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 蜃気楼

 赤い繻子を広げるように我が身から溢れついえる命に頬を浸らせ、わたしはあぁと呻いて目を閉じた。
 闇はいつのまにか熱砂に冷たく息吹いていて、この身の内に悪しき幻を呼び込んでいたのだ。







 目の前が不意に赤くなり、ロゼアは低く呻いて立ち止まった。並んで歩いていたメーシャとナリアンが、驚きに見開いた目を揃って寄越す。同時に腕に抱えていたソキが振動の微細な変化を感じ取ったのか軽く身じろぎした。半分夢の世界にいたのだろう。長年ロゼアが傍に仕え世話したうつくしい少女は、煙るような睫を震わせ、赤子のようにむずがりながら、夢と現のあわいを行き来している。
「大丈夫? ロゼア」
 疲れた? とメーシャが顔を覗き込んでくる。ロゼアは否定に首を振った。小柄なソキはロゼアの成長途中な腕であっても羽のように軽く感じる。疲れてはいない。ずりおちかける彼女を軽く揺すって抱きかかえる。
「ソキ」
 まるで引き合う強力な磁石のように、ぴたりとロゼアから離れない少女に、メーシャがやわらかな声で囁きかけた。
「寝たふりはダメだよ、ソキ。もう起きよう? 起きて、そろそろ降りよう」
「うー……?」
 ソキがうっすらと瞼を押し上げ、不満そうにメーシャを見る。
「メーシャ」
 ソキは歩けないよ、と。このまま運んでかまわないのだ、と。
 思わず諌めたロゼアをメーシャが見つめ返してくる。その瞳を図らずも覗き込むかたちとなって、ロゼアは息を呑んだ。砂漠の夜を思わせる彼の瑠璃色の双眸は赤子のように無垢で穢れない。ここまで透明にきらめく瞳をもって、彼ははたして本当に俗世を生きるひとの身なのだろうかと、勘繰りたくなるほどだった。
「ソキ、このままがいいです」
 ロゼアの首元に回す腕に力を込めてソキがいやいやと首を振った。わがままをあしらう術を知る近しいものたちを除いて、宝石たちの主張にはめったなことでは誰も意を唱えない。宝石の姫はわがままを許される。そのあわれさが掻き立てるはかなき美しさに気おされて。
 けれどメーシャはソキのうつくしく歪められた柳眉をさらりと無視し、いっそうきらきらしい笑顔を端整な顔に浮かべて言った。
「ルノンが言ってたんだ。入学式までが、旅だって。ここまでソキは自分の足で歩いてきたんだから、最後まで歩ききろう?」
 な? という彼からの念押しを受けて、ソキの腕から力が抜ける。ロゼアはゆっくりと腰を落としてソキが滑り落ちるに任せた。
「ナリアン」
 メーシャからふいに名を呼ばれたナリアンが驚きに目を瞠る。無造作にとりあげたソキの小さな手をナリアンの手にぽんと載せたメーシャは二人の背を進行方向へと強く押し出した。
「ちょっと先にいってて。すぐに追いつくよ」
 さぁさぁ、と彼は強引に二人を先へ行かせる。訝りながらも了承を示したナリアンが不安そうなソキをゆっくり先導し、二人の背が小さくなるまでにそう時間はかからなかった。
 腰に手を当て、よし、と満足げに笑ったメーシャがくるりと踵を返し、ロゼアの額に触れる。それに身構えることすらできなかったのは、素早かったから、というより、彼の動きがあまりにも他意のないものだったからだ。
 額にあてられるメーシャの指先は、つめたくもなく、かといって、あたたかくもなく、まるでロゼアの身体の一部のような自然さで馴染んだ。
「ううーん、熱はないよなぁ」
 すぐ間近にある少年の顔にぎょっとなり、ロゼアはメーシャの手を払いながら後ずさった。
「いたって健康だよ」
「でもぼっとしてた」
「少しだけだろ」
「うん。でも、大丈夫?」
 やっぱり旅の疲れがたまっているんだね、とかなんとか、腕を組んで勝手に納得しているメーシャに毒気を抜かれ、ロゼアは溜息と共に肩を落とした。
「大丈夫」
 やや眩暈を起こしかけていたことは認める。メーシャがそれに助け舟を出してくれたことも。
 それにしても、と、衣服の胸元をそっと握り締めながらロゼアは息を吐く。
(なんなんだ、これ)
 しくり、しくり、しくり、と、頭の片隅が痛む。
 そしてひどく、気持ちが悪い。
 息苦しさが増すと共に、芯から指先まで熱がさざ波のように押し寄せ――じゃらり、と鎖が鳴った。


 彼は口の端にうっすらと笑みを刷いた。
 等間隔に並ぶ天窓から射しこむ光線の影で。決して光と交わらない闇の片隅で。
「逃がさないよ」


『ボクの……だいじな、だいじな』



 ……――お人形さん――……。



 成人して幾年も経た男の、魔と艶を帯びたその声は、この唇が吐いたものであるかに思えた。
「ロゼア?」
 メーシャの呼びかけが耳朶を打ち、ロゼアは弾かれたように面を上げた。
「やっぱり少し休んでいく?」
「いや……」
 あの声は幻聴だったのか。体調を気遣う同窓生に、ロゼアは首を横に振る。
「いいよ。大丈夫。……ありがとう」
 ロゼアの謝辞にメーシャが微笑む。男に使う表現としては違和感あるが、彼が笑うと花がほころぶようだった。
「どーいたしまして。さぁ行こう」
 先を促す彼に頷き――ロゼアは己のてのひらを見下ろした。
 その輪郭が自分のものとは異なったものに見えて、思わず目をすがめる。
 だが一瞬のちには見慣れた自分のものとなっていて、ロゼアは気のせいかと肩をすくめ、メーシャと並んで式典の会場へ歩き出したのだった。

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