばれた、気がした。たゆたう意識の狭間で、現実の世界に戻ってきた。甘ったるい夢を見た気がする。優しさと、愛情を注がれたような、温かくて、心地良い夢。カーテンから溢れた陽射しが、頬を焼く。じんわりと熱をあげ、風に揺られた葉によって時折、暗がりが現れる。薄く開けた瞼の向こうでアメジストの瞳は、細く射し込む光の向こうを見た。手を伸ばしても、あの光の向こうには行けそうにもない。眩しい。熱い。逃げ出したくなるほど。それでも、あの中は暖かい。怖いけれど、行きたい。願いを、光を遮るように、伏せた銀の睫毛に陽が当たる。瞼の血潮が光に透けた。
「ナリアン! いつまで寝てるんだい、朝だよ! 寝坊助が食べるパンなんてないよ!」
 階下から聞こえた老婆の声に、布団の中で微睡んでいたナリアンは飛び起きた。布団を蹴散らし、慌てて身支度を整える。柔らかな綿のズボンに、きっちりプレスされた白のワイシャツ。なかなか上手くあてられていると、ナリアンは自負していた。変哲のない焦げ茶色のベルトをしめ、手櫛で髪をすく。腹立たしいほどの癖毛も急いでいるときは、寝癖をごまかせる。恨みと感謝は半分ずつだ。とぐろを巻いた布団を整え、脱ぎ散らかした寝間着を持ち、去り際にカーテンを開ける。ドタドタと足音を立てながら階下に降りていく。廊下の途中に置かれた洗濯籠に寝間着を放り込み、手洗い場の水で、顔を洗う。濡れたままの顔をあげ、水が滴っていくのを鏡越しに見つめる。目に力を入れ、見開く。映った自分の瞳を睨みつける。垂れ目だ。いつもと変わらない自分にため息をつきつつも、壁に掛けられたタオルで顔を拭う。目は覚めた。
「ばっちゃん、おはよう」
「ああ、おはよう、ナリアン」
 ダイニングキッチンに入ったナリアンに、老婆は笑顔で迎え入れた。オーク材の机に並べられた朝食は二人分。いつもと変わらない食卓。棚からコーヒー豆を取り出し、挽く。香ばしい香りを胸一杯に吸い込み、ナリアンは息をついた。汽笛をあげるやかんを火からおろし、挽いた豆をセットしたカップに注ぎ入れる。苦い香りは、最近になってようやく旨いと思うようになった。
 コーヒーを注いだカップを二つ机に並べ、席につく。間をおかず、ナリアンの向かいにばっちゃんも座った。感謝を、と小さく呟かれたばっちゃんの声に応えるよう、手を合わせる。
「いただきます」
「たんと、おあがり」
 食器が擦れる音。焼きたてのパンが千切れる音。新鮮な野菜を咀嚼する音。二人の食べる音だけが響く。パンは、ばっちゃんのお手製。温かなパンはバターの香りが際立つ。ただのバターロールだけれど、身贔屓を除いてもこれほどうまいものは、食べたことがない。近所のパン屋よりおいしい。五つのバターロールと、ふわふわのスクランブルエッグ、カリカリに焼いたベーコン、生野菜を切っただけのサラダ。かけられたドレッシングはナリアンが作ったもの。それから、コンソメスープ。具材は、たっぷりの野菜。添えられたフルーツ。スープは三杯おかわりをした。朝からお腹一杯で幸せである。酸味のきいたコーヒーは充足感を与えてくれる。
「今日は教会に行くんだろう?」
『うん、午後から。洗い物と洗濯はするよ』
 問いかけに音は、返ってこない。返ってくるのは意思、だけ。それを疑問に思うこともなく、ばっちゃんは慣れたようにナリアンに返事をする。傍から見れば、ばっちゃんが独り言を言っているように見える。
「布団も干してお行き」
 いい天気だから、と続けられた言葉に頷く。日溜まりにいた布団はこの上なく気持ちいい。一にも二もなく賛成である。膨れたお腹を撫でながら、窓の向こうを見た。陽のもとは明るくて、暖かい。
 食器を洗い、自室への階段を駆け上がる。窓を開け放ち、眩しさに目を細める。いい天気だ。整えたばかりの布団を引っ剥がし、ついでにシーツも変えるべく丸裸にしてやる。えっちらおっちら布団を抱えて降りた。持って降りるのが面倒で、階段の上から放って落としたら、ばっちゃんに拳骨を落とされたことがある。行儀が悪い、布団が傷むだろう、物を大事に扱いなさい、人に当たったらどうするんだい。どれも納得出来た。それ以来、布団は抱えて降りている。何よりも、拳骨が痛かった、なんて。
 庭に干した布団。ばっちゃんのはもう干されていた。
『言ってくれたら、干したのに』
 頼って欲しかったな、と心に過ぎった。ふわりと風が巻き起こり、頬を軽く撫でていく。木々や草花はざわめかないのに、自分だけ風に撫でられているのはよくあること。目を細めれば、跳ね回った髪の毛をかき混ぜるように揺らしていった。
 家に入り、廊下に置かれた洗濯籠を持ち、ばっちゃんに声をかけ、近くの川に向かった。人のあまり来ない場所を選び一つ一つ洗っていく。洗っては絞り、洗濯籠のふちにかける。そよそよと緩く風が吹き始める。ナリアンが洗濯をしている間、洗われたものを弄ぶようにいくつも吹いていた。少しだけ唇を緩ませれば、ナリアンの周りをくるくると回る。癖毛がゆれ、目の乾きを訴え瞬きの数が多くなる。全部、洗い終えた頃には、ナリアンのかろうじて整えられていた髪の毛はぼさぼさになっていた。癖毛だとは言うが、まかり通らないまでになっていた。そのことにむくれるでもなく、洗濯籠を抱え帰路につく。洗濯物を干し終わった頃に、ばっちゃんがナリアンを呼んだ。
 ばっちゃんと並んで昼食をとり、食器を洗う。ベーコンにタマネギ、玉子がのったピザだった。ばっちゃん特製のブレンドティーを飲めば、そろそろ出かける時間である。壁に掛けられた時計は、十三時を指そうとしていた。
『夕方には、戻ってくるから』
「帰りに、ジャムを買ってきてくれないかい」
『マーマレード?』
「好きなのでいいよ」
『わかった』
「いってらっしゃい」
 閉まる扉に手を振り、肩掛け鞄を抱え直す。肩掛け鞄の中には本が四冊。正しくは、装丁された本が二冊で、もう二冊は紙を束ねただけの本。一つは教典、もう一つは所謂、ラブ・ストーリーと呼ばれる本。子供向けで、よくある男女の出会いから惹かれ合い、恋に落ちるまでの淡い恋を描いたものだった。原本と、それを写したもの、と言った方がわかりやすいだろうか。
 ナリアンが生業としているのは、本を書き写すことだった。本はとても高価である。子供向けの薄いページ数の少ない本でも、一般の家庭では何年かに一冊買うのがやっとなほど。それもそのためだけに貯蓄をしなければならないほどだった。
 営利を目的としない、学校および国から認可の降りた機関に対してのみ本を写経することを許されていた。本を書き写すには、国への登録が義務づけられている。写経された本の最後に、書き写した本人の署名を入れること。それが登録されているもの違えば、国が動いた。どんなに似た字を書いたとしても、どんなに真似たとしても、それが本人のでなければわかるという。字の残された気配をたどる、と魔術師は言っていた。この取り決めは、安易に廉価版が流出しないことを防ぐためである。技術は守られねばならない。育てねばならない。各国同じように制定されている。
 ナリアンは国に登録を出した正式な、写経者であった。誤字脱字もなく、また整った字で読みやすいと評価されていた。本人はまったく知らないのだが。
 月に二回、多いときは三回。本の厚さ、文字の多さにもよるが大体二冊ずつ、ナリアンは納品している。教会に納めた本は、学校や、教会の隣に立てられた図書館に貸し出された。原本は国に返却され、違う町に届けられる。立派な表紙もなく、ただ紙が束になっただけの本は大切に扱われ、人がめくった分だけよれよれになった。人気のある本を、ナリアンは何度も書き直した。新しい紙に、何度も。一小節をそらんずることもやってのけた。ナリアンの父が、ナリアンに歌い聞かせた物語も、ナリアン自身が読んだ物語も、同じようにナリアンの心に生き続けた。よれよれになった自分が写した本を手に取るのはナリアンの喜びの一つであった。
 一冊だけ、ナリアンは書き写すのではなく、自分でストーリーを考え、本を作ったことがある。見よう見まねで、うまくまとまった自信もない。おもしろい、とも思っていない。仕事の合間をぬって、夢中で書いた一冊があった。それは、いつものように紙が束ねられ、紐でくくられただけの質素な本ではなく、表紙のついた本だった。中身は、ナリアンの手書きだったが、作者名は、ナリアンの名前ではなくペンネームを使った。それから、コピーを表すための署名を書いた。完全に偽装であったが、それを知っているのは神父だけでる。他の町にも、学校にも貸し出されることはなく、あるのはナリアンの住む町にある図書館のみ。もちろん、正式なコピーはされていない。
 本の評判は聞いていない。誰も読んだことがないと言われるのが怖かったし、例え読んだ人がいてその批評を聞くのはつらかった。一人だけでもおもしろかったと言ってくれるなら、救われる。誰もおもしろいといってくれなかったときのことを考えると、耳を塞ぐのはナリアンにとって当たり前だった。ナリアンは小説家になりたいわけではない。その本がおもしろかろうが、おもしろくなかろうがどちらでもいいのだ。ただ、その物語を書きたかっただけなのだから。
 本当は、人と関わり合いたい。日溜まりの中で、手ずから焼いたクッキーを食べ、ばっちゃん特製のブレンドティーを飲み過ごしたいのだ、誰かと。会話がなくてもいい、ただゆったりとした時間を笑い合い、分かち合いたいだけなのだ。当たり前のような儚い我が侭な願いをナリアンは当の昔に諦めていた。強い憧れとしてずっと胸に秘めて生きてきた。人に話しかけるのは怖い。言葉に出せば、往々にしてその通りとなった。リンゴが欲しいと言えば、風が巻き起こり周りにリンゴが落ちてきた。木からも露天からも、どこからと知れぬところからも。意地悪をした子に、あっちに行け、と言い放てば、おそろしいほどの突風が吹いた。風にあおられ人が飛ぶところなど初めて見た。最初は、風がナリアンを追いかけるだけだったのだ。頬を撫でるようになり、飛ばされた紙を手元に届けてくれるようになり、人を傷つけるまでになった。風が自分の願いを叶えていることに気づいたときは、絶望した。同時に、怖くなった。言葉は意思である。外に放たれたそれはもう戻っては来ない。こんな力があるから、父と母はナリアンを置いていったのだ。ばっちゃんの腰に抱きついてわんわん泣いた。こんな力要らないと、何度も泣いた。そのたびにばっちゃんは背中を撫でてくれた。こんな力があるから。その度に、男がそう簡単に泣くもんじゃないよ、いい男におなり、とばっちゃんはナリアンに言った。
 言葉を発しなくなったナリアンに、ある時、ばっちゃんがナリアンの考えていること、わかると言ってくれたのがきっかけだった。人と目を合わせれば、不思議と考えていることが伝わった。もちろん制約はあるのだが、言葉にしない分、風が吹くことはなかった。それでも、その力は人に気味悪がられた。やはり、人と関わらないよう、ナリアンは細々と学校生活を送り、人と関わらなくても食べていけるよう道をつくってきた。
 狭い世界は、異端につらく当たる。喋らないだけで、人は敬遠する。何を考えているのかわからないから気味が悪いと。身振り手振り、それから表情。手話、と呼ばれる手法も覚えた。筆談ももちろん。意思は伝わるけれど、それでは不十分だと訴えられた。耐えることは出来なかった。なるべく、人と関わらないように生きてきた。それでも十分、生きていけたから。ばっちゃんがいてくれた、から。


「・・・・・・こんにちは」
 軋む教会の扉を開け、高い天井に溶けてしまいそうなほど小さな声で、ナリアンは呟く。それでも、奥の小部屋にいた神父に声は届いていた。少しの間を置いて、開いた扉から顔を覗かせた神父に、小さくお辞儀をすれば、微笑まれる。
「ああ、ナリアン。いらっしゃい」
 こっちにおいで、と招く手に近寄っていく。神父の前に立てば、長椅子を示される。面を上げれば、光を受ける聖母の像が立っていた。熱心な教徒ではないけれど、目の前にきた像に黙礼をした。神父にならないか、と言われたこともあったけれど、どうあがいても主を愛すことは出来ない気がしたので、丁重にお断りをした。鞄から、成果である本を取り出し、神父に手渡す。神父は、四冊の本をざっと確認した。
「ありがとう」
 不備は特に見あたらないよ、と続ける神父にとんでもないと、首を振り、大きな体を縮める。今回の分、と手渡された給料を受け取ったナリアン。中身を確認し大事に、鞄にしまう。
『ありがとうございます』
「今度はこれを頼めるかい?」
 神父の脇に置かれていた古めかしい本。傷つけないようそっと受け取り、分厚い表紙を開く。使い込まれた皮の手触りを楽しむ。紙も色あせてしまってはいるが、上等なものだとわかる。大きめな文字で書かれた童話が二冊。二週間もかからないだろう。神父の目を見て、次の約束をする。
『一週間ほどお時間をいただいてもいいですか?』
「構わないよ。早めに出来そうなら連絡をくれるかい?」
 こくりと頷き、立ち上がる。扉の外まで見送られて帰路に着く。どんな話しだろう、楽しみで心がはずむ。人と関わることを極端に避けたナリアンが行き着いた先は本だった。協会に隣接された図書館に入り浸り、何冊も何度も読んだ。本はナリアンが喋らなくても嫌わない。本の中の主人公は、ナリアンに優しく語りかけた。甘酸っぱい気持ちも、ドキドキもワクワクも、喜びも悲しい、も教えてくれた。本を開けば現実から一時でも逃げられた。憩いの場だった。勉強も没頭した。わからなくても、誰にも聞けないから。答えの見つからない問いかけを何時間も、何日も探した。それは、ナリアンにとって楽しいことだった。
 新しい本を読むのが楽しみで、自然と足取りも軽くなる。隣を走る風もナリアンの機嫌がいいのがわかるのか、嬉しそうに縦横無尽に走り抜けていく。途中、ばっちゃんにお願いされたジャムを一つ買うのを忘れずに、ナリアンは暖かな家に帰っていった。

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