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 その手を離せば迷子になる

 ソキの夜着は絹の作りで、上下に分かれておらず、頭からすっぽりとかぶれば良いつくりになっているワンピースタイプだ。一般的に売られているものとの差異があるとすれば、おへその上から胸を通り、首の下までを紐で編みあげ、閉じるつくりになっていることだろう。それはソキの肢体のやわらかな線を品よく、それでいて艶やかに浮かび上がらせ、同性の少女らの視線すら奪いほぅと熱っぽい溜息を引きだして行く。お風呂上がりでほこほこと爪先まであたたかくなりながら、ソキは乾かされたばかりの髪に手をやり本日世話をしてくれた先輩にお礼を告げ、繊細な衣擦れの音を奏でながら椅子から立ち上がろうとして。ふと、鏡の中の己と目があって、すとんとばかり椅子に腰を下ろし直した。
 あれ、と鏡の中、砂漠出身だという先輩がソキを不思議そうに見るのが目についた。なにか違うことをしてしまったかしら、と不安がる年上の女性に微笑んで首を振り、ソキは違いますですよ、と念を押しした上で、首筋で蝶々結びされた紐の、先端に指を絡めてひっぱった。ごくごく細身の緑のリボンを紐代わりに使っているだけなので、ぞっとするほど滑らかになんの抵抗もなく、結び目が解けていく。それでも、仕草としては慣れない行為だ。わずかばかり眉を寄せながら紐をひっぱり、するするとそれを解いて行くソキに、浴室の脱衣所で着替えていた少女たちからの視線が集中する。鏡越し、『花嫁』として魅了してしまっているのではないことだけをごく慎重に確認し、ソキは内心でゆるく首を傾げた。
 なんで見られているのか、ちっともよく分からない。特になんの誘惑もしていない、筈なのだが。ううん、と悩ましく息を吐きながら、ソキは解いた紐を膝の上に落とした。大人しい蛇のよう、紐がゆるく渦を巻いて太股の上に落ちる。浴室から流れてくる暖められた空気のおかげで、脱衣所はほわりとあたたかい。それでも湯の熱を宿した体にはほんのすこし肌寒く、ソキはふるりと肢体を震わせながら、肩の布に手をかけた。するりと、磨き上げられたしっとりとした肌の上を、真珠色の布が滑っていく。落ちきることなく、腕の半ばで止まった布をそのままにしながら、ソキは露わになった胸の上に指先をおいた。とくとく、拍を刻む心臓の真上を、幾度も指先でなぞって首を傾げる。
 確かに、そこに、花が描かれた筈なのだが。
「……やっぱり、なにも、ないです」
「あるわよ! 問題だけがいまここにね! 私の目の前にねっ!」
 ああもうなんなの兄妹そろって無自覚なのそうなのっ、ええそうよそうよねだから私は言ってやったわよアンタそんなだから監禁されるのよってーっ、と絶叫しながら、走り寄って来たエノーラが己のローブを瞬時に脱ぎ去り、それでソキの上半身を包み込んでしまう。ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返されて、ソキは椅子の上で頬を膨らませ、鏡越しにエノーラを見つめた。
「エノーラさん、こんばんはですよ。ソキ、なんにもしてないですよ」
「うふふうふふふふソキちゃんは私が十五歳以下には許可なく同意なく手出ししないことを感謝すべきだわ……! ちょっとレディ! レディ! ねえどうなってるの砂漠の教育どうなってるの! 確かに! ここには女子しか! いないけど! こんばんは私の楽園可愛いお花さんたち!」
「……エノーラ、すこし落ち着きなさいな」
 珍しく常と立場を逆転させながら、外の廊下に男が通りがかっていなかったかを入念に確かめたあと脱衣所の扉をしめ、レディが溜息をつきながら歩み寄ってくる。星降の王宮魔術師、火の魔法使いはローブに包まれてやんやんと身をよじるソキの傍らまで歩み寄ると、恭しい仕草で片膝をつき、一礼した。寮の女子風呂へ続く脱衣所である。当然寮長がいない、立ち入りもしない空間なので、レディの態度には『花嫁』に対する礼節を尽くす遠慮が存在していない。
「こんばんは、ソキさま。星降るこのうつくしい夜にお会いできて光栄です。……それで、その……なにを?」
「レディさん、こんばんは。エノーラさんも。どうしてここにいるです?」
 レディは星降の王宮魔術師。エノーラは白雪の王宮魔術師で、女子をこよなく愛する偏った性癖さえなければ大変優秀なと誰もが思うであろう天才的な錬金術師である。二人は普段ならそれぞれの王宮に勤め、学園には顔を出さない筈だった。誰の担当教員でもないからである。ごくたまにエノーラは、錬金術師たちの教員として授業を行うこともあるそうなのだが、あいにくとソキはそれに出席したことがなかった。それでも、いつかは受けるだろう。ソキが学園で学ぶべきは魔術師たちのその全て、であるのだから。年末年始、二ヶ月に渡った長期休暇も今日で終わりだ。夜はしっとりとした雰囲気で流れ、明日になると再会される日々への期待と不安で揺れている。
 レディは答えの返されないまま告げられた問いに苦笑しながらも、素直にことの経緯を教えてくれた。いわく、今日の昼過ぎに起きたのですがちょうどエノーラが仕事で星降に来ていて、あらレディちょうどよかったわ今日の夜学園に一緒に行かない休みの最終日だからお花さんたちと一緒にお風呂入ったり休みの間のことを聞いたり胸を揉んだり触ったり大きさを確かめたり可愛がったりとかも、したいし、と誘われたのでやり過ぎないように監督も兼ねてついてきたのだという。へー、そうなんですかへー、へー、と八割五分聞き流して白い目で頷き、ソキはつんとくちびるを尖らせながら、着せかけられたエノーラのローブを脱いでしまう。
「これ、いらないです。エノーラさん、大丈夫ですよ。ここは暖かいです。ソキ、風邪引かないです」
「風邪とかそういう問題じゃないのよ……! え? なんで脱いでるの? なんで胸とか触ってたの? なにそのちょうきれいな肌。え? 私の目の保養とかそういう? 女王陛下その男殺させてくださいお願いしますという訴えを毎日四回は却下されている私への慰め?」
「エノーラ。ソキさまに無体を働くようであればあなたでも焼くわよ?」
 そうだ突っ込みを放棄しよう、という微笑みと頷きを浮かべ、ソキの髪を乾かしてくれていた先輩が、じゃあまたね、と囁き落として傍を去っていく。レディがいれば安心だと思ったのだろう。ソキはありがとうございましたですよ、と先輩にぺこりと頭をさげ、やぁねしないわよソキちゃんの許可がないことだし、本当でしょうねもし無断で触れたりしたら指先であろうと髪一筋であろうと許さないわよ焦がして燃やすわよ最低でも火傷まではしますからね覚えておきなさいエノーラねえどうして視線をそらすのかしらエノーラちょっと私の目を見てしないといいなさい目を見てっ、と言い争う二人をごく自然に無視して、姿を映す鏡に向き直った。
 指先で再び、胸元に触れ、肌を撫でる。指先をするすると肌の上で動かし、胸元から背まで線を引くように撫でおろす。それを見たのは僅かな間だったから確かではないが、それでも、なんとなく、記憶に残っていた。パーティーの夜。絵師がソキの胸に描いてくれたのは、芳しいばかりの美しさを持つ大輪の花だった。細く伸びた葉状茎が右胸と、そして左の肋骨に添うように背の半ばまで描かれていた。
『月下美人、といいます。ソキさま』
 私があなたに贈らせて頂いた花の名は。そう、囁き告げた少女の声を思い出し、ソキは残念な気持ちで溜息をついた。花絵師。砂漠の王宮で出会った少女は、己の職をそう名乗っていた。そしてその少女によると、ソキに描いた花はある一定の条件下でのみ、ほのかに白く肌に浮かび上がるのだという。お風呂上がりの肌はその条件を満たしていないのだが、それでもうっすら痕くらいは見えないかと思って、ソキは鏡の前で眺めてみたのだが。残念なことに筆に乗せられた赤褐色の絵の具は消え去って久しい。だいたい、当日の夜遅く、ソキが花嫁衣装から着替える時にはすでに色も消え失せてしまっていた。いまさら、なにが見える訳でもなかった。
 赤褐色の。ソキの『傍付き』の色で描かれたのは『花嫁の花』だ。それは永遠の恋を意味するもので、『花嫁』の、なにもかもすべてである。『花嫁』を育てるのが『傍付き』だ。己を構成する、なにもかもすべて。それを成したのは『傍付き』。その色で花は描かれる。心臓の上。生き続ける限り一番傍で触れ続ける。消えることのない、永遠。感情のなにもかもすべて。祝福された魂の宿る場所。それが、『花嫁の花』だ。それを肌に沈めて、それを生涯の秘密として、『花嫁』は嫁いで行く。もっと目に焼き付けておけばよかったですと残念がって、ソキは膝上に落としていた細身のリボンを指に絡めるようにしてもつ。
 ちまちまちまとおへその上から編みあげて行きながら、ソキは頭を抱えてしゃがみこみ呻くエノーラと、視線を地に伏せながら素数を数えているレディに、なにしてるですか、と首を傾げて問いかけた。
「エノーラさん、頭痛いです? レディさん、おべんきょうです?」
「いえ……よろしければ、私が結びますが?」
 すこしばかり考えたのち、ソキはリボンから手を離し、レディに向かって頷いてみせた。レディは失礼致しますと言ってソキの前にかがみ込み、丁寧な仕草で服を結びあわせて行く。すこしねむたい気持ちであくびをしながら、ソキはついでとばかり、エノーラにソキの鞄と上着取って来てくださいですよ、とお願いした。エノーラは力なく頷いて立ち上がり、脱衣所の籠に入れられていた、ソキの武器である本が入ったキルティング生地のちいさなリュックサックと、ふあふあもこもこの毛糸でざっくり編まれたローブを持ってきてくれた。夜着の上からもこもこローブを着れば、寝る準備の完成である。ねむたくなってきたのではやくロゼアちゃんとこ帰るです、と椅子からよちよち立ち上がったソキに、レディがお連れしますと微笑んで手を差し伸べた、その瞬間だった。
 どんっ、と。寮が揺れた。きゃぁ、とその場で飛び跳ねたソキを腕の中に庇い抱き寄せ、レディが嘘でしょ、と天井を仰いで呻き声をあげる。驚き、警戒、よりも、うんざりとした呆れの表情だった。
「ユーニャ……ユーニャはなに、まだテンションあがっちゃうと魔力漏れおこして倒壊させちゃう系男子から路線変更できてないの……? ……寮の二階、かな。黒魔術師部屋に風穴空いたっぽいわねこれ……」
 魔力漏れ、という現象に関して、存在する唯一の専門家がレディだ。火の魔法使いである女性は、常時魔力を外に出して具現化させていなければ体がもたないのだという。己の魔力で羽ばたかせる鳥は、しかしレディの傍らにはいなかった。それに気がつき、ソキはレディの肩を指先でちょいちょいとつつく。くすぐったげに身を震わせ、返事をしてくれるレディの肩にそのまま指先をおいて、ソキはそっと耳元に声を吹きこんだ。
「レディさんの、鳥さん、どこにいるです? あと、ユーニャ先輩? です?」
「ああ、談話室の灯篭の中に待機させてきました。あれ、雄なんです。女子風呂に連れてくるのは問題があるでしょう?」
 そして今の爆発音と振動は間違いなくユーニャですと微笑みながら頷くレディは、空気中に漂う魔力を追跡したのだろう。つくりたての金貨のように無垢な輝きの瞳が、ソキを慈しみながらも目の前の光景ではないなにかを捕らえ、呆れと、複雑な感情にゆるく歪んだ。おす、だったです、と普段よりもずっと人の話を聞いている声で返事をして、ソキはレディの肩をぺちんぺちんと手で叩く。とりあえず危険ではないようなので、腕の中からは離してほしかった。危ないようなら傍らにロゼアがいない今、レディに守ってもらうのが一番なのだが。そうでないなら、ロゼアの元に帰るのがいまのソキのやるべきことである。ロゼアちゃんのとこ帰るです、帰るですよ、とむずがるソキに、はっと意識を戻してくれたレディが、しっかりとした頷きで立ち上がった。手が繋がれる。
「ええ、そうしましょう。私もユーニャの所へ行かないと……エノーラ、どうする? 先にお風呂入ってても私を待っててくれてもいいけど、あなたやりすぎたりしないでちゃんと我慢できる? 私の胸は別に揉んでもいいけど、女の子たちのは触るくらいまでにしておきなさいよ? 明日から授業なんだし、エノーラ先輩の好きにしてください、とか恥じらいながら囁かれても、ここ、お風呂だから。そして寮だから。そして明日から授業だから。次の休みの約束をするくらいで留めるのよ? 分かった?」
「……ソキちゃん、私に胸触らせたりしてくれる気になったらいつでも言ってくれていいからね?」
「ぜったいにないですぅー!」
 満面の笑みで言い切って、ソキはやぁんろぜあちゃんのとこかえるぅ、とほわんほわんした響きでむずがった。やぁんやぁんと言いながらひとりで勝手に歩き出そうとするのをゆるく引き留め、歩き出しながら、レディがうつくしい微笑みでエノーラを振り返る。親友を脅すように笑いかけ、レディは唇の動きだけで、無体をするなと言っているでしょうエノーラ、と囁きかけた。エノーラは苦笑しながら聞いてみただけじゃないのと手を振って見送り、ソキをレディに任せて場に留まった。在学期間の長い少女たちは爆発音にも振動にも特に動じた様子は見られなかったが、中には不安な顔を隠せないでいる少女たちもいる。ソキにはロゼアがいるが、落ち着く腕を持たない者が圧倒的に多いのだ。少女たちを落ち着かせ、宥める者としてエノーラがそこにいたのは、少女たちの安心という点においては幸いなことだった。身の危険があることは考えないことにして。
 廊下を歩いて談話室へ向かうと、ちょうどロゼアが眉を寄せながら出てきた所だった。待っている間に情報は収集したのか、ひとまず危険はないと分かっている表情で、それでもソキを見つけた視線がやわらかな安堵に緩む。ソキ、とロゼアが呼ぶのと、『花嫁』がレディから手を離し、聞く者の耳をあまくしびれさせるほどの声をあげるのは、ほぼ同時のことだった。
「ろぜあちゃん、ろぜあちゃんっ!」
「ソキ。……こんばんは、レディさん」
「こんばんは、ロゼアくん。聞いたかも知れないけど、特別危ないことも警戒しなきゃいけないこともないから、大丈夫よ。ただ、言うまでもないと思うけれど、ソキさまの傍にいてさしあげてね。私はユーニャの所へ行かないと」
 まあ一回爆発させると落ち着くし大丈夫だとは思うんだけど一応現場検証と原因の追及はしないといけないし、とうんざりした顔つきで息を吐くレディの背後に、寝起きなのにどうしてこんなことしなきゃいけないのかしらめんどくさい、と書かれていた。ロゼアの腕に抱きあげられ、心底うれしそうにぎゅうぅーっと抱きつきすりすり甘えながら、ソキがややはしゃいだ声でレディさん、と呼ぶ。
「ソキもいくです!」
「……え?」
「ソキねえ、ユーニャ先輩に馬車のお礼を言うのがまだだったんですよ?」
 だからソキもいく、ソキもいくですよロゼアちゃんねえねえいいでしょうソキもユーニャ先輩に会いたいんですよねえねえおねがいロゼアちゃん、と腕の中できゃっきゃはしゃがれながらおねだりされて、ロゼアの首が右に傾く。そうしながらも手で首筋、頬、額と触れて行っているので、体調の確認をしているのだろう。ふうと息を吐いたロゼアは、ソキを腕の中から降ろすことなく、レディに向き直ってお願いしてもいいですか、と控えめに訪ねてきた。レディは天井を仰ぎ、しばらく考え、大丈夫だとは思うけど、と溜息をついた。一応、私の指示する距離だけは保ってくださいね、と告げたレディに、ロゼアの腕の中でソキがきゃあぁあっ、とはしゃぎきった声をあげて喜ぶ。レディさんありがとうございます、のあと、ごく自然に繋げられたロゼアちゃんだぁいすきっ、の声は、レディが一瞬息をつめるほど、恋のきらめきを宿していた。
 レディは一瞬振り返って、ロゼアを見る。ロゼアはおだやかな幸福を抱いている顔つきで、ソキに、うん、と頷いているところだった。レディは、砂漠の民は知っている。『傍付き』は『花嫁』に欲を抱かない。性的な欲望を抱かないからこそ、彼らは『傍付き』と呼ばれ、『花嫁』を腕に抱くことを許されるのだ。全てを預けられる、からこそ。その肌に触れて、常に体調を把握しながらも、惑わされることないよう。教育されて、彼らは『傍付き』になる。砂漠の民なら誰でもそれを知っていた。御伽話や夢物語のように。砂漠に幸福と安寧をもたらす『花嫁』と『花婿』、彼らを育てる『傍付き』のことを、聞きながら育つからだ。彼らは砂漠の祝福である。レディは、それを知っていた。けれど誰よりも、ソキはそれを知っている筈なのだ。恋を、されない、ことを。レディは一瞬胸によぎった感情を押し殺し、それではこちらに、と囁いて身をひるがえした。
 いまは後輩となった『花嫁』の、その恋心を。悲しみ、哀れむような気持ちなど、持ちたくはなかった。



 ソキちゃん、ロゼア、と呼びとめる声に、ソキはうとうとと眠たかった瞼をぱちっと持ち上げた。柔らかく響く低めの声は、深くくゆる花の芳香のような響きで耳に触れて行く。その声をソキはまだ聞き慣れないのだが、それでも、誰のものか間違えることは決してない。ロゼアの腕の中、大慌てでんしょんしょと体を伸ばし、ソキははしゃいだ笑顔で廊下の先へ腕を伸ばした。
「ナリアンくん! ナリアンくん、おかえりなさいなんですよ! ソキ、ナリアンくんにおかえりなさい言うのたのしみに待ってたですー!」
「ナリアン」
「やぁんやぁ! ロゼアちゃん振り返っちゃだめですぅー! ソキ、ナリアンくんがみえなくなっちゃうですー!」
 ロゼアの腕の中でもちゃもちゃと方向転換しながら文句を言うソキに、ナリアンはこころゆくまで和んだ眼差しを送り、ゆるく息を吐き出した。俺の妹ちょうかわいいほんとかわいい癒される、とその紫の瞳が語っていた。ふふ、と笑みがこぼれ、ナリアンは空気を震わす言葉で告げる。
「ただいま、ソキちゃん。ロゼア」
 まっすぐに背を伸ばし、微笑んで、ナリアンはそこに立っていた。腕には大きめのダンボール箱を抱えている。それを足元にどさりと置いて、ナリアンはふぅ、と息を吐き出した。みれば階段の踊り場付近に、通行の邪魔にならないようにダンボール箱が山と積まれていた。入学してすぐ、『お屋敷』から送られてきたソキの荷物よりはまだ少ないが、それでもかなりの量があった。ロゼアは腕の中でもぞもぞと収まりが悪そうに身動きをするソキを抱きなおしたのち、ぷぷぷ、とむくれる頬を指先で撫で下ろしながらナリアンに歩み寄った。大股で距離をつめ、ロゼアはことん、と山のような箱に首を傾げる。
「おかえり、ナリアン。すごい量だけど……これ、どうしたんだ?」
「服とか本。写本の道具とか、修繕の道具をもって来たんだ。……入学の時に、ほとんどなにも持たずに来たから。道具は手入れもしないと悪くするから、あまり使う機会はないだろうけど……どうしても手元に置きたくて。おみやげもたくさんあるよ。お菓子も。あとで渡すね。……ソキちゃんの体調はどう?」
 ロゼアが、腕の中からソキを離そうとしないことに気がついたのだろう。やや気遣わしげに声をひそめて問いかけられるのに、ロゼアは柔らかく苦笑いを浮かべ、ソキの背をゆるゆるとてのひらで撫でた。すこし前までの不機嫌をあっけなく崩れさせて溶かし、ソキはロゼアにぴとぉっとくっついて、ナリアンくんすごい荷物ですぅー、と興味深そうに箱の山を見つめている。
「あんまり。明日からの授業は……どうかな、ってトコ。明日の朝の体調で考えようと思ってる」
「ぷぷ。ロゼアちゃん、過保護さんです。ソキはぁ、今日もぉ、げーんーきーでーすー」
「そうだね。今日はお熱出てる感じしないもんね」
 くすくす、笑いながら伸ばされたナリアンの手が、ソキの前髪と額をそっと撫でて行く。ふわん、と優しい風が一緒に肌を掠めて、ソキは満たされたような気持ちで息を吐き出した。ナリアンの風は、あたたかくて、とても気持ちいい。ロゼアの腕の中で大人しくなったソキに、ナリアンは微笑みを深めて指先を引いた。
「ソキちゃんはもう眠たいね? おやすみなさい、かな。ロゼアも、もう寝る?」
「いや。まだ起きてるよ。……ナリアン」
「うん?」
 うとうとしながらふぁ、とあくびをするソキを抱きなおし、背をゆるゆると撫でてやりながら、ロゼアはナリアンとその足元に積まれたダンボール箱を、ちらちらと気になる様子で見比べた。
「運ぶの、手伝うけど」
「いいの……?」
「うん。ナリアンが、嫌じゃなければ」
 はにかんで笑うロゼアに、ナリアンは嫌なんてことないよ、絶対、と嬉しげに頷いた。ありがとう、じゃあ頼もうかな、と告げるナリアンに、ロゼアの腕の中でソキがねむたげに、目をくしくしと手でこする。
「そきもおてつだい、するですぅ……」
「……ロゼア」
 どうしよう。俺のかわいい妹の希望を聞いてあげたいんだけどでも眠らせてあげた方がいいのかなだってすごく眠そうだし、と助けを求めるナリアンの視線に、ロゼアはううん、と笑いながらソキの顔を覗き込んだ。ふああぁ、とあくびをして、ソキはやや眠気のはれた目でぱちぱちと瞬きをしている。ろぜあちゃん、と気合いを入れた様子で、ソキが楽しげに宣言した。
「ソキ、ナリアンくんのお手伝い、するですよ」
「うん……。ソキ、眠たいだろ? 寝てていいよ」
「やぁんやぁん! ソキ、ナリアンくんのお手伝いするんですよぉー!」
 一応寝かしつけを試みたロゼアに、ソキは腕の中でむずがって抵抗した。うん、とロゼアが苦笑しながら頷いた時だった。ぽん、とロゼアの肩に手が置かれる。あ、と思いだして慌てた声をあげるロゼアに、レディはくすくすと笑いながら手伝ってあげなさいな、と言った。
「そのあと、ソキさまがまだ起きられているようなら顔を出せばいいんじゃないかしら」
「……あ! ソキ、ユーニャ先輩にお礼を言うんでした」
「お礼は……まあ、今夜じゃなくてもいいと思うけど」
 やぁんどっちをしたらいいんですか、お手伝いですかお礼ですか、と悩むソキにそう言いながら、ロゼアはレディを不思議そうに眺めやった。談話室の前から寮の三階までの短い距離でアクロバティックな方向音痴を発揮して、瞬きの間に迷子になっていた火の魔法使いは、涼しげな顔でそこに佇んでいる。確かにさっきまで、ロゼアはレディを見失っていたが故に、とりあえずユーニャの部屋を目指して歩いていた筈なのだが。前にも、後ろにも、姿はなかった筈である。どこへ行っていたというのか。そしてどこから現れたというのか。
 なにをどう問えば疑問が解決するか分からず、ロゼアは息を吐き出して首を振った。そういうものだ、と諦めて受け入れなければいけない気がしたのである。のちほどお伺いすると思います、と告げるロゼアに笑顔で頷いて、レディはひらりと身をひるがえした。そしてロゼアが見守る先、扉の半分外れかかったユーニャの部屋に、今度こそ無事に辿りついて姿を消していく。暖かな腕の中から廊下に滑りおり、ソキはふああぁ、とあくびをして、心底不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせた。
「レディさんは……すごく器用な迷子さんになるです」
「うん。そうだな……」
「ソキちゃんも、迷子にならないようにしようね」
 ちゃんとロゼアと手を繋いでるんだよ、と言い聞かせるナリアンに、ソキはんっとぉ、とすこしばかり困ったように眉を寄せて。言葉には、せず。こくん、と一度だけ、おさない仕草で頷いた。ためらいながら、迷いながら。離すことを嫌がるような、思い悩むような、仕草だった。

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