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 ふてくされた気持ちで机に肘を突き、ジェイドは行儀悪くぬるまったお茶をすすった。シュニーが貢がれた一品を、そのまま横流しされたものである。ちょっとびっくりするくらい美味しい。渋みのまったくないほのかな甘みを感じさせる飲み口で、喉を通ると淡い花の香りが広がっていく。
 値段については考えないことにした。どうせ自分では買わないものだ。シュニーがあれが飲みたい、とジェイドにねだってくれたら、その時は手に入れようと思うだろうが。残念なことにジェイドのあいらしい『花嫁』は、諸事情により、こちらの懐具合を完全に把握している。値の張るものをジェイドにねだることは、まずない。
 シュニーがジェイドに求めてくることと言えば、主にお金ではどうすることもできないことばかりである。もっと傍にいて欲しいだとか、手紙をたくさん欲しいだとか、本を読んで欲しいだとか、ぎゅっとして欲しいだとかだっこして欲しいだとか。物を欲しがるのは『旅行』帰りの飴くらいで、それだって懐が痛む程度のものではないのだ。
 俺の『花嫁』ちょっと可愛すぎじゃないのかな知ってた、知ってたし分かってたけどあああ、と言葉にならず頭を抱えるジェイドの隣では、ふてくされる気分になった元凶が、まだ腹を抱えて笑っている。かれこれ十五分は笑っている。開始五分でいったん落ち着いたかと思いきや、ぶり返してずっと笑っている。
 時々咳き込んでむせて、それでもまだ諦めずに笑っているので、発作的なものすら感じさせた。心配した学び舎の先輩たちが心配そうにどうしたのと問いかけてくるのに、ジェイドはややしんだ目で事の次第を説明した。つまり、シュニーが可愛くて挙動不審でいたら、不満を溜め込んだ当の本人が怒って喧嘩になったのだ、と。
 先輩たちは一様に優しい目で頷き、仲直りしておいでね、と言って離れて行った。有用な助言は、今のところもらえてはいない。なにがツボに入ったのか、ジェイドの友はまだ笑っている。いい加減うっとおしくなってきたので、ジェイドは息を吐いてその頭をひっぱたいた。
「シーク、うるさい。もう絶対お前に相談なんてしないからな……」
「だって、すっごく深刻な顔をしテるかラ、な、なにかと思えば喧嘩したって……!」
 はじめて喧嘩しタノ、と問いかけられて、ジェイドはしぶしぶ頷いた。笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながら、それは不安にもなるよネエ、とシークは理解ある表情で深呼吸をした。まだ顔が笑っている。もう一度、今度は容赦なく頭をひっぱたいてから、ジェイドはやりなおし、と同い年の後輩に言った。
「また発音不安定だった。三箇所。してるから、したの、なるよね」
「……キミったら本当に面倒見がいいんだから……」
 呆れつつも哀れみよりの視線を向けられたので、ジェイドは笑顔で後輩をひっぱたいた。シークはなにが楽しいのかけらけら声をあげて笑ったあと、素直にその言葉を繰り返す。発生は滑らかで、歪まなかった。よし、と頷いてやると、シークはまた楽しそうに肩を震わせ破顔する。
 シークは異界の迷子であるのだという。大戦争の後、魔術師と幻獣たちは世界を分割した。その、分割された元の世界がシークの出身地だ。魔術師と幻獣の世界。五つの欠片、と呼ばれるジェイドたちの世界と、根幹を同じくした異世界である。
 通常、行き来ができるものではない。行き来できないように、魔術師たちは世界を分割したのだから。だからこそ、シークがこちらにいるのは事故である。なにかあった、という訳ではない。ただ朝食を買いに出かけようとして、家を出た。特別なことのない日常の繰り返し。
 異変は、世界に満ちる魔力がひどく不安定であったことと、幻獣たちが不安げにしていたこと。でもそれは、明日の天気が荒れるかも知れない、というくらいのこと。警戒することではなかったのだという。ひとつだったものを無理に叩き割った影響で、世界には様々な歪みが残っている。いつものこと、として終わる筈だった。
 瞬き。呼吸。一瞬の、吐き気を伴う眩暈。段差を踏み外したように、足元が『ずれた』のを感じたのだという。耳の奥にはシークを案じて呼ぶ幻獣たちの声が残っていた。まだその音の響きが消えない間に、吸い込む息も、漂う魔力も、目に映る景色も、編み上げていく言葉も。世界のなにもかもが変わってしまった。
 砂漠と白雪の国境で、シークは商隊に拾われた。混乱と恐怖でうまく言葉も話せないでいたシークを、彼らは国境警備の兵へ預けたのだという。兵たちは親身になって、根気よくシークの話を聞き、そして魔術師が呼ばれた。シークの話す全てを信じたわけではなくとも、魔術師向きの案件だ、とされた為である。
 審議判定の炎でシークの言葉が正しいとわかるや否や、少年は有無を言わさず『学園』に放り込まれた。異界の魔術師を受け入れる場所が五国にはなく、年齢的にも王宮魔術師として迎え入れるのが難しかった為である。生活様式や、言葉の問題もあった。
 世界は分断されている。戻る手段を探すにせよ、すぐに帰れない以上は、こちらに慣れなければ生きていけないと判断された為だった。かくしてシークが、季節はずれの新入生として『学園』に現れたのは秋のこと。ちょうどジェイドがシュニーを『旅行』へ見送り、精神的に暇を持て余して煮詰まっていた頃のことだった。
 ジェイドとシークが、世話係と世話をされる相手、として引き合わされたのはすぐだった。幸い、言葉は通じない訳ではなく、奇妙な訛りのように歪んで響く程度の違いしかない。一般常識についてはほぼ差がなく、教育の水準も同程度。年齢と性別が同じ相手であるから、打ち解けるのは早かった。友人になるのも。
 だから友人として、一応はまっとうに。シークは、朝の出勤から戻ってくるなり、この世の終わりのような顔をして机に突っ伏したままピクリとも動かず、授業時間になっても立ち上がることさえしないジェイドのことを心配して、相談に乗るよ、と声をかけたのだ。
 ジェイドの『花嫁』のことは聞いて知っていたから、予定外の『旅行』に行ってしまっただとか、また『運営』に小言を言われ続けただとか、そういうことだとばかり思っていたのだが。うん、と呟き、弱々しく顔をあげたジェイドの第一声が、シュニーが、だった。次の言葉が、怒った、である。
 最近のジェイドは、シュニーに対しての挙動が多少不審であったらしい。それはジェイドも自覚する所で、理由は、シュニーが可愛くて落ち着かなくてどきどきしてなんだか恥ずかしいから、であって。決してシュニーが嫌いになった訳ではなく、そんなことあろう筈もなかったのだが。
 おはよう、と言って。あんまり近いと、どうしていいか分からなくなるので、いつもよりほんの少し距離を置いて隣に座った。その瞬間であったのだという。ジェイドはシュニーがきらいになっちゃったの、と大泣きされ、そんなことないと否定すればだって最近ちゃんと目を合わせてくれないし遠くに座る、と訴えられた。
 ごめんね、シュニーがあんまり可愛くてどうしていいか分からなかったんだ、と告白しても、シュニーの涙が止まることはなかった。ぐずぐず泣きながら、シュニーが可愛いのはジェイドの為だもの、と怒られる。でもシュニーが可愛いのでジェイドがやならもうかわいいのやめるっ、やめるもの、と言うシュニーが泣き止むことはなく。
 世話役が爆笑をこらえながら、落ち着かせておくので『学園』にお帰りになられては、と送り出すまで、ジェイドは悄然とうなだれるばかりだった。なにせ抱き上げようとしても、ジェイドがやならしゅにがまんするっ、と大泣きしてばたばた暴れられるので、触れることすら叶わなかったのである。
 構ってくれない寂しさと嫌われたかも知れない不安と、反抗期が混ざって爆発して怒っているだけだから、夕方には必ず会いに来てね。これで会いに来てくれなかったら、ほんとに嫌われたと思って枯れちゃうかも知れないから絶対ね、と騒ぎを聞きつけ顔を出した当主の少女に忠告され、ジェイドは『学園』に戻って来たのだった。
 ひととおりの説明を聞き終えて、シークは難しい顔をして首を傾げる。シークの感覚からしてみれば、それは喧嘩と呼ぶより、なにか違うものであるような気がするのだが。
「……まあ、ジェイドが悪いことニは変わらない気がするから。謝るんだよ?」
「分かってるよ。分かってる……シーク、一カ所。ことには」
 微妙そうな顔で、ことには、と繰り返し、シークは息を吐きだした。ジェイドの世話焼きはもう反射的なもので、一々意識して指摘している訳ではないのだろう。心ここにあらずといった表情でぼんやりしながら、溜息ばかりついている。
 見ていると、あああぁあ、と呻いてまた机に突っ伏したので、シークは機嫌よく口元を和ませた。こんなにしょげているのは、シュニーがはじめての『旅行』に出て以来のことである。その表情をじっくりと眺めて堪能してから、シークは外出許可を取るべく椅子から立ち上がる。授業は一日くらいなら挽回できるだろう。
 お花と飴でも買って持って行っておあげよ、と囁けば、ジェイドは力なく頷き。のろのろと茶器を引き寄せ、すっかり冷めた中身を飲み干した。



 シュニーはジェイドに好きになってもらう為に可愛くなったんだから、可愛いのでどうしようじゃないのっ、可愛かったら可愛いでほめたりなでたりぎゅっとしたりしないといけないでしょっ、という主張がもう可愛くて冷静になれない。怒りに怒った『花嫁』からの説教を甘んじて受けつつ、ジェイドは内心で天を仰いだ。
 嫌いになっちゃった、という勘違いは解消されたようでなによりである。けれども、顔を見せるなり怒った顔でジェイドを呼び、だっこだっこぎゅってしてなでなででしょっ、と要求してくることがもう可愛い意味が分からない。怒っていた、というか、怒っているのではないのだろうか。
 しかし分からないのはジェイドだけであるらしい。世話役や元『傍付き』たちから良いから傍に行って言うとおりにしなさいとせっつかれ、ジェイドはやや疎外感を感じながらも求められるままにした。『学園』に行っている間に勘違いを正してくれたのはありがたいが、怒りがそのままになっているのはなぜなのか。
 じぇいどっはやくしてくれなきゃだめでしょっ、とぷんすか怒るシュニーがあんまり可愛くて、言うことを聞かざるを得ないというのもあった。嫌いになられた、ではなく。嫌い、というのも、また違うらしいことに安心しながら、ジェイドはシュニーの隣に座り、求められるままに『花嫁』を腕に抱き上げた。
 シュニーは怒りに怒りながらジェイドにぎゅううっと抱きつき、体をくっつけて、んもおおおおっ、と声をあげ。それから延々と、ジェイドが好き、可愛いのはジェイドに好きになってもらう為に可愛いの、どうしようじゃなくて褒めてぎゅっとしてかわいいかわいいしないとだめっ、という、大体三種類の主張を繰り返している。
「わかったぁっ? じぇいど! きいてるっ? おへんじは!」
「うん……。うん、分かった。分かったよ、シュニー。分かった」
 興奮して耳元で叫ばれる声が、ふわふわしていて可愛い。怒っているのにジェイドにぎゅっと抱きついたまま、絶対に離れようとしないやわらかな体が可愛い。もおおっ、と頭を肩にぐりぐりこすり付けてくるたび、ふわりと花の香りがする髪が、ましろい綿毛のようで可愛い。
 うるうるに涙を溜めて、シュニーは怒ってるんだからぁっジェイド大好きっ、と訴えてくる瞳が可愛い。あああぁあ、と呻いてシュニーを抱きしめ、ジェイドはもうむり、と辛そうな声でこぼした。
「シュニーかわいい……」
「そうなのシュニーはかわいいの! ジェイドのかわいいなの! ぎゅっとして! もっとっ!」
「むり……ごめん……。あのな、もっとぎゅっとしたら、シュニー痛いだろ」
 じゃあ撫でたり褒めたりしないとだめでしょおおおっ、と怒られる。ジェイドは言われるままに、シュニーの柔らかな髪を撫で下ろし、頭を抱き寄せてため息をついた。腕の中いっぱいに幸せがあった。可愛くて、いとおしくて、息が詰まる。失いたくない、と思った。
「……ごめんな、シュニー。もう不安にさせたりしないように、頑張るから、許して……?」
「むぅ……。仕方ないから、許してあげる。……えらい?」
「偉い、すっごく偉い。可愛い。ありがとう。可愛い……あぁああシュニーかわいい……むり……」
 なにが無理って、外泊届けが受理されなかったが為に、このあと『学園』に帰らなければいけないことが、である。土日まで待て、というお達しだ。ジェイドの事情を鑑みて、授業を置いて買い物にいく所までは認めてくれたのだが、泊まりは許されなかったのである。
 離れるのやだ、帰りたくない、とシュニーをぎゅうぎゅう抱きしめながら呻いていると、苦笑しきった元『傍付き』の男が歩み寄り、ジェイドの肩をやわらかく叩く。
「ジェイド。シュニーさまが潰れてますよ」
「あ」
 ぱっと腕を放すと、しあわせそうに顔を赤くしたシュニーが、脱力気味に体を預けてきた。潰さないようにそろそろ腕を回しなおしてくっつくと、シュニーはとろけるように笑ってジェイド、すき、と呟き落とす。ジェイドは無言で天を仰いだ。かわいい、むり、かわいい、しか言葉が出てこない。
 元『傍付き』の男はにっこり笑って、ジェイドとシュニーをべりっと剥がした。だめでしょおおおおっ、と怒るシュニーに申し訳ありませんと微笑んで告げ、男はふらふらしながらも一人で立ちなおすジェイドに、やや同情的な視線を向けた。
「ジェイド、大丈夫ですか? ……気分は?」
「えっと……シュニーがかわいいです……」
「うん、ちょっと遠回りして帰りましょうか。送ります」
 ぽん、ぽん、と肩を叩かれながら穏やかに背を押されて、ジェイドはやや眩暈を感じながらも頷いた。頭の奥があまくしびれている。強い香りを吸い込んでしまったように。意識がじん、として痺れている。瞬きをして、深呼吸をして、ようやく意識がすこし、輪郭を取り戻した。
 触れていたい。自分のものにしたい、と欲する意識をねじ伏せる。落ち着かせる。『花嫁』の魅了に、酔って飲み込まれかけたことを自覚して、息をする。すみません、と悄然とするジェイドに、男はいいえと苦笑して首を振った。恐らく自覚的に誘惑していた筈ですので、ある程度は致し方ない反応ですよ、と。
 えええぇっ、と思い切り不満そうな声をあげるシュニーは、頬を膨らませて男をにらんだ。しかし待てど暮らせど、ゆーわくしてないもの、という否定は帰ってこない。シュニー、と苦笑して、ジェイドは『花嫁』に手を伸ばした。また明日ね、と囁いて頬を撫でる。
 触れた指先があまくしびれるほど。しっとりとした、磨き上げられた肌だった。誘引する質であると、知っていてなお。手を引くのをためらった。深呼吸をして手を離したジェイドに、シュニーはやや頬を膨らませて言った。
「明日ね、ジェイド。おはようって、ぎゅってしてね。ぎゅってしてくれないと、おはようはだめなんだから」
「わかった……。好きだよ、シュニー」
「うふふ。ジェイドすき。だいすき。おやすみなさい」
 『花嫁』らしく寝台に座ったままで見送るシュニーに笑いかけ、ジェイドは男の先導で部屋を抜け出した。いつもとは違う廊下を通って歩き、落ちかける夕日に目を細めて息を吐く。帰らなければいけない時間までには、まだだいぶ余裕があった。それはジェイドも、男も、分かっていた。
 早く連れ出されたのは、だからお叱りの為だとばかり思っていたのだが。男は言葉に迷うそぶりで、時折雑談を投げかけてくるだけだった。ただ、知らない廊下をジェイドは歩いていく。空気はひんやりとしていて、音は遠く、乏しかった。
 深部だ、とじわじわと気がついた事実に、ジェイドは足を止めたくなる。『お屋敷』の深部、普段は『傍付き』が踏み込むことのない、『運営』であっても一部しか立ち入ることを許されない区画へと来ていた。花開くように作られた建物の、中心。深く。広々とした廊下には誰の姿もなく、窓から差し込む光はどこか淡く弱々しい。
 男はやがて、ひとつの扉の前で足を止めた。扉を開くことはなく。そこへ手を突いて身を屈め、心底気乗りしていない様子でため息がつかれる。
「……怒らないで教えてほしいのですが」
「はい……?」
「ジェイドはいま十ですよね。もう半年もすれば、年明けで十一になる?」
 その通りです、とジェイドは頷いた。正確な誕生日を記憶から失って久しく、『お屋敷』方式に従って年齢を重ねることにしているので、それに習えば年明けで十一になる。男はそうですよね、と力なく頷いた。
「本来ならこちらで状態を把握しているものなのですが、あなたは『学園』の魔術師……ですから、仕方がない……仕方がないことなんです……」
「……大丈夫ですか?」
「心配されると心が痛むのでお気になさらず。……怒らないで教えてほしいのですが」
 二回目である。うろんな目で引き気味に頷くジェイドに、男はふっ、と達観した笑みを浮かべて言った。
「精通しましたか?」
「……は?」
「ああ、そうか……ちなみに性教育はどこまで受けて」
 意味が通じているかどうかから疑わないで欲しかった。ジェイドはなんの感情にか赤くなった顔を隠すように蹲り、しばらく言葉を発せなかった。男はしみじみと申し訳ながるまなざしでジェイドを見つめ、やがて穏やかな笑みでしゃがみこむ。
 ぽん、と慰めるように肩に手が置かれた。
「じゃあ、今日はここまで。帰りましょうか」
「なんなんですか辱めですか……」
「必要なことなので、申し訳ないですが……したら教えてくださいね」
 絶対に教えたくない。力なく首を振って拒否するジェイドに、その気持ちは心底理解できる、という顔つきで、しかし男は許さなかった。どうしてもひとつだけ、しておかなければいけない教育が残っている、と告げられる。シュニーさまを傷つけない為に。知らなければいけないことが、あるのだと。
 シュニーの為であるなら、それは拒否しきれないことだった。よろけながら立ち上がり、ジェイドは男に手を引かれて歩き出す。扉の向こうになにがあったのか、聞くことはなく。はじめて、大人になりたくない、と思いながら『学園』へ帰った。
 その扉の向こうにあるものを。知らなければいけない、と定められたものが、なんであるのかを。『傍付き』が、なにを得てなにを失って、そうして『花嫁』の傍に居続けるのかを。ジェイドが知ったのは、それから三年後のことだった。



 でぇーきたぁーっ、と誇らしげに響くはちみつ色のふんわりした声が、作業の終了を高らかに告げる。ミードを脚に座らせたままじっと椅子役をしていたラーヴェが、えらいねすごいねかわいいね、かわいいミード、といつものように褒めやる言葉を聞きながら、ジェイドは読んでいた本を閉じて『花嫁』に歩み寄った。
 今年でジェイドと同じ十三になり、もうすこしで十四になるというミードは、相変わらず幼く見えた。十そこそこくらいにか思えないのは、体つきがちいさいからで、話し方がしたったらずで幼いからで、恐らくはラーヴェがそういう趣味だからである。
 はいっ、どうぞっ、とこの上ない自慢顔で差し出される、刺繍を終えたばかりの布を受け取りながら、ジェイドは『花嫁』を遠慮なく年下扱いする態度で、ありがとう、と微笑んだ。
「ミードさまのおかげで、だいぶ華やかになりました」
「でしょーうっ? あのね、刺繍は得意なの!」
 布には点線で四角い枠が作られ、その中に一凛、花が縫い留められている。ジェイドは己の身をつつんでもまだ余裕がある大きな布をひといきに広げ、咲き続ける花の数を確認した。上の端から順にぽつぽつと並べられていく花は、もう何段にもなり、規則的な模様となって広がっていく最中だ。
 ラーヴェに腕の様子を確認されながら、『花嫁』は己の成した結果をしげしげと見つめて。関心しきったように、たくさんあるね、と言って頷いた。
「しゆーちゃん、たくさん『旅行』に行くものね……。今のも、帰ってきたら、またお花をつけてあげる」
「……はい。ありがとうございます、ミードさま」
 布は、当主がジェイドに与えたものである。シュニーが得られる筈だった報酬が『旅行』によってどれくらい回収されているか。また、残りが分かりやすいように表にしたものである。はじめは単純な紙で、簡易に丸を付けていくだけのものだったのだが、見咎めたミードが可愛くなくっちゃだめだめと主張して、今の形になったのである。
 旅行に出た数だけ、刺繍の花が枠を埋めていく。あるいは、当主の少女が今回はふたつ、と言い添えてくることもあった。シュニーは優秀な『花嫁』である、と誰もが苦笑する。貢ぎ物の量は回を重ねるたびに増えるばかりで、それは本人の努力と、元『傍付き』たちが留飲を下げる為にあれこれ仕込んだ結果である、とジェイドは知っていた。
 もういくつ、花が咲いたのかを数えるのはやめにした。残りの数は十六の枠。最短五年の約束まで一年半がないことを考えれば、ぎりぎりで達成できるとも、できないとも、どちらのようにも思えた。無理を重ねて『旅行』へ行くくらいなら期間を延ばせばいいとも思うのだが、すでにシュニーは十五になっている。
 十五を境に嫁ぐのが『花嫁』の習わし。年明けで十六、約束までに十七。それ以降となれば、『旅行』先の者は不審がり、あるいはそのまま迎えようともされかねない。『お屋敷』の、事情を知らぬ『花嫁』『花婿』たちも、さすがに首を傾げるだろう。その不思議さは、放置しておくのは危険なものだ。
 成長した『花嫁』は、正しく嫁がねばならない。この国と、民と、命と生活と、制度の為に。それを途絶えさせてはいけないのだと、ジェイドは数年のうちに痛感していた。ジェイドとシュニーが認められたのは、特例で、正しく当主の恩情に他ならないことも。
 考え込むジェイドに、ミードは遅れてごめんね、と申し訳なさそうに囁いた。
「ミードも、りょこに行ってたから……。しゆーちゃんは、元気にしてる? お熱を出したりしていない?」
「はい。ミードさまも、お熱が下がられて本当によかった」
「ありがとう……。いいなぁ、みぃも、しゆーちゃんみたいに、りょこから帰ってもお熱が出ないようになりたいの……。あのね、らーヴぇが心配するでしょう?」
 嫁ぎ先の選定は、すでに始められている。ミードは『最優』の『花嫁』であるのだという。より良い場所に迎え入れられるべく、協議を重ねに重ねた場所だけへ向かわされているとは聞くが、それでも『旅行』とは単純に、『花嫁』の負担に他ならない。
 多少歩けるように育てた分、シュニーは他の『花嫁』より体力があるし、ジェイドが常に控えてはいられないから精神的にも強い。その強さが、ミードには憧れとして映るらしい。だってお役目も果たせているし、お熱を出したりもしないでしょう、と羨ましがるミードに、ジェイドは微笑するだけで言葉を重ねなかった。
 この幼く、愛らしく、うつくしくもいとけない『花嫁』が、嫁いでいく先の候補として。ジェイドの生家の名が挙がっている事実を、極力考えないでいる。もう戻ることのない場所。あの場所へ、『花嫁』が行くのなら、それは生家にとって幸福であるのだろうか。失ったジェイドの代わりには、成りえないとしても。
「……ラーヴェは、あなたが健やかでいることを、願っているのであって。熱が出るのが嫌なのではありませんよ。熱、あるの、辛いでしょう? 辛いのが、なるべくありませんように、と思っているだけです。そこを、間違えないであげてくださいね」
「うん。……ねえねえ、らーヴぇ。ぎゅっとして?」
「はい、ミード」
 抱き寄せ、己の『花嫁』を取り戻した『傍付き』が、ゆるく安堵の息を吐く。じわじわと心を浸していく申し訳なさに、ジェイドはふたりから視線を逸らした。ふたりの別れの日は、シュニーが役目を終えるよりも早いかも知れない。二度と会えなくなる日が、もうきっと、すぐ傍まで来ている。
 ふたりに、してあげなくては。刺繍でミードの時間を使わせることすら、心苦しいのだが。他の人に頼むと言ったら他ならぬミードが猛烈に怒ったので、また次もお願いすることになるだろう。この布を花で埋め終えるまでは、どこにも行きたくない、行かないでいいのだ、と。
 せつない祈りを持っていることを知っていたから、もういいよ、と取り上げることはできなかった。
「それでは、俺は、これで……ミードさま、ラーヴェ。ありがとうございました」
「いいえ。……ジェイド、今日はこれで?」
「はい。すこし部屋を整えてから、『学園』に戻ります。シュニーが帰ってくるのは、まだ先のことですし……待っいても、帰ってこない、というのは、やはり、落ち着かなくて。勉強は気が紛れますから」
 それでも。この別れが最後かも知れないと思いながら、見送り。帰りを待つ『傍付き』に比べれば、どんなにか楽だろう。すみません、と呟くジェイドに、ラーヴェは苦笑して首を振った。その別れを理解していて、それでも、一瞬でも長く、その時までは傍に居たいと願ってなるのが『傍付き』だ。
 また顔を出したら声をかけてくださいね、と告げられて、ジェイドは素直に頷いた。またね、と一言を、どこか切実に告げるミードに、また、と微笑みかけて部屋を出る。また、と言って、会えなくなる日がやがて来る。明日ではないし、明後日でもない。来月はもう、分からなかった。
 送り出したラーヴェに、おめでとう、と声をかけることができるのだろうか、とジェイドは思う。大丈夫。お前の『花嫁』は幸せになるよ、と。心から告げることはできるのだろうか。祈りを。受け取って貰えるかも、分からなかった。ジェイドの『花嫁』はいなくならない。そのことを、くるしく思う日が来るなんて、思わなかった。
 どこか落ち着きのない雰囲気に眉を寄せながら、ジェイドは当主の部屋へ顔を出した。布を預けて、シュニーの部屋に風を通して帰ります、と告げる為だ。伺いを立てて入室した少女の部屋に、ジェイドは眉を寄せて立ち止まる。常であれば当主たる少女と、その側近の女ふたりだけであるのだが、人数が多い。五人いた。
 幸いなのは、誰もジェイドに排斥の視線を向けなかったことだろうか。見慣れない者のひとりは、当主が『花嫁』であった頃に世話役をしていたと聞いたことがあるから、他もそうなのかも知れない。布を持ってきました、と告げるとひとりが歩み寄り、どこか恭しい態度で受け取ってくれる。
 少女はどこかぼんやりとした眼差しで、ソファに座ったまま動かなかった。側近の女の手を握って、俯いている。ジェイドの入室には気が付いているようで、視線は向いたが、幾度か動いた唇が声を成すことはなく。女がなにかをそっと囁くと、一度、ちいさく頷いてまた眼差しを伏せた。
 すみません、と布を受け取った男が言った。今日はこれで失礼を。ジェイドは少女を見つめたまま、問うことなく頷いた。理由を告げられぬなら、知らないままでいた方がいいことが、『お屋敷』には多い。部屋に風を通して帰ります、と告げると、少女は無言で頷いた。女の手を握る、その指が。蒼褪めて震えているように見えた。
 心配なのは確かだから、お健やかに、と室内の誰にもそう告げる。集まっていた者たちは一様にほっとした表情で、ありがとう、とジェイドに告げた。理由を聞かないでいてくれることに。心から、安堵したようだった。輪唱のような囁きが消えぬ間に一礼し、部屋を出ようとした瞬間だった。
 鐘が鳴る。聞いたことのある、『花嫁』を送り出す祝福の音とは、違う。重たい響きの鐘の音が、一度、二度、三度。四度鳴って、それきり消えた。幾何かの空白。『お屋敷』のどこかから、わっと歓声があがる。遠くて、なんと言っているかまでは、ジェイドには分からない。
 けれど、室内の者には。当主たる少女には、それが分かるのだろう。ああ、と少女が吐息を零して震えながら呻く。その声は。
「……わたしの。次の当主が……決まったのね……」
 祝福ではなく。ただ、懺悔のようだった。

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