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 褐色の地に一冊の本が落ちていた。辺りには木もなく草もない。焼け焦げた土の上、ひらかれた本が風にぱらぱらとめくられて行く。染みひとつない真っ白なページ。ことばはひとつもかかれていない。ソキは眩暈を感じてその場に座りこんだ。傍らで、本がめくられて行く。ぱらぱらぱら、白いしろいページがめくられていく。ことばはひとつもかかれていない。
『――わたしは、あなた。あなたは、わたし』
 闇空に滲みだす星明りのような声で、風にめくられながら本が歌った。
『わたしは写本、あなたの写本。祝詞を告げ、呪詛を囁く。あなたの声の全てを記す。あなたの言葉の全てを記す……けれど、ああ、たりない、たりない、たりない……予知魔術師、あなたの、わたしは写本。けれど、予知魔術師、あなたは……わたしは、あなたが、妖精と巡り合ったその時からの、あなたの写本』
 たりない、たりない、たりないの。あなたがたりない。わたしだけではたりない。ぱらぱらぱら、ページがめくられ、本が歌い続ける。夜明けを待つように、東の空は薄紫に染まっていた。
『思い出して、思い出して……それを忘れたままでは書きかえられてしまう』
 ソキのくちびるが弱々しく動く。本は風に煽られめくられ続けている。
『お願い、お願い。今度こそ……今度こそ、守って……』
 白いページに。
『ロゼアちゃんを守って……!』
 ことばはひとつも、かかれていない。



 心地良い熱に全身が包まれている。浅く息を吸い込んで、ソキは目を覚ました。ぼんやりと瞬きをする。寝台の近くに置かれた火はすでに消されていたが、部屋はほの甘い光に照らし出されていた。体を起こしながら視線を向けると、書きもの机にロゼアが伏せて眠ってしまっている。勉強をしていたのだろう。教本とノートが開かれたまま、動かない手の中にペンが握られていた。ソキは長いことロゼアの背を見つめ、胸に手を押し当てて息を吸い込む。名を、呼ぼうとした。その時だった。砂の、音がした。砂漠の砂がきよらかに降り積もる音だった。雨風に砕かれ風に運ばれたもっともきれいな砂は、触れる指先をすり抜け決して肌を汚さない。光に透き通り淡く金に艶めく、その、砂の音がした。封じられた砂時計がどこかで逆さまにされたように。静かな音を立てて降り注ぎ、積もっていく。
 こっち、と誰かに腕に触れられ引っ張られたような気がして、ソキは顔をあげた。柔らかい光と熱の満ちる部屋に、ソキとロゼア以外の姿を見つけることはできなかった。ソキはくちびるに力を込め、導かれたように立ち上がった。本当に数日ぶり、なんの助けも借りないで立ち上がった体が震え、足元がよろける。それだけで息切れがした。さらさらさら、砂の流れる音がする。きれいなきれいな砂の音。逆さまにされた砂時計。封じ込められた時が尽きる前に。行かなければいけない、と、思った。ゆっくりと本棚に歩み寄り、ソキはそこから己の武器を取り出した。抱きしめるように胸に抱いて、頷き、歩き出す。じれったいほどの速度で、ソキがロゼアの部屋から出て行く。その、あとのことだった。
 宝石を砕いて砂にしたような欠片が、ぱらぱらと寝台の上、ソキの眠っていた場所に降り注ぐ。淡く艶めく薄い黄の砂に、碧の欠片も混じっていた。きらめきの欠片は部屋を照らし出す火に乱反射し、その輪郭はひとりの少女のかたちを浮かび上がらせる。無音の靴音を奏で、それは眠るロゼアの元へ歩み寄った。火にあかく照らされ、瞼をとざすさまをじっと見つめる。くちびるがその名を呼んだ。音なく、声なく、ただ愛しげに。ぎゅぅ、とロゼアの瞼に力が込められる。うっすらと開かれた赤褐色の瞳が、それを見つめ、訝しげに名を呼んだ。
「――ソキ?」
 それは、しあわせそうな微笑みを残し、瞬きの間に消え去った。後には静まり返る部屋だけが残る。寝ぼけたのか、と思いながらロゼアは伸びをして、寝台を振り返り、目を見張る。そこで眠っていた筈のソキの姿が、消えていた。はっと息を飲んで椅子から立ち上がる。閉ざされていた筈の扉が、中途半端に開かれていた。暗く静まり返った廊下には、誰の姿も見ることができない。砂が降っていた筈の寝台には、なにも残されていなかった。



 名前を呼ばれた気がして、ソキはぱちりと瞬きをした。その瞬間、体にはっきりと意識が戻る。あれ、と息を吸い込んでソキは首を傾げた。いつの間にか、ソキは薄暗い一室の中に立っていた。小規模な図書館、あるいは広めに作られた個人の書斎を思わせるその部屋に、覚えがあった。武器庫の中。予知魔術師の武器が眠る、その部屋の中である。等間隔に本棚が並び、開かない窓の傍には書きもの机が置かれていた。そこに、誰かが、ソキに背を向けて座っている。
「……すまないけれど、いま、手が離せないんだ」
 振り返ることなく、ソキに声がかけられた。男のようにも、女のようにも聞こえない、ひどく不思議な印象の声だった。椅子に座る後ろ姿はほっそりとしていたが、背を丸めてなにか作業をしている為に、身長が高いのか低いのかすら分からない。机の上には火の入った灯篭が置かれている。かすかな心地良い、物音だけが響いていた。
「ああ、だめだ。……できれば間に合わせてあげたかったけれど、今はまだ難しいね」
 溜息をつき、目元を指で押さえたのが床に落ちる影の形で分かった。動けないソキに、影の主が振り返る。こんばんは、と柔らかく笑む面差しは甘いつくりで、はじめてソキはそれが男性だと分かる。三十代半ばくらいに見える男だった。椅子に座ったまま脚を組み、ゆったりと手を組んで、ソキを見つめるまなざしは優しい。誰、と問おうとソキがくちびるを開き、息を吸い込む動きが見えたのだろう。まるでその問いを拒否したがるかのような微笑みで、男はソキを手招いた。
「おいで。間に合わなかったけれど、どうにか、形だけは修復が終わったところだ」
「……しゅうふく?」
「写本の修復。……さ、こちらへおいで」
 その声を、どうしてか拒否することができない。眉を寄せながらもこくりと頷き、ソキはそろそろと足を踏み出し、男へと歩み寄った。火の明りがソキに触れる程近くまで行くと、作業机が目に入る。机の上には紙束と針と、インクと、たくさんの紙と、そして。真新しい、一冊の本が置かれていた。表紙には布が張られる予定なのだろう。色とりどりの帆布が机の端に寄せられていたが、一番近くに置かれていたのは、赤褐色に染められた一枚だった。ただし、力任せに引き裂かれたかのように、ぼろぼろの布切れになっている。よく見れば真新しく整えられた本も、中に使われている紙はよれていたり、しわが入っていたり、きれいなものは一枚もないようだった。表紙だけはようやく、汚れを落とし終えたのだろう。誇らしげに火の熱に触れ、きれいな白に戻っていた。水から掬いあげたばかりの、真珠のような色だった。
 花嫁の色だった。
「君の本だよ」
 男が言った。本を見つめ、息を止めてしまったソキに囁くように。
「予知魔術師。失わされ、壊され、穢されてしまった、君の……君の武器。君の写本だ」
「でも、ソキの、本は……!」
 ようやく息を吸い込み、告げながらもソキはその本から目が離せないでいた。泣きたいくらい、すぐに分かった。これも、ソキの武器だ。それでも否定するのは、ソキがこの部屋で本とすでに巡り合っているからだ。今、胸に抱く純白の帆布が張られた本こそ、予知魔術師としてのソキの武器。その筈だった。不意に、眩暈と共に夢がよみがえる。白いページが風にめくられ、本が歌い告げていた。たりない、たりない、と。
「あ……れ……?」
 息苦しく喉元に手を押し当て、ソキは何度も瞬きをした。怖い、と思った。同時に、ざらりと魔力が揺れるのを感じ取る。砂漠のすなが、吹き荒れる風に押し流されてしまうように。魔力が揺れて、息が苦しい。男は慌てる様子もなくソキの腕を掴み、その瞳をまっすぐに覗いて言う。
「思い出せ、予知魔術師。君が目覚めたのはいつだった。魔力をはじめて視認したのは?」
「……ソキ、は、ソキは……あ、れ」
 思い出す。空気中にきらめく星の欠片。たくさんの色が浮かんでは消えて行く。砂粒のような細かい光。太陽のそれとは全く違う、陽光を乱反射する魔力の粒。パーティーの時に見た光。それに眩暈を感じたのはどうしてだったんだろう。それに、どうして。見覚えがあると思ってしまったのだろう。空気中に溶け込む夥しい歓喜。毒のように輝いた魔力の光。
「思い出せ。君がいつ予知魔術師として目覚め、そして」
 男は、一度、迷い。そして、苦しげに言い放った。
「壊されたのか」
 ふ、と闇の中に閉じ込められた。目の前がまっくらに塗りつぶされてなにも見えない。瞬きしてもなにも分からない。けれど、ちがう。しっている。あの部屋にはひかりがあった。太陽の光ではなかったけれど、それはなにかを乱反射して煌いていた。星のようだった。満天の星空のように明るく、だから、眩暈がしていた。はじめて視認した魔力の輝きに、酔ってしまったのだ。楽しげな笑い声がする。
『ああ、ほぉら、やっぱりネ。……キミが僕のお人形さんだ』
 おぞましいほどの喜びがそこにあった。零れ落ちる魔力が息苦しいほど、部屋中を埋め尽くしていた。もがく腕に枷がはめられ、典雅な音を立てて寝台に落ちる。
『予知魔術師。キミはそう呼ばれる。魔術師なんだよ……そして、ボクのお人形さんだ。ようやく巡り合えた』
 浅く、速く、ソキは息を繰り返す。ばらばらに散らばった記憶の欠片に指先が触れる。怖い。怖くて痛い。痛くて痛くてたまらない。でも。ぎゅぅ、とくちびるに力を込めて、ソキはその感情を耐えた。むずがるように首をふって考える。怖いのはどうして。痛いのはどうして。今はまた、忘れてしまうとしても。思い出さなければいけない。忘れてしまっても、一度、思い出しさえすれば。武器がそれを守ってくれる。
『だから――これはいらないね、お人形さん』
 男の指先が胸に強く押し当てられる。とくとくと拍を刻む心臓の真上。冷たい指先が言葉を書きつけるように動かされる。そこになにがあるか知っていた。本能的に理解していた。そこにあるのは魔術師の魔力の器。魔力を溜めて置く水器。そして、もうひとつ。いつか、黒魔術師として目覚めるであろう、彼の、為の。『 』が。だめ、とソキの唇が動く。だめ、だめ、だめなのだめこわさないでこわさないでそれしかないのそれしか、せかいにひとつしか、ソキの胸のなかにしかそれはないのひとつしかないのだめなのそれがなくなったらそれがこわされてしまったらそれがくだかれてしまったらそれが。なくなってしまったら。たすけてたすけて、ろぜあちゃんたすけてろぜあちゃんろぜあちゃんろぜあちゃんっ。さけぶくちびるが煩いと言わんばかり、首に手がかけられ、体重を乗せて締めつけられていく。
 指先に魔力が込められた。男の目が笑う。
『壊してしまおう。キミは『 』でなくとも、ボクの道具であれば……それだけでいい』
「っあ、あ……あああぁっ、いやっ、いやいやああああっ! きゃああああああっ!」
 砕かれたのだ。魔術師として目覚めたほんの数秒後、言葉魔術師の手によってソキは砕かれた。その魔力の器ごと、胸に隠し守っていた『 』を見抜かれ、引きずり出され、盗られ、壊され、砕けてしまった。悲鳴をあげ、半狂乱になってもがくソキを、男は強く抱きしめた。
「……っくそ」
 魔術師の器は、魂に等しい。砕かれれば殆どの者は死に至る。それほどの痛みだからだ。だから、だいたいの魔術師はそれを忘却することで生き永らえる。目を反らしながらゆっくり、ゆっくり、形を思い出し整え再生させていく。ソキにはそれができない。自覚した瞬間に壊されてしまったからだ。いたい、いたいと悲鳴をあげながら訴えるソキを、男は抱きしめたままで頷く。
「そうだよな、痛いよな。……思い出させてしまってごめん。もう忘れていいよ。もういい。いいよ。大丈夫。経験はちゃんと本に刻まれる。君が忘れてしまっても、本が覚えてる。君の写本は必ず、君のことを守り抜く。……よく、自我を、保って……よく、生きて……くれたね……」
 ソキ、と呼ぶ声がする。どこかでロゼアが、ソキのことを呼んでいる。暗闇に差し込む太陽の輝きのように。その声が何度でも、ソキに形を取り戻させてくれる。涙を零しながらまばたきをして、ソキは弱々しく、男の胸を押し返した。
「かえらなきゃ……呼んでるです。ソキ、行かなきゃ……」
 男は頷いて、ソキから腕を離してくれた。息を整えて目元を拭いながら、ソキは机の上を眺める。ぼろぼろにされた、修復途中の本が見える。あれは、ソキの本だ。ソキの武器、ソキの写本。無理矢理目覚めさせられ、壊され、忘れさせられるまでの七日間。それでも確かに世界にそうあった予知魔術師の。守る為の、武器。ソキは男に視線を重ね、はきとした声で問うた。
「なおるですか?」
「……時間はかかる。必ず、とは言えない。そして……最後の最後は、君の意志ひとつだ」
「はい。……分かりましたです。ソキ、ガッツと根性で頑張りますですよ」
 よし、と気合いを入れるソキに、男はなんだかとてもとても優しい顔つきになった。うんそうだね、と言わんばかり頷き、男はしゃがみこんでいた姿勢から立ち上がる。
「それでは、行きなさい。……呼んでいるよ」
 頷いて何処へと歩きかけ、ソキはふと気がついて机の上をもう一度振り返った。赤々と火を揺らす灯篭の傍。ちいさな砂時計が置かれていた。光に透き通り淡く金に艶めく砂と、宝石を砕いて粉にしたような碧が入り混じって、さらさらと滑り落ちている。砂時計をソキの視線から隠すようにてのひらの中に持ち上げ、男はそっと目を伏せて囁く。
「これは、風の魔法使いと、希望の占星術師と……そして、太陽の黒魔術師。三人が、世界に飛び散り消えてしまった欠片を、集めて来てくれた結果だ。……そして、これがあるからこそ修復は叶う。皮肉なことにね」
「それは、なんですか……?」
「辿りついて欲しくない未来のひとつ、かな。……さ、いきな、お姫ちゃん」
 ロゼアが待ってるよ、と静かに笑うその男に頷いた所で、世界がやさしく切り替わった。



 気がつけば、ソキが立っていたのは武器庫たる部屋の中ではなく、そこへ繋がる『扉』の前だった。寒々しい廊下に、灯りだけが揺れている。吐息で空気を白く染めながら、ソキは泣き過ぎて痛む頭とだるい体を持て余し、ふらり、よろけて座りこんだ。自分が、どうして泣いてしまっていたのか、魔力がざわざわ揺れていて落ち着かないのか、まったく思い出せない。浅く息を繰り返しながら、ソキはすがるように本を抱きしめた。くらくらして立ち上がることが出来ない。遠くでざわめきが揺れているのを感じ取る。その声にふらりと、ソキは顔をあげた。
「……ろぜあちゃん」
 呼んでいる。ロゼアがソキを探して、名前を呼んでいる。行かなきゃ、帰らなきゃ、と思いながらソキは立ち上がった。ふらつく足に力を込めて、一歩を踏み出す。意識が揺れた。ふっと世界が遠くなる。
「ソキ!」
 呼び声と、走ってくる足音を最後に。ソキの意識は暗闇に沈んだ。



 ろぜあちゃんがまだかほごなんですよぉ、とものすごく心外そうに拗ね切った声でほにゃほにゃふにゃふにゃ訴えるお風呂上がりのソキに、ルルクは微笑んだまま、頭の上に服をかぶせてやった。ぷにゃっ、と驚いたような声が上がった後、ソキもぞもぞと服に腕を通し、生乾きの髪に両手を押し当てる。
「そき、かみのけ、じぶんで……」
「はい今日の当番は私でーす!」
 やるですよ、と言うよりはやく。素早く椅子を運んで来た少女がそこにソキを座らせ、タオルで丁寧に水気を拭っていく。もおおぉっ、と声をあげながらも立ち上がって逃げる元気がないのだろう。もぞもぞ居心地が悪そうに椅子の上で体を動かし、ソキはくちびるを尖らせてルルクを見上げた。うん、と問うように微笑み返してやれば、ソキが嬉しそうに口を開く。
「それでねえ、ロゼアちゃんかほごなんですよー」
 あっその話題まだ続いてたんだとばかり生温くなる周囲の視線に全面同意しつつ、ルルクは手近な椅子を引き寄せ、そこに腰かけて溜息をついた。説明してあげる、という気力が根こそぎ奪われて行くのはどうしてなのだろう。あのねえ、とげっそり視線を持ち上げて、ルルクはソキと目を合わせて言い聞かせた。
「ロゼアくんは過保護じゃないのよ?」
 ちょっとなに言ってるか分からないですとばかりぷぷーっと頬を膨らませたソキに、ルルクは切々と訴えた。
「よく考えてね、ソキちゃん。ソキちゃん、こないだ、真夜中にフィオーレさんに来てもらうくらい体調悪くなったでしょう? それでまた、昨日まで寝てたでしょう? 高い熱だして、咳も止まらなくて」
「でも今日はもう元気だったですよぉ……」
 ひとりで歩きたいの。ソキひとりでできるもんっ、と主張する瞳がルルクをじっと見つめる。その意志は尊い。最大限尊重されるべきだとも思うのだが、それでも、それとこれとは別の話だ。そうね、今日の朝には熱が下がったわね、と頷き、ルルクは続けた。
「フィオーレさんが朝から癒しに来て下さったものね?」
 真夜中に倒れて動けなくなったソキを発見したロゼアの訴えを聞き、寮長は即座に砂漠の国へ連絡を取った。寝ている所を叩き起こされたフィオーレは、ねえ俺ソキの治療のために夜中に殴られて起されんのこれで二回目なんだけどどういうことなのうける、と笑いながら現れ、必要とされる分だけの癒しを施して帰って行った。曰く、体がついて行かない状態で一気に回復すると反動で逆に毒になるからちまちましないとだめなんだよね、とのことである。その後、ソキは二日に渡って眠り、時々目をさましてはまた眠りこむ、ということを繰り返していた。その経過報告を受け、自力回復が難しそうだと判断し、白魔法使いが再び現れたのが今日の朝のことである。つまり熱が下がったのも咳が収まったのも、起き上がれるようになったのも、まったくもってソキの手柄ではない。
 ロゼアが一日、ぐずるソキを抱き上げて移動させていたのは少女たちにも心の底から理解できる行動だった。というか見ているこちらがハラハラするので、一週間くらいはそんな感じでお願いしてもいいかなぁ、とロゼアに頼む者まで現れるしまつだ。在学年数が長い上級生たちは、ああウィッシュもあんな感じだったほんとひどかったほんっと心配だったと笑みを浮かべながら頷いていた。ナリアンも、メーシャも、ロゼアの腕に抱かれるソキを見つけてうわあぁあ起きた起きられたねと感激していたものの、寝台にいなくていいのかとひたすら心配をしていた。分かっていないのはソキだけである。お熱下がったですお咳でてないですいやぁんソキあるくぅ、と駄々をこねては、ソキ、とロゼアに名を呼ばれて拗ね、ぺちぺちぺちぺち背中を手で叩いていた。
 あんまり叩くのでナリアンがそっと、痛くないの、と尋ねていたくらいだ。ロゼアは笑いながら首をふって、いや全然、と告げた。実際、本当に痛くないらしい。興味を持ったメーシャが手を差し出し、ソキちょっと叩いてみて、とお願いしてぺちぺちしてもらっていたのだが、感心したように頷いて本当だ、と納得していた。やぁんやぁんっ、とさらにソキがぐずったのを、ロゼアは慣れた仕草であやしていた。
「はい、髪の毛おわり。……体調悪かったからバサつくかと思ったんだけど、ソキちゃんすごい、つやっつや」
「えっ、ちょっと触らせて触らせて……きゃああやわらかーい! ふわふわー! ねこっけだー!」
「ということはもしかして……え、ええええなんで……? 肌荒れしてない。ほっぺ気持ちいーい……!」
 よってたかって少女たちに触られ、ソキは甲高い声でやですやですうぅっ、と怒った。はいはい騒がせるとまた体調悪化しちゃうでしょう、と溜息をつきながら少女らを退かせ、ルルクはソキに向かって手を差し出す。ほら、ロゼアくんの所へ帰ろうね。囁けばソキは拗ねた顔をしながら、ルルクの指先をきゅぅっと握り締めた。
「ねえねえ、ルルク先輩?」
「なーにー?」
「ロゼアちゃん、明日は歩かせてくれるです?」
 無理だと思う、と少女たちが意見を完全に一致させ、ルルクも微笑んで頷いた。明日は無理だろう。一日、二日くらいでソキの体調が回復しきらないのを、寮に住む者はもう誰もが分かっている。一人でてちてち歩いているのを見かけたら転倒する前に走り寄って手を繋ぎ、即座にロゼアを呼ぶくらいのことはしてしまいたい。過保護ではない。必要保護である。重々しく頷き、ルルクは笑顔で言い切った。
「だめだと思う」
「ええっ……えええ。なんでです?」
「うん。それはロゼアくんに聞こうね? ロゼアくんとお話するのが一番だからね」
 ろぜあちゃんかほごなんだもん、と拗ねて言いながら、ソキは脱衣所の、濡れない位置に置いてあった本に手を伸ばした。ぎゅぅと胸に抱いて、ほっとしたように笑うと、ルルクと手を繋ぎ直す。じゃあお先にね、と少女らに声をかけて浴場を後にしながら、ルルクはソキに問うでもなく、白い帆布の本を見つめた。それがなんであるか、魔術師にはすぐ分かる。『武器』だ。大体の場合魔術師は己の『武器』を常に携帯するが、今までソキがそれを持ち歩くことはなかった筈だ。そういえば今日も、ロゼアに抱っこされながら、ソキはしっかりと本を抱え込んでいた。談話室に続く廊下に差し掛かると、戸口に背を預けるようにしてロゼアが立っているのが見えた。ルルクが、その名を呼ぶよりはやく。ソキがぱあぁあっと顔を輝かせ、あまくあまく響く声で。呼ぶ。
「ロゼアちゃん!」
「ソキ。……先輩、ありがとうございました」
 片膝をついてソキを出迎え、即座にひょい、と抱きあげたロゼアが丁寧にお礼を言う。それにううん、と首をふって、ルルクは入れ違いに談話室へ入っていく。振り返るとソキとロゼアは、なにかを話しながら階段を上がっていく所だった。おやすみ、とルルクは囁く。あたたかな夢が二人を包むことを願って、ルルクは親しい者たちが待つ一角へ歩んで行った。

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