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 王の執務室がハレムの離宮に移されたのは、ジェイドに懐妊が告げられた数日後のことだった。その間に王は城内にもそれを告げていたから、広がったのは祝いと倦怠感に似た諦めの空気だ。寵妃の懐妊は祝うべきことである。喜ばしいことである。しかし祝福しきれない。心からは、とても。
 離宮に執務の場を移さなければならない、と側近たちが判断を下し実行に移してしまったことは、すなわち王の寵妃への執着が落ち着かなかったことを物語る。不安定な時期だけならばまだしも、それがいつまでの移転であるのか。子が腹に宿っている一年だけのことなのか。あるいは、健やかに育ち行くその先までであるのか。
 楽観する者はいなかった。幸い、ほんとうに幸いなことに、王は執務そのものに対しては厭うことなく向き合ってくれている。同じ室内に居らずとも、すぐ顔を見に行ける距離に身を置くことで、停滞しかけていた業務が滞りなく流れ始めたのは事実だった。
 目の前に置けば仕事はしてくださるんですよ、とため息をつきながらやや雑に王を評価したのは若き側近その人である。ジェイドよりすこし年上の青年は、寵妃の子が無事に産まれてくれば腹違いの兄となる。母は失われて久しく、父である王との関係は親子とするより純粋な上司と部下である。
 そうであるからこそ、いまさら青年を次代の王とし早急な代替わりを求める声が上がり始めたことに関しては、純粋な迷惑しか感じていないらしい。ありがたさを感じない迷惑ですね、と本気の声で吐き捨てて、青年は抜け殻と化した城の中にある旧執務室で、王の下へ運び込む仕事の選別をしながら言った。
「大体ね、どの面下げて国継がない? とか誘いかけてるんだって話ですよ全員逆賊として斬首すんぞ黙れよって気がしません? しますよね? あー、陛下に頼んでこようかなぁ……」
「そういう物騒な呟きはせめて筆頭か筆頭補佐の前でお願いしていいですか俺ではなく」
「年上って緊張するんですよね」
 そういう寝言やめてもらっていいですか、と頼むジェイドに、青年は打たれ強い笑顔で繊細なんで優しくしてもらっていいですか、と言ってきた。繊細な人間は、王位継承の誘いをかけてきた相手の顔面を拳で殴って鼻の骨を折ったり、あまつさえそれをさわやかな笑顔で朝礼の時に発表したりしない。
「常時の立ち入り許可証もらった仲でしょう。仲良く優しくしてください」
「職場で同じ空気を吸ってる仲以外になりたくないですし、許可証は返上したいですし、優しさの概念を見失っている所なので諦めてくれませんか」
「これはひとり言なんですが、残念ながら私は魔術師殿より立場が上なんですよね……。権力という言葉は、実にいい響きをしています……」
 どうして『お屋敷』でも城でも、ジェイドの上役には一癖もふた癖もある性格精神構造立場を持った者しかいないのか。シュニーの所に帰りたい、と遠い目になるジェイドに、青年は笑顔ではいこれよろしくお願いします、と結構な高さのある紙束を押し付けてきた。持って行け、ということである。
 自分で行けばいいじゃないですか、という文句は、机を埋め尽くす夥しい書類の山の前では飲み込まざるを得ない。今の所、この分別業務をできるのはこの青年だけである。王の庶子。母はハレムの女の、世話係であったとされている。懐妊が知れるや否や、ハレムを追い出された女は、子を産むとすぐ自害したのだという。
 だからまあ王が今度こそ母も子も守ろうとしている美談としてもうちょっと我慢してもらっていいですか、と心からは思っていない笑顔で城で働く者たちを説得して退けた青年は、複雑そうな目を向けてくるジェイドに、ややくすぐったそうに笑った。
「これが終わったら私も行きますから。陛下と寵妃殿に、どうかよろしく。あとさっさと王妃にしてあげてください手続き色々めんどくさいので、と陛下にお伝えください」
「自分で言ってくださいお願いします」
「万一、今更私に対する父性やら母に対する罪悪感やら芽生えられるとめんどくさいだけなので、積極的にそういう話題を避けています。あと心が繊細なので父として陛下に向かい合うとかそんなことできません。繊細なので」
 繊細という言葉の概念が破壊されるのを感じるので、その単語を口に出すのをやめてほしい。今日はあと何往復必要ですか、と聞かなかったことにして問うジェイドに、青年はさっと書類の山に目を走らせ、眉をひそめて瞬きをした。
「五……いえ、六往復前後ですね。一時間に一往復の頻度でお願いします」
「……一度にもうすこし多く運べば短縮されますか?」
「これ以上の量は陛下の集中とやる気を削ぎます。間隔を短くするのも同じ理由でお勧め致しません」
 残念な気持ちを抱くほど、青年は王のことを理解しきっている。親子ですね、と関心して思わず呟けば、繊細な心が修復不可能に傷つきかねないのでそういうの口に出さないで頂けますか、と心底迷惑かつ嫌そうにため息をつかれた。
「褒めるなら優秀な臣下ですね、と言って頂きたい。血の繋がりとか恐れ多いですしその事実は積極的に消して行きたいですし」
「……陛下は一応、認知されていた筈では?」
「ほんっと迷惑なのでやめて頂きたかったんですけどね認知」
 だいたい十二、三しか離れていない相手を父親だと思えってそこからもう難しいでしょうとため息をつき、青年はジェイドに向かっていってらっしゃいと手を振った。この話題でこれ以上会話したくない、という分かりやすい拒否だった。紙束を持って立ち上がり、ジェイドは執務室からハレムへ足を運んだ。
 執務室がハレムの離宮に移されてから、変わったことがもうひとつ。それは先に常時携帯として通行許可証を渡されていた三人に加え、ジェイドにもそれが与えられたことだった。おかげでジェイドは青年につけられ、日がな一日話し相手と書類の運搬に使われている。
 もうひとり増やすならジェイドじゃなくて筆頭にしてください、という意見は当然あった。あったがしかし、王が退けたが故に今に至っている。理由はごく単純な事情で、ジェイドの評判がハレムの女性たちにすこぶるよかった為である。王に休暇を願いに行った一度しか、表立ってそこを歩いたことなどないのだが。
 その、一度。王や寵妃の異変、出入りする普段とは違う者たちに不安がり、様子を伺いに顔を出していた女たちは、確かに多かった。その誰一人として、親しく話をした記憶などないのだが。王からジェイドなら、という理由を告げられた時に、しかし訝しんだのは本人だけだった。
 魔術師たちは一様に暖かく、なまぬるく、呆れと諦めが混ざったようなまなざしでジェイドを見て、ため息をついた。まぁたやったんだろう君、と口に出して苦笑したのはシークひとりだったが、誰もが同じ気持ちを抱いているのが分かる表情だった。また、というか。なにもしていない。前科もない。
 濡れ衣である、と主張するジェイドに、シークは静かな声で言った。つまるところ君は貴人に慣れきってる上に息をするように綺麗だの可愛いだのよくお似合いですだのを一切の嘘なく心から言って褒めるしそれでいて下心が全然ないし、しかも自覚があるのかないのか知らないけど顔がいいんだよ、と。
 ジェイドの顔かたちが整っているのは『花婿』であった祖父のおかげであり、その他は『傍付き』としての教育あってのことである。確かに王のハレムだけあって素敵な方々ばかりだったからご挨拶はしたけど、と告げるジェイドに、君は挨拶する時に相手を褒めて微笑むのまでが一組だもんねと、魔術師たちは首を振った。
 女難は落ち着いてるけど終わってはいないから、まあ暗がりに連れ込まれて乗っかられないようにだけ注意しなよ、と有難く思えない忠告をしてきたのが、シークだけではないから頭が痛かった。王に仕えるうつくしい方々がそんなはしたない真似をするはずがないでしょうと反論すれば、そういう所がアレ、と首を横に振られた。
 ハレムの空気は落ち着いている。寵妃に対する嫉妬でひりついた空気を漂わせることなく、緊張しすぎる者もなく。やわらかな、言ってしまえば控えめな祝福で満たされている。女たちは一様に、どこか同情的な顔を隠そうとはしなかった。王の前でそれを出す者はなかったが、かわいそうに、そう呟いて女の眠る部屋を見る者はひとりではなかった。
 日に何度も書類を運び込むジェイドに、女たちはそっと声を潜め、寵妃の様子を問いかけた。王があまりに執着するので、女たちさえ、親しく傍に行くのを控えているらしい。体調を伺う手紙さえ、王は見咎め声を荒げて破り捨てたことがあるのだという。
 手を上げられることはなかった。寵妃も、女たちの誰一人にさえ。その時には。時間の問題かも知れない、と思うほどに王の執着が怖かったと、ジェイドは零された。今は以前の様子に戻っている。落ち着いていて、穏やかで優しく、寵妃のみならず女たち一人ひとりに対する気遣いを忘れない。それがいつまで続くのか分からない。
 あの方は、と哀れむように女は言った。今度こそおかしくなってしまったのかも知れない。事故のように、惹かれあい。ハレムを追われた哀れな側女のことを、覚えている者も、知っている者も、残っていた。寵妃はすこし、その側女に似ていたのだという。記憶が戻る前の寵妃の、その控えめな微笑みが。
 移転した王の執務室は、寵妃の部屋へ行く廊下の中程にあった。使われていなかった部屋を開放したのだとは聞くが、そのせいで女たちは足を遠ざけ、寵妃の元を訪れるのは王ばかりである。女たちの見舞いを咎めはしていないと王は告げたが、同時に必要とも思っていない声音だった。
 寵妃は静かに日々を過ごし、誰に会いたいとも、なにが欲しいとも、王に強張ることをしないのだという。ただ、窓から外を眺めることが多くなった。なにか気晴らしになることは知らないか、と問われ、ジェイドは深く頭を下げ、女たちが心配しておりました、と告げた。
 どうぞ、お妃さまと女たちとの交流を。貴方の庭の花はどれもうつくしい。そのうつくしさを磨くことはあれど、摘み取ろうとする盗人はどこにもおりません。ご安心ください、そして、どうか、と懇願するジェイドに、王は気を害した様子でそうか、とだけ告げた。
 『お屋敷』の知識を求められていたことは察していたが、それより必要なのは、親しい誰かの声と熱だ。下がれ、と告げられたのは数日前。そこから進展はなかったように思うが、書類を運び込むジェイドの背を追い越し、ひとりの女が小走りに、廊下の奥へと向かっていく。すこし距離があるにも関わらず、華やかな笑い声も、いくつか。
 大丈夫、と言い聞かせるように、ジェイドは落ち着かない気持ちを飲み込んだ。まだ王に言葉は届く。届いているのだ。それでも、今日もまた六往復。本来なら必要のない処理を経て、王の下に書類を運び込まなければいけない。ため息をこぼしかけるのを堪えて、ジェイドは魔術師としての主君に、失礼いたします、と声をかけて部屋に入った。



 瞬きをして、ジェイドは朝焼けに染まり行く空をぼんやりと眺めていた。腕の中では、シュニーが気持ちよさそうに眠っている。ジェイドにぴったりとくっついて、寄り添って、まるで、かつては一つのものであったのだと告げるように。一つのものになりたがるように。体温を分け合って、安心しきった顔で眠っている。
 ジェイドは妻の寝顔をいとしい気持ちでしばらく眺め、頬を指先でするすると撫でながら視線を空へと持ち上げた。薄墨からじわじわと紫を滲ませ、光を食んで金にも黄にも、赤くも紅にもなる夜の欠片は、まだしばらくはそこで微睡んでいそうに見えた。夜に目覚めたのは偶然だった。短い、夢の見ない眠りを何度か繰り返して、迎えた朝だった。
 どうにも体力を持て余していて、眠りが浅い気がする。思えば机仕事に従事した記憶などなく、人生で一番穏やかで、暇を持て余しているような心地にすらなった。時間が間延びして過ぎている訳ではない。書類を持って往復する傍ら、ジェイドは実に多くの人々に話しかけられた。ハレムの女や、門番、文官たちや魔術師の同僚。
 多くは王の状態を尋ねる言葉であったが、相談事や雑談、連絡ごとなど、飛び交う言葉は多岐に及んだ。ジェイドはそのひとつひとつに丁寧に応え、青年の待つ旧執務室とハレムを往復した。時には帰る途中に持ち掛けられた相談事が時間を奪い、戻った頃には次に運ぶ書類が一山、用意されていたこともあった。
 青年は特にジェイドに、遅延について小言を向けることがなかった。遅れる理由は理解されきっていた。背負い込みすぎないように、と苦笑されたくらいである。今やジェイドは、王に重用されながらも話しかければやさしく応じてくれる数少ない人物、として城の人々に認識されている。
 まあしばらくは荷運びと相談役でもしていればいいよ、と苦笑したのはシークだった。シークをはじめとした魔術師たちは、ジェイドの身柄が完全に王に押えられたことを逆に好機と捉え、今のうちにと休暇を回しつつ体制の立て直しに奔走しているらしい。
 魔術師が砂漠国内を忙しく動き回るのは、生きる為の呼吸であり、また止まってはならぬ鼓動である。隅々の、書類だけでは取りこぼしてしまう情報をかき集め、中枢へ運んでくる事こそ、砂漠の魔術師に課せられた役目。それなのに王はその動きを停滞させ、城の守りだけを固めようとした。戦時中でもあるまいに、とは筆頭の言葉だ。
 とはいえ王の不安も分からないことではないから、ジェイドは大人しく売られてくれるように、というのも筆頭の言葉である。ジェイドが知らない間に、魔術師と王の間では取引が成されていた。その結果としてジェイドは、ほぼ無期限で城とハレム、『お屋敷』以外に外出することを禁じられていた。有事の守護の要とする為、という名目で。
 引き換えに魔術師は、半数の巡回を許可されたのだという。半数が城に残り、もう半数が国を飛び回る。全員で動いてなお過労気味であったことを考えても圧倒的に手が足りないが、これが今の精一杯だ、と魔術師たちは腹をくくったのだという。
 じわじわ息が苦しくなっていくかも知れない。じわじわと、末端が死んでいくのを見る日が来るのかも知れない。でもそれは今日にはならないし、まだ、明日でもない。引き伸ばせ、と魔術師たちは王の側近や、城で働く人々と手を取り合って決意した。
 引き伸ばせ。壊死が始まってしまう日を、息の苦しさを自覚してしまう日を。一日でも長く、遠く。その為にいま、できることを、なにもかも、全て。魔術師たちはそう言い合って、再び走り出している。立ち止まるような日々を過ごしているのは、ジェイドだけだった。時間が肌の表面、外側を過ぎ去っていくような感覚だけがある。
 いまも。夜から朝を迎えていく今も。『お屋敷』のどこかで誰かが忙しく働いているのと同じように。魔術師たちは動き出している。大気に溶ける魔力の欠片が、ジェイドにそれを教えてくれる。それなのに、朝が来てもジェイドはそこに加わることを許されない。書類を持って往復の日々。それだけを今日も明日も、繰り返していく。
「はやおき、したの?」
 淡い甘い声が、やわらかく肌に触れた。氷のように溶けていく声。視線を降ろせば眠たげな顔でもなく、ゆっくりと瞬きをしながら、シュニーがジェイドのことを見つめていた。起こした、と問えば首は横に振られる。おきたの、と言い聞かせる呟きに笑って、ジェイドはシュニーに顔を寄せた。
 そっと口付け、すぐに離れ、額を重ねて目を閉じる。はふ、とシュニーはしあわせそうに息をこぼし、ジェイドに体を寄せなおした。シュニーはふふ、と柔らかく、とろけそうな声で笑う。
「シュニーの旦那さまには、悩みごとがあるの。シュニーにはお見通しなの」
「うん? ……んー……うん。ある、あるよ」
「そうでしょう、そうでしょう? ……おはなし、する? おはなし、しない?」
 どうしようかな、とジェイドは穏やかな声で受け答えた。シュニーは特別、ジェイドの相談事を受け付けたいという訳ではないらしい。ただ話をしたいのだ、と向けられる瞳の輝きから『傍付き』は読み取っていた。言葉が返ってくること。声が近くで響くこと。それを幸福だと受け止める『花嫁』の、満たされた微笑み。
 よく眠れた、とジェイドは問いかける。シュニーは相談事をされなかったことに、もう、とくすぐったそうに、形ばかりの不満を笑い声で包んで。そっと腹を撫でて赤子を気にかけながら、眠ったわ、と囁いた。
「ジェイドが傍にいてくれるもの。……ジェイドは? ねむった? はやおきさん!」
「寝たよ。ちゃんと眠った」
「ふぅん?」
 半分は面白がる声で首を傾げ、シュニーはジェイドの頬に手を伸ばした。柔らかな手指がジェイドの頬を包み、検分するように撫でたり、摘んだり、引っ張ったりしてくる。くすぐったいよ、と咎めればシュニーは肩を竦めて花蜜のような笑みを零し、ジェイドかわいい、と喜んだ。
 歌うように。きよらかに。心地よく響く、すきとおる声。
「ジェイド、お仕事が変わったから拗ねているんでしょう」
「拗ねっ……拗ねては……いない。うん。拗ねてるのとは違うんだよ、シュニー」
「ほんと? すねてないの? ほんとに?」
 ほんとのほんとに、とくすくす幸せそうに笑いながら確認されると、だんだん自信がなくなってくる。拗ねてる、のとは、違うと思うんだけど、と口ごもれば、シュニーはジェイドの目をじっと覗き込み、ほんとうかなぁ、と砂糖菓子のような声で囁いた。
「だってジェイド、仲間はずれにされた、って泣いた時と同じ顔をしてる。しゅにはちゃんと覚えてるの! ジェイド? 今度は誰に仲間はずれにされちゃったの? しゅににそっと教えて? しゅにが、えいって、影からこっそり毬を投げてあげるからね。安心して? 得意なの!」
「……いや待ってシュニー? 泣いてない。泣いてないよ。泣いたことないだろ?」
 ふふふ、とシュニーは得意そうな笑顔でジェイドを見た。え、と言葉を返せず、ジェイドは視線を逸らして思考を巡らせる。『傍付き』として『花嫁』にそんな姿を晒したことはない筈だし、そもそもそんな理由で泣いたことはない筈だし、そんな訴えをシュニーにしたこともない筈だ、たぶん。
 しばらく考え、いや泣いてないよ、と改めて告げたジェイドに、シュニーはそうだったかなぁ、と面白そうに笑っている。からかう顔をしていた。こら、と頬を押しつぶして反省を促しても、シュニーはきゃぁと声をあげて笑うばかりで、泣いたことがない、とは言わなかった。
 しばらくじゃれ合い、ジェイドはさあ、とシュニーを膝に抱き上げなおした。
「まだ早いよ、シュニー。もうすこし眠ろうな」
「うん。ジェイドは? ジェイドも、ねむる?」
「……もうすこし起きてる。もうすこしだけ」
 眠りたくない訳ではないのだけれど。もったいなさに似た焦る気持ちが、朝を滲ませはじめた空気の中で、ジェイドに瞼を下ろさせないでいる。もう、と怒るでも呆れるでもなく、シュニーはただ愛おしそうに呟いて、笑って。ジェイド、と幾度かその名を呼んだ。ジェイド、ジェイド。だいすきなジェイド。わたしの、だんなさま。
 するり、と。誘惑するように首に腕を巻き付けて、体をくっつけて。声は甘くも、ひたすら柔らかく。世界のなにもかもから、隠して包み込んでしまうように。シュニーはジェイドをじっと見つめて、そっと、そっと、囁きかけた。
「ジェイドは、いつも、なにかしたがりね」
「……そう?」
「そう。……シュニーの旦那さまだけでいるのは、嫌?」
 嫌じゃないよ、とジェイドは眉を寄せて呟いた。嫌じゃない。でも。いつも、どこでも、立ち止まれないような気持ちでいる。どの場所でも、どの立場でも。足元には飛び石があって、次から次へ、渡っていくような。ひとつの所へ留まれないような。帰る場所を探している。そんな気がしている。
 口ごもるジェイドをじっと見つめて、シュニーはゆっくりと瞬きをした。ひとに、ただ仕草で愛を伝える、猫のような仕草だった。
「ジェイドは、いつも、ジェイドがその時にできることを、せいいっぱい、やってるわ」
「ありがと。……さ、おやすみ」
 すこし眠たげに緩んだ囁きに微笑して、ジェイドは『花嫁』を腕いっぱいに抱きなおした。己の幸福の全てがそこにある、と思う。体温、鼓動、重み、香り。呼吸、微笑み。笑い声。シュニー、とジェイドはそれを呼ぶ。幸せのすべてを。そして、愛しい『花嫁』を。
 シュニーはうっとりと目を細め、ジェイドに頭を摺り寄せた。とろとろと眠りに溶けながら、とうめいな声が夢うつつに囁く。怒ってない。なにを。わたしがジェイドをえらんだこと。どうして。だっておうちにかえれなかったでしょう。うん。いつだって、いまだって、かえれないままでしょう。うん。だから。
 怒ってないよ。ほんとう。本当に。ほんと。怒ってない、嫌いにもならない。後悔なんてしない。したことないよ。なぁに、シュニー、どうしたの。なにが不安なの。囁き。淡い、甘い、夜露に溶けて消えてしまいそうな、ふたりの囁きの合間に。シュニーは一度だけ目を開けて、眠たげに。蝶のはばたきのように。
 ゆる、ゆるり、瞬きをした。
「……なんでもない」
 ただ。ただ、一度ね。一度だけね。いつか、聞いてみたかったの。聞こうと、思っていたの。その、いつかが、いまだったの。それだけ。ほんとうにそれだけよ、と笑って。また、うとうとと眠りかけるシュニーに額を重ね、ジェイドはうん、と囁いた。おやすみシュニー。いとしいひと。
 朝焼けが、空に広がりきるまで、眺めて。ジェイドはシュニーを強く抱きしめ、満ち足りた気持ちで目を閉じた。



 初夏の頃。魔術師の目覚めと、旅立ちの季節である。今年は白雪からも、砂漠からも、楽音からも新入生は出ないのだと聞かされて、王宮魔術師は一様に、つまらないと溜息を吐き出した。風の噂では花舞にひとり、案内妖精が向かったと聞けど、その位置ではなにを間違えても砂漠の城を通過しない。
 星降へ向かう魔術師は、道行の逆走を許されない。そうであるからこそ、白雪、砂漠、楽音、花舞、星降の、国の順番が入れ替わるという天変地異でも起こらない限り、初々しい新入生と案内妖精に会う機会は、まだまだ先の話になりそうだった。
 そういうことだから担当教員の指名が来ないことを各自祈るように、と通達され、ジェイドは苦笑と共に、朝礼を終えて三々五々、各地へ散らばっていく同僚たちを見送った。砂漠の魔術師は人手不足で、ジェイドを除き皆過労気味である。担当教員の指名は名誉なこととはいえ、拒否権がない。一人抜ければ、もう全員が共倒れになるだろう。
 王の執務室が城へ戻ってくる気配は、未だ遠く。喜ばしいことと言えば寵妃の腹に宿った赤子が、健やかに育っていることくらいだろうか。変わらず、旧執務室とハレムを往復する日々を過ごすジェイドは、生温く鬱屈した空気にも慣れ、己ひとりが温存される現状を、なんとか受け入れた所だった。
 入学する前から、卒業した後までも延々過労だったんだから、ここで楽隠居状態にでもさせておかないと早死にする、というのが、砂漠の魔術師一同の、共通した意見であるらしい。中々に受け入れがたいものがあるのだが、毎日体調が良いのは確かである。シュニーも、ジェイドの顔色が良いと嬉しそうににこにこしていた。
 シュニーの体調は、一時より上向き、そこで穏やかに安定した。最近は日中も臥せることなく、起き上がって本を読んだり、編み物をして過ごしているらしい。『花嫁』の体調は、『傍付き』の安定に同調する。それをジェイドが改めて理解して、ようやく、己の今を受け入れる気持ちになれたのだった。
 日々は足元を不確かにしたまま、なまぬるい安定と共に流れていく。一日は同じ繰り返しを積み重ね、時が砂時計のよう滑り落ちていく。王宮に漂う、拭い難い焦り、不安な気持ちをそのままにして。一日、一日を過ごして。ジェイドが、はた、とそれに気が付いたのは夏至の日の、夜のことだった。
 旅立つ魔術師が、『学園』に迎え入れられる夜。祝祭の気配を遠くに宿した空気が、砂漠にも降りてきている。その、ぼんやりとした神聖さに導かれるように。ジェイドは夢から醒める気持ちで、静まった廊下に視線を走らせた。魔術師たちの居室が集まる一角。足元が見えない程に暗いのに、部屋には半数も灯りがともらない。
 それでも、以前はもうすこし明るかった。妖精たちが飛び回っていたからだ。まあるい金のひかり。その存在が放つひかりは、いかなる時であろうとも、魔術師を助ける導となる。それが、いまはひとつもない。天井の近くも、花瓶の傍にも。静まった部屋の中から、零れる魔力の欠片さえ。ひとつも。
 最後に。妖精を見たのは、いつのことだっただろう。血の気の引いて行く音を聞きながら、ジェイドはそれを思い出そうとした。初夏には居ただろうか。分からない。春には居ただろうか。覚えがない。冬の、寒さが厳しい頃には。年明けの祝祭の空気には。最後に、ジェイドが。妖精を見つめて、言葉を交わしたのは。
 あの日の『お屋敷』で。ミードに祝福を授け、消えるように去ったヴェルタ。ジェイドの案内妖精。その姿が、その言葉が、最後だった。あれきり、妖精の姿を見ていない。『お屋敷』でも、砂漠の城でも。どんな場所でも。それは明らかな異常事態だった。日常からひとつ、景色が、いつの間にか消えてしまっていた。
 妖精が砂漠を訪れていない、という訳ではない。妖精たちが請け負い、運んでくれる手紙や荷物は、途切れることなく届けられている。しかしそれは所定の場所に書類や、荷が置かれている、ということであって。伝令妖精や、気まぐれに散歩をしに来る妖精たちの姿を、あれきりジェイドは一度も見ていない。
 砂漠の壊死は、はじまっている。妖精たちは環境の変化に敏感だ。元より欠片の五国は、『向こう側』に住む妖精の生息範囲外なのである。魔力の質が違う。空気が違う。水が違う。食料が違う。長居すれば居心地が悪くなる、程度の、ごく微量の毒を孕んでいる。そこを長期的に旅する為の、守護の呪いが案内妖精の指名だ。
 それでも通常なら、遊びに行ってすこし疲れた、くらいの感覚で妖精たちは行き来する。それが、砂漠では、もうできないのだとしたら。運び込んで、すぐ帰って。忙しく動き回る魔術師たちを見ているからこそ、言葉は届けられなかったのだろう。気が付く時を待って、その時にはもう手遅れでも、妖精たちは仕方がないと言ったかも知れない。
 妖精の同胞、魔術師たちの仕える王が、この国をそうしたのだから。



 長居したくないことは確かだよ、とジェイドに捕まった荷運びの妖精は、角砂糖を口にしながら困った顔で首を傾げた。『お屋敷』から持ってきた最高級の角砂糖を片手に、待ち構えること四日目。ようやく姿を見つけることのできた妖精は、魔術師にやや気まずそうな顔をして。
 バレちゃったかぁ、と言わんばかりに、お茶と休憩の誘いに乗ってくれた。
『そーんな深刻に考えられる程ではないんだよ。別にまだ』
「……まだ」
『うん。まだ。うーん……今の状態は、なんていうかな……。風邪ひいたひとが寝てる部屋の空気を、一週間くらい入れ替えなかったくらい。いいから早急に換気しろって感じ? 長居したくないなって思うの分かるだろ?』
 とてもよく分かる。額に手を押し当てて呻くジェイドに、室内からは面白がる視線が向けられていた。王の旧執務室。青年は書類を捌く手を止めないまま、ジェイドと、目には見えない妖精の語らいを観察している。見えない、声も聞こえないのに、ジェイドが用意した角砂糖が減り、ミルクは飲まれて減っていく。
 ほんとうに、そこにいるんだ、と。幼い頃物語に憧れ、目を輝かせた、その顔つきのままで。見守られることに、こそばゆそうな顔をして。妖精はぱたぱたと羽根を動かし、だからさぁ、と魔術師に向かって語り掛ける。
『俺たちにしてみれば、砂漠の陛下が風邪ひいてるのに、お前らなんで放置してるの? 部屋ごと死ぬよ大丈夫? 分かってる? って感じ』
「放置している訳では……ないんだけど……」
『例えだよ。魔術師が忙しそうにしてるのも、見て分かってる。ただ、方法が的外れっていうか……。うーん近寄らないでおこうかなめんどくさいし……っていう感じ? 全体的な妖精の空気感がそんな感じだから、抜け駆けして教えるようなのも出てこないし? 仕事はするけど、巻き込まれたくないから避けておこって、そんな感じ? わかる?』
 わかる、とジェイドは力なく頷いた。案内妖精は面倒見がいい性格をしているが、それだって、魔術師が直に起こしている訳でもない騒ぎに、わざわざ首を突っ込んで解決してやる程のお人好しではない。妖精たちも同じこと。まあ解決するならする、しないでしない、で様子見よっか、五十年もすれば王だって死ぬし、というのが基本方針であったらしい。
 あーあー抜け駆けして告げ口しちゃった、俺が言ったってバラさないでね、と角砂糖をかじる妖精に、ジェイドは深く息を吐きだして頷いた。
「言わない。分かった……。その上で、教えて欲しい」
 不満顔をする妖精の前に、最高級の角砂糖をそっと追加して積み上げながら。ジェイドはしぶしぶ頷いた妖精に、解決策はある、と聞いた。妖精は面白がる顔つきで、あるよ、と言う。簡単なことであるのだと。
『王を変える。そこの彼でいいんじゃない? 彼、王の血縁だろ?』
 王の血というのは、特別なものだ。世界からの祝福を受け、時にはこうして、世界に対する呪詛すらをも撒き散らす。そうであるから妖精には、見れば分かる、のだという。あれをさっさと戴冠させればいいと思う、と告げる妖精に、ジェイドは真剣な顔で、ゆっくりと首を横に振った。
「妖精の丘に除草剤撒いてきてください、とか言いかねないからやめて欲しい」
 なんの話してるんですか、と問われても答えたくない。気にしないでください、と告げれば、青年はふぅんと目を細め、首を傾げてみせた。その他で、というと妖精は困った顔で口ごもり、しばらくなにかを考え。王が変わればいいよ、と言った。その心が。国を守り、愛し、慈しむ王のものに変われば、戻れば、それでもいいよ。それでいいんだよ。
 それができるなら、と妖精は言った。弱い人の心が、一度壊れてしまったそれが、元に戻るのは困難であるのだと。長い時の中で見知ったが故の、やさしく憐れむ微笑みで。

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