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 花籠

 これが武器だという実感を持てないでいるのは、それがどう見ても本だからである。純白の帆布が表紙に貼られた上製本は、上から見ても横から見ても、どこからどう見ても本であり、本の形をしたなにかですらなかった。材質も、表紙に帆布が使われている以外に特別なものはない。紙と、糸と、糊。そして、布。おおまかにその四つが本を形作る全てであり、武器とするにはあまりにも平和すぎ、日常的過ぎた。ナリアンの武器が魔術師らしい杖であり、ロゼアの武器が短剣であり、メーシャの武器が銃という、ソキには見たことのない、けれども一瞬息を飲むようなうつくしい殺傷力を印象付けるものであったから、なおのことである。副寮長がぽつりと零した言葉が正確なものであるのなら、予知魔術師であるからこそ、ソキの武器は本であるらしい。言葉を記すもの。言葉を封じ込めるもの。言葉を閉じ込め、ありのまま、世界に存在させるもの。
 けれどもそれは、果たして本当に武器なのだろうか。ソキは不安げにきゅぅと眉を寄せ、ちょうど日記帳程のその本を、つよく胸に抱きよせた。それは母が幼子を守る抱擁にも似て、それでいて必死に縋りつき、くるしく頼るようでもあった。部屋はしんと静まり返っていて、未だその主が戻ってくる足音は聞こえない。だからこそ一人きり、安心して不安がることができながら、ソキはかたく目を閉じて考えた。声には出さない。こころが落ち着いていないのが自分でもわかるからこそ、言葉にしてしまうことを、音にしてしまうことを、しないで我慢する。それは怖いことだった。未熟な魔術師はこうして皆、己の魔力、魔術と向き合って行くのだろうか。旅の間に出会った何人もの王宮魔術師や、昼間に出会った教員たちの顔を思い浮かべ、ソキは本を抱く腕に力を込める。彼らは、この怖さを乗り越えたのだ。漠然とそう思い、目を開いて、息を吸う。
「……ロゼアちゃんは」
 呼びかけるでもなく部屋の主の名を呟き、ソキはこてりと首を傾げた。椅子に毛布をかけ、その上にソキを座らせてから湯冷めしないように温かくしていること、と言い残して寮の男風呂へ消えたロゼアは、未だ戻ってくる気配がしない。寮長にからまれてないといいです、とやや眠たくてぽやぽやした頭の片隅でそう思い、ソキはふぁ、とあくびをした。あっちに行ったり、こっちに行ったり、ちっとも定まらない意識が、また考えたい所へ戻ってくる。そもそも、なぜソキが己の武器について悩んでいるのかといえば、ロゼアの武器が剣の形をしていたからだ。短剣である。ロゼアが屋敷で持っていたものとよく似ている、とソキが思ったその短剣は、一般的にも武器と呼ばれるものに他ならなかった。
 ふらぁり、眠気に負けて揺れた体が椅子から落ちかけて、ソキはあわあわと身動きをした。落ちたら戻れなくなるです、と大慌てでなんとか体勢と立て直し、肩でおおきく息をしながら、ソキは目を瞬かせた。こて、と首を傾げる。数秒考えて、ソキはぱちぱち、せわしなく瞬きをした。そういえばすっかり忘れていたが、ソキはもう一人で立つことも、歩くこともできるのだった。椅子から落っこちたら、自分で戻ることだって出来る。旅の間は、ずっとそうしてきた筈だ。それなのに昨日から、数えられるくらいしか、ソキは己のちからで立っていない。歩いたのは二回か、三回くらいだろう。膝に乗せている本ごしに己の脚を見つめて、ソキはひとり、うん、と頷いた。
 明日から、もうすこし、ひとりで歩こう。そうしなければいけない。まず、そこから始めなければいけない。だってそうしなければ、きっと、ずっとロゼアは。そこまで考えて、思い出して、ソキはぞわりと背を撫でて行く気持ちの悪い感覚に息をつめた。それは砂漠の湿った砂が、風に吹きつけられてぞわぞわと、外壁や床を這いずっている印象にも似ている。
『黒魔術師』
 文字が。
『砂漠の国の』
 りんりんと鳴る鈴のように砕けた鉱石のように共鳴しながら強く強く意識に浮かんでは削れ消え現れそれを繰り返す文字が、文字が。蘇り再生されくるくると回り響いて響いて響いて意識を埋めて行く。
『属性は、太陽』
 指し示す男の指の先で、ロゼアが振り返って微笑んだ。唇が動いて、ひとつの名を紡ぎ出す。その響き、その音はかき消されて思い出せないのに綴られた文字をきっと永遠に覚えている。なにもかも塗りつぶされ消され壊され穢され失ってしまってもそれだけは。きっと、それだけは。
『彼の、武器こそ』
「……ソキ?」
『短剣』
 それだけは、それだけは。絶対に失わないでいる。それだけは、その名前だけは。だってそれは。その、音は。
「ソキ!」
「……ふえ?」
 両肩を強く掴まれて、ソキはきょとんと目を見開いた。すぐ目の前に、生乾きの髪をしたロゼアがしゃがみこんでいた。ふあふあの、暖められた空気がロゼアから漂ってくる。ロゼアちゃんだ、とのんびり思い、ソキはおおきくあくびをした。
「おかえりなさい、ろぜあちゃん」
「うん。……ソキ、ソキ。どうしたんだ?」
「なにがです?」
 ぺたぺたと、ロゼアの手がソキに触れてくる。体に痛いところがないかどうか、怪我をしていないか、熱をだしていないか。心身がつかれてしまっていないか、じっと観察もしてくるロゼアに、ソキはよく分からなくて首を傾げた。そういえば、なにを考えていたのだか。ううん、と不安そうなロゼアに調べられるままになりながら、ソキはあ、と間の抜けた声をあげた。
「ねえねえ、あのねえ、ろぜあちゃん?」
「……ん? なに?」
 ロゼアちゃんは、と問いかけて、ソキのくちびるがぴたりと動きを止める。
『あのさ、ソキ』
 どうしたのかと向けられる視線を真正面から見つめながら、ソキは己の担当教員でもあるウィッシュと別れ際、囁かれた言葉をはきと思い返していた。
『先に言っておくけど、ソキが……それを、もう知っているから教えておくけど。ロゼアの武器や適性は、予知魔術師の、守り手の条件に完璧に一致する。いまのままでは、難しいと思うけど……俺は予知魔術師の教官としても、ロゼアが、そうなって欲しいと思ってる。だから、聞いておくよ、ソキ。すぐ返事しなくていい。いまじゃなくていい。ずっとあとでも、返事、しなくてもいい。でも、問われたことだけは覚えておいてな。……あのね、ソキ。ソキは、どうしたい? ロゼアがいい? それとも、他の誰かがいい?』
 はく、と声なくくちびるを動かして。ソキはくしゃりと表情をゆがめ、目を伏せた。え、とぎょっとしたロゼアに伝わらないと知りながら、なんでもないです、と言いたくて首を横に振る。ぼろぼろ零れて行く涙がいやで、てのひらを瞼の上から押しつけて、隠した。ぐるぐる、ぐるぐる、ことばがまわる。いつか必ず別れる筈だった一番大切で大好きなひと。いつかソキの知らない場所で知らない誰かと幸せになってそれすらソキは知らずに、だから、だけど、それなのに。
「……ろぜあちゃん」
 離れないでいて良い理由なんて、そんなもの、ソキはいらなかった。離れたくなくて、離されたくなくて、けれどもそれを許されるだけの事情なんて、理由なんて。必要なかった。縛ってしまう。分かっている。誰より自分のことだから、ソキはそれをよく理解していた。
「ろぜあちゃん、ろぜあちゃん……」
 ロゼアの自由を奪うのは、いつだってソキだ。
「……ソキのこときらいにならないで」
「ならないよ。……ソキ、そき?」
 返事を告げず、ソキはふるふると首を振って、白い帆布の本を抱き締めた。

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