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 それは白い紙に迷いなく引かれた、一本の線のようだった。視界の端から端までを一瞬にして駆け抜けて行った赤い閃光。夜はただ頭を垂れるように切り裂かれ、ごう、と熱せられた空気が風となって押し寄せる。一筋の光は瞬く間に広がり、大きく広げられた翼の形を成して完成した。女の胸元から左右対称に広がる火は、まさしく鳥の翼、そのものだった。女は燃え盛る火の熱に肌を焼かれる痛みもなく、光に目を貫かれることもなく、一度だけ、その火の翼をてのひらで撫でた。ゆったりとした、ひどく静かな、仕草だった。恋人の頬に触れるような甘やかで、丁寧で、どこか切ない、仕草だった。
 どこまでも広がって行きそうな火の勢いが僅かに収まり、おぼろげな輪郭が収縮していく。目を伏せ、そっと腕で円を描く女の胸元へ、きれいに収まってしまうように。不死鳥はすこし小柄な鷹の姿を成し、それ以上は小型にならず、輪郭を崩して広がってしまうこともなかった。恐らく、それが一番安定した姿なのだろう。火に照らされて赤みを帯びた女の、朱金に揺らめく瞳がふと持ちあがり、悪戯っぽい笑みを灯した。
「眠れないの?」
 その問いを向けられたのが己であることに、気が付いたのは言葉を繰り返され、名を呼ばれてからだった。
「……眠れないの? ナリアンくん」
 夜は深く、暗闇の中に、なにもかも音が沈み込む時間のことだった。寮の戸口で立ちつくすようにしていたナリアンに、女は小走りに寄って行く。無邪気で、懐っこい、人見知りを全くしない仕草だった。えっと、と言葉を探すナリアンの顔を下からひょいと覗き込み、女は金色の瞳を楽しそうに細める。あまりに火を近くに宿し、闇の中、血濡れた刃のように輝いたその色は、もうどこかへ消えてしまっていた。
「こんばんは。ナリアンくん、よね? それとも私、ひとまちがいをしてしまっている?」
 ぶんぶんぶんっ、と勢いよく首を左右に振ったのち、ナリアンは慌てて息を吸い込んだ。声を出す気には未だなれないままだが、気持ちの問題として、言葉を成す前にはそうすることが多かった。
『いいえ、俺がナリアンです。こんばんは。……レディ、さん?』
「うん。レディ、でいいよ。もしも君が気にしないのなら。気になるようであれば、君の好きに呼んでくれて構わないけれど。……ふふ、それで、どうしたの? 夜更かしさん。眠れなかったの? 起きてしまった? ……それとも、私が起してしまったかな」
 火と風は魔力の相性が良いからきっと響いてしまっただろうし、とナリアンの答えを望まぬ呟きを発し、女のひそやかな溜息が二人以外誰も居ない、静かな空気を揺らして行く。学園の夜は、ひどく静かだ。木々を渡って行く風の、揺らす梢の音だけが響いている。虫の声も、注意しなければ分からないくらいに遠く、奏でられるもの。距離を置かれているのとは、違った。ひどく遠くから、ひたすらに見守られているのだ。魔術師のたまごは、『中間区』という世界そのものに守られている。だからこそ、緊張に張り詰めた静寂はどこにもなかった。ただ、穏やかで、眠りにつく寸前に吸い込む空気のような。しっとりとした、心地良い、なにものにも例えられない音律にひたひたと満たされている。
 女は動けぬ様子のナリアンを見上げながら、己が一瞬切り裂いた夜のしじま、満たされ切った幸福の空気を深く、吸い込んだ。ふわ、と風に舞う花びらのような動きでナリアンから一歩離れ、女は薄暗闇の中へ身を躍らせる。揺れる火の鳥が背を追いかけ、爆ぜる火の粉は祝福のひかりのように、女の身に降り注いで行く。眠る草を靴で踏み鳴らしながら、女はナリアンを振り返り、ちいさく首を傾げてみせた。
「ねえ、ナリアンくん。もしもすぐ眠りに帰らないようなら、ひとつ聞きたいことがあるのだけれど。いい?」
『俺に、答えられることなら』
「うん。うん、うん、大丈夫! 答えに困るようなことを聞くつもりはないの」
 真昼の。一番日差しが強い時間に、反射して目を焼くようなひかりの印象を振りまいて。女はひどく親しげに、ナリアンに笑いかけた。
「君は、道案内が好きかな? もしよかったら、ちょっと星降の国へ続く『扉』まで、私を送って行って欲しいんだけど」
『……え、っと?』
「うん、あのね。ストルがいつの間にか帰っちゃってたのに、さっき気が付いたの。せーっかく仕事が終わるの、待ってたのに……。で、まあそれはあとでストル焦がすからまあいいんだけど? 気が付いたらほら、もうこんなに夜中でね、皆寝ちゃってるから……一人で帰ってもよかったんだけど、もしかして、誰か一人くらいは起きてくるんじゃないかな、と思って待っていたの。陽が落ちてから移動するのって、どうも好きになれなくて。暗くなると、なぜか普段よりずっと目的地にたどり着くまで時間がかかるじゃない? それで、絶対、夜が明けちゃうじゃない? 私、夜明けって嫌いなのよ。でも、こんな時間でも、誰かに連れて行ってもらえるならすぐに王宮まで帰れるかな、と思って」
 頼んでもいいかな、と笑いながら手を差し出してくる女に、ナリアンは無言で頷いた。夜の中へ足を踏み出し、草を揺らし吹き遊ぶ風と共に、女の手を握り締める。女は、ナリアンよりいくつか年上に見えた。それでもてのひらに触れる、ということに抵抗も、気恥ずかしさすら覚えなかったのは、女がなぜか、迷子のこどものように思えたからだろう。帰る場所もなく。泣くこともできず。地の果てを見つめ、立ちつくすばかりの。女は案外簡単に繋がれた手に驚いたように目を見開いたのち、隣に立つナリアンの横顔を見つめた。
「あ……」
 はくり、言葉を失った女のくちびるが音もなく動く。身長の差で、どうしてもナリアンを見上げる形でしか視線を重ねられない、女の頬に朱がさした。視線が落ち着きなく彷徨ったのち、女の指先にちいさく、震えが走る。震え、だとナリアンが感じるくらいに。弱い力だった。
「……あ、り、がとう。え、えっと、えっと……そ、それで! 星降に帰るにはこっちだったかなっ?」
『寮の中の『扉』が、一番近いと思いますが』
「外を……歩きたいの。中庭に繋がる、扉、あるでしょう? そこへ行きたいの。……だ、だめ、かな」
 だめなら、近い方で構わないから連れて行って、と告げる女の希望を叶えない理由は、ナリアンには無かった。眠気がない訳ではないが、目が冴えてしまっている。まっすぐに引かれた線。迷いなく、紡がれた火の色が、今も瞼の裏に残っていた。ふるりと首を振り、ナリアンはそっと足を踏み出した。
『いいえ。俺もこの時間に出歩くことは稀なので、迷ってしまうかも知れませんが。それでよければ』
「君は道に迷わないわ」
 ソキちゃんと一緒に歩く時よりはもうすこし歩幅を大きくかな、と考えながら歩くナリアンの隣で笑いながら、女はきっぱりとした響きで言い放った。それがあまりに自信に溢れ、確定的であった為に、ナリアンは驚いて女を見下ろした。女は、もうナリアンを見ていなかった。視線は進むべき道の先へ向けられ、時折、ひどく大切なもののように繋がれた手へ降ろされている。女を包む夜を照らしたがるよう、不死鳥は二人の数歩先を、のんびりとした態度で飛んでいた。風の影響を受けず。鳥はひとと、同じ速度で進んだ。
「君の道行きは風に導かれる。迷うことなど、決してないわ。そうでしょう?」
 一瞬だけ持ちあがった瞳が、どこか怯えたような、悔いたような眼差しをするナリアンに、笑いかける。
「そうでしょう? 風の……今は、まだ、黒魔術師と呼ぶべきかな。君は、風に、とても愛されている……」
 ナリアンと繋がぬ女の手が、空を泳ぐように持ち上げられた。指先はまっすぐに鳥を、その体を形作る火を指し示す。
「私の火はただの魔力だけれど、君の風は君の魔力ではない。君の風は、世界。祝福と、祈り。君への愛情。愛情を怖がる必要はないわ、ナリアンくん。それは君を傷付けることをしたかも知れないけど、温かく癒すこともしていた筈。ナリアン、君は、それを知っている筈よ」
『……っ、あなたに』
 なにが、分かるんですか、と。苛立ちと共に叩きつけそうになった怒りは、衣を揺らす強風となって具現した。ばたばたと風に服を煽られながらもまっすぐに立ち、女は静かに、それでいて親しげな眼差しを崩さないままにナリアンを見つめ返す。私は、と女はやわらかに告げた。
「君がどう生きてきたか、魔力がどう、影響してしまったか。それはなにも知らない」
『なら!』
「けど、君の風が君の魔力でないことなら分かる。私のように、内側に留めて置けず常に使い続けることでしか、意識を保って置けないのとは全く違うっていうことなら、分かるの。……ナリアンくん」
 聞いて、と女の手が強く、ナリアンのそれを握り締めた。
「私たちは……いえ、魔術師はね、ナリアンくん。自分から、決して、逃げられないのよ。私たちは、私たちであることしかできない。他のなにものにもなれない。望んでも、どんなに祈っても、私たちは私たちにしかなれないの」
 張り詰めた糸を切ったように、そよ風が、女の肌をひと撫でして消えて行く。女はまっすぐ、ナリアンを見つめていた。
「他の誰かみたいになろうとしちゃいけない。あなたは、あなたになるのよ。私が、私であるように。……君はこれ以上、自分から逃げてはいけないわ。ナリアンくん」
 もうそろそろ、夢から醒めなさい。そっと諭すように、ひかりの色を宿した瞳で、女は笑う。
「恐れず、厭わず、あるがままに……。流星の夜を超えた魔術師のたまご。君の魔力はこれからどんどん成長していく。その力が、己の身を食い破る時もあるでしょう。けれど恐れないで、厭わないで、怖がらないで。覚えていて。君を恋慕う風は、君の魔力そのものではないこと。ロリエスは優秀な教師よ。迷う時、立ち止まる時、必ずその背を押してくれることでしょう。ちょっと手荒かも知れないけど、君にはそれくらいが良いのかもしれない。……私も、起きている時には話を聞けるから、よかったら会いに来て。さあ、もうここまででいいわ。どうもありがとう」
 繋いでいた手を離し、歩いて行く女を、ナリアンは茫然として見送った。いつの間にか『学園』を囲む森を抜け、『扉』のある、やや拓けた空間まで辿りついていたのだ。女は振り返りもせず『扉』に手をかけた。動きが、一度だけ止まる。舞いおりた不死鳥を肩に止まらせながら、女は考え込む表情でナリアンを振り返った。赤く。火に艶めく瞳が、まっすぐにナリアンを射抜いた。
「気をつけて帰ってね」
『……はい』
「……手を、繋いでくれて、ありがとう」
 はい、とナリアンが意志を響かせるより早く。羽ばたいていく鳥のような動きで、身軽く、女は『扉』の向こうに姿を消してしまった。静まり返る場にひとり取り残され、ナリアンは己の手に視線を落とした。それを、強く、握りこむ。あざやかに差し込む、光に触れたような。燃え盛る火に、手をかざしたような。暖かで、ほんのすこし、痛い熱が。まだ残っているような、そんな気がした。



 肌をぞろりと這って行く夥しい程の魔力に、ストルは一瞬で眠りから覚醒した。寝台から身を起こそうとするが、肩が強く押さえ付けられていて身動きひとつ取ることが出来ない。触れられているのは肩だけであるが、全身を押さえ付けるように、魔力そのもので圧がかけられている。灯篭に宿した火は消されていて相手の顔を見ることは出来なかったが、こんな風にでたらめな魔力の使い方を出来る相手は限られた。その中でストルにこんな馬鹿げた真似をしかけてくる者など、一人しかいない。喉を締めつけるような息苦しさに眉を寄せながら、ストルはどういうつもりだ、と顔を覗き込んでいる影に問いかけた。
「レディ。離してくれないか……なにを怒っているのか知らないが」
「怒る?」
 馬鹿にしたような声の響き。笑い声は確かに響き、直後、燃え盛る火の熱がストルの全身に叩きつけられた。瞬きより早く不死鳥を具現化させ、その光で室内を赤々と照らしだしながら、女は不愉快そうに目を細めている。獣が獲物を押さえ込むように、ストルの肩に全体重をかけて押さえ付けながら。同僚の顔を覗き込み、女はゆるくその口元に笑みを浮かべた。
「あなた、私が怒っているように見えるの?」
「……違うのか?」
「違わないわ。確かに怒ってる、けど……こんな時間に女が部屋を訪ねたのなら、他に聞くべきことがあるんじゃない?」
 今まさに獲物に止めを刺さんとする獣のような目をしてなにを言うか、と思いながらも、ストルは女の気まぐれに付き合ってやることにした。どうせこの会話をこなさなければ、離してやるつもりも、眠らせてやるつもりも、ないに違いないのだから。全身にかかる圧は、骨を軋ませる程に強くなっている。息を浅く繰り返しながら、ストルは不愉快げに女へ向ける眦を険しくした。
「それでは、レディ? こんな夜更けに、なにを?」
「あら、決まっているじゃない」
 問いは、女の気に入るものであったらしい。機嫌の良い笑みになりながら、女は首を傾げて言い放った。
「夜這いしに来たの」
「帰れ」
 気力で頭の下の枕を引き抜き、それを全力で女の顔に投げつけたストルの体から、ふと圧力が消え去った。枕を顔で受け止めた女が、びっくりして魔力を拡散させてしまったらしい。濃密な、それだけでも息苦しいような火を思わせる魔力が、拘束を解かれて空気へ溶け消えて行くのを感じる。寝起きとはとても思えない疲弊し切った体を寝台の上に起こし、ストルはつまらなさそうに唇を尖らせる女へ、ぞんざいな仕草で手を払った。
「帰れ。相手をしてやるつもりはない」
「ちょっとした冗談じゃないの……。鼻打った、痛い……」
「話があるなら、朝に聞こう。学園に来ていたのを、置いて帰ったのは悪かった」
 言ってから、ストルは女が一人で帰ってきたのであればこの時間に星降の王宮内にいる筈がないことにも気が付いたのだろう。誰に送ってもらったんだ、と視線で問われるのに、女は柔らかな笑みを浮かべ、ナリアンの名を囁き落とした。そうか、と無感動に頷きながらも、ストルの手が床に落ちた枕を回収していく。埃を払い、形を整えて、ストルの手が枕をぽん、と寝台へ戻した。
「明日、会ったらお礼を言っておくことにしよう。寝るから部屋を出て行ってくれるか?」
「話があるって分かってるのに、追い出す?」
「言っただろう。朝に、なったら、聞く」
 眠いんだ、寝かせろ、と文句を言うストルに、女は深々と息を吐きだした。
「あなた、もしリトリアちゃんが訪ねてきたとしても同じ対応するの?」
「まさか。……こんな時間に来るくらいだから、なにか悪い夢でも見たんだろう。暖かい飲み物を飲ませて、落ち着かせて、そうしているうちに眠ってしまうだろうから、朝になったら部屋まで送るが?」
「夜這いに来たの、って言ったら?」
 その手慣れた対応、どうかと思う、と言わんばかりの笑みで問いを重ねる女に、ストルはふと笑みを深くした。
「男の怖さを知らずに言うものではないな。……朝になったら部屋まで送るが?」
「うわぁ……」
 これでどうして嫌われているなんていう勘違いが出来るのかと思うが、そうなった理由も女は知っていたので、呆れに息を吐きだしただけだった。あの二人は、絶望的に話し合いが足りない。さあもう良いだろう、帰れ、とひらひら手を振って追いだしたがるストルに、魔法使いは不愉快な気持ちを再燃させた。不穏な気配に気が付いたのだろう。怪訝そうに、なんだ、と問いかけてくるストルを睨みつけ、女は椅子を寝台の傍に手繰り寄せて座り、腕組みをしてから口を開いた。
「単刀直入に聞くけど、あなたリトリアちゃんのことどう思ってるの?」
「世界で一番可愛いと思っているが?」
「喧嘩売るような口調で直球で惚気られた……やだもう私挫けそう……」
 先に喧嘩を叩きつけたのは女の方であるのだが。椅子の上でぐったりする魔法使いを訝しげに見やり、ストルはやや眠そうな顔つきで朗々と言った。なにもおかしなことなど言っていない、と主張する表情だった。
「リトリアは、可愛いだろう」
「本人にちゃんと言ってあげた?」
「……レディ。さっきからなんなんだ」
 なにを言いたいのか分からない。苛立った風にそう告げるストルに、女は肩をすくめ、椅子に座り直した。
「依頼が来てるの。依頼っていうか、陛下は頼みごととしか仰らなかったけど。あれは実質的に私への依頼の予告で、そう遠くない時期に実現してしまうことだと思ったから、ストルに言っておこうと思って?」
「……なにを」
 苛々と問うストルに、魔法使いは憐れむような表情を向け、息を吸い込んだ。
「予知魔術師を殺す者になれ、と」
「……は?」
「リトリアちゃん、三ヶ月に一回くらいは『学園』に戻らないといけないことになりそうなの。体調の問題でね。そこは、詳しくは私は知らないんだけど……その外出の為に、もうちょっと保険が必要っていうか……。もうすこし待遇をよくする為に、殺す相手と守る相手を、一応でも決めておこうかっていう話になっているみたいよ? 今、まだ、協議中みたいだけど。私が、殺す方。守る方はフィオーレ。……あなたと、ツフィアじゃなくて」
 本決まりになってもあくまで仮決定みたいな措置だから、私としては受けてしまってもいいんだけど、と不本意そうに魔法使いは膝に肘をつき、手にあごを乗せて目を伏せた。
「あの子は、卒業の時に私を守ってくれるひとも、殺してくれるひとも、いないって言ったの。選べないって。……選べないっていうのは、候補がいた、ってことよね? それはもちろん聞かれたわよ? 最終的に予知魔術師本人の意思確認が必要ないとはいえ、各国にだって候補者の情報は届いてた、なのに……心当たりもいない。迷惑もかけたくない。だから探さないでください、お願いって言って、泣いて……あの子の身柄は楽音の王宮預かりになった。ねえ、ストル」
「……なんだ」
「私、あの子を愛してないけど、殺すことができるのよ?」
 そして、あの子を守る役目はフィオーレのものになるんだわ、と囁き落とし、魔法使いは伏せた視線を持ち上げて、ストルのことを真正面から見た。いますぐに女が部屋を出て行ったとしても、朝まで眠ることすらできないであろう、強い意志が魔法使いを睨みつけている。口元に笑みを浮かべて椅子から立ち上がり、女は静かに、考えなさいな、と言った。
「時間の猶予は三ヶ月。それまでに動きがない限り、私とフィオーレがあの子を貰うことになる」
「……レディは、それで、いいのか」
「陛下がお決めになったことであれば、私はそれに否を唱えられる立場ではないの。……まあ、気のりはしないけど? いいんじゃない? 別に。今のままでいるよりは」
 残念ながら私はあの子を愛しているとは言い難いけれど、好きか嫌いかで言えば可愛いと思うし好きだとも思うから必要とあらば殺してあげるくらいのことをしてあげてもいいと思うし、と告げながら扉へ向かい、魔法使いはそれじゃあおやすみなさい、と肩ごしにストルを振り返った。
「ああ、そうそう。私明日、楽音に出かけてくるから」
「そうか。……道に迷え」
「かっわいくないの!」
 笑いながら部屋を出て行く魔法使いをぐったりした気持ちで見守り、ストルは深く息を吐きだした。気のせいだろうか。頭痛がする。頭に手を押しつけながらまた深く息を吐き、ストルはひとつの指輪を取り出し、手の中に強く握りこんだ。指輪の内側に埋め込まれたアクアマリンは、以前の武器からそのまま継承されたものだった。かつてのストルの武器の名を、銃。今はメーシャの手の中にある、世界にたったひとつ、純粋にひとを殺す為だけの武器の、名残だった。
 記憶の中で、藤花色の瞳を輝かせ、少女が笑う。胸を掻き乱される想いに指輪を握る手に力を込め、ストルは少女の名を呟いた。ストルさん、と記憶の中から甘やかな声が呼び返す。何度も、何度も。一番最後に。震えながら泣くように、囁かれた声までも。思い返して、ストルは強く目を閉じた。眠れそうにはなかった。



 真夜中に。誰かに名前を呼ばれた気がして、ひとり、リトリアは身を起した。薄暗い部屋の中、視線を彷徨わせるが、しんとするばかりで誰の姿もない。寝ぼけてしまったのだろうか、と思いながら寝台に逆戻りして、リトリアはふと暗がりの中、腕を伸ばした。指先は誰に触れることもない。抱き寄せてくれる腕も、繋いでくれる手も。かつてはあり、そして今はなくなってしまった。無性に切ない気持ちになって目を閉じ、リトリアはくちびるでその名を囁く。声に出すことはしなかった。呼んで、なにも返ってこないことが、一番恐ろしくてならなかった。涙が零れ落ちて枕をぬらす。シーツをぎゅぅっと握り締めて、リトリアは息を吸い込んだ。
「……さみしい」
 声はなく、触れて暖める体温もなく。長い夜をひとり、耐えるようにリトリアは目を閉じた。

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