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 水を空にし、幾度も書類を読み、記憶し、角灯の火で一枚ずつ焼いた。
 三十枚が灰となったとき、扉は開かれて、リコリスとストルが現れた。リコリスがまたツフィアに封印具を付けて視界を奪う。ストルの手がツフィアを外へと導く。封印具を外され、憲兵たちの案内で外に出たとき、外は既にとっぷり暮れていた。
 四月に入ったとはいえ、夜の風は肌に冷たい。ツフィアは外套の前を掻き合わせて帰宅し、食事もそこそこにすぐ眠った。とても疲れていた。
 ツフィアの朝は基本的に早い。けれど寝坊をしたところで誰かに咎められるわけではない。その翌日は昼まで寝ていた。
 ツフィアの日々はある意味平和であった。枷を意識さえしなければ、衣食住は保証されているし、読書し放題である。ツフィアの元には週に数冊ずつ、真新しい本が届けられる。差出人はないが、誰からかはわかっている。ツフィアは自分の主君になったはずである王に感謝こそすれ、恨むつもりは毛頭なかった。
 畑の手入れと家事をこなして運動し、学生時代の学術書を復習する。古い文献も新しい論述にも目を通す。新聞もとっている。
 週に一度だけ、なないろ小路に通う。小間物を調達するためだ。春の小路は花々に彩られていた。あと一週間もすれば、新しい魔術師のたまごに届けるための入学許可証を持って、案内妖精が世界に散るだろう。
 また、新しい一年が、始まる。
 日差しに目を細めながら入った行きつけの店に、ストルから伝言が残されていた。
 学園に、来るように。
 ツフィアは眉をひそめた。これまでかつてストルから呼び出されたことは指折り数えられてしまう。呼び出される心当たりは、ある。
 当然、先日の件だ。
 伝言を預かってくれていた店主の老女に礼を言い、その足で学園へ向かった。パルウェは不在だったが、顔見知りの事務職員がツフィアを出迎えた。
「今日はどうしたの?」
「面会よ」
「誰に?」
「ストル」
 事務職員はすこしだけ目を見開いたあと、ツフィアに制御具を付け、訪問者の調査票に日付と時間を記入した。
「今なら部屋にいるんじゃないかしら。予定表を見ると、ついさっきメーシャ君の授業、終えたばかりだもの」
 メーシャ、という少年がストルの教え子らしい。かっこいくてかわいいこでねっ、と声を弾ませた職員はストルの講師室の位置をツフィアに教えることを忘れなかった。
 職員から手渡されたメモを眺めて教員棟を歩き、ストルの部屋に辿り着く。かけられた札は主が在室していることを示していたが、叩扉に返事はなく、鍵もかかっていた。
「……すぐに戻ってくるかしら……?」
 在室、と、なっているのだから、給湯室に湯を取りに行ったとか、その程度だろう。そう推測しながら腕を組み、扉に背を預けた、瞬間だった。
 がちゃ、と鍵が開いた。
「え?」
「つふぃあっ……!!」
 反射的に扉から退いたツフィアに、小柄な少女が跳びかかってきた。
 ふわりと花の香りをさせる少女を支えながら、ツフィアは驚愕に呻く。
「り、リトリア……?」
 少女は返事をする代わりにツフィアの胸元に顔を埋め、背に回した手にぎゅうと力を込める。
 どうなってるの、と半ば混乱しながら部屋を見ると、ストルが立っていた。彼はため息を吐いて天井を仰いでいる。なんとなく、状況を理解できた。この手の場面は何度もあったのだ。学生時代に。
 薄靄のように立ち上る虹色の煌めきを視界の端に収めて、ツフィアはリトリアを見た。その小さな身体から魔力が零れ落ちている。そこに込められた魅了の気配を察し、ツフィアは慌てて言った。
「リトリア、離して」
 びく、と少女が震えてツフィアから離れる。組み上げられかけていた魅了はしゃぼん玉が割れるように霧散した。ツフィアは安堵した。さすがに予知魔術で魅了されることは遠慮したい。
 ごめんなさい、と彼女は言った。ちいさなちいさな、耳を澄ませていなければ拾い上げられないような声だった。
 しかし確かにそれは、ツフィアが近年会いたいと思っていた少女から発せられたものだった。
 ツフィアは腰を落としてリトリアと目線を合わせた。彼女は夕焼けに染まったように赤い顔をして、涙に瞳を潤ませていた。胸元の小さな手を手持無沙汰に幾度も組み替えている。彼女はツフィアと目を合わせなかった。ごめんなさい、と、呟くだけで。
 元気なの。毎日楽しいの。周りの人々は優しいの。王宮魔術師として、仕事は上手くいっている――?
 尋ねたかったいくつもの問いは、かたくなに目を合わせようとしないリトリアを見ているうちに、失せてしまった。
「リトリア、ストルを借りるわよ。……ストル」
 来なさい、と、ツフィアは彼を睨みつけた。ストルはリトリアを部屋に戻し、温かくしていなさいと告げてから、ツフィアの後を付いて歩いた。
 ストルも行先はわかっていただろう。学生時代、ふたりだけで話したいことがあるときはいつも同じ場所を使っていた。裏庭の森の中の少々開けた場所。ここでならそのまま喧嘩に突入しても問題はない。
「……で? 何をしていたわけ?」
 足を止めてストルに向き直り、たたん、とつま先を鳴らしてツフィアは詰問した。
「何を?」
「リトリアを部屋に連れ込んで鍵を掛けて何をしようとしていたの?」
「甘やかす以外に何がある」
「だからあなたねぇ! どうしていつもそうなのよ」
「あんなに俺を求める目をするのに逃げ出そうとするからだ……。俺は怖くないとじっくり話し合う必要があるだろう?」
「そんな怖い笑顔で言われても説得ないわ。あの子と話し合いたいのは私の方よあなたが狼だってどうしてわかってくれないのかしら」
「そうだな。男の怖さをじっくり教え込むべきだと思うよ」
「いったいどうやってどのように教えるつもりなの」
「話そうか?」
「結構よ!」
 はぁ、と肩で息した後、ストルと目が合った。彼は肩をすくめ、小さく笑った。ツフィアもつられて笑っていた。
「……昔のようだったな」
「そうね。……リトリアとは最近、よく会うの?」
「いいや。今日も久しぶりに姿を見た。……学園にはたまに来ているらしいが」
「あぁ……そういう話があったわね……」
 昨年の新入生歓迎パーティーの日だった。レディがツフィアの前に現れて、自分がリトリアの殺し手になるのだと宣言していった。リトリアは王宮預かりになっている予知魔術師だ。本来ならば楽音の国から出られない。けれどどうしても学園を訪ねなければならない事情ができたので、五王はかりそめの〈殺し手〉と〈守り手〉を、レディとフィオーレに定めたらしかった。
「そういえばレディかフィオーレは? 一緒にいなければならないはずでしょう?」
「知らん。リトリアはひとりだった……」
「何をしているのかしら……ひとを非難しておいて」
 パーティーで顔を合わせたとき、レディはツフィアを糾弾した。どうしてあの子に会ってあげないの。ツフィアは嗤い出したかった。ツフィアを避けているのはリトリアの方だ。
 なのにどうして――いましがた抱きしめたリトリアのなつかしくあたたかな感触を手の内に握りしめ、ツフィアは頭を振った。いま考えるべきことではない。
「……それで、私に何の用事だったの?」
 自分は今、ストルから呼び出しを受けてここにいるのだった。
「まだ、話す気にならないのか?」
 王たちが望んでいる、言葉魔術師についての知識を。
 ツフィアは眉をひそめた。
「その話なの?」
「術について話しさえば自由にすると陛下たちはおっしゃっているんだろう? これ以上我を張ってなんになる」
「意地だけで話さないと思っているの?」
 そんなはずないじゃない、と、ツフィアは吐き捨てた。
「話せないのよ」
「何故だ」
「話せないの」
「ふざけているのか?」
「こんな状況でふざけるはずがないでしょう……!」
 ツフィアは思わず声を荒げた。足を踏み鳴らしたい気分だった。あたりにクッションがあれば投げ散らしていたかもしれない。癇癪を起こしたかった。子どものように。
「話せないのよ。話したくても話せない。私の口からは話せない」
「誰の口からだったらいいというんだ?」
 ストルは苛立っていた。彼は職場となっている星降の王城でツフィアを案内したときから苛立っていた。
 もしかしたらもっと前から、彼は苛立っていたのかもしれない。
 ストルはツフィアに枷が嵌められる様を近くで見る立場にいつもあった。
「……リトリアよ」
「リトリア?」
 目を眇め、鸚鵡返しに尋ねるストルをツフィアは睨んだ。
「でもまだその時じゃない。私はリトリアの口を借りることはできない」
 泣き出しそうなリトリアの顔を思い出した。あの娘は相も変わらずちょっとしたことで泣いてばかりいるのだろうか。そういえば無理やり暫定的な〈殺し手〉と〈守り手〉を決めてまでしたのはリトリアの体調がすぐれないかららしいとストルから伝え聞いた。先ほどのリトリアの身体を思い出す。リトリアは十五になったはずだ。なのにその身体はぽきりと折れてしまいそうなほど華奢で、ツフィアが思い出せる最後に会ったときのリトリアの姿と、さほど変わりなく思えるほどだった。
「どうしたら、リトリアの口を借りられるんだ? ツフィア」
「あの子を甘やかさないで、ストル」
 在学中、ツフィアは何度も何度もストルに請うた。彼はすぐリトリアを甘やかしてしまうから。彼女には泣き癖がついていた。ちょっとしたことですぐにぐすぐすと泣いて、ストルの膝で甘えて。
 だめよ、そんなふうにすぐに頼ろうとしてはだめ。
 自立しなさい、と、ツフィアは幾度もリトリアに諭した。その都度、彼女はがんばると表情を引き締めるのだが、すぐにストルに甘やかされて、彼の膝の上で丸くなっていた。
 リトリアは甘やかしたくなる要素を持った娘だった。愛らしくてたまらない。彼女がふんわりと笑えばおいでと引き寄せて頭を撫でたくなり、泣いていれば甘いものを携えて抱きしめたくなる。そんな風にさせる何かがあった。
 リトリアがストルから距離をとっているのだとしても、誰かが彼女を守り慈しむことは知っている。
 けれどそれはリトリアの自立にならない。
「あの子を甘やかさないで、ストル。そう告げて。皆に告げて。お願い。皆にそう言って。伝えて。私が言えるのはそれだけなのよ。あの子は自立した魔術師でなければならないの。あの子は強くなければならないの。泣いてばかりではだめなの……駄目といって――!」
 だめなのよ、と繰り返しながら、ツフィアは感情が高ぶっていくのを感じた。抑えきれなかった。たまさか会う魔術師たちに押されたシークの記が、ツフィアをひたひたと追い詰めていた。今年の新入生が予知魔術師だと知り、彼女がかつてシークが誘拐を企てた砂漠の花嫁であると、そして彼女の傍に常にいる魔術師のたまごたる少年に、シークの記が、侵食の証が押されている様を見ると、ツフィアはどうしてもシークの思惑を、彼が起こしたすべてを知らなければならないという義務感に駆られた。そうして目にした調書は、ツフィアを焦燥に駆り立てただけだった。
 穏やかな時代なら、この世界に落ちた言葉魔術師がツフィアだけであったなら、リトリアを存分に甘やかしてもよかった。彼女が大人になるまで時間をかけて待ってもよかった。
 けれどそれでは駄目なのだ。
 あぁ、どうしてわたしばかりが、ひみつをかかえなければならないの。
 枷が、重い。
 ツフィアはストルの腕を握りしめ、そのまま蹲って叫んだ。
「たすけて、ストル……」
 しばしのち、ストルは跪いて泣き出したツフィアの頭を躊躇いがちに胸に抱いた。
 子どもをあやすように。




 繰り返そう。
 言葉魔術師は武器庫で、己の術と武器に関する知識と手に入れ、枷を嵌められる。
『枷、って、なんなの?』
『ここで言う枷は、記について口にできないこと。君は言葉魔術師の在り方を、時が来るまで誰にも話せなくなる。話そうとしても声が出ないし、文字に綴ろうと思っても書けない。帰ったら試してみるといい』
 青年は立ち上がり、椅子に腰かけるツフィアの頬を両手で包んだ。困惑するツフィアにそっと微笑んだ彼は、ツフィアの額に唇を落とした。恋人に、触れるように。
 ツフィアの髪を撫でながら囁いた。
『――汝、言葉魔術師。檻の中で微睡み、沈黙を保て。身を守る術を手に入れるその日まで。さすれば何人たりとも汝を傷つけぬ。世界は汝を弱き者と見るだろう。取るに足らぬ者と見るだろう。誰も汝を、死へ走らせることをしないだろう』
 魔力と共に流れ込んできたのは青年の、おそらく記憶。
 力ある魔術師たちが捕縛されて戦へと送られていく。予知魔術師は彼から逃れた。彼を前線に送る価値のない術者とするために。そのようなことをする必要はなかったのに――。
 彼は知識を買われて戦術を組み上げる。恋人や友人たちの無残な死を聞きながら。弱い身体を押して、彼は。
『世界は喇叭を鳴らして審判を迫るだろう。この世は慈しむべきや? その時には、汝――微睡みより目覚め、覆い隠されし眼を開けよ。見える世界が愛すべきものであるならば、真実を語り、武器を手放せ……』
 君に祝福を、と、青年は言った。
『予知魔術師の使い方はさっき教えたね。予知魔術師を使うようになれば、君はすべてを打ち明けられる。ただしそれは予知魔術師の口から誰かに伝えるという形に限られる。そして一度でもそれをすると、言葉魔術師はもう予知魔術師を使えない』
 真実は予知魔術師解放の鍵なのだ。
『君はそうしたそうだから、一言言っておく』
 気を付けて、と。
『安易にそれをしようと思ってもできない。言葉魔術師は予知魔術師を使うことに、予知魔術師は言葉魔術師に使われることに、酔うようにできている』
『酔う?』
『使いたがり、使われたがる。言葉魔術師側の精神が弱いと、予知魔術師を完全に支配して、快楽的に魔術を乱発しようとする。予知魔術師側の精神が弱いと、使われた時点で快楽を覚え依存し、自分の意思を失ってしまうんだよ』




 わたしは二度と、大切なひとを壊さないと、決めたのよ、リトリア。
 今度こそ、守るのだって。

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