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 君の花

 時が過ぎるのは早い。ついこの間、ナリアンと一緒に学園に辿り着いたばかりのはずだ。それなのに、もう三ヶ月が過ぎようとしている。夏至の日。君に会いに行く、との言葉通り、週末になるとナリアンは妖精の丘へと出向く。毎週ではなかったけれど、またね、と微笑んでニーアに触れる。その指先に触れられることが、どれほど幸せなことか、彼は、多分、知らない。そんな彼のために、ニーアは服を贈る。このときのための服。一枚のカードを添えて、愛おしいあなたへ。そのカードには、思いが溢れすぎて、なにも、なんにも書いてもらえなかったのだけれど。忙しい花舞の女王陛下の手元で膝を抱えて、はらはらと涙を零しながら、思いだけが溢れていく。あれも、これもと、泡のように生まれては消えていく言葉。どれもこれもが、相応しくて、必要のない言葉。忙しいのに、何時間も付き合ってくれた花舞の女王陛下。最後には、優しく微笑んで、頭を撫でてくれた。
「君の思いは、きっと伝わるさ」
 真っ白なカード。ナリアンの瞳の色のインクまで用意してもらったのに。そっと、唇を押し当てて、思いを込める。あなたの、笑顔が何よりの幸せ。


 思い描いた通りの彼だった。連れ立って歩いてきた四人を見つけ、一人を見つめる。やっぱり、よく似合う。
「きゃああ! ナリちゃん、とっても、とっても、よく似合います! 格好いいです、やっぱりこっちの色にしてよかった!」
 ロゼアが太陽なら、ナリアンは夜だった。似たような服の形ではあるが、趣が少しずつ異なる。黒の布地に宝石をふんだんに縫い付けたナリアンの服。彼の服は、陽の下よりも、薄暗く、ロウソクの火でぼんやりと明るい空間に映えた。闇と、少し切り離された黒の服。長い布も、黒の、柔らかな素材。端にだけ刺繍が施されていた。光沢のある糸のおかげで、光を反射し、波打つ布が輝く。痩身ではあるが、格式張った服がそれを感じさせない。近寄りがたい雰囲気は、長い布が柔らかな印象を与えていた。風に布がなびく。まるで、陽を当てるように。袖や裾に施された刺繍が、ナリアンを華やかに魅せた。
「格好いいです、ナリちゃん」
『ありがとう、ニーア』
「うんうん。ナリちゃん、本当に素敵」
『ニーアも、その』
 ナリアンの言葉を遮るように、扉が開かれる。ざわり、と喧騒が押し寄せる。たくさんの、ひと。学生や、教師、手の空いた王宮魔術師、なないろ小路に店を構える魔術師もいる。それから。
『白は清廉。砂は叡智。楽は芳醇。花は潤滑。そして星はあまねく道標。空白を漂う五の国に、幸いなる五の王に』
 手を引かれ、歩き出した先には五人の王。後ろに、ロリエスが控えているのをみれば、国王陛下が国の並びで並んでいることがわかった。どの国の王も、淡く光っているように見えた。星降の陛下にはキラキラと輝く星が見え、花舞の陛下には花の香りが漂っているように感じられ、楽音の陛下には祝福の歌が鳴っているように聞こえ、砂漠の陛下には磨き上げられた水の香りがしているような、白雪の陛下には雪の結晶が見えた気がした。それぞれの王宮魔術師たちの愛であったのか、国民の愛であったのかはわからない。
 順番に、新入生それぞれの案内妖精が前に進み出て、自慢のたまごを紹介する。妖精の紹介の後、簡単に一言を述べる同期に、ナリアンは胸がざわつく。お願いします、と一言、言えばいいのだ。楽しそうに手を振る星降の陛下を見て、落ち着こうとするが、鼓動は速くなるばかり。ああ、もう。そうしているうちに、順番は訪れる。
「ご挨拶を申し上げます! 花舞う国より、風の黒魔術師、名をナリアン! 歳は十八。花舞の国より、学園の入り口まで、私と一緒に来ました」
 天井まで高い空間に、その声が響き渡る。ふわり、ふわりと濃いピンクの裾が舞う。砂漠の国の衣装、だそうだ。たっぷりと布を使った衣装。重そうに見えるのに、軽い。薄い布を幾重にも重ね、重さを出しているのだ。五カ国の王の前によどみなく進み出て、彼女は歌う。ナリアンへ振り向き、手を差し伸べる。その手に、声に導かれるように、一歩、足を踏み出す。
『ナリアン、です。よろしくお願いします』
 花舞の女王陛下としか、目線を合わせられなかった。正確には、その後ろに控えていたロリエスとしか。私以外を見なさい、というロリエスの視線が居たたまれなかった。
 挨拶が終わり、会場の準備が始まる。ニーアに手を引かれ、壁際に寄る。ヒラヒラと裾が揺れる動きは、蝶を思わせた。紅色のドレス。裾は黄色の糸で刺繍がされ、花を模したような色合いである。
「ロゼアくんも、メーシャくんも格好いいですけど、やっぱりナリちゃんが一番、格好いいです!」
 きゃっ、と両手を頬にあて、嬉しそうに笑うニーア。何度も、ナリアンを見ては、うふふ、と幸せそうに頬を染める。
「ナリちゃんは、やっぱり黒も似合います! 白とかベージュとか、優しい色のナリちゃんも素敵ですけど、ちょっぴり辛めも素敵です。ずっと昔から思っていたんです」
『ニーア』
 君が嬉しそうだとこちらまで嬉しくなる。何かに引っかかりを覚えたナリアンだが、ナリアンを見上げて笑うニーアに考えることを放棄した。
「ナリアン」
 凛とした声に面を上げる。聞き慣れた声。誰何をしなくても、誰だかわかる声。
『先生』
「ロリエスちゃん」
 きゃっきゃ、と手を振るニーアの足元が揺らぐのを見て、ナリアンはそっとニーアを支えた。履きなれない靴は、容易く足元をすくう。ニーアがきちんと立ったことを確認し、改めてロリエスへと向き直る。茶色とピンクの、普段の彼女からは想像出来ないほど乙女な色合い。波打つ裾が、いつものキリリとした印象をまったく感じさせない。恥ずかしそうに微笑むでもなく、いつものように眼鏡をかけ、髪をまとめあげた姿は、パーティに出席するのは仕事だ、と最後の一線を引いているようにも見える。ロリエスの後ろには、花舞の女王陛下と見慣れぬ男性が立っていた。
「ナリアン、こちらが女王陛下だ。失礼のないようにな」
 そんなことをしてみろ、必ず後悔させてやる、とロリエスの瞳が何よりも雄弁に語る。真剣に頷くナリアンに、ロリエスも鷹揚に頷き返す。物分かりが良くて、礼儀正しいやつは私も好きだ。
『初めまして、ナリアン、です』
「ロリエスから聞いているよ。待っているからね」
 にっこり、と含みのある笑みを女王陛下から向けられ、ナリアンは戸惑った。ロリエスに、すがるように視線を向けても、苦笑を浮かべられるだけだった。
「陛下。気が早いです。それに芽が出るとも限りません」
「おや。ロリエスの教え子だよ、タルサ。芽が出ないわけが、ないだろう?」
 無理矢理にでも育ててもらわねば、と言外に含められているように聞こえる。冷や汗が背中を伝う。タルサと呼ばれた男は、おもしろくなさそうにナリアンを見やった。どこか子供っぽいが、ナリアンよりも歳上であることは間違いない。ロリエスよりは、どうだろう、といった感じである。
「タルサ、真っ向から値踏みするんじゃない。ナリアン、空間魔術師のタルサだ」
 拗ねさせるなよ、面倒だから。小声で耳打ちをされた内容は、ロリエスとタルサを二度見するには十分だった。ロリエスの苦虫を噛み潰したような顔にやってしまった、と思うのだけれど、タルサから視線が離せない。ラベンダー色の髪、前髪が少し目にかかりそうな、ふわっふわの髪型。悪気のないものなら、キノコみたいと言いそうな髪型だった。身長は百六十センチあるかないか。男性にしてはずいぶん小柄な印象を受けるが、女性とは絶対に間違えない。がっしりとした肩は、絶対に女性のものではない。固まったままのナリアンに、タルサの笑みがどんどん深くなっていく。
「新人。言いたいことがあるなら」
「タルサ」
 やめないか、とロリエスの制止を聞き、タルサはまじまじとロリエスを見つめる。
「……なんだ」
「別に」
 興味を失ったように、タルサはロリエスからもナリアンからも視線を外す。
「うちの魔術師たちは仲が良いだろう?」
自慢なんだ、とにこにこしている女王陛下にナリアンは、薄く笑うしか出来なかった。一触即発の雰囲気だったように思うのだが、ナリアンは卒業後の就職先として、花舞の王宮魔術師にあたらないことを祈るべきか真剣に悩んだ。
「あ」
 いかんともしがたい空気が流れている中に一石を投じたのは、やはりタルサだった。会場に向けていたラピスラズリのような瞳をナリアンに向ける。射抜かれたナリアンはドキリ、と心臓が跳ねた。女王陛下とロリエスは、訝しみながら二人をみやり、ニーアはナリアンの服の裾を握った。すいっと、ナリアンの目の前まで肉薄したタルサ。じっと見つめてくるラピスラズリは湖の、光の通らない水底を思わせた。
「お前、体、なんともないの?」
「えっ」
 思わぬところから、思いもよらぬ言葉が出て、思わず声が溢れる。
『なんの』
「お前だよな? うん、お前だわ。俺の石をざわめかしたの、お前だろう? 国中に魔力を放ちやがって。二週間、ベッドの上で生活させられたんだけど、お前は? 平気なの? は?」
 じろじろとナリアンの体を見るタルサに、ナリアンは何と言っていいのかわからなかった。石ってなんだ、ざわめかしたって、魔力を放ったってなんだ。寝込むって、なんだ。
『何を』
「何って、国中に魔力を薄っすらだけど満たしつつ、魔術師の何人かを魔力酔いで昏倒させたり、ロリエスの体調をすこぶる良くしてみたり、花舞の防御布陣を破壊しようとしたり、国中の花を咲かせてたお前の話だけど?」
「タルサ」
「何、ロリエス」
「ナリアン、その話は追々してやる。今は気にするな」
「ロリエス」
「陛下、少し休みましょう」
 タルサに有無を言わせず、ロリエスはナリアンに、ダンスは踊れよ、と言い、女王陛下をエスコートし、あっという間にその場を立ち去った。ナリアンはその場に残され、混乱したまま立ち尽くす。ニーアはそんなナリアンに声をかけられず、ただ隣にいるので精一杯だった。ぎゅっと、ナリアンの服を掴む。どう声をかければいいのか、わからなかった。ニーアはそんなことが起こっていることを知らなかった。初めて聞いた、そんなこと。ニーアが花舞の王宮を訪れたときにはいつもの花舞だった。みんな元気だった、とっても。ざわめきが遠い。たくさんの生徒や、魔術師がいるはずなのに、ここには、ナリアンとニーアの二人だけのような気がする。どうしたら、よいのだろう、どうしたら。
「ナリちゃん」
 すがるように漏れ出た声。あなたの名前を呼ぶことしか、私には出来ない。胸が締め付けられる。ナリちゃん。
「ニーア」
「……ナリちゃん?」
「俺は」
 おれはなにをしたんだ。吐出される言葉に力はない。代わりに、拳が握られる。腕に触れた箇所から、筋肉の動きが伝わる。痛いほどに、痛いほどに握りしめられた拳は、手のひらに爪が食い込んでいた。短く、深爪だと注意したくなるほど整えられている爪が、皮膚を食い破らんばかりに、食いついていた。その手に触れ、ニーアの手が包み込む。ナリアンの手は大きい。体が大きくなったのに、ちっとも包み込めやしない。力の入った指に触れ、ほぐすように撫でる。
「私は、ずっとナリちゃんの側にいるわ。何度でもいつまでも、待つわ」
「……ニーア?」
「誰が、ナリちゃんを、ナリちゃんを否定したとしても、私はナリちゃんを信じるわ。ずっとあなただけを思って、思い続けて、きたもの」
 ナリアンの手を包み込み、握りしめるニーアにナリアンの意識がそれる。
「ニーア」
「ずっと、ずっとナリちゃんのこと、思っていたもの。私が、わたしがいるわ」
 すがりついて泣くニーアを、抱きとめナリアンはニーアの言葉を反芻する。ずっと、ってどれくらいだ?白も素敵、そりゃあ私服は白が多いけれど、そんなニュアンスじゃなかった。
「ずっとって……」
「ずっとです、ずっと、十三年前から、あっ」
「十三年前……?」
 風がニーアの頬を撫でる。話しなさいとも、黙りなさいとも、とれるそんな触れ方。口を両手で覆い、少しだけ青ざめたニーアに、ナリアンの瞳が揺らぐ。
「ニーア?」
「なんでも! なんでもない、んですよ」
 まっすぐ、嘘は嫌いだ、とアメジストが見つめる。ニーアの手が震える。まつげが揺れる。そっと、視線が下げられる。
「ナリちゃん」
 そんな目で見ないで。うるり、と瞳に涙を溜めたニーア。硬いナリアンの声がニーアに降り注ぐ。
「十三年前」
「ナリちゃん!」
「十三年前、俺は」
「違うの、ナリちゃん、違うの!」
「俺は、俺は」


『人は忘れる生き物だ、ナリアン』


 ロリエスの言葉が蘇る。最近の授業で、彼女に聞いたのだ。記憶は忘れられてしまう。ただ、それは消えない。厳重に封印されるか、その上に思い出が、記憶が積み重なるのだ。人の脳は、己の心を守るために、記憶を封じてしまう。それが忘れる、ということだナリアン。たくさんの書類に紛れ込んだ、紙切れが見つからない、そういった状態。しかし、消えてはいない。ふとした瞬間、それに類似した出来事、きっかけとなる言葉、情景、匂い。なんだっていい。きっかけは人それぞれであり、様々だ。
『思い出すには、どうしたら』
「イベントをたどる。例えば、一週間前、お前は何をしていた?」
『えっと、授業を』
「そうだな、午前中に座学、午後は私の授業だった」
『ええ』
「私の授業を子細に話してみろ」
『えっ』
「始まりは? お前が来た時、私はどこにいた?」
『あの時は、あのときは、確か、廊下で先生に会って、そのままここへ来ました』
「そうだな、続けて」
『えっと、いつものように先生のプリントを解いて、そのプリントは確か、火をおこす方法で、それから先生と話をしました』
「なんだったかな」
『この世界の、出来方について』
「そうだったな、大戦の話からだったかな」
『そう……いいえ、大戦の話はしていないです。魔法使いが、どうやって世界を叩き割ったか。どうして、五カ国だけが生き残ったのか。答えのない議論でした』
「ほう」
『それから、プリントを見てもらって、その日の授業は終わったはず、です』
「その日の印象的な出来事は?」
『え、えっと……』
「まぁ、今の話になるだろうな」
『すみません』
「だが、今のように掘り起こせば、お前はたどることが出来る」
『……人の記憶は永遠ですか』
「……さあな。人に、よるんじゃないか」
『記憶を、忘れさせることは可能ですか。絶対に、思い出さないようにするには』
「言葉魔術師、予知魔術師であれば」
『魔術師以外の人は』
「……催眠術のことか?」
『……思い出せますか』
「……きっかけさえあれば、おそらくは」
『ありがとう、ございます』


 記憶を辿る。十三年前、印象的なこと。五歳の時だ。ばっちゃんと、暮らし始めた、確か、そのぐらいに。花舞の我が家。花に埋もれている、臙脂の家。目が覚めたら、見知らぬ天井。その前は? 旅の楽団に、いた。両親と、ばっちゃんも。父と母の顔はうまく思い出せない。大きな、褐色の手。細い、白い手。ナリアン。柔らかく呼ばれる。ナリアン。


『楽しかった気持ちだけ持って、忘れなさい』


 何を? 何を俺は忘れたんだ? 忘れないといけなかったんだ? 何を?


『楽しかった気持ちだけ』


 楽しかったこと。その日あったこと、俺は両親に言ったはずだ。何を。


「ナリちゃん……」
 現実に引き戻される。ニーアのピンクの瞳と視線が合う。ピンクの、ぴんくの、ちいさな。
「あっ……」


『またあそぼう――』
『あいにくるよ、だからまっていて――』
『うん、やくそく。わすれないよ――』


「う、あっ……」
「ナリちゃん……!?」
「ニ、ア、ニーア」
 違う、それは彼女の"名"ではない。それは、俺が、おれがつけた。


『私の名前は――』
『呼びにくかったら、好きに呼んでね』
『ニーア? ニーア? 私の名前? かわいい!』
『ニーア、ニーア。うふふ、ありがとう、とっても嬉しいわ』


 記憶が洪水のように雪崩れ込んでくる。それは、大切に仕舞われた宝物。解ける。絡まってしまった毛糸の塊を少しずつ、解くように、言葉が、景色が、よみがえる。ふらり、と体が後ろに倒れる。最後に踏み出した足で、体を支える。潤んだニーアの瞳が何か言いたそうに、言葉を探している。俺は彼女に何を言った。


『ぜったい、また、あそぼうね。やくそく』


 パシン、と何かが砕ける音がした。その音に、急き立てられるように、その場から、ナリアンは逃げ出した。



 苦しい。それはそうだ、走っているのだから。久しぶりに激しく体を動かしている気がする。オリーヴィアがいなくなってから、満足に体が動かせなくなった。落ちる握力、立ち上がるのに踏ん張りがきかない。何かに手をつかなければ、立ち上がれないなど考えたこともなかった。震える足のせいで、満足に立つことも出来なくなった。学園に入学して、少しばかり体調はよくなったような、いやそれは白魔法使いのおかげだ。定期的にやってきては、体調を診せろ、と部屋に引っ張り込まれる。寮長が額や肩に触れたときも、少しは楽になった。癪だけど。でも走るなんてことは、とてもじゃないが出来なかったはずだ。それなのに。体を風が押す。ちっとも速くないけれど、確かに走っていた。会場を飛び出して、闇雲に走った。目的地などない。そうだ、あそこがいい。大きな木の下の、学園の端。風の吹き溜まり。そこには、音もにおいも、すべて運ばれてくる。風が消えゆく場所。そこに行きたい。何も考えず、ただ風が通りすぎていく中に身を置きたかった。一人に、なりたかった。真っ暗でよく見えないけれど、こちらよ、と導かれるまま、ナリアンは歩を進める。その足は一度も迷うことがない。
 のどが痛い。わき腹も、足も。痛くて、苦しい。走るのをやめてしまいたい。やめたら、きっともう動けない。風が強く吹いた。ナリアンを追い立てるように、その身を乗せて運ぶように。ぶわり、と、風の塊が意志を乗せる。目をつむった。ぴたり、と風がやむ。恐る恐る、瞳を開ければ来たかった風の吹き溜まり。元いた、あの場所に戻れ、と言われても戻れる自信はない。するすると、木の葉が集まっていく。まるで、そこに座れと言わんばかりに。引き寄せられるまま、ふらつく足で近寄る。ドサリ、と体を投げ出すように、座った。心臓が痛い、肺も喉も、頭も。どこもかしこも痛い。胎児のように、体を丸め膝に顔を押しつける。忘れていた大切な約束。どうして忘れたのか、思い出せない。ところどころ忘れてしまっている記憶。
『無理に思い出さなくてもいいこともあるんだよ』
 ロリエスの言葉が、リフレインする。違う、思い出さなければならないのだ。己を甘やかしそうになる心を叱咤して、これは絶対なんだ、と言い聞かせる。絶対に思い出さなければならない。忘れていていいことではない。オリーヴィアが死んだ頃と、花舞に住み始めるまでの大切なこと。
「思い出せ、俺は知っているはずなんだ」
 ニーアのこと。名前を聞いたはずなんだ。確かに、俺は知っているはずなんだ。今まで書いてきた本を思い起こす。知っているはずなんだ。
「思い出さないと」
 約束を、したんだ。会いに行くと、十三年前に。また遊ぼう、とあの時。ニーアと、約束をしたんだ。思い出せ。あのときの彼女は、確かに、名乗った。文字の記憶は画像の記憶より、思い出しにくい。人の顔はわかるのに、名前が出てこないのはそういうことだ。ロリエスの声。わかったから邪魔をしないでくれ。俺は、おれは。


『花が好きなの?』
『すき!』
『どんな花が好き?』
『どんなはなでも、すき。ニーアちゃんは?』
『私は、黄色の花が好きなの』
『きいろ?』
『太陽みたいだし、幸福のいろ、のように思うわ』
『こうふく?』
『しあわせ』
『しあわせ!』


 黄色の花。きいろの、はな。たくさんありすぎる。黄色の花など、ありふれた色の花だ。ひまわり、たんぽぽ、マリーゴールド、ポーチュラカ、ツキミソウ、ミモザ、スイセン、キンセンカ、キンモクセイ、ナノハナ、オミナエシ。花の名前だった気がする。いや、本当にそうなのか? 他には?


『アメジストみたいな瞳』
『あめじすと?』
『宝石なの。紫色の、薄いのから濃いものまであるのだけど』
『ニーアちゃんは?』
『私?』
『うん。ニーアちゃんはなんだろう』
『私は』


 違う。硬質な名前ではなかった。特別な響きでもなかった。やっぱり、花だ。花の名前。サルスベリ、オイランソウ、フヨウ、ルリギク、アマリリス、アネモネ、ベニラン、クレマチス、ハルジオン、ジニア、レンゲ、ナデシコ。ピンクの花。彼女のような色。どれもしっくりこない。彼女は、何と言っていた?


『私は、あなたの幸福を招く』


 とびっきり甘い瞳。鈴の鳴るような声。あなたの、幸福を、招く。


『あなたに、幸あれ』


 頬を涙が伝う。彼女が触れた額。確かに、彼女は唇で。


「思い、出した」
 ニーアの名前。やっと、やっと。体から力が抜ける。何度も、頭の中で、呼ぶ。君の本当の名前。巡る度、幸福が押し寄せる。大切な、宝物。
「やばい」
 今、何時だ。どれくらいここにいた。君の元へ、行かなければ。
「風よ」
 どうか、力を貸して。この体が重いのなら、捨てる覚悟は出来ている。淀みきったこの体を、手放すことが条件ならば。オリーヴィア。大切な、ひと。ずっと、ずっとここにいて欲しいけれど。苦しみを捨てる。あなたを忘れるわけでは、決してない。あなたを忘れることなど、絶対に。体が、満たされていく。温かな、それは力。隅々まで、めぐり、花が綻ぶように、力が、湧く。
 吹き始めた突風に、目を開けていられない。ぐん、と風が強くなり、体が浮く。
「う、あ」
 轟々と、耳の隣で風が吹き荒れる。寒さを覚える。何度も目を開けようと思い、そのたびに開けられないことを悟る。長い間のような、刹那だったのか。風が唐突にやむ。恐る恐る目を開く。そこは、先ほど飛び出した会場の入り口であった。慌てて、扉を押し開く。場の空気はどこか異質だった。それでも、そんなことはどうでもよかった。
「ニーア」
 人の間をするりするりと、進みながら、名前を呼ぶ。こっち、と風に呼ばれる方へ歩を進める。端に置かれた三人掛けのソファに、ニーアはいた。暗がりの、気をつけて見なければ、気がつかない場所。
「ニーア……!」
 潤んだロードナイトの瞳が声の出所を探し、さまよう。真正面にナリアンを見つけて、ぐしゃり、とゆがむ。
「ニーア」
 掻き抱く。びくりと震え、かたかたと、小刻みに震える肩を抱く。持っていた布を、ニーアに羽織らせ三度抱きしめる。寒いからではないことくらい知っている。知ってはいるが。
「ニーア」
 ぎゅっと抱きついてくるニーアをきつく抱きしめ返す。しゃくりをあげるニーアの声に、心臓が鷲掴みにされる。
「なり、ちゃん」
 震えた声に、ひどく罪悪感を覚える。
「ごめん、放り出して。一人にして、ごめん」
 ふるふると腕の中で、首を振る。
「怒ってくれていい」
「おこって、ないわ」
 だって、ナリちゃん、来てくれたもの。それだけで、それだけで私は。すがりつける、それだけで。ナリアンは、ニーアを引き離した。
「ナリちゃん……?」
 ソファに座るニーアの足下に、ナリアンは膝をつく。そうすれば、少しだけニーアの視線が高くなる。とろり、と見上げてくるアメジストに、ニーアの頬が一瞬で染まる。
「ナリ、ちゃん」
 すがりついていた手の行き場がない。迷ったあげく、己の胸を抱きしめる。
「ニーア」
「……ナリちゃん」
「思い、出したんだ」
「え?」
「君と、出会ったこと」
 息をのむ。時が止まる。
「君と、初めて会った、あの日を」
 花が咲く。荒れ果てた、草木の一本も育ちそうにない荒野に、花が咲く。固く、湿り気のない大地に、命の息吹が宿る。土を押し上げ、薄い緑の茎が、首をもたげる。ゆるり、ゆるりと背を伸ばし、みずみずしい葉を蓄える。葉に大事に守られた白い蕾は、いつしか赤く色づく。世界に出ることを拒む、若い命。大丈夫だと、風に何度も撫でられ、ようやく、顔を見せる。たった一輪、たった一輪の花が、咲く。花を育てるために、風が、水が、緑が、生き物が。世界の色が変わる。
「ニーア」
 いいや。潤んだ瞳のまま、ナリアンを見つめるニーアの耳元にナリアンは唇を寄せる。近づく熱に、ニーアの頬が染まる。大事に、誰にも聞かれないように、そっと紡ぐ。
『アドニス・アマランシス』
 吐息のような声。発したナリアンでさえ、音は拾えなかった。ニーアの頬が薔薇色に染まる。真っ赤に、火傷をしてしまいそうなほど。
「ナリ、ナ、ナリ、ちゃん」
「ニーア」
 逃げ腰になる彼女の頬を、腰を抱きとどめて、懇願する。
「どうか、俺と、一曲」


 花がひらく。舞台の中央に、紅い花。恋の花だと、人によっては思うかもしれない。たどたどしく、咲く花。初々しく、回る花。


「ナリちゃん」
 くるくると回りながら、ニーアは口を開く。言わねば、謝らねばと思っていたことが一つ。
「カード、白紙でごめんなさい」
 伝えたい言葉がたくさんあって、それでも全部、違ったの。
「うん」
「……怒ってる?」
「怒ってないよ」
「本当?」
「本当」
 嬉しそうに微笑むニーアに、ナリアンの心が軽くなる。白紙のカード。何も書かれていなかったのに、慈しみを感じたのは間違いでなかったことを知った。
「ニーア」
「なぁに」
「迎えに行く」
 盛大につまづいたニーアを抱きとめて、ナリアンは笑った。真っ赤な顔が泣きそうに歪む。
「今度は、絶対に。二度と、君を忘れたりしない」
 約束。つむじに一つ、唇が落とされる。
「君に、幸あれ」

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