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 君ありて幸福

 ナリアンの目の高さに貼られた紙には、『茶会部の部室』と書かれていた。なんの飾りもない単純な白い紙であるが、華やかな印象があるのはそれを扉に留めているのが、布とリボンで形作られた花飾りだからだろう。淡い緑の葉に飾られ、柔らかな砂色で作られた花がどこかちんまりとした印象で咲いている。飾りを花束に見立て、くるくると巻かれた細い絹のリボンはうっとりするような赤だった。透明な水に落ちた紅玉を思わせる色彩。その色に見覚えがあったのは、恐らくはリボンの幅が違うだけのものが、ソキの髪に常に結ばれているからである。一房を単に結んであるだけであったり、細い三つ編みの先端で揺れていたり、編み込みを纏めていたり。日によって様々な使い方をされている。ソキの髪からそのリボンが消えているのを、ナリアンは見たことがなかった。他の髪飾りを所有していない、という可能性はまずありえなかった。
 入学式の翌日、ソキあてに届けられた一部屋を埋め尽くす物品を思い出し、ナリアンはやや遠い目で明後日の方向を眺めやった。そういえば、あれはどうしたんだろう。それを使ってロゼアがせっせとソキの部屋と、時に少女が一日の半分以上を過ごす己の部屋を整えていたのは知っていたが、それにしてもまだ余るような気がしてならなかった。送り返したのだろうか、と考えながらナリアンは息を吐き、視線を再び、己の目の高さに飾られた布の花飾りに戻した。優しい印象で整えられた花飾りは、どれもソキを象徴する色に他ならなかった。つまり、ここが今日から活動を開始する、茶会部の部室である。寮と隣り合わせに建てられたあまり使われていない授業棟の、南向きの一部屋。元はどこかの国のごく小規模な離宮であったというその建物は、主を失ってなお気品のある佇まいで学園の生徒たちを出迎える。
 時折、錬金術師向けの実技授業が行われる他はほぼ使われていない建物に、午後をすこし過ぎたばかりの、温かなひかりが満ちていた。廊下の端から端をすり抜けて行く風に、瑞々しい花の香りが混じっている。胸いっぱいに吸い込んで、約束の時間、ちょうどであることを確認し、ナリアンは扉を叩いた。はい、と声がする。椅子から立ち上がったのであろう気配がして、てってててっ、と急いで慌てて扉へ向かってくる音がした。うわああぁあっ、とナリアンが焦って扉を開けようと手を伸ばすのと、それは、ほぼ同時だった。びたんっ、と容赦なく転ぶ音がした。勢いよく扉を開け放ったナリアンが見たのは、床の上に座りこみ、鼻を両手で押さえながらすんすんとしゃくりあげる、しょんぼりとしたソキの姿だった。
 痛かったのだろう。ぷるぷると小刻みに震えながら拗ねたような目つきで、ソキはもおっ、と己の足を見下ろした。そうしながらも慣れた仕草でふらふらと、ひとりで立ち上がったソキは、助けるべきか見守るべきか迷っている間に解決してしまったことへの後悔めいた顔つきで立ちつくすナリアンの前まで、今度は落ち着いた足取りで歩み寄った。立ち止まり、顔を見上げてから、ふわりと微笑んで一礼する。
「こんにちは、ナリアンくん。茶会部へようこそいらっしゃいました。お時間通りです」
『こんにちは、ソキちゃん。……怪我はしていない? 痛いところは?』
「大丈夫ですよ! ソキねえ、丈夫なんです」
 えへん、と胸を張るソキは、見た所、本当にどこも怪我をしていないようだった。鼻もちょっと打ったくらいで、赤くもなっていない。よかった、と胸を撫で下ろすナリアンに、ソキはくすぐったげにはにかんだ。
「ソキね、あんまり怪我はしないんですよ。転んじゃってもすぐ治るです」
『でもよく熱は出るよね?』
「あんまり怪我はしないんですよ!」
 ごり押しのにっこり笑顔でそう言い切り、ソキはナリアンに両手を伸ばし、じゃれつくようにその腕をやわく引っ張った。
「ナリアンくん。お席にどうぞ」
 ソキね、ロゼアちゃんに手伝ってもらってちゃぁんと用意していたんですよ、と甘くふわふわした声で囁かれるのに、ようやく、ナリアンは余裕を持って室内を見回した。部屋の奥は一面の硝子戸になっていて、寮やその前に広がる小庭を眺め下ろす作りになっていた。差し込む光が強すぎないように、半透明の繊細なレース生地が硝子戸の半分を覆っている。その前に置かれた二人で使うには広すぎる長方形の作りは、横並びに三人並んで座ってもゆったりとした空間を感じることができるだろう。机には生成りの布が引かれ、端に様々な瓶が置かれていた。瓶の中身は薬草や香草、数種類の紅茶の葉と、愛らしい色合いのまるい飴玉、いくつかの焼き菓子だった。机に、向かい合わせになるように置かれた椅子の数は、二つ。使われる予定のない椅子は、まとめて部屋の片隅に並べられていた。
 その椅子の上にもソキの私物であろう人形やら、花飾りやら、クッションやらがぽんぽんと並べられている。それを見て、ナリアンはふと気が付いた。扉に、ナリアンの目の高さに合わせて花飾りをつけたのもロゼアだろう。ソキには背伸びしても難しい高さだ。二人で午前中から、部屋を整えてくれたに違いない。ロゼアは午後から狂宴部に引きずられて行った為に不在であるから、ナリアンは用意された椅子をひき、そこへ腰かけながら、正面に座るソキに視線を合わせて微笑んだ。椅子の高さも、調整されているのだろう。食堂や談話室でそうするよりも楽に、ソキの目を覗き込んでナリアンは意志を伝えた。
『ありがとう、ソキちゃん。……お茶は、俺がいれても、いいかな』
 もちろん、ソキちゃんが嫌でなければ。控えめに揺れたその意志は、茶会部の表向きの活動内容が『ソキがその時々の気分で飲みたいお茶を淹れて楽しむ』というものだからである。従ってソキが用意するのが本来であって、それをもし楽しみにしていたのであれば、というナリアンの杞憂は、ソキが頷いたことで霧散した。
「はい。お願いしますですよ。ソキね、お勉強できればそれでいいです」
 お茶は飲めればそれで良く、特にこだわりがある訳ではないらしい。ソキは机の上に置いておいた教本とノートを手元に引き寄せ、ゆるく締められていたインク壺の蓋をあけると、あ、と目を瞬かせて硝子瓶を指差した。
「飴と、クッキーと、焼き菓子があるんですよ。ナリアンくん、好きに食べてくださいね」
『いいの……? ソキちゃんのじゃないの?』
 正確に伝えるならば、ソキちゃんの為にロゼアくんが用意してくれたものじゃないの、である。俺はいいからソキちゃんがお食べ、と伝えると少女は先程の飲み物同様、ふるふるふる、と素直な仕草で首を振った。
「この間、家から届いたんですよ。ロゼアちゃんが瓶に入れてくれました。飴はね、桃とね、林檎とね、葡萄とね、薄荷とね、お塩とね、薔薇とね、菫のがありますです。クッキーはバニラの匂いがするのと、あとなんか三種類くらいあるですよ。焼き菓子はおいしかったです」
『……ソキちゃんは、飴が好きなのかな?』
 ものすごく分かりやすい説明に笑いを堪えながらナリアンが問うと、ソキはふわんふわんした幸せそうな笑顔で頷いた。のちほど、ありがたくクッキーと焼き菓子を頂く決意をしながら、ナリアンも持って来た教本を机に置き、辞書を置き、机に向かい直した。ソキはすでに黙々と教本を読んでいる。時折、読む目を休めるように硝子ペンを持っては、さらさらとノートになにか書き記し、それだけでまた黙読へ戻って行く。三十分、時々様子を観察していて、ナリアンはそれに気が付いた。ソキの手元には辞書がない。そして、それを必要としているそぶりも見せなかった。思わず訝しげな顔つきになりながら、ナリアンはそっとソキに意識を向ける。
『ソキちゃんは……なんのお勉強をしているの?』
 同じ新入生であれど、受けている授業は個人によって大分異なる。もちろん、同じ授業もいくつかあるが、基本的には自由設計だ。ソキの読む教本の表紙は、ナリアンには見覚えのないものだった。ソキはきょとん、と目を瞬かせながら、んと、と考えながらノートをナリアンへ差し出した。
「予知魔術師の、魔術の、実技授業の、お勉強? なんですよ?」
『それは、俺が見てもいいの……?』
「だめなんですか?」
 聞かれても、ナリアンには分からない。どうかな、と怖々ノートを受け取り、純粋な好奇心で、ナリアンはそこへ視線を落とした。書かれていたのは、綺麗に整えられた印象の強い文字だった。少女特有の、可愛らしいくりくりとしたちいさな文字ではなく。それは記録に長けた者の文字だ。後世へ残す為の記録を転写する時、写本師たちは努めて、筆跡を整える。ソキが書くのは、そういう文字だった。内容よりもその文字の意外さに目を瞬かせ、ナリアンはしみじみと、心からの感想として告げた。
『ソキちゃん……きれいに、字を書くね……!』
「ロゼアちゃんもねえ、こういう風に書けるんですよ!」
 褒められたことへの喜びより自慢げに、ソキはえへん、と胸を張って言った。それから、ひょい、とナリアンの手元を覗き込んで来た。
「ナリアンくんの文字も、とっても読みやすいです」
『ありがとう。でも俺は、写本師だったから……』
 職業柄だよ、と苦笑するナリアンを、ソキはまじまじと見つめた。光を抱く鉱石めいた瞳が、不思議そうに揺らめいている。しょくぎょうがら、です、と未知のものに突き当たった、たどたどしい響きでそれを口にして、ソキはこてん、と右に首を傾げた。
「ナリアンくん、しゃほんしさん、です?」
『う、うん』
「……本を、書く、おしごとのひと、です? 数がすくない本を、書きうつしたり、する……?」
 記憶を手繰り寄せて難しげに眉を寄せながら、ソキはナリアンを注視し続けていた。なにかおかしいことを言ってしまっただろうか、とどぎまぎするナリアンに、ソキはやがて、心底感心したように息を吐きだした。
「ナリアンくんは、お仕事をしていたひとなんですね……!」
 十五の成人を迎える前後に学業を終え、親の庇護を離れ、働きだすのが一般的な在り方だ。けれどもソキは、本当の意味で、そうしていた者に会うのがはじめてなのだろう。やたらきらきらした目で見つめられて、ナリアンは居心地が悪そうに身じろぎをした。いつもなら、だいたいこれくらいでロゼアがソキをたしなめてくれるのだが。『寮の窓を拭く。窓という窓を拭く。ひとつ残らず拭く。覚悟しろ窓という名を持つ窓どもよ! ぴっかぴかにしてやる! 格好よく、そして華々しく、かつ効率を忘れず、そしてスタイリッシュに! エクストリームに!』という本日の狂宴部に参加しているロゼアが、この場に現れる気配はなかった。よって、好きなだけナリアンをきらきらした目で眺め倒し、ソキは満足したそぶりでうん、と大きく頷いた。
「ナリアンくんのおてては、文字を書く人のおててなんですねぇ……!」
『そう、だね』
「……あれ?」
 ソキはナリアンの手を見つめ、己のそれに視線を向けたあと、もう一度ナリアンのてのひらに目をやった。きょときょと、せわしなく見比べる視線に、ナリアンはほんわかした笑みを浮かべる。なにがしたいのかちっとも分からないが、ともあれ、ソキの動きは見ていて愛らしい。砂漠の花嫁。ほの暗い事実がナリアンの気持ちを薄く陰らせるより早く、机に身を乗り出したソキが両手を伸ばして来た。
「ナリアンくん、ナリアンくん! て、て! みぎて、かしてくださいですよ」
『右手? ……えっと、こう?』
 伸ばされたソキのちまいてのひらに対して、おて、をするようにぽむりと右手を貸し出したナリアンに、ちょっと違うんですよぉ、とむずがるように口にして。ソキはナリアンの右手と、己の右手を机の上でぺたりとくっつけて、しばし沈黙した。えっと、とナリアンが困惑に首を傾げる。どうしたというのだろう。考える間にソキはふるふると体を震わせ、じわぁっ、と涙を浮かばせて。心から衝撃を受けた声で、言い放った。
「ナリアンくん……!」
『……うん?』
「おてて、おおきい、です……!」
 それでソキもしかしてちっちゃいのではないですか、と完全に今気が付いた者の声で涙ぐまれるのに、ナリアンはそーっと、ソキから手を離して。上手く慰める術を持たないが故に、よし、と力強く決意した。お茶を淹れよう。いや決して現実逃避とかではなく。温かいお茶は気持ちを宥めてくれる筈だし、美味しいし、うん、それがいい、よしそれでいこう。椅子から立ち上がり、ナリアンは茶葉の入った小瓶を眺めがてら、やぁんやぁんっ、とむずがるソキに、飴玉の入ったそれを手渡した。ソキはくすんくすん、鼻を鳴らして悲しがりながら小瓶を受け取り、飴をひとつぶ取り出すと、はくんと口の中へ入れた。ぱぁあっ、と顔があかるくなる。
「ぶどうあじ! です!」
『ソキちゃんはもしかして、飴、すごく、好き?』
「ソキねえ甘いのしあわせなんですよー」
 うふふ、と幸せにとろけきった笑みで告げられて、ナリアンは覚えておこう、と思った。そして、紅茶の入った小瓶の蓋をあけ。立ち上る芳しい香りに、やわらかく目元を和ませた。



 ナリアンがそれに思い至ったのは、二回目の部活を開く前日。火曜日の夜のことであった。慌てて部屋を飛び出せばちょうど、湯上りのほこほことしたロゼアが濡れ髪を布で拭いつつ、廊下を歩いて行く所だった。ちょっと待ってっ、とばかり駆け寄り腕を引っ張って、ナリアンはうわっと声をあげて驚くロゼアの瞳を、どこか切羽詰まった様子で覗き込んだ。
『ロゼアくん……俺、お願いがっ、あって!』
「う、うん? ナリアン、落ち着いてくれて大丈夫だから」
『明日の部活でもしよかったらなんだけど、俺がお茶菓子を用意してもいいかな。お茶菓子というか、俺がクッキー焼いてもいいかな……!』
 そうだ、クッキー、焼こう、とナリアンが思いついたのはほんの五分前。就寝前に授業で書いたノートをまとめていたら、夕食を食べた筈なのに口とおなかがさみしくなり、甘いものが欲しくなった時のことだった。幸い、自炊室には生徒が自由に使っていい設備が整っており、バターや砂糖、卵、乾燥果物なども二十四時間、申請すればいつでも使用可能な環境が整っている。その昔、真夜中におなかが空いたとある黒魔術師が朝まで食料がない腹立ち紛れに片っ端から同輩に地味な呪い、柱の角に小指をぶつける、水を飲むと必ずむせる、目の前を黒猫が横切りかつ馬鹿にしたような目で見て立ち去って行く、などを魔力の限界までかけ続けた為の、二十四時間体勢なのだった。黒魔術師たちの生活する三階の廊下には、今も『八つ当たりでの呪い、だめ、絶対』と張り紙がされている。
 クッキー、とロゼアは呟いたのち、考え込むように視線を巡らせた。やがてぽつりと、雨だれのように言葉が向けられる。
「……ソキがなにか言った?」
『ソキちゃん? ううん。……ソキちゃん、焼き菓子はあんまり好きじゃない? だったら、無理にとは言わないけど』
「ソキは別に焼き菓子嫌いなんじゃないよ。あんまり量が食べられないから、好んで手を伸ばさないだけ。味は好きなんだ」
 歯とあごが疲れるからねえソキもういいんですよ、とほにゃりと笑って告げるソキの声が、ナリアンの中で再生された。そういえばソキはヨーグルトやプリンなど、あまり噛まないで食べられるものを好んで口に運んでいる。飴も同じような理由で好きなのだろう。そっか、と頷き、ナリアンはやや思案顔になった。
『じゃあ、柔らかいタイプのクッキーにしようかな。……作っても、いい?』
 ロゼアは己の記憶を探るような眼差しで視線を地に伏せ、しばし沈黙したのちに、一度、静かに頷いた。
「うん……。あ、ただ、ソキが口にする前に、俺、味見してもいいか?」
『もちろん! ロゼアくんのも、メーシャくんのも、たくさん作るね』
 それじゃあおやすみなさい、また明日ね、とロゼアと別れ、ナリアンはそわそわとした足取りで自炊室へ向かった。階段を下りて行くその背を見送り、ロゼアも身をひるがえす。自室の扉を開けながら、ソキ、と呼びかける声はまろやかに、夜の静寂へ消えて行った。



 硝子の大瓶にざらざらと入れられたクッキーは、ざっと確認しただけで四種類あるようだった。これをソキが寝てる間に作ったんですねぇ、と妙な所に感心しながら、少女は視線を持ち上げてナリアンを見た。ナリアンは幸せそうに笑いながら、好きなのをお食べ、とソキにクッキーを促してくる。ソキは昨夜ロゼアから受けた注意と約束のひとつ、食べすぎておなかを痛くしたりしません、を思い出しながら、瓶の中にそーっと、そーっと手を差し入れた。選んだのは、赤い乾燥果実が練り込まれたクッキーだった。ふわりと苺のような、甘酸っぱい香りがする。やや大きめのいびつな丸に焼かれたクッキーを両手で持ち、ソキはナリアンにぺこん、と頭をさげた。
「いただきますです」
『はい。召し上がれ』
 ソキはクッキーをためつすがめつ観察した後、端にちいさく歯を立てた。もぐもぐ、ほんのすこしだけかじって食べて、不思議そうに首を傾げる。
「ナリアンくん」
『おいしく、ない……?』
「ナリアンくんがつくったです? ほんとう?」
 不安げな眼差しをまっすぐに見つめ返し、ソキはうすぼんやりとした記憶を手繰り寄せようとした。これと同じ味がするものを、どこかで口にしたことがあるような気がする。それはとても温かくて、そしてなんだか、泣いてしまいそうなくらい優しい印象ばかりが残る、いつ、どこで、だれと、どんな時に、がまったく思い出せない記憶だった。確かに、なにかの覚えがあるのに。また一口、ほんのすこしかじって、ソキはだんだん泣きそうな顔つきになってきたナリアンを、安心させるように笑った。
「おいしいです。ソキ、これ、とっても好きですよ」
『……ほんとう?』
「ほんとです。ナリアンくんは、お菓子がつくれるですね……! ロゼアちゃんもね、時々つくってくれるんですよ。でも、それとは違う味がしますです。ナリアンくんのクッキーは……なんだか、やさしい味がします」
 料理も、同じものを作ってもひとによって味が違うものだ。人柄が出るのだろう。ソキはちまちまとクッキーを端からかじりながら、安堵のあまり椅子の上でぐったりしているナリアンを見やり、ちょこんと首を傾げてみせた。
「ナリアンくんは食べないです? 休憩中です? お勉強おしまいです?」
『……もうすこししたら、勉強、するよ』
 ふわりと、貴婦人のまとう衣が足元で揺れ遊ぶように。優雅に、室内で風が動くのをソキは感じ取った。ナリアンは特に気が付いていないらしいその動きこそ、彼を愛する『風』の、喜びなのだろう。よかったわね、と喜ぶように。やわやわと揺れ動く風は、ソキの頬をも撫でて行った。ソキはちまりちまりとクッキーを丸の半分くらい食べ進め、それを白い皿の上に置いた。指先を布で拭い、ソキはあれ、とナリアンを見て目を瞬かせる。真正面の椅子に座るナリアンは、なんだかすごく眠そうに見えた。おりしも、温かな陽光が室内を満たす午後三時過ぎ。お昼寝には良い時間だった。ソキもすこしばかり眠くなってふぁ、とあくびをしながら、ソキはそーっとナリアンに声をかけた。
「ナリアンくん。寝ちゃうですか?」
『ううん。……寝ないよ。勉強、したい』
「ナリアンくん。昨日はちゃんと眠ったですか? ソキが寝てる時にクッキー焼いてたです?」
 ナリアンは椅子の上で、もそもそ、眠たげに身動きをしたのち、ぐったりと頷いた。すでに半分眠っているとしか思えない仕草に、ソキはぴかぴかの笑顔で会話が通じている気がしないです、と思うと、己の椅子から床に体を滑り落とした。半分落っこちるような形で床に降り、ソキは机をぐるりと半回りして、目を擦るナリアンの腕に両手を伸ばした。腕にじゃれつくように甘くひっぱり、ナリアンくん、と呼びかける。
「おひるねです。ナリアンくん、お昼寝ですよ。ソキとアスルと一緒に寝るですよ!」
 昨夜、ちょっと夜更かししてしまったソキは、眠くなったらちゃんと寝るんだぞ、というロゼアの言いつけをしっかり実行できるように、勉強道具と一緒にアスルを部室まで運んで来ていた。部屋にはふかふかした大きなソファがあり、枕とブランケットも置いてある。ソキ用なのでナリアンにはちいさいかも知れないが、ないよりはましだろう。ロゼアちゃんがお昼寝の用意してくれたですよ、眠るですよ、と腕をぐいぐい引っ張ってくるソキに、ナリアンはなぜか心から癒されているような眼差しを向け、うっとりとした様子で意志を紡いだ。
『俺は、大丈夫。ソキちゃんはおやすみの時間なら、眠らないといけないね』
「ナリアンくんが寝ないなら、ソキは起きてることにするですよ。今こそソキのガッツと根性の出番です。ソキ、ねむたいのがまんできます。がまんなんですよ!」
 すでに半分くらい眠気を我慢できないほわんほわんした声で、それでいて気合いに満ちた宣言をするソキに、ナリアンはこれはいけない、と思ったのだろう。俺がちゃんと眠らせてやらなきゃ、と使命感に満ちた顔つきで椅子から立ち上がると、じゃあ一緒にお昼寝しようか、とソキに腕をひっぱられるままにソファへ移動する。もちろんナリアンは、眠るソキを守る騎士よろしく、起きているつもりだったのだが。ソファに辿りついたソキがちょこん、とそこへ腰かけ、ぽんぽん、と膝を叩いた時点で目論見は水泡に帰した。あれこれまさか、とぎこちなく笑むナリアンに、ソキは容赦のない満面の心から楽しげな笑みで、はいどうぞ、と言った。
「ソキねえ、ひざまくらとくいなんですよー」
 それに得意と不得意が合ったという事実を今初めて知ったんだけどそれはともかくロゼアくん助けて今すぐに迅速に、という眼差しでふっと遠くを眺めたのち、ナリアンはぎこちなく、首を左右に振った。
『……えっと』
 しかし、言葉が続かない。どう断れば傷つけないで済むだろうと悩むナリアンに、ソキは身を乗り出して服を両手でほんの僅か、摘んで下へ引っ張った。じー、と下から見上げる眼差しに、ナリアンの心が叩き折られる音がした。失礼します、とそろそろソファへ横になるナリアンの首辺りに手を伸ばし、ソキは容赦なく、青年の頭を膝の上へと導いた。そして、ひどく優しい仕草で髪を手で撫でてくる。やわらかく、ゆっくりと。するすると髪と肌に馴染む指先の体温は、眠りへ導く魔法をかける術を知っているようだった。適当な所で眠れないから、と体を起こす気でいたナリアンの意識が、あっけなく解けて夢へ沈んで行く。
 やがて深く寝息を響かせ始めたナリアンの頭を撫でながら、ソキもまた、眠そうに長く、あくびをした。他人が傍にいる場合、ソキは簡単に眠ったりしない。どんなに眠くても。ロゼアが傍にいれば話は別で、旅の間は、ソキにとっては案内妖精がそれに該当した。んん、とすこしばかり不思議そうにむずがり、ソキは眠たくて目を擦りながら首を傾げた。ここには、ロゼアちゃんも、リボンちゃんもいないです。どうして、と寝声のような発音でふわんふわん呟き、ソキはソファにおいておいたアスルに手を伸ばした。ナリアンの顔に当たらないように注意しながら、アスルをぎゅぅー、と抱きしめて顔を擦りつける。アスルはおひさまのにおいがした。
 二人分の寝息が響く部屋に。風がくるくると、踊るように吹いていた。愛し子の幸福を愛でるように。そのささやかな眠りを、守るように。



 ロゼアくんごめん俺ソキちゃんの膝枕で眠っちゃった、と懺悔するようにナリアンから言われて、数日後。ロゼアくんどうしようソキちゃんといると俺気が緩むみたいで眠くなるんだよねこれじゃなにかあった時にソキちゃんを守れないと思うんだ、と真剣な顔つきで、ロゼアはナリアンに相談された。なにかあった時って例えば、とロゼアが首を傾げる隣で、メーシャがナリアンはなにと戦ってるんだ、とまっとうな突っ込みをはなつ。ナリアンの返答は早かった。
『寮長』
 真顔である。
『寮長から、俺がソキちゃんを守らなくちゃ……!』
「ソキだいじょぶなんですよー、ナリアンくんはソキよりじぶ」
「ソキはもうちょっと眠ってような」
 膝の上でむくりと起き上がり、ほわんほわんした声でずばっと正論を言いかけるソキの口を素早く塞ぎ、ロゼアはおやすみ、と言い聞かせた。ソキははぁい、と頷くとまたロゼアの膝の近くへまるくなり、アスルを抱きしめてすうすうと寝入ってしまう。ほんとうに、ちょっと起きただけだったらしい。胸を撫で下ろすメーシャの持ち上げた視線の先、ナリアンはソキの発言に気が付いた様子もなく、眠る少女をやさしい眼差しで見守っていた。それは兄が、いとけない妹を守ろうと決意しているような。あたたかく、穏やかな感情のゆらめきだった。

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