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 灯篭に封じられた炎が、ゆらゆらと揺れている。就寝前の部屋の温度を、どこか熱っぽく感じて気だるいのは、その火の揺らめきのせいだろうか。太陽の黒魔術師。ロゼアの部屋はいつもどこか温かくて、やさしい熱に包まれていて、冷えてしまって寂しいことなど一度もなかった。ソキはのたのたと瞬きをしながら、明日の授業の準備を整えている、ロゼアの背を見つめた。ロゼアもすでに湯を使い終え、あとは眠るだけの状態だ。夜着に、制服として支給されている長袖のローブを簡単に羽織っただけの状態で、乾いたばかりの髪を空気に晒している。
 なにか、考え事をしているのだろう。僅かばかり傾げられた首筋の線に、ソキはきゅぅ、と目を細めて胸元を手で押さえた。最近、ずっと、ソキの胸は落ち着いてくれない。ロゼアの無防備な仕草が、あまく触れてくる手が、向けられる眼差しが、呼ぶ、声が。じわり、体温を、あげていく。
「……ソキ?」
 胸を手で押さえる仕草に気がついたのだろう。振り返ったロゼアが心配そうにしているのに、ソキは寝台の上にちょこんと座りこんだまま、ふるふると首をふって留めた。
「大丈夫です。……そんなことより、ロゼアちゃん」
「うん?」
 そんなこと、じゃないだろう、と言わんばかり苦笑するロゼアに、ソキはのたのた瞬きをして、あくびをしながら問いかけた。よく分からないけれど、なんだかものすごく眠い。けれどもソキはどうしても、今日のうちに、やりたいことがあるのだった。
「ふぁ……ん、んん、ろぜあちゃん。明日の準備終わったです……?」
「うん、終わった。お待たせ、ソキ。寝よう」
 ごめんな、と言いながら教本をひとまとめにして机に置いたロゼアが、振り返るよりはやく。ソキは、きゅ、とくちびるに力を込めて視線をもちあげた。
「ロゼアちゃん。おはなしがあります」
 だから寝るのはそれが終わってからです、と告げるソキに、ロゼアは眉を寄せて沈黙した。が、なにも言うことはなく、足音のない滑らかな脚運びで机から寝台までの数歩の距離をつめ、ロゼアはソキの目を見つめたまま、少女が座る眼前へ跪いた。ソキはゆるく、口元を和ませて淡く微笑む。『傍付き』を慈しむ『花嫁』の微笑みだった。ソキが呼んでも、ナリアンやメーシャなら、きっと隣へ座っただろう。ソキがいるのが寝台であるから、椅子を引っ張って来て前に座るくらいはしたかも知れないが、ロゼアはその場へ跪く。誰にでもそうする訳ではない。もちろん。己の『花嫁』が呼んだからこそ、ロゼアはそうしたのだ。ソキ、と呼ぶ声はやさしい。なに、と言葉を促されるのに、ソキは視線を重ねたまま、ロゼアに向かって両手を伸ばした。
 常ならば抱きあげることを望む仕草だが、手が向けられたのはロゼアの肩や首筋ではなく、腕と、その先のてのひらだった。ソキはロゼアの片手を、己の両手で包みこむようにして持って、それを膝の上に置く。『花嫁』や『花婿』が、己の『傍付き』に対してよくする仕草だ。ロゼアも見たことがあるだろうし、ソキも何度かそうしている。だから、きっと、それだけで、ロゼアは知らない。傍へいて。どこにもいかないで、ここにいて。そう、告げたくても囁けない時の、言葉の代わり。『花嫁』がそうして手に触れることを、きっと、ロゼアは知らない。
「……あのね。ロゼアちゃん、あのね……」
「うん」
 指先がどんどん冷えて行くのを自覚する。緊張したり、怖かったりすると、ソキの指はすぐに冷えてしまうからだ。ロゼアの手を冷やしてしまう。あたたかなやさしい手。震えるソキの指はつめたいだろうに、ロゼアは手を貸し与えたまま、そこから引き抜こうとしなかった。視線が深く重ねられたまま、言葉を、待ってくれている。ソキは、よわく、息を吸い込んだ。
「ソキは魔術師のたまごです。ロゼアちゃんもです。だから……」
 なにを、どう、話せばいいのか、分からなくなってしまった。メーシャと話をしてたくさん考えて、どうしても、伝えたいことがあって。怖くて、聞いてみたいことがあって。だから、ロゼアを呼んだのに。言葉ひとつ自由にならない。声を掠れさせて、ソキは、考えながら告げて行く。
「ロゼアちゃんが、もう、たいへんだったり、いや、だったり、することは、しなくていいです。ロゼアちゃんがしたいことをしてください。ロゼアちゃんが、したくないことは、しなくていいです……」
 魔術師のたまごだ。ソキも、ロゼアも。それを知っていた筈なのになお、ロゼアを『傍付き』だと頑なに思っていたソキの心が持つ、それは明確な独占欲だった。『花嫁』だけが、『傍付き』の所有を許される。ソキだけが、ロゼアを。ソキは『花嫁』で、ロゼアは『傍付き』だから。あと二年だけでも、そうしているつもりだった。無意識に、そして、意識的に。けれど。
「ロゼアちゃんは……ロゼアちゃんなんです」
 メーシャは言った。肩書きでロゼアを呼ばないで欲しいと。ロゼアは、もう、『傍付き』ではない。ソキが『花嫁』でないように。それなら。もう、ソキが終わらせる、と決めたその時よりはやく、もう、そうなってしまっているのだとしたら。手を離す準備を、しなくてはいけなかった。自由にしてあげなければいけない。ロゼアが、ロゼアだと。それ以外の何者でもないというのなら。
「ソキが……ソキに、ロゼアちゃんが、してほしいことと、してほしくないことが、あったら、言ってください。ぜんぶ、急には、難しいと思うですけど、でもソキは頑張れます……。もっと、ひとりで、あるいてほしい、とか。ごはん、たべるの、じぶんで、もってくる、とか。だっこも、しないようにする、とか……えっと……よるに、そき、ひとりで、ねてほしい、とか」
 どんなことでもいい。なんでもよかった。ロゼアがソキに望んでくれることが、もし、ひとつでもあるのだとしたら、その通りに成長してみせたかった。そうすれば、離れてもソキはきっと大丈夫だ。耐えられる。かつて『花嫁』として国を離れるたび、何度でも、何度でもそう思ったように。ソキのすべてはロゼアが作った。ロゼアが、育てた。だから大丈夫だ。離れてもその結果さえあれば、きっと、息をすることは叶うだろう。
「ロゼアちゃんが、ソキにがまんしてることがあったら、してほしいことと、してほしくないことと、したいことと、したくないことも、いって、ください……ソキ、ロゼアちゃんのいうとおり、できますよ。ソキは……ろぜあちゃんのはなよめだもん……。ろぜあちゃんのいうとおり、がんばれますよ」
 そして、手を離す最後の最後の瞬間まで、どうか誇って。望みの通りに咲いたのだと。喜んで。
「……おはなしは、おわりです」
 わたしはあなたのものだと、最後の最後まで思わせて。
「聞いてくれてありがとう、ロゼアちゃん。……もういいですよ」
「……なにか」
 立って、と暗に求め、会話を打ち切ろうとしたソキの目を変わらぬ強さで見つめ返しながら、ロゼアは考え込む響きで口を開いた。灯篭の火が、風もないのに揺れている。ごうっ、と一瞬強くたちのぼり、それを恥じるように、鉄籠の中で震えていた。
「なにか、嫌なことがあったのか? ソキ」
 ない、です、と言おうとして。声がうまく出せなくなっていることに気がつき、ソキはつよく、瞼に力を込めた。冷えてしまった手で包みこむ、ロゼアの掌は温かい。その熱がじわじわ、体中に響いて行く。いとしさで、こえがだせない。首をふって否定することしかできないソキに、ロゼアは膝の上に置いていた、もう片方の手を持ち上げて触れた。ソキの両手を包み込むようにして持ち直し、下から瞳を覗き込みながら、告げる。
「……俺はソキといて、いやなことなんてひとつもないよ」
 強張った指先をほぐすように、ロゼアの手が触れてくる。大丈夫。怖いことなんてひとつもないよ、と。悪い夢から醒めたくらやみの夜に、何度も、何度もそうしてくれたように。触れて、そして、溶かして行く。
「我慢してることもないよ。したいことはしてる。ほら、狂宴部の活動だって……」
 一瞬、ロゼアは言葉を途切れさせ、その瞳にソキの見覚えのない鋭い感情を過らせた。喉元を引き裂くのを待ち望む、刃のようなひかりだった。けれどもそれは一瞬で消え去り、ロゼアはソキの見慣れた、あたたかな、穏やかな笑みを浮かべて続けて行く。
「……ソキを置いて、俺ひとりでしてるだろ。なにも我慢してない」
 今日もそうだっただろ、と問うロゼアに、ソキはこくりと頷いた。水曜日は一日、ソキはロゼアに置いて行かれることが多い。部活が別々だからである。ナリアンとメーシャと三人で、男の子たちだけで話していることも多い。それは主にソキが一人でしなければいけないこと、実技授業や別々の座学や、お風呂の間などのことだったが、ふたりが別に動くことは案外多いのだった。けれどもそれは、屋敷にいた頃からそうだった。ロゼアはソキの傍にばかりいる訳ではないのだ。なにも、変わっていない気がした。それならば確かに、ロゼアが我慢するようなことはないのだ。そうですか、とようやく声を出して告げたソキに、ロゼアはその手にすこしだけ力を込め、てのひらを包む。
「俺は、俺がそうしたいから、ソキの傍にいるんだ」
 それは、『傍付き』の、習いだ。いつもいつも、望む言葉をくれる。安心させてくれる。分かっていた。その言葉を誰が否定しようと、ロゼアはソキの『傍付き』だ。そうでないなら、どうして、傍にいたいと思ってくれるだろう。ただの、ロゼアが、どうして。傍にいたいなんて。ソキは知っている。『傍付き』が欲を持たないことを。それは徹底して排除される。教育の過程で、そして、成長の過程で。彼らは恋をすることができる。彼らは欲を持つこともできる。『花嫁』と『花婿』以外であれば。そう言う風に形作られ、そういう風に、整えられる。ロゼアはソキの『傍付き』だった。もう過去なのかもしれない。それでも、そのことが変わる筈がない。傍にいたいと思うのは全て。ロゼアの欲ではない。『傍付き』の習いだ。
 そうでないのなら、どうして。こぼれてしまった言葉に。
「……ソキは」
 ロゼアは。
「ロゼアちゃんの、なんですか……?」
 息を飲んで、動けなくなってしまったのか。『傍付き』でないのなら、『花嫁』でないのなら。なんなのか。それに、どうして、答えられないというのだろう。わかっている。わかっているわかっているわかっている、わかっていた。わかっていた。だから。だいじょうぶだ。目を閉じて感情を置き去りに、ソキは息を吸い込んだ。浮かべるのは花のような笑み。だいじょうぶです、わかっています。はなよめですよ、と、くちびるをひらく。
「ソキは……」
「――ソキ」
 鋭い、声だった。ロゼアがそんな風にソキの名を紡ぐのを、ほとんど、はじめて、耳にした。
「ソキ、きいてほしい」
「……はい」
「ソキは、俺の自慢の『花嫁』だった」
 悲鳴があがる。体の内側から。心臓の近くから。目をそらした感情から。『花嫁』だったソキが泣いている。ろぜあちゃんろぜあちゃんろぜあちゃん。わたしの『傍付き』、わたしの、わたしだけのろぜあちゃん。だった、という言葉は終わっている、ということだ。いつか来る終わりだ。分かっていた知っていたそれがもう巡っていたとてなんだというのだろう。悲鳴があがる。こころが泣き騒ぐ。それでも。それでもわたしは、もうすこしだけ。あなたの『花嫁(もの)』でありたかった。
「……でも、メーシャに、ソキはもう、『花嫁』じゃないって言われて、ずっと、考えてる」
「そう、です、か……」
「うん。まだ、考えてる。だから、その質問への答え、もう少しだけ、待ってほしい」
 はい、と微笑んで、ソキはゆっくりと瞬きをした。その、答えを告げられる時が、きっと。ほんとうの、わかれだ。
「……その問いには、答えられないけど、最初の言葉になら、答えられる。何度でも言う。俺は、ソキの傍にいたいから、今、ソキの傍にいるよ。俺が、そうしたいから、そうしてる」
「はい。……はい、分かっていますよ、ロゼアちゃん。ありがとう……」
 だから、もういい。手を引き抜いて逃れようとするソキに、ロゼアはそれとも、と不安に揺れる声で尋ねた。
「……俺の傍に、ソキはもう、いたくない?」
「ソキは、ずっと、ロゼアちゃんの傍にいたかったです」
 はなして。もういいの。だいじょうぶだから、と。離れたがる動きが分からない筈がないのに、ロゼアはソキの手を離してくれなかった。手に力が込められる。体温が、火のように、肌に触れた。
「ソキは、ずっと」
 なにもかも、意志を溶かしてしまうように、あつい。
「俺の傍にいたくないのか?」
「いたいですっ!」
 意識が焼き切れてしまいそうだった。その熱にいつまでも触れていたいのに、これ以上はもうどうすることもできない。がまんができない。ひどいわがままを言ってしまいそうになる。制御を忘れた喉が悲鳴そのものの響きで声を奏で、咳き込み、歪ませる。ふるふると首をふって、ソキはロゼアからくるしく、視線を外した。
「でも、ソキは、ロゼアちゃんを……こまらせますよ」
「どんなふうに?」
 すこしだけ、笑みを滲ませる声が。ソキ、と呼んでいるのが分かった。こっちを見て、と求められている。その意志にどうしても、ソキは逆らうことが出来ない。怖々と視線を戻した先、赤褐色の瞳はいとおしげな色に揺れていた。ソキ、とロゼアが名前を囁く。繋いだ手がやわやわと、ソキの指先を温めていた。
「体調悪いのに動きたがることとか?」
「……ろぜあちゃん、困ってたですか?」
 ソキはてっきり、ロゼアが『傍付き』としての過保護をこじらせているだけ、だと思っていたのだが。きゅぅ、と眉を寄せて問うソキにあまく笑みを零し、ロゼアは跪いていた姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。そのまま、ソキの隣に腰を下ろす。てのひらを包んでいた手が片方だけ離れて、ソキの頭に触れた。そっと、そっと、撫でられる。
「困ったうちに入らないよ。……ソキと一緒にいて、困ることなんてなにもない」
 指先が地肌に触れ、髪の毛に触って撫で下ろして行く。何度も、何度も、ロゼアはソキの髪を梳いて行く。やさしい眼差しを瞳に絡ませたまま、何度も、何度も。髪を指先に絡め、梳き下ろし、頭を撫でて、頬に触れる。じわじわと熱が広がっていく。その熱からどうしても、離れられない。
「ろぜあちゃん……」
 あまく、ゆるみ。じわじわ、ひろがって、ほどけて、とけていく。
「ろぜあちゃん、ろぜあちゃん……」
「……ソキ」
「さわって……」
 もっと、たくさん。なでて。無意識に、だろう。やわやわと動いたくちびるが囁きを落とす。泣き濡れた宝石のようにあまく、とろとろにほどけて揺れる瞳は、ロゼアだけを見ていた。ソキの腕がもちあがり、ロゼアの服を摘んで、体が寄せられる。するりと首筋へ腕が回された。つよく、つよく、すがりつく。
「好きです。すき……すき、ロゼアちゃん。ろぜあちゃん……」
 泣く、ように。
「だいすき……」
 ソキは、そう告げた。ロゼアはソキを抱き寄せ、変わらぬやさしさで髪を撫でながら、どこか安堵したように息を吐く。
「俺も好きだよ」
「はい……知っていますよ」
 好き、と告げれば。好きだと、返してくれることを、知っていた。
「しって、た、ですよ……」
 ロゼアの手がソキの頬を撫で、首筋に押し当てられ、指先が地肌に触れ、そのまま髪を撫で下ろした。慣れ切った仕草で髪を撫でた手が、ふたたび、頬を包み込む。目を閉じたソキの額に、ロゼアの額が重ねられた。くちびるがすこしだけ、震えた。
「ソキ」
「……はい」
 瞳を開く。赤褐色の瞳は、いつもと変わらず。ただソキのことを、見つめていた。
「もう寝よう。話は、また明日」
「はい。ロゼアちゃん。……ソキ、ここでねても、いい?」
「もちろん」
 ロゼアの手が、ソキが眠りやすいように体を抱きなおす。その手に、熱に、全身が痛いくらいにあまくしびれた。きゅぅ、と眉を寄せるソキに、ロゼアはおやすみ、と囁く。おやすみなさい。呟いて、ソキは目を閉じた。火のような熱に包まれている。溶けて解けて消えてしまいそうな熱に。ずっと、ずっと、抱かれていた。



 意識は嵐に翻弄される木の葉のように押し流され、ソキは真夜中に目を覚ます。くちびるが乾き切っていた。息を吸いこむ喉が渇いた咳をする。頭と、体中が、びりびりして、いたい。熱が出てしまったのだ。ロゼアはそれを知るようにソキの全身に毛布をまき、包み込むようにして抱き寄せていた。
 また、しんぱいさせて、しまう。あつい指先でロゼアの頬に手を伸ばしかけ、触れる前に、ソキはそれを弱々しく握りこんだ。ロゼアはよく眠っている。起きる気配など感じ取れないくらいに。くちびるに力を込めた。ごめんなさい。何度でも何度でも、囁く。目を伏せた。それが発動するまで、一瞬しか、なかった。不安定な魔力が揺れ動く。抱き寄せるロゼアの腕はソキを守るように回されている。その熱が、魔術の起動を正しく助け、導いた。ゆるく、ゆるく、恒常魔術が巡りはじめる。ほっとしてソキは、全身から力を抜いた。これは、もうだめ、と言われていたけれど。明日の朝に終わりにしてしまえば、きっと誰にも、分からない筈だった。眠っている間に体は回復を終えるだろう。これでまた動けるようになる。これからはそうしよう、と思った。眠っている間だけ、巡らせておけばいい。誰にも分からないように。そうしなければ、体がきっと、ついていかない。
 さらさらさら。体の中で音がする。砂の音だった。砕けたそれが、一生懸命、魔力を導き動く音だった。くらやみの中で眠る為に目を閉じる。さらさらさら。音がする。体が奇妙に冷えて行く。抱く腕だけが熱い。火のように。太陽のひかりのように。熱を灯し暖めてくれる。ソキの体はどこも動かないのに。冷えた指先は自由にならないのに。だめだ。だめ、だめ。はやくはやくうごけるようにならなくちゃ。はやく。そうじゃないと、またろぜあちゃんが。ろぜあちゃんが、あの、男、に。
「……ソキ」
 ためいきが、ひとつ。瞼の裏側で囁くような声がする。首筋に手が押し当てられた。それを怖いとは思わない。だいじょうぶですよ、とソキは思う。安心していてね、ロゼアちゃん。ソキはちゃんと動けるようになります。それで、今度こそ。ロゼアちゃんを、守るから。
「ソキ……ソキ、ソキ」
 てのひらが、頬を撫で、髪を梳き、また首筋に押し当てられる。額が重ねられた。吐息が肌を、撫でる。
「……駄目だって、言っただろう」
 だいじょうぶですよ、と眠りの中でソキは囁く。大丈夫です、ロゼアちゃん。これは、これだけは、ソキが砕かれていても使えるの。だって、これは、この魔術は。あの男が、ソキの、器と『 』を壊した時に。その時に。
「ソキ」
 咎める声に、ふっと発動が途切れてしまうのを感じ取る。ふわふわの意識が火の熱に抱きとめられ、ゆるくゆるく、暖められていくのを感じた。思考が形を成さずに消えて行く。ソキは、今度こそ、朝まで目を覚まさなかった。



 けふん、と乾いた咳の止まらないソキの為に、ロゼアはレモン水を温めに席を立っていた。蜂蜜をいれて暖めたのち、ぬるくなったものがソキには与えられる。熱くても喉を痛くしてしまうし、冷たければひえた体温が熱を呼び起こすだろう。けふん、ともう一度乾いた咳をしてくちびるに両手を押し当てたソキに、隣に座っていたメーシャから、心配そうなまなざしが向けられた。
「風邪……じゃ、ないんだよな。ごめんな、ソキ。もしかして昨夜、よく眠れなかったりした……?」
 図書館の様子を見に行きたいのだと、朝食をかきこんだナリアンはすでに席を立っていたから、広めのテーブルにはメーシャとソキしかいなかった。だからこそ、声をひそめながらも、メーシャはソキに尋ねたのだろう。ロゼアはもうすこし、戻らない。ソキはくちびるに指先を添えて、咳を我慢したまま、ふるふるふる、と首をふった。
「そき、ちゃんと、ねた、です、よ」
「そっか。それなら、よかった。……今日は、ソキ、授業はどうするの? 休み?」
「……おやすみするです」
 不満いっぱいの顔で告げるソキに、メーシャはおや、と目を見張った。いつもなら休みたくないと、もうすこしだだをこねるのだが。今日に限ってやけに素直である。どうしたのかな、と思うメーシャに、ソキは弱々しく息を吐きだした。
「そきね……ろぜあちゃんにね……だめっていわれてたの、しちゃったの、ばれちゃったんですよ……」
「……怒られたの?」
「メーシャくんはなにを言ってるです? ロゼアちゃんは、ソキを怒りませんよ」
 それをなぜか椅子の上でふんぞりかえってこころゆくまで自慢げに言い放ったのち、ソキはふにゃぁ、と落ち込んだ様子で視線を彷徨わせた。
「ただ……朝、起きたら、ですね」
「うん」
「駄目だって言っただろ? ソキがそうするなら、今日は俺も、ソキのだめ、聞かないよ、って……」
 それでもう本当にごはんに起きるのだけはいいよって言ってくれたですが、授業出るのも本読むのもお勉強するのも、ぜんぶぜんぶ、うん、俺は今日は聞かないよって言ったろって聞いてくれないです、とソキはしょんぼりして、机の端を意味もなく指先でつっついている。うーん、と遠い目をして、メーシャは苦笑した。ソキが言うほど、ロゼアは普段から言うことを全部聞きいれてくれている、という訳では、じつはまったくそんなことがないのだが。やぁん今日ロゼアちゃんいじわるさんですぅ、と涙ぐんで拗ねるソキには、いまひとつ、そのあたりが分かっていないらしい。メーシャは手を伸ばして、ぽんぽん、とソキの頭を撫でた。丹念に櫛梳られたのだろう。今日も、ソキの髪はふわんふわんで柔らかかった。
 撫でられて、きょとん、としたのち、ソキは嬉しそうに笑う。
「メーシャくん」
「うん」
「明日、メーシャくんが、今日はなにしていたのか、教えてくださいね」
 おはなしするですよ、とはにかむソキに、メーシャは柔らかく目を細め。そうだな、と言って視線を持ち上げた。ちょうど、ロゼアが早足に、こちらの方へ戻ってくるのが見える。
「……うん。そうだな、ソキ」
「メーシャくん?」
「話をしよう。これから、たくさん。……ゆっくり、ともだちに、なろうな」
 ともだち。その言葉をどこか不思議そうに口の中で呟き、けれどもソキは昨日よりずっと嬉しそうに、メーシャに対して頷いた。おともだちになりましょうね、メーシャくん、と、ソキがはじめてその言葉を返す。そうだね、とメーシャは笑い、戻ってきたロゼアに譲る為、座っていた椅子から立ち上がった。

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