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 咲いた花はいつまでも

 どっと疲れる、というのはきっとああいうことを言うのだ。用意されていた部屋のベッドに倒れ込み、先ほどの寮長を思い出す。不躾に頭を撫でてきては、駄々をこねるなと言う。意味が、わからない。先ほど風が彼の足元を掬おうとしたのだって、制止の声がでなかった。あまりにも、あまりにも。戸惑っていた。副寮長に部屋へ案内され、おやすみ、と微笑まれても、唇をへの字にすることしか出来なかった。素直に、おやすみなさい、なんて、言えなかった。
 陽の匂いの残る枕に顔をうずめて、息を吐き出す。心細いなんて思う暇もなく、怒涛の一日だったように思う。一日を反芻しては、寮長にイラッとし、初めて会った三人を思い起こす。
「気持ち悪い、って言われなかった」
 声ではなく、意思で話す自分に。心を先に読んだ、自分に。彼らは、驚きながらも、普通に接してくれた。初めての、こと。胸の奥が熱くなる。
 入学式。順番に名前を呼ばれて、祝福を受ける。あの廟は、書物の中の出来事で、おとぎ話のつもりだった。泣きたくなるほどの優しさを感じた。
 恨んでなどいない。恨むとすれば止めることの出来なかった自分自身。幸せであったかと問うな、幸せであったさ、誰かの命となれたのだから。そう、感じた。
 ツンと鼻の奥が熱くなり、ぎゅうっと枕を引き寄せた。仰向けになり、息苦しさに枕をどける。机には、背負ってきた肩掛け鞄が置かれていた。ベッドに投げ出した体は、疲労を訴えていたけれど、持ってきたばっちゃんの日記に触りたかった。鞄を机から下ろし、ペンと淡い緑のインクと、日記帳を取り出した。ほのかに香るのは、ばっちゃんが好んだポプリの香り。ページを捲るたび、日付と天気と出来事の走り書き。止まった日付は、ベッドから起き上がれなくなったあの日。唇を噛み締めて、左上だけを埋めて残っている右下の空白にペンを走らす。若葉よりももっと薄い、オリーヴィアの瞳の色。


 オリーヴィア 旅に出る


 零れた涙が紙に触れないよう慌てて避けた。泣いてはいけないと、あれほど誓ったのに。ああ違う、これは涙なんかじゃない。汗、あせだから。
「泣いてない」
 ぎゅうっと目をつむって、袖で拭った。汗を。もう一度、今度は新しいページを開いて、ゆっくりと文字を連ねた。


 風の、黒魔術師、となる。
 ロゼアくん、メーシャくん、ソキちゃん。


 他に何を書けばいいのかわからなくて、日記帳を閉じた。鞄の中に、ペンとインクと一緒にしまい、バルコニーに繋がる窓を開けた。まだ冷たい夜風が頬を撫で、髪の毛をかき回していく。目を細めて、甘んじて受け入れる。こんな風に髪の毛を弄ばれるのはいつの頃からだったっけ。風に弄ばれながらも、チラチラと脳裏に過るのは寮長。盛大に息を吐き出し、脳からその影を追い出す。
「ニーア」
 夜風に乗せるように名前を呼ぶ。


 思い起こすのは、別れのこと。学園の門の前で、ワンピースの裾を握りしめて、唇を噛み締めていた彼女。潤んだ瞳を何度も向けて、何度も下を向く。時間はまだまだあるけれど。別れを切り出したのは、ニーアの方。左肩に飛んできて、きゅっと服を握って、顔を押し付ける。震える羽根に触れないように、そっと背中を撫でてやる。小さくてそのまま抱き潰してしまいそうになる。
『ナリちゃん』
 あのね、ナリちゃん。ナリちゃん、あのね。ナリちゃん。あのね、の先を彼女はずっと言い渋っていた。縋りつく彼女の足元を支えてやって、頭と背中を撫でる。
『……人の心に』
「うん?」
 ロードナイトの瞳をアメジストの瞳に絡ませて、一生懸命、あなたに伝わりますようにと願いを込めてニーアは呟く。
『人の心に、花が咲くというのなら、あなたにもう一度、花を咲かせてみせる』
「ニーア……?」
 何でもないの。そう首を振って、パタリと羽根をはばたかせて、ナリアンの肩の上に妖精は座る。ナリアンの世界を同じように妖精は見つめた。この世界を彼は歩むのだ。迷えども、前を向いて。揺らぐ世界を振り払って、ナリアンの肩から飛び立つ。パタパタと、ナリアンの目線に浮かんで、精一杯の笑顔を。
『ナリちゃん! 私が、ついていけるのはここまで。私ね、案内妖精初めてだったの! きっとね、ダメなところたくさんあったと思うんだけど、私ね、最初の案内が、ナリちゃんでよかったと思ってるの。今からね、また住んでるところに戻って、ずっといなかったから片付けもして、それでね、また、次、呼ばれるのを待つの』
 笑っているのに、喉の奥が苦しくて、永遠の別れじゃないのにそんな気がして。あなたの顔を見たいのに。記憶に焼き付けたいのに。声が出なくなって、息が詰まる。浅く呼吸を繰り返して、言葉を、言葉を掴む。
『ね、ナリ』
「ニーア」
 強い言葉に阻まれて、右手を差し出される。体が震える。
「おいで」
 うんと優しく、微笑んで、あなたの唇に触れたくて。堪え切れなくて、飛びついて、わんわん泣いた。優しく触れる手が、苦しくて、離れがたくて、ずっと一緒にいたいって。
『ナリちゃん、ナリちゃん、お願いがあるの』


「ニーア、魔術師に、なったよ」
 別れの際に、彼女の額に唇で触れて、さようならを。会いに行く、約束したのにどこかそれは遠くて。会いに来て、と言われたはずなのに、迎えに来てとだぶったのはなぜだろう。


 風が吹いていく。森を駆け抜けて、灯りを揺らしてどこまでも。胸に咲いた花は、思いに揺られる。

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