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 口付けの幸福を知っている。それがもたらす喜びの熱を。目眩と息苦しさを、ソキは確かに知っている。一度だけ、眠るロゼアに口付けたことがある。恋に落ちた日に。このひととはなれたくない。このひとのそばで、このひとと。しあわせになりたい、と。突き落とされるような恋に落ちた。
 恋情はあまく、毒のようにソキの隅々にまで広がった。許されぬ思いが幼子を『花嫁』として完成させ、さらに研ぎ磨きあげた。うつくしくなる為の恋だった。花ひらく為の恋だった。『花嫁』として、正式に認められる為の恋だった。幼子がそう呼ばれる為に必要な、最後のひとかけ。
 恋を知った者だけが、『花嫁』と呼ばれる。くちびるで触れる。禁断と知りながら犯した者だけが。そしてそれを罪とするように、ソキはある日、告げられた。『花嫁』として嫁いだ暁に、あなたさまはいつかそれを許さねばならない。だから知らなければなりませんよ。
 閨でなにをするか。なにをされるのか。どうすれば快楽となるか。なにが苦痛となるのか。誘惑して言うことを聞かせて。心身に負担になりすぎることなら、がんとしてはねのけなさい。辛いなら許さなくてもいい。ただもしも、嫁いだその先で幸福を見つけたその時に。
 拒絶の言葉は悲鳴ごと快楽に塗り替えられた。何度も、何度も。泣き叫んで暴れてロゼアを呼んでも、弱い喉が血を吐いて熱を出して泣きながら叫んでも、どうしてか、どうしても、その教育だけは、受けないことを許されなかった。
 ソキに触れたのは、まだ年若い青年だった。ロゼアよりすこし年上の。煮詰めた飴色の肌に、赤褐色の髪と瞳の。照れくさそうにあまく笑う。その顔も声も、とてもよく似ている男。目眩がするほど。一瞬、見間違えかけるほど。ロゼアによく似た、ロゼアではない男が、ソキに触れ肌に快楽を描いた。
 拒絶する喉が咳をして、弱々しく懇願を吐き出し。暴れる体力がつきて動けなくなった頃に。男は決まって申し訳なさそうな顔をして、ソキに甘味を呑み込ませた。部屋に焚きしめられた香と同じにおいのするたべものだった。ソキはいまでもそれが嫌いだ。
 肌が落ち着きをなくして、ソキがもういやです、とぐずりだすと男は告げる。気持ちよくなるだけだから。ちゃんと覚えて、分かって、それが終わったらすぐ帰れるよ。帰りたいだろ。うん、って言おうな。頷いて。うん、って。ソキ。ソキ、そしたらすぐ帰してあげる。
 ロゼアのところへ。でも、言えないならこのままだ。終わるまでは帰れない。帰りたいです。そうだな。ソキ、帰る。そうだな。さわらないで。違うだろ。さわるのやです。違うだろ。さわらないで、きらい、きらい。きもちいいの、ソキきらい。きらいきらいやだ。
 泣いて泣いて、ぐずぐず泣いて。ロゼアちゃんがいい、とソキは幾度も訴えた。ロゼアちゃんがいいの、ロゼアちゃんがいい。ロゼアちゃんにさわって欲しい。教わるのもロゼアちゃんがいい。やだやだ、ソキって呼んじゃだめ。ソキって呼んでいいの、ロゼアちゃんだけだもん。
 あなたにそれを、許してなどいない。笑う顔も、困った顔も、とてもよく似ている。ソキ、と耳元で呼ぶ声は、強く目を閉じてなお錯覚させる響きの。赤褐色の瞳をやんわりと和ませて笑う男に。なにもかも教え込まれた。言葉も、仕草も反応も。拒絶も快諾も。快楽も官能も。すべて。
 閨教育を施す者は、『傍付き』によく似た者が選ばれるのだという。『花嫁』の中には代替えとして、快楽をある程度望んで享受する者もあるという。叶わない恋の代わりに。触れられないひとの代わりに。ソキは最後の最後まで、徹底的に拒絶した。それでいて、ソキはまぎれもなく『最優』だった。
 ロゼアが苦心して磨き上げたしっとりとした肌を、どう触れられれば快楽を得られるのか。どう振る舞えば、告げれば、その心地よさが与えられるのか。望むそれ以上を求められた時に、なんと拒絶するのか。決して触れられてはいけないところ。純潔をなんとしても守り通せと。
 その男が教育以外でソキに触れたのは、一度きり。言葉魔術師に誘拐されたソキが、戻ってきて、体調がようやく安定したその時に。純潔を確かめろと命ぜられたのだろう。閨教育の為の部屋で。寝台で。男はやさしくソキに触れ、確かめ、吐き捨てるように監視の者たちにそれを告げて。
 震える腕でソキを抱き上げ、強く抱いて息を吐いた。損なわれなかったことを喜ぶのとは、すこし違う。ほんものの安堵に満ちた吐息だった。男は、怯えるソキの耳元に囁き告げた。二度とはないだろうけど。もしこんなことが次にあったら、戻った時にロゼアに言いな。
 意図してロゼアと口調を重ね。声の響きも表情も仕草も立ち居振る舞いなにもかも。ロゼアに似せて振る舞う男の。それだけが、ほんものの言葉だった。部屋には常に監視役がいた。監視の女が男を引きはがすのは一瞬で、早口で告げられた言葉は、ソキの耳には届ききらなかった。
 閨教育はそれからも繰り返され、けれどもそのおかげで、ソキは白雪のあの部屋で、己のことを守りきることができた。なにをされるか知っていた。なにを相手が望んでいるかを。その為になにをされるのか。そうさせない為に、抵抗はせず、それでいてどうすればいいのか。言葉を。教わっていた。その為の準備だった。
 白雪から砂漠に戻った時にも、男には会わなかった。『お屋敷』に常駐する者ではなかったからだ。仮にいたとしても、会いたい、という気持ちを抱く相手ではないのだが。閨教育はいつも、馬車に乗せられ連れて行かれた。首都からは出ていない、砂漠のあの都市のどこか、という所までしかソキには分からない。
 ゆめうつつを彷徨いながら、ソキは男から教わった言葉を思いだそうとする。それでも、確かに一度聞いていて。そしてよく似たことを、最近、誰かに教えてもらった気がしたからだ。首筋に触れて離れて行った熱を感じながら、ソキはぼんやりと瞼を持ち上げ、瞬きをした。
 意識はまだ夢の中にある。こてりと首を傾げて、ソキは肌がざわつくのを感じながら身を起こした。月の障りが近いからなのか、それとも、すこし前にロゼアを求めて強請ったからなのか。結局、いつものように触れてはもらえなかったけれど。それから時々、肌が快楽を求めてしまう。落ち着かないでいる。
 あまい香りもしないのに。ソキは首に手を触れさせながら、離れて行った熱のことを考える。触れていたのは一瞬で、でも、吐息がふわりとくすぐっていたから。手や指ではなく。それは。口付け。ぱちっ、とソキは慌ただしく瞬きをした。え、あ、あぅっ、と真っ赤な顔で手をぱたつかせて。
「ろっ……ろぜあちゃあぁああっ!」
 ソキに背を向ける形で寝台の端に腰かけていたロゼアを、とろとろのふわふわの甘い声で呼んだ。え、とロゼアは虚をついたような声を出し。珍しくも一拍、反応までに間をおいて、ソキのことを振り返る。
 きゃぁきゃぁはしゃいで顔を真っ赤にして、あたふたと髪を整えているソキに、ふわりと浮かべられる笑みは優しくも甘い。
「おはよう、ソキ。なぁに、どうしたの。良い夢でも見た?」
「きゃぁんやんやん! ソキが起きてる時に触ってくれなくっちゃだめえぇ! ソキ、こないだも言ったですぅ……!」
「うん? ……うん。おいで、ソキ」
 ひょい、と抱き上げられて、体が寝台からロゼアの元へ取り戻される。膝の上。ぬくもりを分けあい、体をすりつかせながら、ソキはむくれた気持ちでロゼアに猛然と抗議した。起きている時に触ってくれなければ、ゆーわくできないのである。ゆゆしきことである。
 起きてる時、おきてるー、ときー、ですよぉーっ、と言い聞かせてくるソキに、ロゼアはしばらくの間、首を傾げて。やがて穏やかな笑みでソキを抱きなおし、ふふ、としあわせそうに緩んだ声で笑い、頭に頬をくっつけてくる。そうする時のロゼアは、機嫌が良い。
 ゆーらゆーら体を揺らされて、ソキはふあぁとあくびをした。もうちょっと寝ような、と囁くロゼアは、ソキが寝ぼけてなにか訴えたのだと言わんばかりである。もうー、ろぜあちゃんたらてれ隠しですぅー、と眠たくむくれながら、ソキはロゼアの肩あたりに頬をくっつけて。
「あ、あすぅうううううっ!」
 床にアスルが転がっているのを見つけて、大慌てで両手を伸ばした。ぎょっとしたロゼアがすぐに気がついてアスルを拾い上げ、ぽんぽんと埃を払ってから返してくれる。寝てて落ちちゃったんだな、と告げるロゼアにこくこく頷きながら、ソキはアスルごめんねええええ、とやわらかなあひるを抱きつぶした。
 なぜか。ほんの僅か緩んで、消えてしまっている呪いを。丹念に修復してから、もう一度眠りについた。



 魔術師の持つ魔力量には個人差がある。エノーラは特別多くも少なくもなかったが、その代わりのようにそれを読み解く力に長けていた。世に放たれる祝福と犠牲の。あるいは、他のなにかの意思を秘めた心を。数字と式と言葉に変換して読み解ける。出来なかったことはない。それこそがエノーラを天才と呼ばせる異能であり。また、明らかな異常だった。
 エノーラが魔術師たちの中で孤立していないのは、純粋に性格の成せるわざであるとキムルは思っている。好きも嫌いもはっきりと口に出し、己が天才であることも、ひけらかし胸を張り口にする。それでいて、出来ないことを馬鹿にしない。エノーラと砂漠のラティの間に友情が成立しているのはその為だった。
 殆ど魔力を持たない魔術師が、劣等感に歪まずにいることもその本人の得難い才能そのものだ。しかしそうであってなお、エノーラがいなければラティとレディの間に友情が生まれたかは定かではない。ツフィアにしてもそうだった。言葉魔術師。まだあの男が事件を起こす前から、ツフィアはどこか遠巻きにされがちな女性だった。
 黙々と、ひたすらに研鑽を重ねる姿は必死で、痛々しくもあった。恐らくは学舎に呼ばれるのが、一歩間に合わなかったのだろう。未熟な魔術師のたまご。身に巣食う魔力は、本人の意志に関係なく、あるいはそれを読み取って無制御のままで発動する。してしまう。それは、だいたいが不幸だ。覚えのある者は幾人か。しかし誰も、声をかけようとはしなかった。
 放っておいて、と少女は言った。冷ややかな、世界か、あるいは自身に対する怒りを覗かせる瞳で。近寄らないで、と言い放った。それを周囲が受け入れれば、少女は孤高の魔術師として名を馳せただろう。同期がエノーラでさえなければ。二人きりの同年入学でしょ、と笑って、冷たい拒絶もなにもかもご褒美、とうきうきしながら手を引いて、連れ回し振り回したエノーラさえいなければ。
 エノーラは入学した時から、暇さえあればツフィアに構い倒した。強引でわがままで身勝手なまでに。相手の都合など一切かまわずに。お話しよ、勉強しよ、お風呂入って一緒に寝よう大丈夫なにもしないから。手を繋ごう。一人じゃないって私を安心させて。エノーラがなにかするたび、二言目にはツフィアの名があった。
 ひっきりなしにツフィアが呼ばれた。リトリアが入学するまで、その名を最も呼んで振り回していたのがエノーラだ。よって。冷ややかな拒絶の意味が変わるのは、すぐのことだった。たまには一人になりたいよね、と誰もがツフィアに頷いた。静かに勉強したいこともあるよね。誤解と理解がある為に、拒絶は断絶にならなかった。
 そしてリトリアが現われて、ツフィアは人々の輪へ戻った。穏やかに。手のかかる幼子を介して、ツフィアは時に騒がしい学園の中心ともなった。ストルを叱責し、リトリアにあれこれと注意し。チェチェリアに相談し、パルウェと苦笑しあい、エノーラに怒り、フィオーレを睨み、キムルに溜息をつき。交流は絶えなかった。
 ただ、穏やかに続いていた日々が断ち切られたのはソキの誘拐があってこそ。言葉魔術師が、恐るべき適性が、明確な意思を持って牙を向く前例となり。ツフィアにも疑惑の目が向けられてからだった。親しい友人たちは、がんとしてそれを跳ね除けた。笑いさえした。ツフィアはしない。そんなこと絶対に。
 リトリアは笑い、ストルも励ますように口にした。けれども、その二人だけではなく。ツフィアはしない、と訴える者は何人もいた。王へ、魔術師へ。人々へ。その数の多さがエノーラが繋ぎ、リトリアが広げたツフィアの財産だった。どうしようもなく王に囚われ、ツフィアの身から自由が奪われても。友人たちは冤罪を訴えることをやめなかった。
 言葉魔術師を『安全に』捕らえる場所を作れと命ぜられたのは、エノーラだった。キムルが覚える限り、エノーラがあんなにまっすぐにきっぱりと、王に反抗したのは、その一度きりであったように思う。嫌です、と。臆することなく、まっすぐ。己の信じるものを、信じきった者の眼差しで。背を正し、目を反らさず、何度でもそう繰り返した。
 友を繋ぐ檻を私に作れと仰るのですか。なにもしていない彼女を、私の力でいつ終わるとも知れぬ意味のない贖罪に突き落とせと言うのですか。嫌です。そんな命令は絶対に聞けない。嫌です、と繰り返して。エノーラが泣く。涙を見たのも、その時がはじめてだった。
 錬金術師たちが集められたその場所で。できます、と言ったのはエノーラひとりきりだった。その檻を私なら作れます、と。天才の呼び声ひとつを誇り高く胸に宿して、錬金術師はそう告げて。それでいて、無力な少女のように泣いた。それを叱責したのはキムルだった。君がやるんだ、と腕を掴んで言葉を告げた。
 世界で一番優しい檻を、彼女へ贈ろう。もう誰も彼女を傷つけないように。君が繋いだあの日々が、リトリアを得て花開いたように。また、その日が来ることを信じて。涙を拭って、歯を食いしばって。エノーラは、分かったわよ、と頷いた。降り積もる時ごと停止した琥珀色の瞳。感情が渦巻いてひどく凪いでいた。
 瞳は。その時と、同じ色をしている。
「……気持ちは分からなくもない、かな」
 吐息をひとつ。キムルは思考と筆記の手を止めて、椅子から立ち上がらずに室内を見回した。中規模な会議場。集められているのは錬金術師ばかりだった。新顔もいくつか。あの時から、いなくなった者もいる。完全に同じではないと言えど、事件の為に錬金術師が五王の命あって一室に集められたこの状態は、あの断絶を思い起こすのに十分すぎた。
 エノーラは隣に座るキムルに視線を向けただけで、一時も筆記の手を止めなかった。意地のように増えていく紙の量は、場の誰より多いものだ。ソキの呪いを読み解き、なにを訴えたいのかを明らかにせよ。エノーラとキムルが犯人の筆頭の可能性ありとして告げられた、事故のような事件に対し、下された命令がそれだった。
 筆記速度の限界に挑むようなエノーラの仕事ぶりに、ぽつりぽつりと視線が集まっていく。やる気があって挑んでいる者はなく。エノーラとて、あるのは怒りだけだろう。誰もが手を止め、沈黙が降りる。キムルが溜息を吐いた。エノーラが瞬間的に手を止め、顔を上げる。
「……っていうか、この無駄な作業になんの意味があるっていうのよ!」
「あ。切れた」
 室内からぽつりと呟かれた言葉に、エノーラは切れもするわよっ、と絶叫して筆記具を投げ捨てた。
「終わった! もうしない! 馬鹿!」
 あああもうほんとにっ、と苛々しきった荒々しい態度で、恐るべき速度で紙束を書類として纏めながら、エノーラは誰もが薄々感じていたそれをもう我慢ならないとばかり言いきった。
「大体! 私でもキムルでもないんだから! 犯人なんてシークに決まってんじゃないのあのくそ野郎! 死ね! ほんと死ね! 難しければ私が殺す!」
「うわぁ……。落ち着きたまえよ……」
「だって証拠がないだけでどう考えてもあの野郎でしょうよこれーっ! この間のストルくんとツフィアの報告書のあれだって、あの野郎がなにかしたに決まってるんだから……あああ、もう……!」
 一時も手を止めずに紙を綴じ小冊子のようにした報告書を、エノーラは憎々しく机に叩きつけた。
「犯人は分かってるじゃない! 証拠を集めろっていう方がおかしいのよ! 殺せ! 殺す! 私が殺す!」
「エノーラ。『言葉魔術師を殺してはならない』」
「その理由を! 私が納得できるまで! 持ってこいっ!」
 怒り狂った声で、目で、エノーラは言葉を叩きつける。突然の暴発ではない。よくぞ今まで我慢してみせた、とキムルは感心すらしていた。エノーラはもっと早くに、ここまで怒ってもおかしくはなかったのだ。ツフィアの檻を作れと命じられた日でも、私しかできないと呟いて、設計に眠れない夜をいくつ重ねた日々の末でも。
 とうとう檻を完成させて、それを五王に報告した日でも。その褒賞のように、かねてから希望していた白雪の国へ、王宮魔術師として迎えられることが決まった日でも。耐えてみせた。すこし前、ツフィアが書類の閲覧を希望しているからと、声や視覚、感覚を封じる魔術具を依頼された日でも。
 私だけでしょう、と誇り高く笑って耐えてみせた。どれほどの想いだっただろう。キムルは知っている。エノーラが、それこそ、異質として異端として、魔術師の中ですら忌避されかねない天才として目覚めてしまった魔術師の少女が、同じ年に入学することになったツフィアという存在に、どれほど救われていたのかを。
 大事なの、ねえ、みてみて、と。無邪気に無垢に胸を張って、みせびらかすように、宝物のように、大事にしていた存在を。言葉魔術師の男が奪った。その行いが。その疑惑が。冤罪というにも足りない、ただの言いがかりが。エノーラからそれを奪った。そして、枷を強いたのだ。
 エノーラは、よく耐えた。憎悪に身を浸すことなく、それでも、いまも、耐えているのだ。怒りで。怒りだけで。
「……アンタたちはなんで怒らないのよ」
 立ち上がった椅子に座りなおして、エノーラはキムルと、集まった魔術師たちを睨みつけた。なんでって、ねえ、とキムルは苦笑してエノーラの視線を追いかける。交わされる目に宿る意思は、誰もが同じ。苦笑して肩をすくめて、キムルはエノーラと向かい合うよう、椅子を置きなおして腰かけた。
「君が怒ってくれたから、僕たちは何度でも冷静になれるのさ」
 エノーラの魔力量は平凡だ。才能だけが特出している。だからこそ、定義においてエノーラは魔法使いとは呼ばれない。フィオーレやレディのように。けれども、錬金術師がエノーラに対して感じる淡い憧憬は、まさしくその名を持つ者に対するそれだった。
 どうぞご指示を、とからかうようにキムルが告げると、忌々しい舌打ちと共に睨みが向けられる。瞳に涙はない。勇ましく猛り怒る。錬金術師の至宝。
「犯人はシーク。砂漠の、言葉魔術師シークよ。証拠はないけど私はそう思う! だから必要なのは証拠! あの男を追いつめる証拠よ……っ! これより錬金術師は総力をあげて、その証拠を洗い出す。残留魔力、疑わしい資料。なんでもいい! 私の前に持ってこい! 私が全部、読み説いてやるっ……! キムル!」
「はいはい、勇ましいお嬢さん。なにかな?」
「手伝いなさいよ余裕ぶっこいてないで! 私の手助けできるのなんて、あなただけなんだからっ! 他は、ロリエスの調査に同行して、残留魔力の調査と記録をしてきて。なにも残さず。……あと、フィオーレとルルクの調査も引き続き、白魔術師と協力して探ってみて絶対どっかにシークの魔力がある筈だからっていうか私にもあるんだとしたら吐きたい! 吐くっ! なにもうやだどうすればいいの血っ? 血を抜けばいいのっ? やだやだ気持ち悪い許し難いああああもおおおおおあのくそ野郎の魔力が私の中にあるのかあったのかと思うだけで殺すっ!」
 ソキの前ではご褒美だのなんだの喜んでいたエノーラは、じわじわと調査が進み事実が明らかになっていくにつれ、無表情になっていった。シークとはエノーラの天敵である。致し方ないこととはいえ、キムルは注意して見ていたのだが。いよいよシークが犯人である説が濃厚となり、魔力残留に話が及んだ瞬間だった。
 いっさいの無表情のまま、エノーラは剃刀で己の腕を切り裂こうとした。毒を出すやだ出す、と泣くでも騒ぐでもなく淡々と言い放ったエノーラに、ウィッシュが卒倒し、キムルは頭を抱えてからエノーラを殴り、さすがに笑えないと首を振る白魔法使いがささやかな切り傷を治療した。五王に召喚された場でのことである。数日前のことだ。
 白雪の女王はきらびやかな笑顔で、シークの引き渡しを要求していた。殺そう、と微笑んでいた。さすが主従なだけあって、思考回路や発言がよく似ている。許すか殺すかの二択である。慈悲はない。砂漠の王が俺だってそうしてぇよと叫ぶ中、魔術師たちはエノーラを引きずって医務室まで撤退したのだった。
 その再来になりかねない狂乱に、はいはい落ち着こうねとエノーラの肩を叩きながら、キムルは視線で命じて武器になりそうなもの一切をエノーラの傍から遠ざけさせた。極めて情緒不安定である。しかし、今はまだエノーラに動いてもらわなければいけないのだ。全ての魔術師の為に。
 あの日のように。いまも、また。エノーラにしかできないことがある。
「エノーラ」
 強い意志を宿して。一億の孤独と共に時を止めた瞳がキムルを見る。ふ、と錬金術師の男は笑った。妻はチェチェリア。幸運にも得た主は楽音の王そのひと。心と意思を定める所、預けるひとはもう決まっている。だからあまやかな感情ではなく。そんなものではなく。
 キムルはエノーラの額を指で撫で、静かに、ただ、言いきった。
「助けになろう。君の」
「当り前よ」
 お前が、と乱暴な口調でエノーラが吐き捨てる。指先を手の甲で払い、思い切り眉を寄せながら。
「お前が助けないで、誰が私の助けたりえるの? キムル。……あなたが。ここで、て……手伝わないのは、困るのよ」
 言いながら。ようやく普段の状態を取り戻したのだろう。嫌そうに言い淀みながらも素直に告げるエノーラに、キムルは肩を震わせて笑った。その通りだ。けれども、その通りのことを、口に出して求められるのは心地いい。エノーラの異質さは他者の理解を拒み、また、最初からそれを前提としないことが多い。
 己の感覚ひとつで辿りつく答えに、エノーラは説明する言葉を持たない。それができるのは、なぜかキムルだけだった。その異能が花開いた時から。なぜかキムルだけは、エノーラが言いたいことを、辿りついたものを、理解できた。そこへ行くことはできずとも。
 片翼と呼ぶには嫌悪が勝り、相棒とするには絆そのものが存在しない。ふたりの間にあるのはただ、お互いの能力と才能に対する信頼。それだけだ。お互いに、できることを。それだけを信じている。あるいは、己の意思より強く。
 エノーラはゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。持ち上がった瞼の奥。瞳は業火を宿している。



 リトリアに託された手紙は三通。ひとつは、エノーラから。ひとつは、キムルから。もうひとつは、チェチェリアからの物だった。手紙の配達に来たの、とにこにこ現れたリトリアに、ツフィアは苦笑して部屋へ招き入れた。
「まったく。すぐ一人で出歩いて……フィオーレは? 置いてきたの?」
「レディさんのお見舞いへ行くのですって。すぐそこまでは一緒だったのよ」
 ここの所、足繁くツフィアの元へ通うリトリアが、決まって口にする言葉だった。部屋の前までは一緒なのだというが、ツフィアはちらりともその姿を見ていない。リトリアの護衛と監視を兼ねているのにそんなことでいいのかと思うが、ツフィアの部屋以外では一緒にいるらしい。
 そんなに会いたくないのかと眉を寄せ、ツフィアはリトリアにそれを問いかけた。リトリアはとびきりの秘密を零すようにくちびるに指を添え、くすくす笑ってあのね、と囁く。背伸びして、ツフィアの耳元で。
「フィオーレね、だって俺ツフィアに評判悪いんだもん、ですって」
「……今更なにを言っているのかしらあの男は」
 額を押さえ、ツフィアは息を吐き出した。今更すぎることである。ツフィアの中でフィオーレの評価が、よく働く医療箱以外のなにかになったことなどない。なにを告げ口したのかしら、とリトリアの頬をつつくと、少女は甘くはにかんでなぁんにも、と言った。
「でも、ツフィアったらすぐにフィオーレと付き合うのをやめなさいって言うのだから、評価をあげられるように頑張ってねって」
 避けられているのは、間違いなくそのせいである。あげられる評価が残っていないと、分かっていることは評価してやってもいい。リトリア用に整えておいた甘いミルクティーを飲ませながら、ツフィアは手紙を開封した。まず、エノーラのものから。
 一行目に、リトリアちゃんちょっと胸大きくなったんだけどと書かれていたので閉じて置き、うんざりしながらチェチェリアのものを開封する。
「……読まないの?」
「あとで。……リトリア、エノーラと二人きりになって駄目よ」
「はぁい」
 ツフィアは、だめ、がたくさんある。くすくす笑うリトリアは、身の危険というものをちっとも分かっていない。だめよ、ともう一度言い聞かせ、ツフィアはチェチェリアからの近況に目を通した。学園での騒ぎ。ソキの呪いの詳細。王たちの意見。魔術師たちの動揺と動き。魔力に関する調査。
 シークが事件に関わっている可能性。
「……リトリア。この手紙は王の検閲を通ったのよね?」
「ええと……? んと、チェチェがね。あとはなんとかするから、持って行けって」
 検閲が終わっているものに対する言葉ではない。ともすれば王への反逆行為だ。なにをしているのか、と血の引く想いで手紙を読み進める。ツフィア、と心配そうなリトリアに、大丈夫よ、と言葉を返すのがせいいっぱいだった。大丈夫、大丈夫よ。大丈夫よ、リトリア。
 繰り返し。己に言い聞かせるように囁き告げる。あなたは私が守ってみせる。
「……うん」
 うっとり目を細めて。歌うように、リトリアは囁いた。うん、嬉しい。ミルクティーで喉をうるおしながら手紙を読み終えるのをじっと見つめられて、ツフィアは息を吸い込んだ。手紙の続きに意識を向ける。エノーラがソキの呪いを解析した。結果の詳細はキムルが書いた。読んでほしい。
 キムルの手紙をもどかしく広げる。久しぶり、元気にしているとリトリアからは聞いているよ。その書き出しの次は、すでに錬金術師の言葉があった。ソキの呪いの詳細と精密さ。恐れるもの。過去の事件。状況から考えてもシークしかいない。証拠がない。証拠だけがない。
 適性。魔力の付与を可能とするもの。エノーラが文献という文献を読みあさっているが見つけられない。不自然な焼失への指摘。仮説。言葉はぐるぐると渦を巻く。ツフィア、どうか、と願われる。たくさん、それを願われたことがあるだろう。聞き飽きたかも知れない。うんざりしていることと思う。
 けれど、どうか。どうか、今一度、願わせてくれないだろうか。求めることを許してくれないだろうか。語ることを。言葉魔術師。君の、彼の。適性。その詳細について。辿りつく。知識として欠けているのは、それ。証拠として見つけ出せない、足りないものがあるのだとすれば、それ。
 だから。どうか。
「……ツフィア?」
 いつの間にか。手を握って震わせてしまっていたツフィアの前に、リトリアが立っていた。顔をあげ、なにかを言う前に微笑まれる。
「ツフィア。大丈夫」
 手に触れて。リトリアは柔らかく微笑んだ。大丈夫よ、ツフィア。わたしも。わたしだって。
「怖いものから、ツフィアを守ってあげられるから。……だから」
 はなして、とリトリアが言った。それは恐らく、ツフィアを今苦しめるなにかに対して、だったのだろう。手紙の内容を知りたかったのだろう。そう思って、それが確かなことだと、分かるのに。許された気がした。ようやっと、重たい枷から解き放たれるのだと。
「……リトリア。頼みがあるの」
「うん! ……うん、うん、なに? なに? ツフィア。なに?」
「陛下に……五王に、お伝えして」
 言葉魔術師。その適性を持つ者として。得た知識、術式、そのなにもかもを。
「……リトリア」
「うん?」
「あなたを、信じるわ」
 言葉を、胸に沈めるように。リトリアは両手を胸に当てて、深呼吸をして。うん、と頷いて笑った。ツフィアは思わずリトリアを抱き寄せ、祈るように目を閉じて震える。しばらく、リトリアは動かないでいた。戸惑うのではなく。考えているようだった。
 おずおずと持ち上げられた手が、ツフィアの髪に触れて、撫でる。とうめいな声が零れ落ちた。ゆったりと紡がれる祝福。子守唄だった。もう、と笑うツフィアに、リトリアもはにかんで告げる。でもすこし、元気が出たでしょう。よかった、と笑うリトリアは、また別の旋律をやわやわと紡いでいく。
 呪詛を遠ざけ、祝福を歌う。愛を信じて、それを守ったリトリアの。それが、予知魔術師としてのかたちだった。

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